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神示の健康法


    

健康の真理



   抑々、健康を説くに当たって第一に心得るべき事は、健康の真諦は自然 順応であり、自然尊重である事である。それについてまず考うべき事は、 造物主即ち神が人間を造られた御目的は何であるかという事である。我ら の解釈によれば、それは真善美の完き世界を造る事である。といってもこ んな途方もない説は容易に受け入れ難いであろう。勿論、そのような理想 世界は何万何十万何百万年かかるかは分らない。としても世界はそれに向 かって一歩々々進歩向上しつつある厳然たる過去の事実を見れば否定もで き得ないであろう。そうして神は霊で人間は体であり、両々相俟って無限 の進歩を遂げつつあるのが実装で、その担当者として、人間があるのはい うまでもない。

   以上の如くであるから人間の責任たるや実に大なりというべきであると 共に、この大事業を遂行する何よりの条件としては、人間の健康である。 この意味において神は人間にはそれぞれの使命を与え、任務を遂行するに 足るだけの健康を与えられているのは当然である。何となればもし健康を 損うとしたら、神の御目的は達せられないからである。まずこの道理を基 本として深く考えるとしたら、健康こそ人間の本来であり、状態であらね ばならない。然るに不思議にも人間は病気に犯され易い。即ち異常体とな るのである。とすればこの事の根本が明らかに分り異常体を正常体に復活 せしむる事こそ神の御目的に添う事になるのである。

   右の意味によって、人体の異常化を検討する時、何を発見するか。それ は何よりも自然に反するためという事である。故にこの反自然の実態を把 握し訂正し、状態に復元する事こそ真の医学であって、その復元の可能で ある事こそ、正しい医学のあり方である。従って反自然とは如何なるもの であるかを以下詳説してみよう。

   人間がこの土に生まれるや、最初は人乳または獣乳を飲む、これは歯が まだ生えず、消化機能もできたての脆弱性であるからで、漸次、歯も生え 揃い、体内機能も一人前になるに従って、それに適応すべき食物をとる事 になる。また食物もあらゆる種類があり、それぞれ特有の味わいを含んで おり、人体の方にも味覚を与えられ、楽しんで食するようになっている。 その他空気も火も水も、人間の健康に必要な程度に存在しているというよ うに、実に完全にできている。人体と雖も頭脳から理性も記憶も感情も生 まれ、手によって物は造られ、足によって人体を自由に移動せしめ、毛髪 も皮膚も爪も目、鼻、口、耳等必要なものは、実によく備わっている。加 うるに顔貌から全身まで皮膚によって包まれ、それぞれの美を発揮してい る。ざっとみただけでも、以上の如くで子細に検討する時、言葉では言い 表わせない造化の妙技である。一輪の花、一枚の葉、山水の美、鳥獣虫魚 の末に至るまで、神技の素晴しさに感歎せざるを得ないのであるが、特に 人間に至っては全く造物主の傑作である。特に種の保存としての生殖作用 の至妙に至っては言語に絶するものがある。このような神の大傑作である 人体である以上、病という人間活動を阻止するような異変は、如何に反自 然的過ちを犯しているかを考えるできである。人間たるもの、この事に最 も反省しなければならないのである。

昭和25年(1950年)4月20日
「自観叢書第十篇 神示の健康法」     『岡田茂吉全集』著述篇第八巻 p.73
『聖教書』 p.419


    

