キリストのいわれた最後の審判というのは、何か恐ろしいことが突如として起こり、それによって信仰なき者は亡び、信仰ある者は助かるというように、至極簡単に割り切っているが、そういうことはないとも言えるが、あるとも言えるのである。というとはなはだ不得要領であるが、これにはわけがある。それは今後の神様の活動によって、悔い改める人間が多くなれば、そのような極端な方法は必要がないからそれでいいが、そうでないとすれば止むを得ず徹底的に裁かれることになるのであるから、この結論は人間次第ということになる。
そのようなわけだから神様はできるだけ苦しまないで、穏かな方法によって改心を促されるので、ここに愛と慈悲の深さが窺われるのである。そうして今日までの人類が犯した罪積れの内、最大なものとしては何といっても医学の誤りである。したがってこのことを充分肚の底から分からせ、悔い改めさせることこそ救世上最も根本であるから、私は何よりもこのことに対して、最大級の努力を続けているのである。いつもいう通り人間の罪悪という罪悪は、霊肉ともに病気が原因であるから、病気を治すとともに再び冒されないような健康人間にすることで、これによってのみ人類社会から、まったく罪穫れを追放されるのである。
本教のモットーである病貧争絶無の世界というのもこのこと以外にはないのであるから、このことについては一層広範囲に詳しく書いてみよう。まず現在の世界は独り人間のみか、何から何まで病気に罹っている。すなわち家庭も社会も、国家も世界も同様で、ことごとく病体である。ヤレ第三次戦争が起こったら大変だといって心配するのも、その原因は世界的大浄化作用が起こるからで、その他社会不安、犯罪激増、不幸な人々が増、えるのも浄化作用であり、各国とも思想問題や経済難、ストライキ等何だかんだと緑でもないことの続出するのも、社会的浄化作用であり、家庭内のゴタゴタ、夫婦喧嘩なども個人的浄化作用である。というように浄化作用のないところは、地球上どこにもないと言っていいのである。したがって今日の世の中を浄化作用のない幸福な世界にするとしたら、まず人間一人一人の病気を治すことであって、この理が分かれば本教こそ世界を救う宗教、すなわち救世教という名もなるほどと思うであろう。
(「地上天国」四十二号昭和二十七年十一月二十五日)