秀明向け み教えコレクション(2)


禊と天国的修行

御論文 「宗教即奇蹟」より

又、こういうこともよくある。それは思うように御利益がないと、その教師なり先輩なりが決って言うことは、あなたの信仰がまだ足りないからと言訳をする、丁度御利益なるものは、神様から恵まれるというよりも、人間の努力で引き出すように思うらしい。本来神様は大慈大悲であるから、御願いしただけでも必ず御利益は下さるものである以上、人間が一生懸命になり、度を越すと、反って本当の神様ならお嫌いになる。特に断食とか、茶断ち、塩断ち、水を浴びたり、御百度参りするなどは、最も神意に添わないのである。何となれば、神様の大愛は人間の苦しみを厭わせ給うからである。考えてもみるがいい、人間は神様の子であるから、子の苦しむのを喜ぶ親はないではないか。故に苦行によって仮令御利益があっても、それは本当の神様ではなく、邪神に属する神様である。何よりもそういう御利益は、必ず一時的で長く続くものではない。処が、本当の神様の御利益というものは、信仰すればする程段々災いは減ってゆき、安心立命の境地に到達し、幸福者となるのである。

   要するに、御利益を得たい為無理に信じようとするのは低級宗教であって、疑っても信じないでも、神様の方から御利益を下さる、これが高位の神様の証拠である。

(S26/04/11)

チャート!
御利益の前に苦行的な努力を強いる神様は、たとえ奇蹟があっても正しい神とは言えないというのが明主様のご思想。

神慈秀明会では「」などといい、成果を頂くためには努力、苦行が必要であるという事が教えられ、信者さんはそれが骨の髄までしみこんでしまっています。しかしみ教えを拝読しますと、浄化、ということはありますが、明主様のお道、ひいては天国世界においては、修行や苦行といったものの価値が非常に低く、むしろ有害な物と考えられており、正しい神様は苦行と引き替えに御利益をくださるようなことは無いことになっているようです。


神の試練

質問

 今迄の夜の時代のいろいろな人生の苦しみは、ただ夜の世界だから苦しみがあったという許りではなく、やはり神様の人間に対する試練としての苦しみもあったと考えて宜しいでしょうか。更に昼の世界に於いても人間を向上せしめ、深み、うるおいをつけるために神の試練としての苦悩、悲哀、例えば恋愛に於ける失恋の苦しみの様にも何らかの形で存在するのでしょうか。

御垂示

 神の試練ということは本当はないのです。人間の方でそういう理屈をつけたんです。神様が人間にいいものを授けようとする時、容物が汚れているので先ずその容物を掃除して下さる。その時が苦しみなのです。だからそれが浄化なのです。そしてそれがすんで綺麗になればいいものを神様が与えて下さるのです。

だからそこで人間は、「ああ、あの苦しみは神の試練だったのだ」という風に考えるのです。又、失恋の苦悩といっても、恋愛というのが一つの執着なんだから、結局、自分で勝手に執着して苦しんでいるのです。(笑声)だから問題ないのです。

(S24/01/08)

チャート!
神の試練というものは本当はない

これも神慈秀明会で学んできた「禊」というものとみ教えとの違いです。次は禊とは異なる、天国的修行についてのお言葉です。


御用に専念 --- これが天国的修業 (景仰)

昭和二十五年法難の折、私はしばらく碧雲荘の玄関番をしたことがありました。言ってみれば、碧雲荘の若い執事です。その時、私は最初に明主様に申し上げたのです。

「私はおそばでの御奉仕の経験がございません。これからどういう心構えでやったらよろしいでしょうか」

すると明主様は、大きな声でお笑いになって、

『心構えなんて、私のところにはない。あれは地獄に必要なんだ。ここは天国なんだから、そんなものはいらないよ』

とおっしゃいます。私はハッと思いました。暗い事件の渦巻く最中にあられながら、いささかもご日常とお変わりなく、ここは天国だから、と仰せられたお言葉で、私の歪んだ緊張感はたちまちホグされ、雲上に軽々と、抱き上げられた思いがしました。それで、やっとの思いで、「御用をさせていただきたいのと、修業したい気持でおりますが……」と私は申しました。

『そういうことがいかん。その時その時に必要なことに徹してゆけばいいのだ。アレコレと考えることがいけないのだ。私の側にいて、私の言う通りにやってくれればいい』

と明主様は言われます。「では、何も苦しむことはないように思えますが、それでよろしいでしょうか」と私はさらにお伺いしました。

『そうだ。それを天国的修業というのだ』

と明主様はおっしゃいました。  

チャート!
天国的修行においては、そのときそのときに必要な事に徹するだけでよい。心構えはいらない。

この項で言いたい事は、神慈秀明会に所属している私達が、「神様とはこういう方だ、天国世界とはこういう所だ。御用とはこういうことだ」と思っているイメージと、明主様がお説きになった神様や天国世界のイメージとは、大きな隔たりがあるという事です。このあたりは是非ともご自分でみ教えをひもとかれ、ご確認ください。

引用したみ教えでおわかり頂けるように、明主様は、昼の世界、天国世界で私達はどのように生きていくべきなのかをさまざまなみ教えでお説き下さっています。


御祈願の方法

神様は三度までで良い

質問

 弟子の御浄めしている重病人の住所姓名病状等を毎朝定時に御観音様に言霊で奏上し御守護を御願いしても宜しいでしょうか?