人間は健康の器



   よく昔から人は病の器などと言うが、これほど間違った話はない。我らは これを訂正して人は健康の器なりと言うのである。前項に述べた如く元々 人間は健康に造られたものであるからである。ところが実は病なるものは 人間に付きもので、どうしても解決できないのが現実で、やむを得ず宿命 として諦めてしまったのである。勿論人間一度病に罹るやなかなか簡単に は治らない。長くかかったり頻繁に病気に罹ったり人によっては健康時よ りも罹病時の方が多い事さえある。それがため病の器としか思えないので そのような状態が長く続く事によって病の器などという言葉ができたので あろう、というのは病気の本体が不明であったからで、病気も死の運命も免 れ得ないとされてきたのは無理からぬ事であった。かの釈尊の言われた生 老病死の苦もそのためである。また今日予防医学という事を言われるが、 これらも一度病に犯されるや容易に治し得ないからの窮余の産物としか思 えない。何となればもし医学が治病能力が絶対であるとしたら、予防医学 など考え得られないからである。ここで再び本論へ戻るが、前述の如く病 原である反自然とは如何なる点であるかを説明してみるが、まず人間罹病 するや唯一の方法として薬剤を用いるがこれが抑々の誤謬である。薬剤と は東洋においては草根木皮、西洋においては鉱物植物等から抽出されるも ので、これが根本的反自然である。考えても見るがいい。右の如き薬剤の 性質は必ず苦味、臭味、酸味等、例外なく人間に嫌忌される味をもってい る。昔から「薬の後の口直し」という事がよく物語っている。これらの飲 み難いのは何故であろうかを考えるべきで、神は有毒であるから飲んでは 不可である事を示されているのである。かの苦痛緩和用の麻酔剤としての 阿片は芥子の花から採るのである。元来芥子の花とは神が人間の目を楽し ませる目的で造られたもので、決して人間が飲むべく造られたものではない。 また近時流行薬の一つとして用いられるペニシリンにしても、もとはカビと いう事であるが、これらも人間が口へ入れるものとして造られたものでは ない。この理によってあらゆる飲食物は人間の嗜好に適するように造られ ている以上それを食えばいいので、それが自然である。よく何が栄養にな るとかならないとか言うような事などは勿論誤りである。食物はすべてそ の土地の気候風土によって幾分の差異はあるが、それがその土地に生まれ た人間に適すべく生産されているのである。黄色人が米を食い、白色人が 麦を食うのもそうであり、日本が島国であるという事は魚食を多くせよと いう事で、大陸人は肉食である事もそれでいいのである。この理によって 農民の菜食も自然に適っている。二六時中休みなく労働に堪え得るという 事は、菜食が適しているからである。その理を知らない栄養学は、近来農 民に魚肉を食わせようとするが、これを行なえば農民の労働力は減少する のである。それに引き替え漁民は魚食のがめ持続的労働はできない。間歇 的に労働する。また魚食は敏感性を高めるので漁業に適するので自然は実 によくできている。

昭和25年(1950年)4月20日
「自観叢書第十篇 神示の健康法」     『岡田茂吉全集』著述篇第八巻 p.76
『聖教書』 p.422


    

身体をこわす



   よく世の中で、身体をこわすという事をいわれるが、これほど滑稽な話 はない。人間の肉体はガラスや瀬戸物のような物質ではない。これは全く その真相を知らないからで、実は病気とは身体をこわすどころか、身体を 調えるためのものである。よく下痢をすると、お腹をこわしたからという が、実は健康に有害な毒素が排泄されるので甚だ結構な事である。

昭和24年(1949年)7月30日
「光」20号     『岡田茂吉全集』著述篇第七巻 p.303
昭和25年(1950年)4月20日
「自観叢書第十篇 神示の健康法」     『岡田茂吉全集』著述篇第八巻 p.110
『聖教書』 p.425


    

病気とは何ぞや



   本来人間なるものは、生まれながらにして例外なく先天性毒素と、後天 性毒素とを保有している。先天性毒素とは無論親からの遺伝であり、後天 性毒素とは生まれてから体内へ入れた薬毒である。というと何人も意外に 思うであろう。何となれば昔から薬は病気を治すもの、健康を補うものと の観念が常識となっていて、良い薬さえできれば病気は解決するものと信 じ、それを医療の主眼としているからである。特にアメリカは薬に最も重 点を置き、新薬発見に非常な努力を払っているのは誰も知る通りである。 故にもし薬で病気が治るとしたら、病気は漸次減らなければならないはず であるのに、逆にますます増えるのはどうしたわけか、これほど理屈に合 わない話はあるまい。

   元来薬というものは、地球上ただの一つもないのであって、悉く毒物で あり、毒だから効くのである。それはどういう意味かというと、薬という 毒の作用によって病気症状が減るから治るように見えるので、実は治るの ではないのである。

