古往今来、如何なる人間と雖も幸福を冀わぬ者はあるまい。幸福こそ実に人間最初にして最後の目標であるからである。幸福を得んがための学問であり、修養であり、努力であるに拘わらず、満足に掴み得る者は果して幾人あるであろうか。大部分は幸福を獲得せんと思い続けつつ、反って不幸の境遇にあり、解決の喜びを遂げらるる事なくして不帰の客となるというのが一般人の現実である。然らば幸福を得るという事はそんなに難しいものであろうか。私は否と言いたいのである。
抑々幸福とは、病気、貧乏、闘争、この三大問題の解決が基本である事は誰も知る処であるが、言うは易く実現は難く、大抵は諦めるの余儀なきに至るのである。一切は原因があって結果がある。勿論幸福とても同様であるとすれば、その原因を先ず知る事こそ問題解決の出発点であらねばならない。
従ってその原因に不明である以上、何程努力しても実現の可能性はないに決っている。然らばその原因とは何か、それを私は述べてみよう。昔から言う処の善因善果、悪因悪果とは実に千古を貫く真理である。この理を知って他人を幸福にするために努力する事こそ、自分自身を幸福にする絶対的条件であらねばならない。
処が世の中には他人の不幸を顧みずして自分だけが幸福になろうとする人間が余りにも多い事である。
一方に不幸の種を播きつつ幸福の実を得ようとするのであるから、全く愚かな話である。丁度水を押すと手前の方へ流れ、引くと先へ流れるのと同様である。
宗教が人間にとって如何に必要であるかはこの点にあるのである。即ちキリスト教の愛といい仏教の慈悲というのも、他人を幸福にする利他的観念を植えつけるのが本義である。このような簡単な道理も人間はなかなか認識し難いものである。そこで神様や仏様は種々の教義を作り、心言行の規準を示し、見えざるものの存在を教え、取次者をして誠心誠意信仰に導くのであるが、一人の人間を救うにも容易なものではないのである。それも無理はない。一般人は見えないものは信じないという教育の下に唯物思想に固っているので、中々耳を傾けようとはしないのであって、迷夢に鎖され暗黒の中を彷徨い苦しみながら、結局帰らぬ旅路へ赴くのであるから、誠に儚ない人生というべきである。
然るに、生あるうちに歓喜に浸り、法悦の境地に住し、長寿を得、真の幸福者たり得る方法がありとすれば、正にこの世は天国であり、生甲斐があるというべきである。併し乍ら言うであろう。このような苦の娑婆にいてそんな幸福者たり得る筈がないと諦めている人が一般人の考えであろう。併し我等は断言する。右の如き幸福者たり得る秘訣のある事で、それをご伝授する手引として、先ずこの雑誌を提供するのである。
(昭和二十三年十二月一日)
幸福の秘訣などというと、何か特別の魔法でも使うように思うかも知れないが、決してそうではない。至極当り前の話である。ただその当りまえの事を世人はあまりに気がつかないのである。
今社会全般を見渡した時、真の幸福者は一体幾人あるであろうか。恐らく一人もないといってよかろう。事程左様に苦悩の世界である。実に如何なる人と雖も失敗、失業、病苦、貧困、不和、懐疑、悲観等、実に首枷、足枷を箝められ、牢獄に呻吟しているというのがありのままの姿であろう。
先ず、誰しも平静になって考える時、こういう疑問が起るであろう。全体造物主である神様は、人間を造っておきながら、これ程苦しませるという事はどういう訳であろうか。何故もっと不幸よりも幸福の多い世界にしてくれないのであろうかと思わない訳にはいくまい。と考えると何かそこに割り切れないものがあるに違いない。従ってその割切れない点を誰しも知りたいであろうから、それを説明してみよう。
