目下罪障消滅中

明烏阿呆
(明主様のペンネームです)

先づはそんじょ其処に八宗九宗ある、信者を片端から此の阿呆、近頃検べ上げて見りゃ恐れ入谷の鬼子母神、驚き桃の木山椒の木。

すりこぎ棒を見たように、後戻りしては又進み、進むと思えば後戻り年が年中一所、行ったり来たりするような、信者がウヨウヨして御座る。そりゃ又阿呆め怪しからぬ、事申すなとおはらだち なさらず胸をおちつけて、阿呆の言ふ事一通り、聞いて下され本当に、判ったならばこんなにも、有難い信仰あったのかと、臍を噛まずにゃ居られない。

一体全体信仰を、する目的は倖せを、求められのか苦しみを、求められのかまづ最初、そこ所からして判然と、決めて置かなきゃ相成らぬと、斯んなに判り切った事さへも、訊かなきやならぬ程の仕義、どの宗教の信者でも、本当にむごいていたらく、そこで阿呆も世の為と、出鱈目まじりに笑はせて、お気の毒だが内々で、打明話をする程に、とっくり聞いて下されと、前置代りに言うので御座る。

何処のどなたもおしなべて、此のせちがらい世の中に、無事息災で暮すには、人間様の力では、心細くて仕様がない、せめて神様仏様に、すがっていれば気強いと、思うは誰も同じ事、家内安全無病息災商売繁昌の御利益をうんと戴き安楽に、世の中渡ってゆきたいと、願ふ心が信仰の、先づ始まりの文切型。

そこでいよいよ目を付けた何々宗や何々教、オッカナビックリ飛び込んで、信者名簿に載せられて、信者仲間におつきあい、顔を知られるやうになりゃ、大なり小なり命から、二番目の大切な佐渡の土、御奉納してひとかどの、御信者さんに成りすまし、朝晩祝詞や御題目、あげて間がありゃ親戚や知人友人説き廻り、人類救済の大事業、地上天国甘露台、吾等が造ってみせるのだ、悪事災難そんなもの、信仰すれば屁でも無い。

今に神政成就の世に、成ったら出世は請合と、たなぼたどころか夢のよう。途徹も無いほら吹き立てて夢中になって人様が、きこうが、きくまいがそんな事、おかまひなしのイノシシ式。御当人だけがいい気持で、あるから全くやりきれぬ。ちょうどよい事ありてもすると、無暗矢鱈に御利益と、思って直に有難がり、あう人ごとに輪をかけて、針小棒大に吸聴し、今度は逆に不時災難、あれば何とマア結構な、大難を小難に祭り代えて下すった大きな御利益と、感謝の涙にむせぶといふ、手の付けられぬお芽出たさ。成程こういう心境も、時にとっては良いけれど、程度を越えると困り者、うっかりすると信仰の悪酒にいつか酔払い、冷静批判もどこへやら、とどの詰りは信仰の、地獄に堕ちてゆくばかり。そこで段々深はまり、夢中になって宣伝や、御用をすればする程に、仕事や商売あがったり。勤めの方はクビと言ふ、破目になるのは知れた事。

ところが理屈はつけ様で、これも神様のご試練と、何でも都合のいい方へ、決めていよいよ無茶苦茶宗。熱度は正に四十度以上。貯金が減ろうが米ビツが、空になろうが何のその、天下国家の為ならば、たとえ妻子が路頭に迷い、みんなが反対するとても、へこたれる様な信仰じゃないと、その鼻息の荒い事。之が本当の正気の気違い。

さア斯うなる弱り目に、崇り目病気や貧乏や、苦情交々至るといふ、まことに以って此の世ながらの生地獄。哀れなりける姿なり。ここで大抵の宗教は、チャンと用意して御座る。トリックと言う重宝な、道具を出して信仰を、グラツカせぬよう巧い事、言ふて動きのとれぬやう。すれど悲しや人間の、智慧や眼玉じゃ判らない。それは大抵左の通り、あんたの家は先祖代々の、罪障がうんとあるほどに、これを除るには今一層、馬力を掛けて信仰を、しなけりゃならぬここいらで、フラフラすると危いぞ。一家滅びてしまう等と、目のクラみそうなオドし文句。

ガンと言はれて御当人。もはやこうなりゃ絶体絶命、天下国家を救ふといふ、大きな仕事をする以上、チョッピリ位ズルい事、するのは止むを得ないという、変な理窟をデッチあげ、手の届く丈金を借り、催促されても返さない。雨風しのぎ安全に、住んでいる家の家賃さえ、不払流の引延し、してみて御当人は大威張り。其の言ふ事が振ってる。家賃借金払はぬは踏み倒すんでは決して無い、皆神様が人の手を、借りてお金のある人に罪穢(めぐり)をとって下さるという。まことに深いお恵みと、平気で言って馬耳東風。すました顔しているので御座る。

中には善悪不二だとか、大乗だとか一寸聞くと、人民共の恐入りそう立派な御託宣。そうかと思うと朝から晩まで、近所隣の迷惑も、お構いなしにカチカチと、拍子木等を叩いたり、墓蛙の捻るような声を出し、お経や題目捻ったり、そうかと思ふと稲荷下しや、飯綱使ひや行者など、頼んで悪事や災難除け。

罪障消滅お願いし、汗水垂らして信心を、すれどさっぱり病貧争。どうした訳か無くならず、処がここでもトリックを、使われ信仰が未だ足らない。もっと信仰熱心に、しなけりゃ深い罪障は、とても消滅しないぞと、真向上段威嚇され、円太郎馬車のやせ馬が鞭に打たれて走るよう。信仰地獄に墜ちたまり、不知不識に何年も、何十年も続けるうち、あの世とやらへ順繰りに、旅立するとは可哀相。

親父の代は其通り。せがれの代になったとて、罪障消滅未だ出来ず、孫の代までまだ出来ず。一体此の先何十年、何百年間経ったなら、罪障消滅出来るのか、出来ないのかは判らない。燈も杖も無い人が、暗夜をうろつく如くにて、やっと生きてる情なさ。哀れ至極の次第なり。とはいふものの此の広い、世の中ぢゃもの何処かしらに、一軒位は罪障が、全く消滅してしまい、何年以来病貧争、絶えて無くなり日日に、楽しく嬉しく暮すといふ、噂くらいは有りそうな、筈じゃないかと阿呆めが、目玉を皿の如うにして、幾何方探しても、薬にするほども見当らず。何処も同じ秋の暮。

目下罪障消滅中の貼札してある家ばかり。何と不思議な世の中と呆れ返るにゃ及ばない。こういう様に間違った、娑婆ゆえ大慈の観音様が、救はにゃおけぬと天降り、先祖代々の罪障等、観音力で一拭ひ。きれいさっぱり大川で、尻を洗ったようにして、病貧争の全く無い、万民和楽の世の中に、成すって下さる有難さ。

ここ迄ダラダラ述べて来た、寝言のような阿呆めの、馬鹿話でも頭の良い、お方であったらピンと来て、はっと御眼が醒めませう。そういふお方は早速に、観音会へどしどしと、手をば繋いで御入会、なさいとお奨め申すので御座る。さすれば即身即仏の、御利益たちまち戴いて、娑婆即寂光浄土など、朝飯前の屁の河童。請合い申す次第で御座る。