   では薬がなぜ毒物であるかというと、抑々人間が口へ入れるものとして は、造物主が人間を造ると同時に生を営むべく用意されたのが食物である。 そうして食物にも人間が食うべきものと、食うべからざるものとは自ら分 けられている。即ち食うべきものには味を含ませ、人間には味覚を与えら れているのであるから、人間は食いたいものを楽しんで食えば、それで栄 養は充分取れるので、これだけを考えても造物主の周到なる事が分るは ずである。この意味において生きんがために食物をとるというよりも、食 物をとる事によって生きてゆけるので、ちょうど生殖と同様、子を得る目 的で男女が営むのではなく、別の目的の営みで偶然子は授かるのであるか ら、神秘極まるものである。

   右の如く人間の体内機能は、食物として定められた物以外の異物は、完 全には処理できないようになっているので、薬は異物である以上、含まれて いる栄養分だけは吸収されるが他は体内に残ってしまう。これが薬毒であ って、しかも厄介な事にはこれが各局部に集溜し、時の経つにつれて固結 してしまう。その集溜個所としては神経を使う所に限られている。神経を 使う所といえば、勿論上半身特に首から上で、頭脳を中心とし目、耳、鼻、 口等であるから、そこをめがけて毒素は集中せんとし、一旦首の回りに固 結する。如何なる人でも首の回り、肩の辺に必ず固結をみるであろう。こ れが凝りであって、ある程度に達するや自然排泄作用即ち浄化作用が発生 する。その場合発熱によって毒結は溶けて液体となり、咳、痰、鼻汁、汗、 下痢、熱、尿等になって排除されようとする。これを名付けて感冒という のである。

   故に感冒とは毒素排除の過程であるから、少し苦しいが我慢して自然に 委せておけば順調に排泄され、体内は清浄化し、治るという実に結構なも のであるから、感冒とは全く簡易な生理作用で、神の摂理であるから、大 いに感謝すべきであるに拘らず、それを知らない人間は、この浄化の苦痛 を却って悪い意味に解釈し、これを止めるべく考え出したものが医療であ るから、如何に間違っているかが分るであろう。そうしてこの浄化作用な るものは、人体の活力が旺盛であればあるほど起こり易いので、これを止 めるには人体の活力を弱らせるに限る。そこで薬と称する毒を用いたので ある。昔から草根木皮、鉱物、動物の臓器等から取り出し、煎じたり、粉 末にしたり、抽出したりして水薬、丸薬、塗布薬、注射薬等色々な形にし て、浄化停止に応用したのである。それには毒が強いと生命に関わるから、 微弱にして少しずつ飲ませる。このため一日何回などと分量を決めたので、 よく効く薬とは中毒を起こさない程度に毒を強めたものである。

   このように薬毒をもって溶解排除せんとする毒素を固めてきたので、今 日の人間が如何に有毒者であり病気が起こり易くなっているかは、近来予 防衛生などと喧しく言ったり、感冒を恐れるのもそのためである。また人 間の寿命にしても七十余歳となったといって喜んでいるが、これも大変な 誤りである。というのは人間病さえなければ百歳以上は楽に生きられるの に、百歳以下で死ぬのは病による不自然死のためで、無病となれば自然死 となる以上、長生きするのは当然である。右の如く医療とは病を治すもの ではなく、一時的苦痛緩和手段で、そのための絶対安静、湿布、塗布薬、 氷冷、電気、光線療法等々、すべての療法は固め手段ならざるはないので ある。その中で一、二違うのは灸点と温熱方法であるが、これも一時的熱 の刺戟によって、その個所へ毒素を誘導させるので楽にはなるが、時間が 経てば元通りになるから何にもならないし、またラジウム放射で癌を破壊 する方法もあるが、これも癌だけの破壊なら結構だが、実は組織をも破壊 してしまうから、差し引きプラスよりマイナスの方が多いわけである。 また衛生に注意する者ほど弱く、無頓着の者ほど健康である事や、医師 の家族や病院の看護婦などが多病であるのもよく聞くところである。面白 い事には稀な健康者、長寿者に聞いてみると、「自分は病気した事がない から、医者や薬の厄介になった事はない」などと言うが、我々からみれば それだから健康であり、健康だからそうであるので、この点大いに味わう べきである。