人間の発生した原始時代から今日只今まで厳然として存在を続けているものとしては、先ず善と悪とであろう。これは真理である。そうしてこの善悪という相反する性質のものは、常に摩擦し争闘しつつ、今以て勝負がつかないでいる。処が、よく考えると、この善悪の摩擦によって今日の如き文化の発展をみたのであるという事も又真理である。この事に就いて私はよく質ねられた事がある。それは神様は愛であり、慈悲であるとしたら、最後の審判などといって人間に悪い行いをさせ、罪を作らせておき乍ら、それを罰するというのはどうも訳が分らない。最初から悪人を作らなければ、罰も審判の必要もないではないかと言うのであるが、これは尤も千万な話で、実をいうと私もそう思っている。併し乍ら私が人間を造ったとすればその説明は容易だが、私と雖も造られた存在である以上徹底した説明は出来よう筈がない。強いて、説明をすれば神の御心はこうであろうと想像する以外、説明のしようはないであろう。とすれば、そんな穿鑿は暫くおき、先ず何よりも幸福の根源を発見し実行する事である。ではその方法はといえば常に我々のいう、他人を幸福にする事で、ただこの一事だけである。処がそれには最もいい方法がある。その方法を私は長い間実行していて、素晴しい好結果を挙げているので、それを教えたい為にこの文を書いたのである。
右を先ず簡単にいえば、出来るだけ善事を行うのである。始終間さえあれば、何か善い事をしようと心掛けるのである。例えば人を喜ばせよう、世の中の為になら妻は夫を気持よく働かせるようにし、夫は妻を親切にし安心させ喜ばせるようにする。親は子を愛するのは当然だが、叡智を働かせて子供の将来を思い、封建的でなく、子供は親に快く心服し、愉快に勉強させるようにする。その他日常総ての場合相手に希望をもたせるようにし、上役に対しても下役に対しても、愛と親切とを旨とし、出来る限り誠を尽くすのである。政治家は自分の事を棚上げにして国民の幸福を第一とし、総て模範を示すようにする。勿論一般人も一生懸命善事を行う事につとめ、智慧を揮い努力するのである。かように善事を多くした人程幸福者になる事は請合である。
以上のようにみんなが気を揃えて善事を行ったとしたら、国家も社会もどうなるであろうかを想像してみるがいい。先ず世界一の理想国家となり、世界中から尊敬を受けるのは勿論である。その結果凡ゆる忌わしい問題は解消し、我等が唱える病貧争絶無の地上天国は出現し、人民の幸福は計り知れないものがあろう事は、大地を打つ槌は外れてもこれは決して外れっこはない。
処がだ、現在としての現実はどうであろうか。凡そ右と反対で、悪事を一生懸命しようとする人間が滔々たる有様で嘘をつき人を誤魔化し、己のみうまい事をしようとして日もこれ足らずの有様である。実に悪人の社会といっても過言ではない。これでは幸福などは千里の先へ往きっきりで帰る筈はない。その上困った事にはこういう地獄世界を当然な社会状態と決めてしまって、改革等は夢にも思わないのである。然も我々がこういう地獄世界を天国化すべく活動するのを妨害する奴さえある。これこそ自分から好んで不幸者となり、最低地獄へ落ちるようなものである。こういう人間を我等から見る時、最も憐れむべき愚人以外の何物でもないと共に、我等はこれ等の人間の救われん事を常に神に祈願しているのである。
あまり長くなるからここで筆を擱くが、以上の意味をよく玩味すれば、幸福者たる事は敢えて難事ではない事を知るであろう。
(昭和二十四年十月一日)
このことについて、私は以前も書いたことがあるが、今日の世の中を見れば見る程不幸な人があまりに多いので、一層徹底的に書いてみるのである。言うまでもなく、昔から人間の運不運程厄介な問題はあるまい。誰しも人心がついてから死ぬまでの間、この考えから離れられないのが人間としての必然性であろう。というのは最も分りたいと思うことほど、最も分かり難いのが世の中の常であるからで、少しでも分るとしたら、これ程結構なことはあるまい。処が幸いなる哉、私はこの根本がハッキリ分かったのである。そればかりか実地経験によっても少しの間違いはないので、ここに確信をもって説くのである。それについては誰も知る通り、一口に運といってもこれ程茫漠たる掴えどころのないものはあるまい。然も自分ではどうにもならないので、あなた委せより致し方がないのは勿論で、これが運というものであろう。誰かが言った“人生は大賭博なり”とは宜なる哉である。従ってどんなに偉いといわれる人でも、一応は諦めてはいるが、中々悟りきれないもので、これが人間の宿命とでもいうのであろう。
