邪神活躍


   抑々、万有一切は霊主体従の法則によって働きつつある事はいまさらい うまでもないが、あらゆる物象の動きは、霊界に先に起こり、現界に移写さ れるとしたら、その場合時間の遅速があるのは勿論で、これはこの事象の大 小によるのである。即ち速きは数日、遅きは数年経ってから移写される事 もある。しかし、これが昼の世界になるに従って短縮されるので、最近に 至ってよほど短縮されたようである。それどころか現在の霊界は、曽てな いほどの混乱状態を呈していると共に、変化の激しい事も、よく世の終末 を物語っている。

     邪神の一大活躍

   今、最も著しい事は、邪神の必死的活躍である。何しろ何千年という長 い期間、大いに巾を利かしてきた彼らは、没落の運命の迫るに従って、最 後の足掻きという奴で、乗るか外るかの暴威を揮っている。そうして邪神 にも頭目があり、今最も活躍しているのは、赤龍並びに黒龍で、その眷族 に至っては無慮十億近くに上るのだから大変なものである。彼らにも上中 下の階級があって、階級によりそれぞれの役目がある。彼らと雖も命令さ れた仕事は忠実になし遂げようとして一生懸命である。というのはその功 績次第で出世もし、論功行賞にも与る張り合いがあるからである。勿論総 本部に鎮座まります頭目からは、一々指令が出て、霊線を通じて、人間に 憑依せる副守護神に伝達されるのである。この場合人間界におけるその人 の地位や階級に相応する眷族が働きかけるわけで、彼らの任務としてはあ らゆる手段を講じて、人間を悪に悪にと導こうとする。それが今日の世相 に遺憾なく現われているから厄介だ。しかもその手段たるや実に巧妙残虐 極まるもので、例えば下級の人間には殺人強盗とか、暴行とかいうような 兇悪犯罪を行なわせるが、少しましなのになると詐欺や、貨幣、証券、書 画等の偽造をさしたり、また婦女子などを言葉巧みに誘惑したり、姦通な どを面白がったりする。その上になるとよほど高級で、善の仮面を被って 知謀的犯罪を行なわせる。人の財産を捲き上げたり、人を騙して金儲けを さしたり、贈収賄、涜職、脱税、隠匿物資、闇の売買等は勿論、酒を飲ま せ、婦女子を弄ぶ等も彼らの常習である。

   以上、何れもその行為が発覚すれば法に触れ犯罪者となるから、誰が目 にも悪人に見られるが、それらと異なり善の仮面を被らせ、悪を行なわせ る場合もある。これらは比較的中流以上に多く、特に知識階級に最も多い ので、大いに注意を要するのである。例えば常に誰が目にも正しいと思う ような説や、何々主義などを真理と思わせるよう口や文書に書いたりして、 世人に信用をさせ、陰ではそれと反対の行ないをしている。この種の人間 は知識人で、信用があり、頗る巧妙なので、その可否はちょっと分り難い ほどである。これらは政治家や、名士、論客にも多く、社会的相当の地位 を占め、人から重んじられている人もあるから、なかなか油断はできない のである。

     神見の善

   また最も始末の悪いのは、善と信じて懸命に行なう事が結果において悪 の場合がある。かの五・一五や二・二六事件の如きもそれである。甚し いのになると、善なり正なりと信じ命がけでやった事が、反対の結果にな った偉い人達もある。先頃処刑された戦犯者なども無論そういう側の人達 である。ここで全然人の気の付かない罪悪がある。それは立派な学説と思 い、それに身を挺して実行しているが、実は人類に禍を与えているという 気の毒な人達もある。以上説いた者は、何れも邪神が操っているのである が、科学で固まった頭脳ではとうてい分りようがないのである。

   ところが、断然レベルを抜いた、高級な人々がある。この種の人は宗教 の教祖、新学説や新発見をした大学者、有名な思想家等々、まず超人型で ある。従ってこういう人々は没後数世紀にわたって崇敬の的になり、偶像 的に扱われる場合もよくある。この種の人は勿論邪念などは些かもなく、 私利私欲など微塵もなく、真に人類のためと信じて、一生をそれに傾け尽 くしたという立派な人もある。ところが私からみればそれら偉人の業績も、 人類に対し福祉を与える点もあり、また禍を与える点もあって、功罪どち らにも決められない場合も少なくないのである。

   言うまでもなく、右の偉人達は邪神とは関係はないが、その業績がある 時期までは有用であったが、いつか有害無益になる例もある。学者にもそ れがあり、宗教家にも同様の事がある。開教当時は立派なものであったの が長年月を経て弛緩し、その宗団に争いが起こったり、堕落者等が出たり してマイナス的存在になる事も、よく見聞するところである。また学問の 場合も同様、発見当時一世を風靡したほどのものでも、年の移るに従い有 害な存在となる事もよくあるのである。

   要するに、一切は主神の経綸であって、文化発展上正邪相争い、明暗、 美醜相混り、かくして一歩々々理想に近づくので、これも深奥なるご神意 であって、そうてい人知のうかがい知るを得ざる事を知るべきである。

昭和25年(1950年)12月25日
「地上天国」19号     『岡田茂吉全集』著述篇第八巻 p.702
『聖教書』 p.228


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