昭和28年(1953年)1月1日
「アメリカを救う」     『岡田茂吉全集』著述篇第十一巻 p.10
『聖教書』 p.425


    

栄養の喜劇



   栄養の喜劇とは、随分変な題と思うであろう。私もこんな言葉を用いた くはないが、外に適当な言葉を見出せないから読者は諒とされたいのであ る。

   抑々今日一般に何の疑いもなく信ぜられ実行されつつある栄養学なるも のは、全然誤謬以外の何ものでもない。この誤れる栄養学が有害無益の存 在であるに拘らず、最も進歩せる文化の一面と信じ盛んに世に行なわれて いるのであるから、それに要する労力や費用の尨大なる事は、実に惜しみ ても余りあると言うべきである。私がこのような大胆不敵にして狂人とも 見られそうな理論を発表するというのは、今日の現状に対しというて黙止す る事はできないからで、以下できるだけ詳細に書いてみよう。

   今日栄養剤としてまず王座を占めてるビタミンA、B、Cを初めアミノ 酸、グリコーゲン、含水炭素、脂肪、蛋白等を主なるものとして多種多様な ものがあり、ビタミンの種類が年々増加しつつあるのは衆知の通りである が、これらを服用または注射によって体内に入れるや一時的効果はあるが 持続性はない。結局は逆効果となるから栄養剤を飲めば飲むほど人体は弱 体化するのである。これは如何なるわけかというと、抑々人間が食物を摂 取するという事は、人間の生命を保持し生活力を発揮させるためである事 はいまさら説明の要はないが、この点の解釈が今日の学理は実際と食い違 っている。

   まず人間が食物をとるとする。歯で噛み食道を通じて胃中に入り、次い で腸に下り不要分は糞尿となって排泄され、必要分のみを吸収するのであ る。この過程を経る迄に肝臓、胆嚢、腎臓、膵臓等あらゆる栄養機能の活 動によって血液も筋肉も骨も皮膚も毛髪も歯牙も爪等一切の機能に必要な 栄養素を生産、抽出、分布し端倪すべからざる活動によって生活の営みが 行なわれるので、実に神秘幽幻なる造化の妙はとうてい筆舌には表わせな いのであって、これがありのままの自然の姿である。

   右の如く、人間が生を営むために要する栄養素はあらゆる食物に含まれ ており、食物の種類が千差万別であるのもそれぞれ必要な栄養資料となる からであると共に、人により時により嗜好や量が異なったり、また種類が同 一でないのは受け入れる体内の必要によるからである。例えば腹が減れば 物を食い、咽喉が渇けば水を飲み、甘いものを欲する時は糖分が不足して いるからで、辛いものを欲する時は塩分不足のためである。というわけで 人間自然の要求がよくその理を語っている。何よりも人間が欲する場合必 ずうまいという事である。故に薬と称して飲みたくもないまずい物を我慢 して食う事の如何に間違っているかが分るのである。昔から「良薬は口に にがし」などという事の如何に誤りであるかで、にがいという事は毒だか ら口へ入れてはいけないと造物主が示しているのである。この理によって 美味であるほど栄養満点であって、美味であるのは食物の霊気が濃厚で栄 養分が多いわけである。新鮮なるほど魚も野菜も美味という事は霊気が濃い からで、時間が経つに従い味が減るのは霊気が発散するからである。

   ここで栄養剤について説明するが、抑々体内の栄養機能は如何なる食物 からでも必要な栄養素即ちビタミンでも何でも自由自在にちょうど必要量 だけ生産されるのである。つまりビタミンの全然ない食物からでも栄養機 能の不思議な力は所要量だけのビタミンを生産するのである。このように 食物中から栄養素を生産するその活動の過程こそ人間の生活力である。早 く言えば、未完成物質を完成させるその過程の活動が生活に外ならないの である。

   この理に由って、栄養剤をとるとすれば、栄養剤は完成したものである から体内の栄養生産機能は、活動の必要がないから自然退化する。栄養機 能が退化する以上、連帯責任である他の機能も退化するのは当然で、身体 は漸次弱化するのである。これについて二、三の例を挙げてみよう。