御垂示

 之は勿論で一種の遠隔的意味になる。その場合余りくどくどしく言わずにあっさり云う方がよい。すべて三度までよいのです。大体神様はくどい事が嫌いで、くどい事が好きなのは邪神です。だから祝詞も三度でよい。若し三度以上あげるのなら間をおいてからがよい。

(S23/08/28)

観音様に御願する態度

 今迄の何か信仰してる、信者の信仰の仕方は、私から見れば大変間違っているのである。特に神前に於て御祈願をする場合、そうである。例えば、何か願事をするのに、洵(まこと)に諄々し(くどくどし)過ぎるのである。泣くが如く、訴うるが如く、肩を震わし、哀憐を、強いて乞う如き態度は、寧ろ醜(みぐる)しい位のものであって、それを数分も、数十分も掛るものさえあるのである。

 之は大変な間違いである。譬えて言えば、神様は親様であり、人民は子の如なものであるから、子が 親に対し、希望を乞うのに、泣かんばかりに、執拗に訴えるのは、親として決して、気持の好いもので はないであろう。此理に由って、観音様へ御祈願する場合、成可く(なるべく)、非礼に渉らぬよう心掛くると共に、言葉は簡単が良いのである。故に、一つ事を繰返すのは、大変善くないのである。

何故なれば、観音様は、人間の心の底まで見透して被在(あらせ)らるるから、御祈願する前から判って居られるのは勿論である。故に、御祈願しなくとも、常に乞い願っていた事が、奇蹟的に実現する事が、能くあるのはそういう訳である。又人間でさえ、一つ事を繰返されるのは、嫌なものであるから、まして御神霊へ対し奉っては、其点を呉々(くれぐれ)も、心掛くべきである。

(岡田茂吉全集 著述篇第一巻 P407)

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御祈願は三度までで良い
一つ事を繰り返すのは良くない

奇蹟と魔術

結局、奇蹟というものは、人間の利益になることですね。それが、幸福になるとか、得をするとか……それが奇蹟なんです。あと……不思議なことをしてみせるのは魔術なんですね。それを、よく混同するんです。ちょっと不思議なことをしてみせると、すぐありがたがって頭を下げるんですが、そういうときによく考えて……こういうことを人に見せて、どれだけ人が救われるかということを考えるんです。そうすると、一つの見世物的になります。それではいけない。宗教を看板にするなら、それに救われなければならない。よく、神霊会でやりますが、こういうのもそれですね。救われなければならないんです。霊があるということが分かっても、自分の病気が治らなければしようがないですね。その区別も良く知っておかなければならないですね。また、その区別を、良く説明してやらなければならないですね。

(S27/01/05)

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不思議な現象には、人を幸せにする、価値のある「奇蹟」と価値の乏しい見せ物的な「魔術」の二種類がある。

みなさんが神慈秀明会で体験したり見聞きした不思議現象は、明主様の仰る人救いの「奇蹟」でしたか?それとも「魔術」的な物でしたか?思い返すと私や私の周りの人たちは、秀明紙などの伝聞で得る事が出来た情報には「奇蹟」が多かったのですが、実際に自分の周りに起こる事は金粉やダイヤモンド、温熱や光を感じたり、霊視現象などどちらかというと「魔術」的な事ばかりでした。こんなすごい「魔術」が起こるのだから、秀明紙に載っているような素晴らしい奇蹟もきっと多いに違いないといつの間にか思っていました。それ以外は、禊が実って教修者や入信者を頂けたというようなことでした。


「オレは救世主だ」とは言いたくない

私にいる神様は一番最高なのです。ですから私は神様を拝んだことはない、と前にも言ったことがありますが、私より上の神様はないのだから、別に拝む神様はないわけです。それで私は拝まないわけです。けれども、こういうことが時節によってはっきり出てくるので、私は自分で「オレは救世主だ」とか、そういうことは言いたくないのです。つまり事実で見せる、事実によって「なるほど」、力と結果において「そうだ」ということを分かって、それが本当なのです。

(S29/03/27)

