世界救世教とは何ぞや

本教団は地上天国出現を目的とし、物質文化の進歩と相俟って宗教文化を創成普及せんとするものである。

地上天国とは病貧争絶無の世界、全く人類理想の世界を言うにある事は言うまでもない。彼の釈尊が唱えた五六七の世も、キリストが予言せし「天国は近づけり」という事も、日蓮の叫ばれた義農の世も、天理教の理想とせる「一列揃って甘露台の世」も、吾等の曰う「地上天国」と同様の意味である。ただ異なる処は『時』の問題であるが、右の諸宗祖は『時』を知らせなかった。然るにその時期が非常に近づきつつある事を、私は覚り得たのである。

時が近づきつつあるという事は何を意味するか。それは釈尊の唱えた仏滅であり、法滅尽であり、キリストの世の終り、又は最後の審判の事である。もしこの侭にして地上天国が来るとすれば、人類は洵に幸福であるが、新しき理想世界が建設されるというに就いては、その前に旧世界の清算がなくてはならない訳である。丁度新しき家を建てんとするには旧き家を破壊し、土地を清浄化されなくてはならない。勿論旧き家にも役立つものは相当あろうから、それは残さるるであろう。その取捨選択は神がなし給う事は勿論である。故に人間は残されるもの、即ち新世界に役立つ者とならなければならない。それによって大いなる切替時を易く越えらるる事で所謂神の試験にパスするのである。その只一つの方法が信仰である。

以上説く如く世界の大転換期を乗り越す資格とは、病貧争絶無の世界に生存なし得る人間であって文字通り病気のない健康人、貧苦から脱出した人間、和を好み争を嫌う人間である。この三大資格を有する人間であれば神は滅し給う必要がないばかりか、来たるべき新世界の有能人として遇されるわけで、神の意図と人間の理想との食違いはないことを私は信ずるのである。然らば、右の三大資格を得んとする方法ありや。本教団は右の資格者たらしむべく教導し、神の恩恵を取次がんとするものである。

(昭和二十三年九月五日)

世界救世教教義

抑々、世界の創造主たる主の大神(エホバ)は、この地上に天国を樹立すべく、太初より経綸を行わせ給いつつある事を吾等は信ずるのである。これに対して人間を神の代行者とされ給うと共に、一切万有は人間の為に造られたものである。故に今日までの人類史はその為の準備工作に外ならない事を信ずるのである。従って、神はその時代々々に必要なる人間と、必要なる宗教を顕わし給い、それぞれの使命を遂行させ給うのである。

今や、世界の情勢は混沌として帰趨を知らず、この時に際し、主神は吾等の教主岡田自観師に救世の大任を下し給い、人類救済の聖旨を達成せしめ給うを信ずると共に、人類の三大災厄たる病貧争を根絶し、真善美の完き恒久平和の理想世界実現を目標として精進邁進せん事を期するものである。

(昭和二十五年三月十一日)

真の救いとは何ぞや

今日批判者の決まっていう言葉は、本教が宗教でありながら治病に専念するというのは間違っているというのである。しかしよく考えてみるとこんな訳の分らない話はない。何となれば右のような批判者の考え方は、宗教なるものは精神的方面のみの救いで物質方面は宗教の分野ではないと決めているからであろう。したがって病気治しという如きは、物質方面であるから宗教でないと思うのである。彼等は物質的救いとは宗教を逸脱しているように思い、精神的方面のみが宗教の本質と決めてかかっている。勿論彼等の思う精神的救いとは、一言にして言えば諦めである。苦悩を物質的に救う力はないから、やむを得ずせめて精神上の諦めだけでも苦悩を滅らそうとする訳である。これが今日までの宗教に対する多くの人の観念であったことである。

ところが物質を度外視し、精神方面だけの解決では実際上の救いとはならない。というのは物質的解決が可能であることの実証を信ずるからこそ、精神的にも真の安心を得られるのである。例えば腹の減った場合、何れ誰かが食物を運んでくれるという信頼があってこそ安心が出来るので、誰も持って来ないと分ったら餓死の恐怖に怯えるのは当然である。その他病気にしても、生活苦にしても、信仰によって解決出来るということを認識するから真の安心が得らるるのである。このように物心両面の解決こそ真の安心立命の境地に救い得らるるのである。

