最後の審判とは何か


   最後の審判についてこれから書いてみるが、その根本としては言うまで もなく世界的大清算であって、長い間溜まりに溜まったところの罪穢の浄 化作用である。従って、余りに汚なくどうにもならないものは地上から永遠 に抹殺される外はないから恐ろしいのである。というわけで、将来役立つ ものは勿論残されると共に、役立たないものは処理されてしまうのは致し 方ないのである。それは口で言えば甚だ簡単だが、これが人間にとっての 脅威は、前古未曽有の大異変であるから、とうてい筆や言葉では表わせな いのである。つまり、根本は善と悪との立て分けであって、善人は無罪と なり、悪人は有罪者となるわけで、決定的審判が行なわれるのである。従 って現在地上にある人間悉くは、裁きの前の動物に等しき運命に置かれて いるのだから大問題である。然も悲しい哉、赦される者は極く少数で、救 われない者の方が大多数である事で、その割合は数字では表わせないが、 だいたい右と思えば差し支えないのである。

   勿論日本人も同様であるから、助かりたい人はこの際至急頭の切り替え をする事である。この事は昔から各聖者が神の代弁者としてはっきり予言 されている通りで、いわばその時が来たのである。それも人類全部が救わ れるとは言わなかった。ただ神の大愛によって一人でも多くを救えと言わ れただけであって、その使命をもって生まれたのが我が神慈秀明会である から、まずこの認識が何より肝心である。右の如く、救われる人よりも救 われない人の方が多いとしたら、この事を信者はよく心得て置かなければ ならない。というのは、病気を治し救おうとする場合その見分けが必要で ある。なるほど誰も彼も一人残らず救ってやりたいのはやまやまだが、右 の如くであり、時の進むに従い救われる人と救われない人とは自ら分る ようになるからで、これは神意である以上如何ともし難いのである。従っ て浄霊を嫌ったり、話に耳を傾けなかったり、逆にとったりする人は、す でに救われない側に運命づけられたからで、そういう人をどれほど分らせ ようとしても無駄であり、却って救わるべき人が疎かになるから注意すべ きである。

   また折角おかげを頂いても、大病が治り一時は感激しても、時の経つに 従い忘れたり、迷ったりする人もあるが、こういう人はすでに縁が切れ、 滅びの方へ回ったのだから、手放した方がいいのである。以上によっても 分る如く、これからは入信させようとする場合、素直に受け入れる人はい いが、そうでない人は縁なき衆生として諦めるより仕方がないので、この 意味に従い最後に近づくにつれて信者諸君はまず善悪を判別する事である。

昭和28年(1953年)6月17日
「栄光」213号     『岡田茂吉全集』著述篇第十一巻 p.519
『聖教書』 p.240


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