そこで何とかして幸運を掴みたい一念から活動も出来る訳である。それが為ありもしない智慧を絞り、欲しい成りたいの苦労のしつづけで終わるのが人生というものであろう。そうして運位皮肉なものはない。掴もうとすればする程逃げてしまう。西洋の諺に“幸運のチャンスは前髪のようなもので、通る瞬間掴まないとお終いだ”というのが全くその通りである。私の長い経験によっても、運という奴に始終からかわれているような気がする。訳なく掴めそうで中中掴めない。目の前にブラ下がっているから手を出すとスルリとぬけてしまう。追いかけようとすればする程逃足の速いとこ、全く始末の悪い代物だ。処が私はこの運という奴を確実に掴まえたいのである。だがそれを説明するに当って困る事には、信仰者ならいざ知らず、一般人には中々分り難い点がある。というのは物を見る場合上面だけを見て中身を見ないことで、否見えないのである。処が運に限って因は中身の方にあるのだから、これが分からなければ運は決して掴めない。という訳は人間が肉体を動かす場合、肉体自身が動くのではなく、中身にある心が動かすのであるから、幸運もそれと同様中身が肝腎である。その訳を詳しく書いてみよう。
先ず右の理を押し広げるとこういうことになる。即ち上面とは現実界であり、中身とは心霊界という目に見えない空間の世界である。これがこの大世界の組織であって、造物主はそう造られたのである。故に心が肉体を動かす如く、霊界が現界を動かすのである。然も一切は霊界が主で現界が従であるから、運と雖も霊界にある霊の運が開ければいいので、そのまま体に映り幸運者となるのは勿論である。では霊界というものを一層詳しく書いてみるが、霊界は現界よりも厳正公平な階級制度になっている。それが上中下百八十の階段になっていて、六十段宛三段階に分れている。勿論上が天国、下が地獄、中間が中有界と言い、現界に相応している。こんなことをいうと、今日の人間は直ぐに信じられまいが、私は神から詳しく知らされ、その上長い間霊界と現界との関係を実地経験によって、底の底まで知り得たのであるから、寸亳の誤りはないのである。何よりもこの理を信じて実行に移し、幸運を掴んだ人は今までに数え切れない程あるばかりか、私自身としてもその一人である。それは私を客観的に見ればすぐ分る。私が如何に幸福な境遇であるかである。
そこで今一歩進めて右の段階を説明してみるが、前記の如く人間の体は現界に、霊は霊界にあるとしたら、百八十段中のどこかにいる筈であって、つまり籍のようなものである。然もこの籍は一定しておらず、絶えず上下に移動しており、運命もそれに伴なう以上、人間は出来るだけ上段に昇るよう心掛くべきである。言うまでもなく下は地獄界で、病気、貧乏、争いは勿論、魑魅魍魎、百鬼夜行、暗黒無明の世界であって、凡ゆる苦悩が渦巻いている。これに反し上段へ行く程反対によくなり、天国浄土的平和光明、健富和の理想境であり、中段は中位である。以上の如く霊界の籍通りが体に移り、運命となるとしたら、霊の地位向上こそ幸運の根本であることが余りにも明らかである。何よりも事実を見ても分る通り、世間よく出世をして人から羨まれるようになり、自分もいい気持ちになって、いつまでも続くと思っていると、豈計らんやいつしか失敗転落、元の木阿弥となる例もよくなる。というのはこの理を知らず、人力にのみ頼りすぎるからで、然も人を苦しめ、無理をする結果、形だけは成功しても、霊は地獄に落ちているので、霊主体従の法則により、その通りの運命となるのである。そうして霊にも物質と同様重量があり、重ければ地獄に落ち、軽ければ天国に上る。昔から罪の重荷というが、その通りで、悪の行為は霊が重くなるに反し、善の行為は軽くなり上へ昇るのである。故に人間は悪を慎み、罪を作らないようにすることで、できるだけ善を行い、霊を軽くすることこそ幸運の秘訣である。これが真理である以上、これ以外方法のないことは断言するのである。といっても成程理屈は分るが、さて実行となると中々難しいものである。ところが容易に出来る方法がある。これこそ信仰であるから、幸運を得たい人は何をおいても、先ず信仰に入ることである。
(昭和二十九年二月三日)
昔から宗教と名のつくものは、例外なく戒律が主となっており、それを御説教によって教えたのは誰も知る通りであるが、我が救世教に至っては、御説教が非常に少ないのは信者も知る通りで、これに対し幾らかの疑問をもっている人もあるであろうし、又未信者から訊かれた場合その理由を話さなければならないであろうから、それを書いてみよう。言うまでもなく宗教の目的は、改過遷善にあるのだから、それには魂の曇りを除る必要がある。魂さえ清くなれば悪い事は出来なくなり、世の為人の為に善を行う立派な人間になるからである。