とすれば、物心共救いの根本は、病気を解消し健康人たらしめること以上のものはない。たとえ金銀財宝が山と積まれても、山海の美味が食膳に堆高く積まれても、地位や名誉が如何程与えられても、病苦に悩んでいたら一切は零である。而して人類を救う第一条件としては、何よりも先ず健康の達成であらねばならない。本教が救いの根本として、病なき人間、病なき社会を目標とするのは右の意味に外ならないのである。

(昭和二十四年十二月二十四日)

本教救いの特異性

本教の使命は地獄で苦しんでいる人達を天国へ救うので、それによって社会を天国化そうとするのである。この意味に於て、人を天国へ救うには、先ず自分が天国に上って天国人となり、大衆を救い上げるのである。つまり地獄から天国へ梯子をかけて、手を伸ばして一段々々登らしてやるという訳である。これが、今日迄の凡ゆる宗教と異なる点で、それは寧ろ反対でさえある。

周知の如く、昔から宗教人といえば、粗衣粗食、最低生活に甘んじ、難行苦行を重ね、自分は地獄的状態にあり乍ら衆生を救おうとするのであるから、梯子を逆に用いる訳である。即ち、救う者が救われるものを押し上げてやるのであるから、上から引張るよりも押し上げる方が、どの位骨が折れるかは、推察さるるであろう。

処が、その当時としては、実は天国は出来ていないから止むを得なかったのである。勿論それは時期尚早の為で、霊界が夜であったからである。然るに、昭和六年以降、漸次霊界は昼になりつつあるので、天国を造る事は容易になったのである。否、人間が造るのではない、神様が造るのであるから、自然に時の進むに従い進捗するので、人間はただ神のまにまに動けばいいのである。即ち、神が設計し、監督し、多数の人間を自由自在に使役するので、私としての役目は先ず現場監督と思えば間違いないのである。勿論その一部として現在天国の模型も造っているので、信者諸君はよく知る処である。

右の如くであるから、土地にしても予期もしない時期に、予期もしない位置に、売りたい人が出る。すると私はハハー神様がここを買えというのだなと思うが否や、それだけの金額は別に苦労しないで集まってくる。それに準じて、最も適した設計者も土木建築家も、材料も、思う通り必要なだけは判で捺したように入手する。庭木一本でも、突如として誰かが持ってくる。それがチャンと当嵌まるような場所がある。時には、庭木が数本も数十本も一時に入手するので、私は戸惑いするが、これは神様がなさる事と思うから庭を睨み乍ら、順々に植えて行くと、過不足なく、きっちり当嵌ってしまう。その度毎に、一切は神様がやられる事が、実によく分るのである。或る位置にこういう石や木が欲しいと思うと、一日か二日でチャンと来る。これが奇蹟でなくて何であろう。こういう事を書けば限りのない程で、追々書く事にするが、今はただ片鱗だけを書いたのである。

この文は、総て人間がやっているのではない、神様の経綸のままに、人間がやらされるという事を、分らせる為に書いたのである。これ等によってみても、神意は地上天国建設の第一歩として、その模型を造られるという事があまりに明らかである。併し乍ら、模型ばかりではない。人間個人が天国人とならなければならない。否、なり得る時期が来ているのである。勿論、家庭も天国化し、天国的生活者となるのである。それで初めて、大衆が苦しんでいる地獄から救い上げ得るのである。故に信者に対し、私は常に出来るだけ苦のない生活環境を作るべきで、それが神意に叶う所以であるというのである。即ち、病貧争の三苦が除去されなければ本当に人を救う事は出来ない。併し、そのような事は、夜の世界では不可能であったが、今日はもはや可能となったのである事を知らなければならない。彼の釈尊の唱えた苦の娑婆の時期は最早終ったのである。この事の真諦が分ったとしたら、その歓喜は人類の経験にない程、絶大なものがあろう。