  私は今更自分が救世主だとも、再臨のキリストとも言わない。何故なれば昔から今日迄随分そういう名乗を上げた者もあったが、みな煙の如く消えて了ったからで、今日それを唱え出した処で、偽キリスト、偽救世主か大山師位にしか見られないのは分り切った話であるからである。要は実際問題であって、今後私の仕事の上に於て、救世主的救いの力を発揮するか、キリスト再臨的威力を表わすか、弥勤や観音の力徳を顕現するか、天照大御神としての光明を放つか等によって、信ずる信じないを決めればいいであろう。つまり全世界の人々が公正なる批判の眼を以て観てくれれば私は満足であり、それ以外の望みはないのである。

医学革命の書 「浄霊とは何か」 全集著述編11 P204

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「明主様はメシヤである」ことを教団が信者に強制するものではない。一人一人の体験から各自が自然に思う事が本当。

神慈秀明会では、グループの信者さんお世話をする事でお世話される側の信仰が向上し、明主様をメシヤであると思うようになる、と考えていたと思います。奇蹟を人間の努力で出す、という発想が正しくないのと同じで、その人が明主様をどう思うかは明主様がその人に何を見せ、その人がそれをみて何を思うかだけが決める事です。それは自分自身でも同じです。

メシヤのお働きも一時的

メシヤとは日本で言うと国常立尊様です。審判の神です。しかしこれもある時を限られたお働きで永久的のお働きではありません。一厘の御霊はメシヤとは違います。

(S25/08/01)

明主様がメシヤを名乗られたときとても厳しく振る舞われました。審判の神だからです。しかしメシヤを名乗るというのは非常に短い期間(S29/06/30〜同08/21)で、その後は明主様の御尊称に戻り、お優しい明主様に戻られたという事がありました。

これらの事より、神慈秀明会では明主様をメシヤとだけ教えていましたが、そんな単純なことではないようです。すなわち明主様のお働きは必ずしもメシヤである事が全てではないということです。メシヤ、一厘の御霊、東方の光、これらはすべて明主様のお働きですが、それぞれ意味が違います。明主様の御事にはまだまだ学ぶ事がたくさんあります。


薬と憑霊

人間のいっさいの悩み、たとえてみれば犯罪ですが、犯罪の原因も薬毒なのです。今度の汚職問題で偉い人がみんな引っかかって苦しんでますが、これの因の因は薬毒なのです。つまり、薬毒が溜まると霊が曇ります。霊が曇ると邪霊(動物霊)が活躍ができますから、そこで内証で変な金を手に入れたりすることになります。その薬毒のために霊が曇るから動物霊が活躍するのですが、そうするとまず大いに芸者買いしたり、酒を飲んだりマージャンをやったり、いろんなことをする、それはみんな動物霊の指図と言い得ます。そうしてそれには金がいる、そうしてうまくやればよいというので、いろいろなことをやるのです。そうすると結局において薬が罪人を作っているわけです。犯罪者を生んでいるわけなのだから、薬毒というのは病気ばかりではないのです。いわば、肉体的病気ばかりでなく、精神的病気も作っているわけです。あらゆる悪の面、人間の悩み苦しむその原因は全部薬なのです。人類から薬というものを抜けば、地上天国もミロクの世もできるのです。とにかく救世教というのは、世の中から薬をなくするというのが根本の仕事です。


霊体一致の法則

質問

 「御浄霊は急所をやれ」との御言葉でございましたが、急所という様な体的な面と信仰の面とは何れに重点をおくべきでございましょうか。

御垂示

 之は体的な面に重点をおく可きです。というのは霊的に曇りの多い箇所と、体的に毒の多い場所とは同じだから。つまり霊が曇っている処へ邪霊がつくんです。だから体的にみた方が判りいいのです。毒のある所へ邪霊がつくということは御浄霊をすると霊が逃げることがあるが、その場合必ず毒のある所へ行くからよく判ります。

(S23/12/08)

チャート!
薬が抜けると邪霊も働けなくなる。

敵討ち精神

ジャーナリストに限らず、日本の多くの人は、まだまだ島国根性と言いますか、封建性が残っていると言いますか、見方が小乗的で小さいのです。これがいまもって分かるのは、『忠臣蔵』を芝居でもラジオでもやってますが、一二月一四日が討入りの日ですから特にやってましたが、それは聞いたり見たりする人が多いからです。そうすると日本人の思想がだいたい分かるわけです。私はお祭りの余興のときにも、すべて『忠臣蔵』をやってはいけないと言ってますが、あのくらい間違っていることはないです。話は横道にゆきましたが、とにかく四十七人の人間が一生涯の生命を犠牲にして仇討ちをやるのですが、そうすると、それを非常に讃美するのです。あの時代ならそれでよいかもしれませんが、いまそういうことが行なわれるとしたら、いったい人間はなんのために生まれてきたかということです。そうしたからといって、国民や社会に幸福のためにどれだけ役にたつかということです。それで日本人の思想の中から一番に抜かなければならないのは仇討ち思想です。仮に親が殺されると、伜が親の仇討ちのために一生を犠牲にして仇を討つ。そうすると討たれた親の伜がまた仇討ちをする。そのまた伜が仇討ちをする……ということになり、せっかく人間として生まれたその命を、親の仇討ちのために犠牲にしてしまうのです。それが少ないならまだよいが、それがだんだん多くなると、人間は仇討ちのために殺し合い、生命を犠牲にするということになります。そのことを考えてみると、非常に悪いことが分かります。ただ、あの時代はよかったのですが、それも本当によかったのではないので、小乗的善です。その時代の大名とか将軍という主権者が、政権を維持するためですが、大名は自分の勢力と、そういったそうとうな地位、権力を維持するために忠義という道徳を作ったのです。そうして命を犠牲にするまでに、大名の不利益をやろうという者をやっつけて、政権を維持するそのための精神を作る、その手段としての武士道ですから、武士道というのはけしからんものです。