   以前アメリカで流行されたフレッチャーズム喫食法という食事法があっ た。これはできるだけよく噛み、食物のねっとりするほど良いとされてい る。これを私は一ヵ月間厳重に実行したのである。ところが漸次体力が弱 り、力が思うように出なくなったので驚いてやめ、平常通りにしたところ、 体力も回復したのであった。そこでよく噛むという事が、如何に間違って いるかを知ったのである。それは如何なるわけかというと、歯の方でよく 咀嚼するから、胃の活動の余地がないから胃は弱るというわけであるから、 すべて食物が半噛みぐらいがよい事を知ったのである。昔から早飯早糞の 人は健康だと言われるが、この点現代文化人よりも昔の人の方が進歩して いたわけである。

   また消化薬を飲むと胃の活動が鈍るから胃は弱化する。従ってまた飲む。 また弱化するというわけで胃病の原因は胃薬服用にあることは間違いない 事実である。慢性胃腸病患者が消化の良いものを食べつつ治らなかった際、 たまたま香の物で茶漬など食い治ったという例はよく聞くところである。

   また他の例としてこういう事がある。乳の足りない母親にむかって牛乳 を奨めるが、これもおかしい。人間は子を産めば育つだけの乳は必ず出る に決まっている。足りないという事は、どこかに間違った点があるからで、 その点を発見し是正すればいいのである。ところがそれに気が付かないの か、気が付いてもどうする事もできないのか、口から乳首まで筒抜けにな っているように思っているとしか思えない。これがとんでもない間違いで、 牛乳を飲むと却って乳の出が悪くなる。また病人が栄養として動物の生き 血を飲む事があるが、実に呆れたものである。なるほど一時は多少の効果 はあるかも知れないが、実は体内の血液生産機能を弱らせる。その結果却 って貧血するようになる。考えてもみるがいい、人間は、白い米やパンを 食い、青い菜や黄色い豆を食って、赤い血ができるにみて、何と素晴しい 生産技術者ではないか。血液の一滴もないものを食っても、血液ができる としたら、そこに気が付かない栄養学の蒙昧は、何と評していいか言葉は ない。かの牛でさて、藁を食って、結構な牛乳ができるではないか。況ん や人間においておやである。これらによってみても、栄養学の誤謬発生の 原因は、全く自然を無視したところに原因するのである。

   そうして、人間になくてならない栄養は、植物に多く含まれている。何 よりも菜食主義者は例外なく健康で長生きである。かの粗食の禅僧などに は長寿者が最も多い事実や、先日九十四歳で物故したイギリスのバーナード ・ショウ翁の如きは、有名な菜食主義者である。以前私は日本アルプスの槍 が岳へ登山した折の事、案内人夫の弁当を見て驚いた。それは飯ばかりで 菜がない。聞いてみると非常に美味いと言う。私が罐詰をやろうとしたら、 彼は断ってどうしても受けなかった。それでいて十貫以上の荷物を背負い、 十里くらいの山道を毎日登り下りするのであるから驚くべきである。これ は古い話だが、かの有名な儒者新井白石は、豆腐屋の二階に厄介になり、 二年間豆腐殻ばかりを食って勉強したという事である。また私は、結核を 治すべく三ヶ月間、絶対菜食で鰹節さえ使わず、薬も止めてしまったが、 それで完全に治ったのである。このようなわけで私はいずれ大いに若返り 法を行なおうと思っている。それはどうするかというと、菜食を主とした できるだけの粗食にする事である。粗食は何故いいかと言うと、栄養が乏 しいため、消化機能は栄養を造るべく大いに活動しなければならない。そ れがため消化機能は活発となり、若返りとなるからである。

昭和25年(1950年)4月20日
「自観叢書第十篇 神示の健康法」     『岡田茂吉全集』著述篇第八巻 p.84
『聖教書』 p.430


    

日本人と精神病



   今の世の中で、人々は口を開けば思想の悪化、犯罪の増加、政治の貧困 等々を言うが、これについて私は、その原因が精神病と密接な関連のある 事で、今それを書いてみよう。