(昭和二十四年十月五日)

   

新世界の誕生

我が救世教は宗教ではなく、宗教は救世教の一部であるのは、常に私の唱えている処であるが、では一体どういう名称ならピッタリするかというと、標題の如く新世界建設事業という名が合っていると思う。併しこれでは何だか土建屋の看板みたいだから、今の処救世教と呼ぶより仕方があるまい。そうして先ず本教の企画であるが、それは現在の唯物科学と唯心科学を並行させ、文化の進歩発展を図る事である。ご承知の如く今迄は科学文化が非常な速度で走りつつあり、現在も走り続けているに対し、唯心文化である宗教の方は、兎に対する亀である。数千数百年以前文化がまだ幼稚な時代に生まれた侭で、殆んど進歩はなかった為、遂に千里の差を生じてしまったのであろう。

その結果として、今日科学のみがクローズアップされ、霊的の方は眼に入らないまでに遠くなってしまったので、遂に霊を無視し、科学のみを文化の全体と思い込み、人間は科学の王者の前に跪き、奴隷に甘んじているので、これが現在の世界の姿である。何よりも貴重なる人間の生命でさえ、安心して科学の掌中に委ねているではないか。処が事実科学では生命の安全は保証出来ないに拘わらず、それに気がつかず、相変らず盲目的に信頼しているのが現代人の考え方である。そこで神はその迷盲を哀れみ給い、私をして現在それを教えていられるのである。即ち生命は物質には属しない事、生命は眼に見えないだけで、厳然たる存在であって神の支配下にあるものである事を事実を以て示されているのである。事実とは唯物医学で駄目と断定された者が、ドシドシ神力によって治されている。これが何よりの証拠である。

これについて考えなければならない事は、それでは何故今日まで、生命に関する程の重大問題が不明の侭であったかという疑問であるが、これも無理はない。そこでこの事を想像してみると、科学文化を或る程度迄進歩させる必要上そうされたのであって、これも神の経綸で、過渡期に於ける一時的現象である。それに対して神はその行き過ぎを訂正すると共に、唯物科学の分野と唯心科学の分野とをハッキリさせ給うので、これによって唯物唯心の科学は歩調を揃えて進歩し、発展し、ここに真の文明世界が生まれるのである。一言にしていえば現在の旧世界はここに終りを告げ、新しき世界が造られるのであるから、私の仕事はその産婆役といってもいい訳である。

(昭和二十七年七月三十日)

 

生きてる宗教

宗教にも生きてる宗教と死んでる宗教とがあるといったら変に思うであろうが、それをこれから書いてみよう。生きてる宗教とは、即ち実際生活に即したものを言うのであって、死んでる宗教とはその反対である。処が世間数ある宗教の中で実際生活にピッタリしているものは絶無とは言わないまでも、洵に寥々たる有様である。成程教えはどれもこれも実に立派に出来てはいるが、教化力の点に至っては気の毒乍ら期待をかけられまい。併し何百何千年前の教祖開教当時は、その時の社会情勢に合い、教化の力も大いにあったには違いないが、その後星遷り年変り、時の流れにつれて教勢は漸次衰え、現在の如き状態となったのは周知の通りである。これも自然の成り行きであって致し方はないが、この事は独り宗教のみではない。凡ゆるものがそうであって、只宗教だけは遅れて最後になった訳である。併しその間と雖も時代に即したいろいろな新しい宗教が生まれたのは何処の国でも同じであるが、さらばといって、それまでの宗教を圧倒する程の力あるものは滅多に出ないので、いつか姿を消してしまうのが常である。

