信仰の合理性について、この間この欄に出したので分かったであろうが、なお最近それに関連した新しい質問が、某中教会長からあったので、それを書いてみよう。これは二年ほど前入信した信者のことで、入信の動機は主人の肺浸潤が治ったためであるが、本年二月二つになる自分の子供が肺炎になったので、某支部長に相談したところ、自分が治さしてもらうと言って、それから熱心に浄霊をしてくれたが、どうも果々しくゆかず、ついに危険に瀕したので、数日前私のところへご守護の電話がかかったのである。
ところがその時から大分よくなったが、まだ心配なので、今後どうしたらいいかを教えてもらいたいと、某中教会長に縋り、ともども子供を連れた母親が来たのである。そこで私が答えたのはこうだ。肺炎くらいの病気がそんなに長くかかるものではない。必ず間違った点があるからだ。その原因は二つある。一つの方も大いに間違っているが、これは個人的であるから秘しておくとして、いま一つの方はより重大であり、中教会長にも聞かしたいと思って、私は詳しく話をしてやった。それはその子供の父も母も一、二年前入信しているのだから、わが子の肺炎くらいは父か母が浄霊すればいいので、それで結構治るはずである。それを取り違え自分は碌々浄霊もせずして、支部長を煩わすのであるから理屈に外れている。また支部長も支部長で、たびたび浄霊に赴いたというのであるから、どちらも全然間違っている。本来支部長たるものの役目は、未信者の開拓にあるので、すでに信者となっている人は、神様から治病のお許しを得ている以上、家族の病気などは自分で浄霊すべきである。それを支部長の厄介になるとしたら、支部長の活動をお邪魔をするわけである。また支部長はこの意味を教えるべきはずなのに、それに気がつかないとはよほど惚けているとしか思えない。しかし特別の場合神様にお許しを願って、少しくらいなら浄霊してもいいが、それ以上はいけない。
つまり何事も理屈に合っていないから、お蔭を頂けないのであるから、中教会長、支部長、教師、役員などそれぞれ自己の階級、職責等をよく弁え、不合理に亘らぬよう注意すべきである。これについても平常努めて御神書を拝読し、智慧証覚を磨いておれば、いかなる場合でも気がつくものである。
これについても大乗と小乗との区別を忘れてはならない。一切は御神業発展を第一とし、私事は第二第三にすべきで、そうすれば何事も順調にゆくのである。つまり全体的利害を考え、合理的にすればなにほどでもお蔭は頂けるもので、少しでも御神業にお邪魔になるとしたら、思うようにゆかないのは当然である。なにしろ全人類を救うというドエライ仕事で、しかも神様は非常にお急ぎになっておられるから、そのところをよく考えるべきである。