大乗と小乗
昔から大乗小乗の言葉がある。勿論これは仏語であって、仏教において
も相当詳しく説かれているが、これについて私見を書いてみよう。
まず一口に言えば小乗は経で、大乗は緯である。また小乗は感情であり、
大乗は理性である。小乗は善悪を差別し、戒律的であるから一般からは善
に見られ易いが、大乗は善悪無差別で、自由主義的であるから善に見られ
難いのである。これを分り易くするため二、三の例を挙げてみよう。
ここに一人の盗人がいる。それを改心させようとする場合小乗的やり方
でゆくと悪事をたしなめるべく説得するのであるが、大乗においては、自
分も一旦盗人の仲間へはいり、機を見て、「悪い事をすると大して儲かり
もせず年中不安に怯えておってつまらないではないか」というように話し、
悪を止めさせ善道へ導くのである。また親に従う事をもって孝の基とされ
ているが、偶白分は目的を立て、それを遂行せんとする場合、親の許を離
れなければならないが、親は不賛成を言う。止むなく一旦親に叛いて家出
をし、目的に向かって努力し成功してから、親の許に帰れば親もその光栄
に喜ぶは勿論で、大きな親孝行をしたことになる。これを観察すれば、前
者は小乗的孝行であり、後者は大乗的孝道である。また国家主義民族主義
等も小乗的善であり、共産主義も階級愛的小乗善である。由来何々主義と
名付くるものはたいてい、小乗善であるから、必ず行き詰る時が来る。ど
うしても大乗的世界的人類愛的でいかなくては、真理とはいえない。日本
が侵略主義によって敗戦の憂き目をみたのは、小乗的国家愛、小乗的忠君で
あったからである。以前日本で流行した皇道という言葉は、小乗的愛国主
義であった。何となれば、この皇道を日本以外の国へ宣伝しても、恐らく
これに共鳴する者はないであろうからである。故に世界人類悉くが共鳴し
調歌するものでなくては、永遠の生命あるものとはいえないわけで、これ
が真の大乗道である。由来何々主義というものは、限定的のものであるか
ら、他の何々主義と摩擦する事になって、闘争の原因となり、遂には戦争
にまで発展し、人類に惨禍を与える事になるので、小乗の善は大乗の悪で
あり、大乗の善は小乗の悪という意味になるのである。然しここに注意す
べきは一般大衆に向かって、初めから大乗道を説く事は誤られ易い危険が
あるから、初めは小乗を説き、相手がある程度の覚りを得てから大乗を説
くべきである。
次に私は宗教における大乗小乗を説いてみよう。元来仏教は小乗であり、
キリスト教は大乗である。仏教は火であり、キリスト教は水である。火は
経に燃え、水は緯に流れる。故に仏教は狭く深く、孤立的で緯の拡がりが
ない。反対にキリスト教は大乗であるから、水の流溢する如く世界の隅々
までも教線が拡がるのである。面自い事には小乗である仏教の中にも大乗
小乗の差別がある。即ち南無阿弥陀仏は大乗であり、陰であるが、南無妙
法蓮華経は小乗であり、陽である。大乗は他力であり、小乗は自力である。
かの阿弥陀教信者が「南無阿弥陀仏と唱えさえすれば救われる」という他
力本願に対し、小乗である法華経は「妙法蓮華経を唱えるのみではいけな
い。宜しく難行苦行をすべきであるLという事になっている。このように
経と緯と別々になっていたのが今日までの宗教であったが、最後は経緯を
結ぶ、即ち十字型とならなければならない。この意味において時所位に応
じ経ともなり、緯ともなるというように、千変万化、応現自在の活動こそ
真理であって、この十字型の活動が観音行の本義である。昔から観世音菩
薩は男に非ず女に非ず、男であり女であるという事や、聖観音がご本体で、
千手・十一面・如意輪・准胝・不空羂索・馬頭の六観音と化現し、それが
分れて三十三相に化現し給うという事や、観自在菩薩、無尽意菩薩、施無
畏菩薩、無碍光如来、光明如来、普光山王如来、最勝妙如来、その他数々
の御名があり、特に応身弥勒と化現し給う事などをもってみても、そのご
性格はほぼ察知し得られるのである。因みに阿弥陀如来は法身弥勒であり、
釈迦如来は報身弥勒であり、観世音菩薩の応身弥勒のご三体を、三尊の弥
陀と称え奉るのである。また日の弥勒が観音であり、月の弥勒が阿弥陀で
あり、地の弥勒が釈迦であるとも言えるのである。
昭和25年(1950年)12月6日
「栄光」
『聖教書』 p.115
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