その中でとも角近代に生まれ、今尚相当勢力を保っているものとしては、彼の日蓮宗と天理教位であろう。以上は大体の宗教の推移であるが、それはそれとして、今言わんとする処のものは、現代としての宗教の在り方である。知らるる如く十八世紀以降科学文化の発展は、宗教にとっての一大脅威となり、それがため今日のごとき衰退状態となったのは争えない事実である。そのようなわけで、科学は恣に人心を掌握してしまい。今日科学の文字が入らなければ、人は承知しないようになってしまったのである。それだけならまだいいが、これが原因となって無神思想を生み、道義の頽廃止まる処を知らざる有様で、国家社会は混迷状態となり、現在の如き宛ら生地獄そのままの世界となったのである。然も古い宗教にあっては、今尚何百何千年前の教祖の教えを建前として、長い間に練り上げた教えを以て教化に努めているが、何しろ時代から余りに離れすぎたため教化の力とてなく、正直にいって現実性を失った骨董的存在でしかないことになってしまった。成程その当時は香り高い美術品として大いに用いられたには違いないが、今日となっては重要文化財としての価値だけであろう。

処が新宗教の中には右の重要文化財を恭しく飾り立て人寄せに利用はしているがこれとても或る時期までの生命でしかあるまい。何といっても素晴しい文化の進歩に追越され、宗教は遙か遠くへ置去りにされた形である。これを例えれば飛行機や自動車、無線科学時代の今日、マサカ牛車や駕篭を持ち出した処で何の役にも立たないのと同様であろう。ここでいつも乍らの自画自讃を言わざるを得ないが、本教は知らるる如く歴史は歴史として尊重はするが、それにこだわる事なく、神命のまま独自の方針をもって進んでいる。然も新生宗教としての若々しさは青年の血が通っており、今行っている事業にしても、医学や農業の革命は固より、凡ゆる文化の欠陥を指摘し、新文化の理念を指導精神としている。その具体化の一つが地上天国の模型や美術館の建設であって、これこそ第一線的のものであり、勿論この狙いは汚され疲れた魂の憩いの聖地であると共に、俗悪極まる今日の娯楽に対する一塊の明礬として、人間の品性を高める事でもある。

以上の如き本教の経綸は、個人的には健康、救貧、思想の健全化等に資するは勿論、大にしては明朗不安なき社会を作らんとするのである。この事は近来識者間にも漸く認められ、注目の的になりつつあるのは喜ばしい限りである。しかし今は小規模であるが、何れは世界的に拡充された暁、日本から平和幸福な理想世界の構想が生まれるわけで、これは敢えて夢ではない事を明言する。これ等によってみても、本教こそ真に生きた宗教の在り方でなくて何であろう。只併し遺憾に思う事は、現在新宗教を目する社会の眼は、残念乍ら甚だ冷淡軽侮的なものがあり、特にインテリ層程そうであって、本教に触るる場合と雖も世間を憚る如き心遣いをする傾向のあるのは遺憾に堪えないのである。

併しこれも無理はない。何しろ古い宗教にしても、信者の数だけは夥しいが、教養が低く、所謂愚夫愚婦級の人が大部分であり、新宗教にしても顔をそむけるような奇矯極まる言動のものや、迷信的分子が多分に含まれ、常識眼で見てさえ苦々しく思うようなものも相当あるからで、これ等も或る時期までとは思うが、当事者には考慮を促したいのである。又右とは反対に古い聖者、賢人、教祖等の説を焼直し、新しい衣を着せて時代に迎合するような宗教学者もあって、外面からは進歩的に見え、インテリ層には受けそうには思われるが、果して実際生活にどれだけ役立つかは疑問であろう。これに就いて思い出されるのは、彼の有名な米国の哲学者ウィリアム・ジェームズのプラグマチズムである。訳して哲学行為主義であるが、これを私は宗教行為主義に替えたいと思うのである。

(昭和二十八年十一月四日)

 