それに対し耳からの教えによって、魂を清める手段が御説教であり、目からと言霊からそうするのが、バイブルや経文、お筆先等であるのは勿論だが、本教は耳から目から、又言霊からの清めもあるが、更に浄霊法がある。
本教浄霊は病気を治すのが目的ではない。浄霊とは幸福を生む方法である。というのは単に病気といっても勿論浄化であり、その因は霊の曇りの解消作用であるのは今更言うまでもないが、そればかりではなく、人間一切の苦悩のなくなる作用である。
従って貧乏も争いも浄化の現われで、私の言う病貧争悉くがそれである。処が一切の浄化作用の中で最も重要なのが病気であって、これは生命に関するものであるからで、従って病気さえ解決出来れば、貧乏も争いも自然に解決されるのは当然である。勿論そうなる事が幸福の根本であるから、不幸の原因は全く霊の曇りであるのは、余りにも明らかである。それで簡単にして確実な方法こそ、霊の曇りの解消法としての浄霊であるから、最初に述べた如く浄霊は病気に対してのみではない事は勿論である。それについて一層詳しく書いてみよう。
以前書いた事があるが、人間の体は現界に呼吸しており、霊は霊界に生きている以上、霊界の状態がその儘霊身に影響し、それが肉体に映るのであるから、人間の運命のその根本は霊界にあるのである。そうして霊界も現界と等しく、上中下多数の段階になっており、これを分ければ大別して三段階になっている。そのうちの一段が六十階、それが三分され二十段ずつになって、合計百八十階級である。そうして一は主神であるから主神以外は如何なる神様でも、百八十一のうちのどれかの段階におられるのである。右は経を言ったものであるが、今度は緯を言ってみると、緯の広がりの一つ一つの段が地獄から天国までそれぞれ異っているから、仮に現在自分の霊とすると、下の六十段のその又下の二十段におる場合は、最低地獄に相応するから、これ以上ない程の苦悩に満ちた世界で、これが体に映って苦境のドン底にある訳である。又その上の二十段に上ると幾分楽になり、その又上の二十段はもっとよくなるというように、それぞれの段階一段々々その苦楽の違うのは勿論である。それで右の如き下の六十段を突破すると、今度は中の段階になる。即ち中有界、八衢であるから、現界に相応するので、その又中から上の六十段へ入ると、ここは天国であるから天人の地位となり歓喜悦楽の境遇となるのである。
右のようにその人のいる段階そのまま通りが運命に現われるのだから、一段でも上に行くよう心掛けるべきで、上になる程益々苦しい忌わしい事がなくなり、幸福は増すのである。つまり浄化すべき苦痛の必要がなくなるからである。だから人間は霊身が下段にある間は、どんなに智慧を振い、骨を折っても駄目である。というのはこれが神の天則であって、霊主体従の法則も厳として冒す事が出来ないからである。故に幸福になるには、どうしても絶対の神を信じ敬い、神意を汲んで実行し、善徳を積み、霊を浄めて天国に霊籍をおくよう心掛くべきで、それ以外に方法は絶対にないので、ここに浄霊の大いなる意義があるのである。
(昭和二十七年八月二十五日)
宿命と運命に就いてよく訊ねられるから説明をする。
先ず宿命とは、その人に与えられた決定的のものであるから、聊かも変えることは出来ない。しかるに運命は限定された或る枠内の中は自由自在で、その人の努力次第で、枠内の最上位にまでは到達なし得ると共に、その反対であれば、下位に転落するのである。
今日人々の関心事となった自由主義なるものも、右の運命とよく似ている。何となれば、真の自由主義とは、或る一定の枠内に制約されているものであって、無限の自由は決してあり得ない。真の自由とは限度のある、即ち有限の自由である。故にその枠を越えた場合、それは他人の自由を侵害することとなり、文化の反逆者となることは、運命の枠を越ゆる場合、失敗者となるのと同様の理である。
(昭和二十三年九月五日)