(S29/01/02)

チャート!
敵討ちの輪廻はどこかで断ち切らなくてはいけない

遊行観音と智慧証覚

遊行観音

どっちかというと、私は遊びながら仕事をしているようなものです。苦しみながらしている気はしないのです。道楽みたいなものです。観音様の中に「遊行観音」というのがありますが、ちょうどそういうようなものです。

楽に行くほど発展する

霊界遊行観音それで、そういうようにやっているとうまく行くのです。それでいろいろ苦しんだり、気がいかないことをやっているとうまくゆかないのです。この点がいままでの世の中の人と反対です。これは信者の人でも同じわけです。だからいやいややったり、苦しんでやったりしたときにはロクなことはないです。病人の所に頼まれて行く場合にも、楽しみながら行くときは、きっと治りが良いし、治るから行くわけで、またそうだから良いわけです。

だから楽に行けばゆくほど発展するのです。ここがいままでの世の中と違うわけです。ところがどうも人間という奴はいろんな癖がついて、どうも苦しむのを平気で、それをあたりまえのように思っているのです。私も始終そういうことがありますが、どうも思うようにゆかない、うまくゆかないというときには、「オレは苦しんでやっていた」ということに気がつくのです。それでそれをほうり出して、他のことをやるということがあります。

それからまた時節というものがたいへんなもので、たとえうまくゆくことでも、良い計画でも、時節が早いとやっぱり思うようにゆかないのです。それはやることが悪いのでなくて、時節が来ないのです。そこを見通すだけの智慧証覚がなくてはならないのです。

順序とは理屈に合う事

それからまた順序ですが、これがまた実にたいへんなものです。うまくゆかなければならない、こうならなければならないのがどこかつかえている、うまくゆかないのですが、そういうときによく考えてみると順序が違っている場合があります。それで順序を良くするとスラスラとゆくのです。ですからそういうようなことを早く発見するということが智慧証覚です。この智慧証覚というものがまたたいへんな意味……というよりか、物事に影響するのです。それで智慧証覚があると気がつくのです。

一番分かりやすい話が、浄霊してどうもうまく治らない、おかしいなと思うと、見当が違うとか順序が違うとかいろいろあります。それで順序というものは、やはり理屈に合うことです。合理的なものです。だからその病人なら病人が、まだいろいろ反対者があったり、その人の想念がおそろしく食い違ったりするときにはうまくゆかないのです。そのうまくゆかないというところにまた一つの理由があるのです。

それは、その病人がなにも分からないうちは疑いもし、反対もし、物は試しだぐらいにやるのですが、それはそれで神様から許されます。それはあたりまえです。ところがそうとうに話を聞いたり、御神書を読んだり、中には信仰に入ったりする人がありますが、入っていながら、それに合ってゆかない想念でやってもらうと、そのときは治りが悪いのです。うまくゆかないのです。そういうことに対してチャンと合理的の理屈があるのです。だからかえって疑ぐっていた人が馬鹿に治り、それからそうとうに信じている人で治りが悪いということがありますが、それはそういうわけです。ぜんぜん知らない人はいくら疑ぐっても、それはあたりまえのことで許されるのです。理屈に合っているのです。ところがそうとう事実を見せられながら、なお疑ぐっている人は思うようにゆかないのです。

理屈を発見する能力が智慧証覚

そういうことをよく考えてみると、チャンと理屈に合っているわけです。その合っている理屈を早く発見し、早く知るということが智慧証覚です。心の鏡に写るわけです。ですから鏡が曇ると写りが悪いから、始終鏡を磨いているとよく写るから、早く発見するということになるのです。ここに信仰の、あんがい軽く見ていることで、実は非常に重要な点があります。このことについては、仏教で、お釈迦さんが言ってますが、「智慧」ということをよく言います。これはそのことです。