神を見せる宗教

よく世間信仰のない人に信仰を勧める場合、彼等はこの世の中に神仏等あって堪るもんか、もしあるんなら、是非見せて貰いたいといって、サモサモ自分は文化的人間のように思って迷信は真ッ平御免だとテンデ相手にならないのが、一般人の態度であろう。それが最も甚だしいのが、所謂インテリ階級の人達である。といっても、これ等の人を決して非難する事は出来ない。全くそれに違いないからである。というのは世間多くの信仰を見ると余りにも非科学的で、迷信臭くない信仰は、洵に寥々たる有様であるからである。従って多くの信仰は、神仏の実在をハッキリ見せることが出来ず、あるようなないような、甚だ頼りないのである。としたら信仰に無関心な人の多いのも無理からぬ事と思うのである。

処が、我が救世教に至っては、神の実在をハッキリ誰の眼にも見せている。一度本教へ接するや必ず神の実在を知って吃驚するのである。その何よりの証拠は、本教の無数に上るお蔭話である。処が遺憾な事には、これを読んでも、信者から聞いても、その侭呑込める人は洵に少ないのが実情である。というのも全く前述の如き、レベルの低い信仰によって出来上った色眼鏡を透して見るからで、これも一面無理はないが、本教などにとっては残念至極である。それに就いて私がいつも言う如く、本教は宗教ではない、超宗教であり、大いなる救いの業である。

そうして入信者がよく言われることは、最初本教の刊行物などを見た場合、余りに今迄の宗教の教えや、科学の理論とは懸離れているので、只不思議と思うばかりで、到底信ずる気にはなれないが、併し物は試しと疑い疑い浄霊を受けるが、只手を翳すだけなので唖然としてしまい、これ程進んだ現代医学で治らないものが、こんな他愛ない行り方で治る訳はないと思い、止めてしまおうかと決心していると、翌日になるや何だか気持がよく、軽くなったような気がするので不思議で堪らないが、マアー瞞されたと思って、今少し辛抱してみようと委していると、メキメキ快くなってしまうので、喜ぶよりか愈愈分らなくなってしまう。というのが体験者の口を揃えて言う処である。

以上のように、本教は余りに類例のない現当利益が顕著なので、それ等の話を聞く知性人などは、それだから迷信だなどと飛んでもない逆な事を言うのである。これも大いに邪魔になるのであるが、中には頭の確かな人もあって、事実は飽迄事実だからと素直に入信し、幸福者となる人も尠くないのである。そんな訳で本教が何物にも追随を許さない奇蹟を現わし、手に取るように、神の実在をも見せる以上、如何に頑迷な人でも、科学文化に心酔している人でも、結局兜を脱ぐのである。

(昭和二十七年一月九日)

幸運者を作る宗教

本来宗教とは何かというと、不幸な人を幸福に導く為に神の愛によって発生したものであって、それ以外の何物でもない。知らるる通りこの世の中に生を営んでいる誰もは、幾ら一生懸命に幸運になろうとしても、中々思うようにはならない。一生涯かかって幸福になる人は九牛の一毛で、殆んどの人は幸福処か逆に後から後から不幸という奴が見舞って来る。というように、学校で学んだ学理も、偉い人の修身談や伝記、それに関する書籍を読み、その通り実行しても役立つ場合は稀である。成程理窟は実によく出来ていて感心はするが、実際となると理窟通りにゆかないのは誰も経験する処であろう。

早い話が正直主義でやると、お人好しやお目出度人間にみられるし、方針を変えて変な事をすると、今度は信用を落したり、下手をすると法律に引掛ったりするので、どっちにしていいか分らない事になる。そこで小利巧な人間は正直らしく見せかけ、裏で不正直をやり、口を拭いて知らん顔の半兵衛を決め込むに限る。というのが世渡り哲学という訳で、今日の人は滔々としてその哲学信者になってしまい、このチャンピオンが出世頭となるのであるから、どうしても一般はそれを見習いたがる。これが社会悪の減らない原因であろう。

このような世の中だから、正直者は馬鹿を見るなどと言われるのである。故に正直な人間程融通の利かぬ時世後れとされるし、正義など唱える人間は人から煙たがられ相手にされず、社会の落伍者となるのもよく見受ける。このような世の中に向って、私は常に正義感を振り翳しているのであるから、並大抵の努力ではない。普通人は馬鹿々々しいと思うであろうし、宗教家の決り文句で、意気地なしで欲のない変り者位にしか見ないであろう。そんな訳で以前は新聞雑誌などにも蔑視的興味本位に書かれたり、裁判沙汰などにされたりして随分虐められたものである。それというのも私は悪と闘うべく思い切って書いたりするので、それが祟ると共に、急激の発展に対する嫉視も手伝い、大木に風当りが強い訳であろう。

