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箱根神仙郷に行きました

(2003/04/18)

神慈秀明会の信者さんから、箱根神仙郷参拝のレポートを頂きましたので掲載します。

このレポートはとても懐かしい感じがしました。自分が初めて箱根神仙郷に参拝させて頂いた時の事を思い出したからです。


(筆者:秀明信者)

3月、初めて箱根神仙郷に行き3月度ご面会に参加のお許しを頂きました。

私が東方之光さんを訪れて2ヶ月ほど経ちましたが、メンバーの方からまずは明主様が定めた聖地、神仙郷に身を置いてみてはどうかとお誘いがあり、この度の参拝となったのです。その体験をお伝えします。

神仙郷は広い敷地にたくさんの建物があって、通路も複雑でしたがメンバーの方と一緒に御玉串(奉納?)、明主様と二代様の奥津城に礼拝、そして紫微宮礼拝のあと、箱根美術館見学をしました。本館、別館とも私にとって感激の連続でした。

その後神山荘、観山亭、日光殿等の施設を巡り、10時半ビデオ上映が始まる頃に再び仮光明会館へ行って、式典(?)を迎えさせていただきました。

ご面会ではみ教えのあとにフォーラムがあって、3つの地区の方の体験発表があり、いずれも療院に関する事で、秀明信者の私には真新しい活動という感じがしました。

川合理事長先生の指導も主に療院構想の話で、その中でも特に印象的だったのが、「宗教的な浄霊はもはや時代遅れである」と強調されたことです…。まるで私か秀明に対してとも聞こえましたね…。

「箱根神仙郷は霊的な中心」と仰ったのは私も同感で、箱根に繋がっている人たちがちょっと羨ましくもあります。

東方之光さんが療院や大仁瑞泉郷に力を入れられているのが、川合先生の熱弁でも私にはよく感じ取れました(持ち時間を大幅にオーバーしてメンバーの方から顰蹙を買ってましたが…)。

ご面会終了後、熱海のMOA美術館をこれまた初めて訪れ、明主様の蒐集された国宝「紅白梅図屏風」「色絵藤花文茶壷」などのほかたくさんの美術品を鑑賞させていただき、ここでも感激を禁じ得ませんでした。

美による人救いという明主様のひとつのご理想を具現化したすばらしい美術館でした。箱根神仙郷、熱海瑞雲郷ともに、明主様が仰ってる自然の美と人工の美をマッチさせたパラダイスという所を全身で感じ、地元に戻りました。

今回の訪問で感じたことは、今更ながらではありますが、東方之光さん、いづのめさんとも明主様の御理想を実現しようと活躍しておられることです。私も東方之光さんのほうに接触させてもらって、一緒にご面会に行ったメンバーの方々と一緒に活動できたら、どんなにいいかと思います。

残念ながら私は東方之光のメンバーの方に秀明を紹介できません。「どんなに明主様の遺品があろうと、お墓があろうと、国宝があろうと、会主様が……」などと言い出す資格者(私のいる拠点)がいるような秀明は自分でも恥ずかしく思います。

私はもともと交流をと望んでいたのですが、私たち秀明信者が他教団に触れて学び、得るものはたくさんあると思いますが、他教団の方が秀明に来ても私が頂いた分の価値を秀明に見出せるとはとても思えません。

ですが、現状では、私はいろいろな事情から移籍することが出来ないでいます。秀明で誰にも相手をされないいわゆる「曇り信者」だったりしたらすぐ移籍できただろうと思います。ただ秀明にいて、教団自体がどんどん妙な方向へ転がり始めているのを私は感じますし、もはや熱意もあまりありません(明主様信仰に対する熱意は、「天国の礎」を始めとするたくさんのみ教えを頂いてどんどん強くなっていきましたが、それと反比例して秀明への情熱も愛着も無くなっていきました)。

そういうわけで、東方之光の専従者の方からは(直接口には出されませんが)移籍を奨められますし、同年代のメンバーの方からは交流したいというとてもうれしい申し出も受けたのですが、上記のような理由からまごついておりさまざまなジレンマを感じています(私としては交流して、お互いに刺激しあって高めあっていけたらなと考えていたのですが……これも私の勝手なのかもしれません)。