それでその智慧がある程度まで働いたのが覚者と言うのです。それで大覚者というと一番偉いのです。それで、お釈迦さんが言ったのに「証覚を得れば菩薩にする……「証覚者」が「菩薩」であり、「大覚者」が「如来」であるということを言っているのは、やはり覚りということは智慧です。ですからいろいろとなにか気がつき発見の早い人があるが、それは覚者なのだから、覚者というものは心の曇りが少ないわけです。

そこでその曇りを少なく、心の鏡がきれいに澄んでいるというためには、御神書をたくさん読むということが一番よいわけです。ですから御神書を読んでも、前にはよく分からなかったのが、その次に読んだら、あるいはしばらくたってから読むと、「これだ」「こんな良いことがある」「こんなはっきりしているのにどうして自分は分からなかったか」ということがあるが、前に読んだときには曇っていたからです。だからだんだん曇りが陰れてゆくにつれて、だんだん分かりが良くなるということは、そういうわけです。

(S28/12/05)

チャート!
苦しまず楽して発展するのがメシヤ教式。楽に問題を解決するためには素早く急所を発見出来るように智慧証覚を磨く。それには御神書拝読。

笑いについて

(画像は明主様ご揮毫による「笑」のお文字。画像をクリックすると大きな画像が表示されます。)


冗談は大いに結構

質問

言葉は簡潔な方が宜しいと存じますが、時と場合により空気を和らげる為に雑談や冗談を言う場合の言霊は如何でしょうか。

御垂示

 冗談もうまい冗談はいいですね、人を笑わせる様にならなければ本当じゃないですよ。うまい冗談は実際空気を和らげますからね。まあ、事務的な事は簡潔な方がいいですが、普段は冗談は大いに結構ですよ。

(S24/06/13)


悪口は最後に笑いにする

愚痴だとか悪口とか怒りとか、そういう事を言うと光の反対の曇り--すすみたいなものが(口から)出る。それが霊眼の効く人には見えるのです。(中略)しかし人の悪口も、どんなことでも滑稽なこと、笑いになることは構わない。私はずいぶん人の悪口を言うが、終わりは笑いにするから、それで曇りにはならない。

(S27/08/01)


天の岩戸は笑いで開く

観音会の仕事は、人間の心の岩戸を開ければ、世界中開かれるのであります。宇都売之命が踊って神々様を笑わせますが、観音会には笑いが必要なのであります。何故かと申しますと、議論や説教では岩戸は開けません。笑いはにこやかであります。笑い合うようでなければ心の岩戸は開けません。議論や小言では逆に岩戸が締まってしまいます。 (中略) キリストは笑は罪悪だ。笑い合う処罪悪生るという、牧師の説教は、まるで泣声をしています。これでは岩戸は開けません。大いに笑って大いに朗らかでなければ駄目です。朗かな人の事を明るいといいますが、明るくしていねば天国は開けません。

(S10/02/11)

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天国化には笑いが必要

戒律・嘘・算盤

ニコニコ笑って救われていく

とにかく神様というのは気がきいているものです。しかし古い昔の神様は気がききません。人間を苦しめたりいろいろしますが、救世教の神様はとにかく力があるわけですから、なんでも自由自在です。この間も歌でよみましたが「泣くが如く訴ふが如き祈りこそ小乗宗教のしるしなりける」というのです。キリスト教なども「泣く如く訴うるが如き祈り」というのはたくさんあります。路傍で牧師などが説教しているのも、実に哀れむべき声を出してやってますが、あれは神様に力がないから、自力が加わるため、自力を主にするからです。そういうようにして救われるというのは、やっぱり一つの地獄的のものです。ニコニコして笑って救われてゆくのでなければ本当の天国的宗教ではありません。

宗教が地獄的なら世界も地獄的

私は前にキリスト教の婚礼に招かれたことがありますが、婚礼とお通夜と同じです。もっともお弔いのときには、このごろはあんまりないが、昔はお菓子をくれます。キリスト教の婚礼式にはお菓子をくれます。それからこれはキリスト教の一派ですが、笑いは罪悪としてあります。ですから前に私が笑冠句をやっているときにクリスチャンの人が来て、キリスト教では笑いを罪悪としているのに、ここは笑いを奨励している、ぜんぜん違うと言ってました。そういうわけで、よくも違っているのです。ですからそういった宗教が世界的に大いにやっているときは、やっぱり世界は地獄的になるのも、ちょうど合っているわけです。もっともそれでも悪い奴に苦しんだりしているよりも、宗教的に苦しんでいるほうがずっとよいです。しかし神様のほうからご覧になれば、やっぱり人間が喜んで歓喜に溢れている世の中にしなければならないのです。