処がそのような圧迫に遭いながらも、一路発展の道を辿りつつあるその力強さに、近頃は余程見直したらしく、形勢も大分緩和されたのでやり良くなったのは何より嬉しく思っている。それというのも神様が後楯になっている以上、如何なる攻撃に遭ってもビクともしないからである。というのは本教には今までの宗教に見られない大きな武器をもっているからで、それを書いてみよう。

それに就いては今日までの凡ゆる宗教の行り方を見れば分る通り、大別して二通りある。一は真向から正義を振り翳して進む信仰で、この代表とも言うべきものは彼の日蓮の法華教で、アノような法難に遭ったのもその為である。それが災いとなって宗祖一代中は余りパッとせず、数百年かかって今日の如き隆盛を見たのである。といって法難を恐れ安全の道を辿るとしたら、拡まるにしても大いに時を要するか、さもなければ消えてしまうであろうから、ここに難かしさがある。しかし有難い事には民主主義となった今日、信教の自由を許されたので、終戦以前の日本と違い大いに恵まれ、致命的法難も避け得られたのである。という訳で私の大方針たる正義を貫くべく、一歩々々悪を排除しつつ、善の目標に進みつつあるのである。

次に問題である人間の幸福に就いて書いてみよう。即ち幸福を生む根本は何かというと勿論善であるが、この善を通そうとするには悪に勝つだけの力がなくてはならないのは言うまでもないが、既成宗教にはこの力が不足していた為、真の幸福は得られなかった。そこで物質は諦め、せめて精神面なりとも安心を得たいとの民衆の要求に応えたのが、彼の仏教の覚りの説である。又キリスト教ではキリストに習えという贖罪精神で諦めさせたのである。彼の「右の頬を打たれれば左の頬を出せ」と言ったのも、悪に対する無抵抗精神であった。以上の如く悉くの既成宗教は物質的には悪に勝てないので、考え出したのが現当利益否定説である。曰く現当利益本位の宗教は低級であって、精神的救いこそ高級宗教なりとの説を唱えたのは無理はないが、それは或る時期までの便法でしかなかったのである。これに就いて二、三の例を挙げてみるが、よく長い間病気で苦しみ乍ら救われたといって満足しているが、これは無理に本心を抑えつけて諦めているにすぎないので、一種の自己欺瞞である。病気が全快してこそ本心からの満足感を得らるるのが真実である。又昔からその信仰に如何程熱烈であっても、物質的に恵まれず、不幸の絶えない家庭もよくあるが、その結果精神的救いのみが宗教本来のあり方と錯覚したのである。

処が我が救世教は、精神的救いと共に物質的にも救われる。寧ろそれ以上といってもいい程である。本教が数年の間に現在見る如く、各地に地上天国や美術館等を造営しつつあるのも悉く信者の寄附金である。しかも本教は最も搾取を嫌い、自発的寄附を方針としている。にも拘わらず、これ程の大規模の事業を経営するとしたら、莫大な基金を要するのは勿論で、それが集まってくるのは実に奇蹟である。これにみても信者の懐が楽であるからである。しかも一時的ではなく、多々益々増えるのであるから、金銭上の心配などした事はない。次に言いたい事は時代である。昔の各宗教が出た時代は小乗信仰でよかったから“祖師は紙衣の五十年”式で済んだが、今日となってはそうはゆかない。一切万事世界的となった以上、全人類を救うとしたら驚くべき大仕掛でなくてはならない。つまり規模が大きい程救われる人も多数に上るからである。以上の如き本教の大計画を知ったなら、何人と雖も本教を見直さない訳にはゆかないであろう。

(昭和二十八年六月十日)