   まず精神病なるものの真因は何であるかというと、これがまた破天荒と もいうべき何人も夢想だもしない事である。勿論真理そのものであるから、 真の精神病者でない限り何人も納得のゆくはずである。そうして精神病の 真因は肉体的と憑霊現象とである、というと唯物主義教育を受けてきた現 代人にはちょっと分り難いかも知れない。何しろ目に見えざるものは信ず べからずという教育をさんざ叩き込まれてきた以上、そう簡単には分り ようはずのない事は我らも充分承知の上である。といっても真実はいくら 否定しても真実である。目に見えないから無というなら、空気も無であり、 人間の心も無という事になろう。

   霊が有るからある。憑霊現象も有るからある――という真実を前提とし なければこの論は書けない。

   故に霊の実在をあくまで否定する人は、この文を読まない方がいい。そ ういう人は我々を目して迷信者と見ると同様、我々からみればそういう人 こそ気の毒な迷信者というのである。さていよいよ本文にとりかかるが、 まず精神病者は憑霊現象であるとすれば、何故であるかというと、世間よ く首が凝る肩が凝るという人は余りに多い事実である。恐らく日本人全部 といってもいいほどであろう。私の長い間の経験によれば、如何なる人で も必ず首、肩に凝りがある。稀には無いという人もあるが、それらは凝り はありながらあまり凝り過ぎていて、その苦痛に鈍感になっているためで ある。右の如き凝りが精神病の真原因といったら、その意外にびっくりす るであろうが、順次説明するに従ってなるほどと頷くであろう。

   首、肩の凝りは頭脳に送血する血管を圧迫するので、それがため前頭部 内に貧血を起こす。ところがこれが問題である。というのは頭脳内の貧血 は貧血だけではない。実は血液なる物は霊の物質化したものであるから、 貧血は頭脳を充実している霊細胞の貧血ではない、貧霊となる事である。 この貧霊こそ精神病の原因であって、憑霊は霊の希薄を狙って憑依する。 その霊とは何であるかというと大部分は狐霊で、次は狸霊、稀には犬猫の 如き霊もある。勿論何れも死霊で、また人霊と動物霊との共同憑依もある。

   ここで人間の想念を解剖してみると、まず理性と感情とそれを行為化す る意欲である。その理由としては、前脳内の機能は理性を掌り、後脳内の それは感情原となる。この証左として白色人種は前頭部が広く発達してい るのは理性の豊富を示し、反対に黄色人種は前頭部が狭く後頭部が発達し ているのは、感情の豊富を示しているにみて明らかである。白人が知的で あり、黄人が情的であるのは誰も知るところである。故に人間は常に理性 と感情とが相克しており、理性が勝てば失敗はないが、そのかわり冷酷と なり、感情が勝てば本能のままとなるから危険を生ずる。要は両様相調和 し、片寄らない事が肝心であるに拘らず、人間はどうも片寄りたがる。そ うして理性にしろ感情にしろ、それを行為に現わす場合、大小に拘らず意 欲が要る。その意欲の根源こそ、腹部中央臍部内にある機能である。所謂 行いの発生源であって、右の三者の合作が想念の三位一体である。

   ところが前頭内の貧霊は、不眠症を起こす。不眠の原因の殆どは、後頭 部右側延髄付近の固結であり、それが血管を圧迫するからである。不眠は 貧霊に拍車をかけるから、得たりかしこしと狐霊は憑依する。前頭内は人 体の中枢であるため、その部を占有する事によって人間を自由自在に操り 得るのである。狐霊はこの人間を自由にする事に興味を持ち、然もそれに よって狐霊仲間で巾を利く事になるので、とうてい人間の想像もつかない わけである。この狐霊については私の実験を基して近く詳細に書くつもり だから読者は期待されたいのである。

   以上の如く、人間の本能である感情を常に制約し、過ちなからしめんとす る活力こそ理性の本能で、人間がともかく普通生活を営みつつあるのは、 理性という法律によって本能を抑え生活秩序が保たれているからである。 従ってこの法律の力を失うとすれば感情は自由奔放脱線状態となる。それ が精神病である。