自然に間違った事をしないのがメシヤ教式

ですから救世教のようなのは、いままでにぜんぜんないのですから、いろいろ誤解されたり、間違った眼で見られたりするわけです。昨日のラジオでも、他の宗教は戒律を守らなければならないとか、道徳上から言うと、こうとか、いろいろ言ってましたが、いままではみんなそういう説き方だったからそれでよいのですが、戒律というものはやっばり一つの自力です。ちょうど分かりやすく言うと、だれも人の見てない所に金が落ちている、そうするとこれは拾いたい、欲しいと思うが、これを拾っては罪をつくる。だから我慢して押さえるのですが、それは戒律です。ところが本当いうと、落ちていても、これは自分のものではないから拾わないに決まっているのだから、それをなんとも思わないで拾わないで行くというのが本当です。戒律があるから、したいこともしないということは、本当ではないのです。だから我慢しなくてもよいのです。自然にやらないことに決まっているのですから、なんとも思わないで通り過ぎて行くというのが救世教のやり方です。ですから戒律がないのではなくて、戒律はいらないのです。

ところがつまり、酒が飲みたい、飲みたいけれども、これは神様に悪いといって一生懸命に我慢するが、それでは本当ではありません。だから酒は飲みたくない、飲もうと思わないというのが本当です。私は酒を飲むなということは言ったことはありません。酒が好きな人には飲みなさいと言うのです。それでも飲みたくなくなるのですから、それが本当です。ですから自分から自然に悪いことをしない、ずるいことをしない、酒が飲めなくなる、というようにできる宗教がいままでになかったのです。

副守護神と趣味

そこで、なかったということは神様に力がないからして、そういう人間にすることができなかったわけです。そこで一生懸命に外部的に押さえつけるというように、すべて外部的のそういったやり方だったのです。これもいままでの文明は全部そうです。だから医学でもそうです。苦しみが出るからその苦しみを押さえつける、熱が出るから氷で冷すというのと同じです。宗教もそうなっていたのです。外部的に押さえ、そうしてよい行いをさせるようにするというのです。ですから本当のものではないのです。だいたいずるいことをするのでも悪いことをするのでも、あれは一つの趣味です。とてもおもしろくてしょうがないのだそうです。巾着切でも、ああしてちょっと人のものをかすめて盗るということが、実になんとも言えないおもしろさがあるのです。ですからまじめに稼げば一万円稼げるものを、ああやればもっと少ないのです。いつか泥坊が、平均してみるとふつうの労賃よりも少ないというのですから合いません。それでその間に懲役に行ったり、いろいろのことを計算に考えると、一日いくらにもつかないというのです。それでは止めたらよいだろうというが、止められないというのは趣味があるのです。趣味というのはつまり副守護神です。副守護神のほうが支配して勝っているからです。ところが趣味がなくなるということは、副守護神がいじけてしまって、人間を支配するのではなくて支配されてしまうほうになる。そこで趣味がなくなるのです。

しゅみ 【趣味】

(1)専門としてではなく、楽しみにすること。余技。ホビー。「―は読書と音楽鑑賞です」

(2)物のもつ味わい・おもむき。情趣。「われは、この―多き十和田湖を去りぬ/十和田湖(桂月)」

(3)物の美しさ・おもしろみを鑑賞しうる能力。好み。感覚。センス。「持ち物一つにも―のよさが出ている」

三省堂提供「大辞林 第二版より

ここでは(3)の意味でしょう。

喜ばせる嘘

またよく嘘をつきますが、嘘をつくというのは偽るのですから、一つのずるさですが、これも趣味です。それでどうも嘘が止められないという人がたくさんあります。それでいつか聞いたことがありますが、君は嘘をつくが、いったいなにがおもしろいかと言うと、嘘を言うと相手が驚いたり、耳を傾けたりするのがおもしろいというのです。嘘といってもいろいろありますが、一番始末が悪いのは人を喜ばせる嘘です。「今度こういう信者ができて、この人が信者になったら、一度に信者ができる。こういう勢力があって、こんなに金がある。こんなに仲間を集める」というのです。それで私を喜ばせようというのです。その時分には私も、それはたいしたものだなと言って喜ぶのです。そうするといつかしら煙になってしまうのです。そういうことがいくどもありました。それは喜ばせる嘘です。これは喜ばせる代わりに、嘘ということが分かると、こっちはよけいガッカリします。

びっくりさせる嘘

さらにまたびっくりさせる嘘があります。「今度はこういう方面で救世教をやっつけようとしている、こういう計画をしているというから、よほど気をつけなければならない。しかし私にはこういう手があるから、このほうから手をまわせば押さえられないことはないが、とにかくお気をつけになったほうがよいです」というようなことを言うのです。ですからこっちは言葉どおりにウッカリ信ずることがあるのです。それで私がそれに耳を傾けると、それに興味を持っているのです。それも一つの大きな罪悪です。それらはなにかというと、つまり副守護神がおもしろいのです。新聞などに いろんなことが出てますが、みんなそれです。ですから詐欺師とか、いろんなインチキでウンと金を集めたりして、おもしろおかしく遊ぶ奴がよく出てますが、みんなそれです。ところがそれは副守護神がのさばっているからなのです。

