無神論について


   普通無神論を書く場合、宗教的に論理を進めてゆくのが当たり前のように なっているが、私は全然宗教には触れないで、自分自身無神論者の立場に 置き、書いてみようと思うのである。それはまず人間オギャーと生まれる や、早速育つに必要な乳という結構な液体が、然も産んだ親の身体から滾 滾と湧き出てくる。それによって子は順調に育ってゆき、歯が生える頃に なると噛んで食う食物も親は運んでくれる。というようにしてだんだん育 って、遂に一人前の人間となるのはいまさら言うまでもないが、中でも最も 肝心な食物についていえば、食物にはそれぞれの味が含まれ、舌には味覚神 経があり、人間楽しみながら食う事によって充分カロリーは摂れるのであ る。しかし何といっても人間の楽しみの中での王者はまず食事であろう。 そんなわけで肉体は漸次発育すると共に、学校教育等によって頭脳は発達 し、かくして一人前の人間としての働きができるようになる。そうなると 色々な欲望が出てくる。知恵、優越感、競争欲、進歩性等から、享楽、恋 愛等の体的面までも頭を持ち上げてくる。というように理性と感情が交錯 し、苦楽交々至るという一個の高級生物としての条件が備わり、社会を泳 ぐ事になる。以上人間が生まれてから成人までの経路をさっと書いてみた のであるが、次は大自然を眺めてみよう。

   言うまでもなく天と地との間には、日月星晨、気候の寒暖、雨風等々有 形無形の天然現象から、直接人間に関係ある動物、植物、鉱物等々あらゆ るものは大自然の力によって生成化育されている。これがあるがままの世 界の姿であって、これら一切を白紙になって冷静に客観するとしたら、無 神経者でない限りただただ不思議の感に打たれ、言うべき言葉を知らない のである。実に何から何まで深遠絶妙の一語につきる。としたらこんな素 晴しいこの世界なるものは、いったい誰が、何がため、何の意図によって 造られたものであろうかという事で、何人もこれを考えざるを得ないであ ろう。そうして天を仰げば悠久無限にして、その広さは、何処まで続いて いるか分らない。また大地の中心はどうなっているのであろうか、太陽熱 の最高は、月球の冷度は、星の数は、地球の重さは、海水の量は等々、数 え上げれば限りがない。考えれば考えるほど神秘霊妙言語に絶する。然も 規則正しい天体の運行、昼夜の区別、四季の変化、一年三百六十五日の数 字、万有の進化、止まるところを知らない文明の進歩、発展等々は勿論、 全体この世界は何時できたのか、いつまで続くのか、永遠無窮かそうでな いのか、世界の人口増加の限度、地球の未来等々、何もかも不可解で見当 はつかない。

   以上の如くにして一切は黙々として一定の基準の下に一ミリの豪差なく、 一瞬の遅滞もなく流転している。しかしそれはそれとして、いったい自分 という者は何がために生まれ何をなすべきであろうか、いつまで生きられ るのか、死んだら無になるのか、それとも霊界なる未知な世界があってそ こへ安住するのか等々、これらも考えれば考えるほど分らなくなり、どれ 一つとして分るものはない。仏者のいう実にして空、空にして実であり、 天地茫漠、無限無窮の存在であって、これより外に形容の言葉を見出せな いのである。これをあばこうとして人間は何千年も前から、あらゆる手段、 特に学問を作り探究に専念しているが、今日までにほんの一部しか分らな いほどで、依然たる謎である。としたら大自然に対する人間の知恵などは 九牛の一毛にも当たるまい。これも仏者の所謂空々寂々である。ところが 人間という奴自惚れも甚しく、自然を征服するなどとほざいているが、全 く身のほど知らずの戯者以外の何ものでもあるまい。故に人間は何よりも 人間自体を知り、大自然に追随し、その恩恵に浴する事こそ最も賢明な考 え方である。

   ところで以上の如き分らないずくめの世の中に対し、たった一つはっき りしていることがある。それは何であるかというと、これほど素晴しい世 界はいったい誰が造り自由自在思うがままに駆使しているのかという事で ある。そこでこの誰かを想像してみると、まず一家庭なら主人、一国家な ら帝王、大統領といったように、この大世界にも主人公がなくてはならな いはずであり、この主人公こそ右の誰である神の名で呼ばれているXでな くて何であろう。というより外に結論が出ないではないか。

   以上の意味において、もし神がないとしたら万有もない事になり、無神 論者自身もないわけである。恐らくこれほど分り切った話はあるまい。こ れが分らないとしたら、その人間は動物でしかない事になろう。何となれ ば動物には意思想念も知性もないからであって、人間の形をした動物とい うより言葉はあるまい。それには立派な証拠がある。即ち無神思想から生 まれる犯罪者であって、彼らの心理行為の殆どは動物的であるにみてよ く分るであろう。従ってこの動物的人間からその動物性を抜き、真の人間 に進化させるのが私の使命であり、その基本条件が無神思想の打破である から、一言して言えば人間改造事業である。

昭和29年(1954年)1月6日
「栄光」     『聖教書』 p.51


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