下座の行


   下座の行という言葉は昔からあるが、これは人間処世上、案外重要事で ある。然も信仰者において殊に然りである。信仰団体などに、教義を宣伝 する先生に、どうも下座の行が足りないように見える事がしばしばある。 昔からの諺に「能ある鷹は爪隠す」とか、「稔るほど頭を下げる稲穂かな」 などという句があるが、何れも下座の行を言うたものである。

   威張りたがる、偉く見せたがる、物識ぶりたがる、自慢したがるという ように、たがる事は却って逆効果をきたすものである。少しばかり人から 何とか言われるようになると、ぶりたがるのは人間の弱点であって、今ま で、世間一般の業務に従事し、一般人と同様な生活をしていた者や、社会 の下積みになっていた者が、急に先生と言われるようになると「俺はそん なに偉く見えるのか」というように、最初は嬉しく有難く思っていたのが、 だんだん日を経るに従い、より偉く見られたいという欲望が、たいていの 人は起こるものである。それまでは良かったが、それからがどうも面白く ない。人に不快を与えるようになるが、ご本人はなかなか気が付かないも のである。

   神様は慢心を非常に嫌うようである。謙譲の徳といい、下座の行という 事は実に貴いもので、文化生活において殊にそうである。多人数集合の場 所や、汽車、電車等に乗る場合、人を押しのけたり、良い座席に傲然と坐 したがる行動は、一種の独占心理であって面白くない。

   円滑に気持よい社会を作る事こそ民主的思想の現われであって、この事 は昔も今も些かも変わりはないのである。

昭和23年(1948年)9月5日
「信仰雑話」     『岡田茂吉全集』著述篇第六巻 p.44
『聖教書』 p.301


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