算盤をとれる人は曇りが少ない

それをキューッとやってしまえば、そういうことがつまらなくなり馬鹿馬鹿しくなります。そうすると頭がはっきりしてくるから、そういうことをしていてはつまらないということになって、それよりか人の信用を得てよい地位になったほうがよいという、算盤ということがはっきりしてきます。ですからそういう人間に限って算盤をとらないのです。ですから私はいつか「算盤をとれ」という論文を書きましたが、算盤を正確にとれる人は、やっぱり曇りが少ないわけです。

(S28/09/07)

チャート!
ニコニコ笑って救われていこう。算盤を正確にとろう。

急所の発見

まず病気の急所

 なにごとでもそうですが、まず急所です。浄霊の場合でも急所を発見することです。急所を発見するということは、いま言ったようなことをだいたい知っていると急所が非常に分かりやすいわけです。自分で自分の健康診断をする場合にも、体中を触ってみて熱のある所に毒素があるのだから、触ってみてずっと冷たければよいですが、どこかに熱がありますから、そこが急所です。それから押してみて必ず痛い所があります。人によってはまるっきり痛くない人がありますが、これはなにかというと毒がなくて痛くない人はまずないでしょうが、毒が固まりきって少しも浄化が起ってないのです。それで痛いということは、固まりにいくらか浄化が起っているから痛むのですが、浄化がぜんぜん起ってないと痛まないのです。ですからこういうのはかえって危ないのです。そういうのはかえって信仰にはいると、痛みのない人が痛みが出てきますが、これはそこだけが活動を始めたのです。しかしそういう人はごく少ないので、たいていな人はどこか痛いのです。そういう所を自分で浄霊するなり、後の所は人にやってもらうなりすると、それは健康になります。それで自分で浄霊するにも一番は肩ですが、肩で固い所がありますからそこをやればよいです。そうしてごく小さい固まりがあることがありますが、それを浄霊するには、措から霊を出すのです。これはいつも言うとおり触ってはいけません。二本の指でこうやって(注:人差し指と薬指の指紋部分を、固結を挟むようにして相手の身体に付け、中指だけ浮かして、中指の指紋の中心を固結に向けて固定し光を放射する。手首部分も相手の身体に乗せてよい。通称、中指浄霊)、中指から霊を出すようにするとよいです。この指から出る霊は強いですから、小さい固まりはよく溶けます。

病気以外の急所

そういうようでなんでも急所です。ところがこの急所を外れていることが多いのです。これは病気ばかりではないので、日常のことや話や、いろんなこと、また宣伝の具合でも、人が「信仰にはいろうか、どうしようか」と迷っているときに急所をピタッと言えば、「では、はいろう」ということになりますが、その急所を見つけるのがなかなか難しいのです。しかしその人の智慧証寛が進むと、急所の発見が早くなります。どんなことでもその急所をやることです。それから急所が見つからないときに、あせってやってはいけません。それはまだ時期が来ないとか、いろいろな事情があるのです。ですからふだん心掛けていれば、時期が来さえすれば急所は見つかるものです。ですから病気でも、どうも熱が冷めないというときに、ちょっと急所に来ると冷めることがあります。これはあなた方でも経験することがあるでしょうが、急所を発見するということが、人間人生の最大の条件です。ですからいまの政治、経済、外交ということも急所を外れているために、ずいぶん間抜けなことをやっているわけです。

急所が発見できるような頭を作る

私はよく新聞ラジオで聞いてますが、政治家が大勢で毎日いろんなことを会議したりしてますが、急所を外れてます。とにかく偉い人たちが大勢寄って相談してますが、急所の他のことを相談しているのです。ですからよい案が出ないのです。というのは頭が悪いわけではないので、頭は良いのですが、ただその頭も外側が良いのです。中身が悪いので、外側ばかりをいろいろ論議して、中身を論議する人はないのです。やっぱりスの、チョン が分からないのです。ですから人間は急所の発見ができるような頭を作ることです。信仰もその修行です。救世教というものはスですから、いままではみんなこれが分からなかったのを、これを分かりこれを主にして救うということが根本なのですから、そういった頭で物事をみたり、いろいろやったりするとすばらしいものです。これはなかなか難しいですが、せめて急所に近い所がすぐ分かるようになれば結構です

(S28/07/05)

チャート!
病気の急所も人生の急所も同じ。急所を発見するということが、人間人生の最大の条件。急所が見つからないときは少し時期を待つのは、人生でも病気直しでも同じ。