先日(ご面会に行く前)秀明の資格者に救世教へ行ってきたと言ったら(私もわざわざ変なことをしたもんだと思います…。自分から怒られに行くようなものですからね…)、それはそれは大変でした(笑)。

資格者2人から袋叩きにされてしまいましたね…。私も馬鹿でしたが。その時に資格者が言ったのが「会主様が選んだもの以外はダメ」「たとえ国宝でも、会主様はご覧にならないでしょう?どうして会主様がされないことをあんたはしようとするのか」「100篇のみ教えも実行できてないでしょう。それ以上読んでも混乱するだけだ」「たくさんみ教えを読んでも頭デッカチになるだけで浄霊体験(いわゆる「超奇跡」か?)がないとダメだ」「あんたやられてるんだ」…等々。

資格者がまだこんな考え方だったのには呆れましたが、マア私をやられてるとか言って馬鹿にするのはまだ良いですが、ちょっと人を裁きすぎですねー。信者に対してやられてるなんて(私が言うことでもないが)、み教えをちゃんと拝読してるんならそういう言葉は出てこないんじゃないかと思います。何にしても、資格者の考えがよくわかって、それはそれで面白い体験でしたけどね(笑)。

今後、私もどうするかよくわかりませんけど、また貴重な体験などあったらお伝えしたいなと思います。それではどうもありがとうございました。

(終)


さて、この方が頂いた先生のオコトバを一言一言検証してみましょう。

「会主様が選んだもの以外はダメ」

箱根や熱海にある美術品は、明主様がお選びになった物です。

「たとえ国宝でも、会主様はご覧にならないでしょう?どうして会主様がされないことをあんたはしようとするのか」

当然明主様の集められたものだからです。明主様のものをみようとしない会主様の方がおかしいのでは?(実際には立場上の問題でしょうけど)

「100篇のみ教えも実行できてないでしょう。それ以上読んでも混乱するだけだ」

どうして100篇のみ教えしか読んだ事のない人が、それ以上読むと混乱する、と断言できるのでしょうか?

み教えが100あるから、やらなければいけない事も100ある、というような発想は戒律信仰の影響が強いのでしょう。体験的にはみ教えを沢山読めば読むほど100篇は実行できるようになっていきます。なぜなら明主様が仰った事の理解が深まり神髄がわかり、一つ二つの急所を押さえるだけでみ教えの100篇に書かれている事の多くが自然に出来てしまう、そんな智慧がいただけるからです。

「たくさんみ教えを読んでも頭デッカチになるだけで浄霊体験(いわゆる「超奇跡」か?)がないとダメだ」

これはこの先生が「み教えに基づくだけで奇蹟が起きる」という体験をした事がないということを表していると思うんです。浄霊して相手の病気が治るような奇跡が起きる(または浄霊布教中に起きる奇跡)、そういう奇跡しか奇跡という物はないと考えているんですね。確かに神慈秀明会ってそういうところでした。世界救世教での活動をみていると、み教えに従っただけで状況が変わり、問題が解決し、幸福になる、ということが多発しています。み教えに従うだけで日常生活に奇蹟があるんです。問題が解決できないときはみ教えに照らして自分の間違ったところを探し、それを見つけて反省しただけであっという間に奇蹟が起こり、問題が解決するということも起こるなんてことがよくあります。これは明主様が常にお働きになり、み教えを信者一人一人の魂に定着させようとしておられるからでしょう。そういうことが今の神慈秀明会にはほとんど無いんです。もっと変われるといいのですけどね。

「あんたやられてるんだ」

み教え:邪神がいるところには。」を読んでください。


私達は自由に好きな聖地に参拝して、思う存分拝読でき、それを実行できる自由があります。秀明会の先生にはそれがありません。秀明の先生という職業になったばっかりに、明主様に近づかせて頂く自由を失ったのです。かわいそうですね(秀明信者の決まり文句なので説得力が無い。)。でもまあ、先生の人生は先生本人に任せて、私達は思う存分明主様に触れさせて頂きましょう。

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