   右の如く法律が前頭内に光っているのを知っている憑霊は、そこを目が けて憑依しある部分を占有する。勿論霊が充実しておれば憑依する可能性 はないが、希薄といっても厚薄の差別があり、その差別に憑霊の活動力が 相応する。例えば、前頭部の霊の充実が十とすれば憑霊する事は全然でき ない、九となれば一だけ憑依できる。二となり三となり四となり五となり 六となった場合、憑霊は六の力を発揮し得る。即ち、四の理性の力では六の 感情の力は抑圧不可能となるから、憑霊は自由に人間を支配し得るのであ る。

   最初に述べた如く、凝りのため血管が圧迫され貧霊する。その割合だけ 憑霊が活動し得る事は前述の通りである。ところが現代人に凝りのないも のはないから、霊の充実が十ある人など一人もないと言っていい。社会で 尊敬されるような人でも、二乃至三ぐらいの欠陥はある。あんな偉い人が あんな間違いをするとか、あのぐらいの事が分らないとか、どうして失敗 したのか等といわれるのは右の二、三の欠陥あるためである。しかしなが らこの欠陥は一定不変ではない。常に動揺している。非常に立派な行為を する時は二ぐらいの欠陥の時であるが、何らかの動機にふれて邪念が起こ り罪を犯す場合は四ぐらいかそれ以上の状態になった時である。これは世 間によくある事だか、たいていは罪を犯してから後悔するが、その時は二 ぐらいに返った時である。よく魔がさすというのはこの事をいうのである。

   ところが一般人はまず平常三乃至四ぐらいであって動機次第ではいつ何 時五の線を突破するか分らない。この場合思いもよらぬ罪悪を犯すのであ る。この例としてヒステリーであるが、この原因は殆ど狐霊で、この狐霊 が前頭内に蟠踞し五の線を突破するが、あるいは嫉妬、怒りのため五の線 が先へ破れる場合である。そうなると心にもない滅茶苦茶な事を言い、狂 態を演ずるが長くは続かない。というのは五の線が再びそれ以下に保たれ るからである。従って人間は三の線を確保すべきで、四ぐらいの線では危 いのである。今日犯罪者が多いというのは右の理を知ればよく分るであろ う。憑霊とは勿論獣霊である以上、五の線を突破すれば形は人間でも心は 獣類となんら異ならない事になる。この点人間と獣類の差別の著しい事は、 人間には愛があるが、獣類によっては親子夫婦の愛はあるが、隣人愛は殆 どない。却って鳥類虫類にはよくある。しかしたいていの獣類は夫婦親子 の愛すらないので、人間が獣性を発揮するや、とうてい考えられないほど の残虐性を現わすのである。

   以上述べた如く、十の霊保持者がないとすれば、それ以外は憑霊に多少 なりとも左右されるわけで、それだけ精神病者といえるわけである。忌憚 なく言えば日本人全部が多少の精神病者であるといっても過言ではない。

   これについて私の経験を書いてみるが、私は毎日数人乃至数十人の人に 会い種々の談話を交換するが、些かも破綻のない人は一人もないと言って いい。如何なる人と雖もいくらかは必ず変なところがある。世間から重くみ られている人でも、普通では気の付かないくらいの欠陥はあるにみて、軽 度の精神病者はまず全般的といってもよかろう。

   今一つは言語ばかりではない、行為の点も同様である。勿論行住坐臥誰 でも出鱈目ならぬは殆どない。道法礼節など全然関心をもたない。たいて いの人は部屋へはいりお辞儀をする場合でも殆ど的外れである。壁へ向か ってするもの、障子へ向かうもの、庭へ向かうもの等、実に千差万別であ る。また馬鹿丁寧な人があるかと思えば簡単すぎる人もあり、これら悉く は軽度な精神病者であろう。

   最後に当たって根本的解決法を書いてみるが、勿論本教浄霊であって、 これ以外世界広しと雖もないことをここに断言する。

昭和24年(1949年)9月25日
「地上天国」8号     『岡田茂吉全集』著述篇第七巻 p.406
昭和25年(1950年)4月20日
「自観叢書第十篇 神示の健康法」     『岡田茂吉全集』著述篇第八巻 p.99
『聖教書』 p.437


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