治療士三訓

くよくよするのは神を信じていないから

此の間も中島の所へ二百万円の税金を納めろと云って来た。中島はびっくりして「そんな金はない」と云うと「此の家は誰のだ」「自分のだ」「ではこの家を売って納めろ。君の所は大変な収入がある、駅を降りて人々が皆来るではないか」と云われ、中島は青くなってボーとしていた。で、私は「一体あんたは何を信仰しているのか、何も信仰してやしないぢゃないか。くよくよ心配するのは神を信じてないからだ。人間の方でそんな態度をとれば神様としても面白くないですよ。そんなに気をもむのは」そう云ったんで中島も判り、今迄のは形だけの信仰だということを悟ったんです。所が税金の方もちゃんと旨く行って運動してくれる人が出て1/10位で済んで了った。私も思う様に行かんなと思う時は神様に御任せする。始終ありますよ。私の処の税も五百万円だったが運動してくれる人が出て何分の一で済むことになってます。

始終自分の霊は天国に

霊的に云うと心配したりくよくよしたりすると霊が地獄へ落ちる。始終自分の霊は天国に居なければ駄目だ。どんな事があっても気をもんだりしないならば霊は天国に行き、そこで神様は旨くやって下さる。分会も文部省の命令で八つにした。物を分ければ最初は旨く行かぬにきまっている。滑らかに行かぬだろうとは思っていた。然し神様がやって居られるんだから日時が経てば円満になって行く。ですからゆっくりと時を待つことです。

治療士三訓

私は以前治療士三訓を作り治療所へ貼らせた。

威張るな、怒るな、早まるな」です。

三つの中何れか一つにでも該当したら治療士の資格がない。結局こういう事により自分が磨かれるんです。神様の修行の中で一番大切なのはこっちを怒らせることです。昔は私も神様からよく言われました。以前は私も神様の事はよく判らず、はらわたが煮えくり返る様に思ったこともあり、余り癪に触って頭がボーとして来たこともある。

計画通りにゆかないときは

私は二十年間借金で苦しみ、差し押さえも七、八回、破産したこともある。差し押さえられると箪笥の引き出しに封印しますが、その紙をそっとはいで引き出しを開けたこともあります。あいつをはがすと刑事問題になるんですから怖いですよ。上野毛の家には木札に此の家は仮処分の家だと書いてある。余り人目につかぬ所に立ててますが、実際借金には苦しみました。又Gもひどい事をしました。離れを作ろうとして土台を作りすっかり準備したら建築停止をくわせた。その時も腹が立ちました。所が面白いのはね、箱根の観山亭を作る時、その離れの材料をそっくりそのまま持って来たんで、観山亭は出来たんです。今から考えればむしろお礼を云っていい位です。計画を立ててやろうとしても旨く出来ない時は、神様に何か思し召しがあるんだと考えることです。

熱海の家の事では今両方共困っている。売った方でも困っている。税務署は時価で評価するから二千万位になる。それから税百六十万円を引くと千八百四十万円、それを双方で負担すると、先方は家を売った上に九百二十万円納めねばならない。私の方は法律的には出来るんですが、然し人情としてそんなことはとても出来ない。それで今はそのままに放っているんです。そこで私は之は屹度神様が何か御計画になって居られるなと考えている。或時期にはっきり判って来ます。ついそこの畑地もやっぱりYが持っているんですが、先達て「買わないか」と行って来た。私は「要らない」と云うと家内が「あそこに変なものでも建てると困るから買って了ったら」と云うので買う事にしたらもう売れて了った。私の所へ来た時は三十万円程だったが、後で聞いたら競売りで大分高くなったそうです。所がその買い手の人は熱海の請負師で渋井が仕事をさせてる人で「大先生が御入り用なら何時でも御使い下さい」という訳です。やっぱり必要なんですね。必要なものは飛んでもない所から入って来ますよ。

宗教になる事だって私がしようと考えてしたんではない。進駐軍の中佐の牧師が或程度この道を了解して、之が将来発展すると必ず医者と衝突して禁止される、それには宗教になってなければ、という訳で宗教になったんです。全くなってよかったんです。之で全国の医師会との間に起こっていたいろいろな問題もなくなってしまったんです。

(S23/05/18)


最善を尽くして時を待つ

質問

 道を求めるに就いて低いものは高い者を経て初めて高くなれると存じますが。

御垂示

 ええまあそうです。

質問

 道を悟るため自分でいろいろやってみても頼りないのですが

御垂示

 それは主観だから判らない。この場合は神が客観する。そこで自分は最善を尽くして時を待つのがいい。向上を期するのはいいが、短時日にしようとすると焦りになり、焦っては高まるよりむしろ地獄修羅道へ近くなる。

質問

 自分を指導する者がなければ自分が救われないと考えますが

御垂示

 指導は他力であり、自分で向上を励むのは自力であり、この両方で行く可きです。他力だけでも救われるが自力も必要、○○宗は自力のみだが、これは一種の信仰地獄へおちる事になる。だから最善をつくして時を待つのが一番いい

(S23/09/28)

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威張るな怒るな早まるな
常にご自分の心を天国に保ちつつ、
怒らず、最善を尽くして時を待つ。

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