デパート教

本教を最も分りやすく言えば、デパート教といってもいい。併しどうも宗教には相応しくない名称だが、この言い方が一番ピッタリしていると思うから、その意味を書いてみよう。これは常に私が唱えている事だが、本教には、基督教、神道、仏教を始め、儒教も、哲学も、科学も、芸術も、悉く包含されている。その中でも特に力を入れているものに、科学の面では病気と健康、農耕法と、別の意味での芸術等である。勿論本教はその名の如く救世の大業を遂行せんとする目的である以上、一切万有を救わなければならないとしたら、人事百般、如何なる事物にも誤まりを指摘し、最高の指針を与えなければならないのは勿論である。なるほど、現代文化の進歩も素晴しいものではあるが、同時に欠点の多い事も素晴しいものである。処が表面の方は衆目に見えるからいいとしても、内面の方は目に見え難いので、神の光明に照らして是正するより方法はないのである。

この意味に於て、本教は既存文化の凡ゆる面に向って、メスを揮って解剖し、その実体を明らかにし、よりよき世界の実現を企図するもので、かくして天国的文化時代の到来を期待し得るのである。

デパート宗教の意味、ザット右の如くである。

(昭和二十六年三月二十八日)

超宗教

本教のモットーとする病貧争絶無の世界、地上天国建設などということは、先ず大抵の人は痴人の夢としか受取れないであろう。成程キリストは「天国は近づけり」といったが、“天国を造る”とは言わなかった。釈尊は「仏滅後弥勒の世が出現する」とは言ったが、それは五十六億七千万年後という、べら棒に長い年月後を言ったが、弥勒の世は目前に迫っているとは言わなかった。猶太教徒がメシヤ降臨を祈願してはいるが、それは何時だか分らない。印度に於ける古来からの伝説、転輪菩薩の出現も、天理教の甘露台の世も、日蓮の唱えた義農の世も、大本教祖の唱えた松の世も、時をはっきりさせなかったという事を深く考えてみなければならない。以上の何れの予言をとってみても立派に役立っては来たが、さらばといって実行の宣言も実現の企画もなかったという事は時期尚早の為と解すべきである。そうしてそれら各宗祖によって説かれたり実践された事が基礎となって、今日あるが如き各派の宗教となった事は誰もが知っている通りである。

勿論全世界の民族や国家に適合すべく、教義の建前、形式、方法等、各宗派が創成し弘通させたのであって、その時代、その地域、その民族、その伝統、その習慣等に、必要当嵌るべき手段方法等を、主神の意図の下に行わしめ給うたことはいうまでもない。その力によって今日の如き絢爛たる文化の発展もあり得たのである。もし世界各国に仮に宗教なるものが生まれなかったとしたら、世界は悪魔の横行はその度を知らず、世界に已に破壊滅亡していたかも知れないのである。それこれを考える時、今日まで輩出した宗祖聖者等の功績は如何に高く評価しても決して過ぎる事はないであろう。

前述の如く、既存の宗教の力が世界の滅亡を食い止め得たとしても、今日及び今日以後の世界に対しその力が続いて役立つであろうかは疑問である。何となれば現在の世界人類が如何に地獄的苦悩に喘ぎつつあるかで、これ等をして天国的状態にまで飛躍させるには、既存宗教の力では困難である事は、現在を救うにさえ力足りない有様はそれをよく物語っている。事実今日の輝かしい文化の恩恵に浴し得るものとしては、限られたる一部の民族であるにみても明らかである。そうして今日人類の悩みは余りに和の精神に乏しく、あまりに闘争の犠牲になり過ぎる事である。

以上の如く現在の世界を観察する時、どうしてもこれ等無明暗黒を解消すべき一大光明が現われなくてはならない時期と、心ある者は期待せずにはおられない。即ち超宗教的救いの力である。

我等はこの意味に於て、超宗教としての任を負わされたものとの自覚によって、着々実行を以て驚異すべき成果を挙げつつあるのである。

(昭和二十四年七月二十日)