新人たれ


   人は常に進歩向上を心掛けねばならない。特に信仰者にして然りである。 ところが世間宗教や信仰などを口にすると、どうも古臭く思われたり、旧 人扱いされたりする。なるほど在来の宗教信者は、そういう傾きがあるの は否めないが、本教信者に限っては全然反対である。否反対たるべく心掛 けねばならない。

   まず何よりも大自然を見るがいい。大自然においては一瞬の休みもなく、 新しく新しくと不断の進歩向上を続けている。見よ人間の数は年々増える。 地球上の土地も年々開発される。交通機関も、建造物も機械も、一つとし て退嬰するものはない。草も木も天に向かって伸びつつある。一本と雖も下 を向いているものはない。このように森羅万象悉く進歩向上しるるある実 体をみて、人間と雖もそれに習うべきが真理である。

   この意味において、私を雖も去年より今年、今月より来月というように、 あくまで進歩向上、心の弛まないよう努めている。といってもただ物質的の 事業や職業や地位が向上するというそれだけでは、根底のない浮遊的のも のである。根無し草である。どうしても魂の進歩向上でなくてはならない。 要するに人格の向上である。この心掛けを持って一歩ずつ気長に、自己を 積み上げてゆくのである。無論焦ってはならない。ほんの僅かずつでもい い。長い歳月によれば必ず立派な人間になる。否そのように実行せんとす る心掛け、それだけでもう既に立派な人間になっている。そのようにすれ ば、世間からは信用を受け万事うまくゆき幸福者となる事は請け合いであ る。

   こういう言い方をすると、現代青年などは何だか旧道徳論を聞くようで、 陳腐に思うかも知れないが、実は陳腐どころではない。これができれば本 当の新人である。このような点を基準として私は多くの人を見ると、古臭 く見えて仕方がない。なんら進歩がなく、相変わらずの考え方や話で、ど こにも代わり映えが見出せない。だからこういう人に会っても少しの興味 も湧かない。話し合ってみても世間話以外何ものもない。宗教も政治も哲 学も、芸術などの匂いすらない。世間の大部分はこういう人が殆どであ るが、それも敢えて咎める気はないが、少なくとも神慈秀明会の信者だけ は、そういう旧人型は感心しないし、またそういう人は余りないようだ。 本教は知らるる如く、世界の転換期に際し、全人類救いのために、誤れる 文化に目覚めさせ、理想的新世界を造るにある以上、あくまで新人たる事 を心掛けねばならない。私がいつも言う二十一世紀的文化人にならなくて はいけないというのはその意味である。

昭和25年(1950年)10月11日
「栄光」73号     『岡田茂吉全集』著述篇第八巻 p.621
『聖教書』 p.413


註:原文では、「救世教」

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