人間は昔から好いにつけ悪いにつけ、どうも運命だから仕方がないと諦めたがる癖があり、運命というものは不可抗力なものと決めているのは、誰も知る通りである。処が私は運命は誰でも自由自在に変えられるという事を教えようと思う。というのは元来運命は人間が作るように出来ているもので、この真相が分ったなら、この世の中は悲観処か大いに楽観していいのである。
言うまでもなく精神病者でない限り、どんな人でも不幸な運命にはなりたくない、何とかして幸福を掴みたいと思うのは当たり前な話で、その為血の汗を絞り、命を的にしてまでも一生懸命になっているのは、人間通有の欲望であるにも拘わらず、本当に幸運を掴み得る人は、果して幾人あるであろうか。先ず百人に一人も難かしいといってよかろう。とすれば幸福者たるにはどうすればいいかという事になり、迷いに迷った揚句の果が彼の世往きとなるのだから、何と心細い人生ではなかろうか。お釈迦さんの言われた通り、全く諸行無常の娑婆である。とはいうものの偶には本当に幸運を掴む人も、万人に一人位はないではないから、そういう人を見る世人はつい諦め切れず夢を追う事になるので、それで世の中はいいのだと悟りを開く人もない事はない。もし本当に幸運を掴み得る方法があるとしたら、これ程結構な事はあるまい。誰もそれが分らないので不幸な運命を作ってしまうのである。つまり自分で牢獄を作り、その中へ入って苦しむ訳で、事実このような愚劣憐れむべき人で世の中は一杯である。では幸運者となるにはどうすればいいかと言うと、分り切った話であるが、善の種を蒔けばいいので、昔からいう善因善果、悪因悪果の言葉通りであるから、悪の種とは人を苦しめ、損害を与え、自分さえよければ人はどうでもいいというような利己的観念で、善の種とは他人を喜ばせ、他人に利益を与える利他愛観念である。としたら甚だ簡単のようだが、それが中々難かしいので、人生は厄介なものである。ではどうすればいいかというと、右の道理を信じ、守り得られる心を作る事で、そうなれば嫌でも実行するからである。それには勿論信仰より外ないが、ここで注意すべきは単に信仰といっても色々あるから、充分選択しなくてはならないのは言うまでもない。処で自画自讃ではないが、我が救世教こそその条件に最も合致している信仰であるから、不幸に苦しんでいる人は、一日も早く入信される事をお勧めする次第である。
(昭和二十七年二月二十七日)
これから運命に就いて書いてみるが、ここで知っておかねばならない事は、世人はよく宿命と運命とを同一にしている事である。併しこれは全然違うのでそれを書いてみるが、宿命とは生まれ乍らに決ったものであるが、運命の方は人間次第でどうにでもなるもので、この点を知らなくてはならいのである。誰でもそうだが、いくらああしたい、こうなりたいと思っても、中々思うようにゆかないのが、前記の如く人各々の宿命という枠で決められているからで、それから抜け出る事は無論出来ないようになっている。従って人間は自分のもって生まれた宿命の限度をハッキリ知る事が肝腎であるが、実はこれが中々難かしいので、寧ろ不可能といってもいい位である。
この限度が分らない為、自分の力以上の計画を立てたり、身の程知らずの望みを起したりするので失敗するのである。処がその場合でも早いうちに気がつき、一旦陣を引いて出直せば苦しみも軽くて済むが、宿命の限度が分っていないから、無理に押し通そうとするので失敗を大きくするのである。又世の中を甘く見すぎた為であった事も勿論である。そんな訳で盛り返そうとしては失敗し、出直そうとしては腰を折られ、散々な目に遭ってやっと目が覚める人が大部分である。併しまだ目が覚めればいいが、中には不幸のドン底に陥ったまま死ぬまで目が覚めない人も大いにあるが可哀相なものである。以上は信仰のない人の運命を書いたのであるが、そこへゆくと信仰者は別である。
それについては霊の方面から説かねばならないが、つまり一切の苦しみは浄化作用である。浄化作用といえば病気だけのように思うかも知れないが、決してそうではない。総ての悩み苦しみの因は悉く浄化作用である。例えば人に瞞され損をする、火事で焼ける、怪我や泥棒、家族の不幸、商売上の損や失敗、金の苦しみ、夫婦喧嘩、親子兄弟の仲違い、親戚知人との争いなど何も彼も浄化作用である。このように普通浄化作用といえば苦しみで曇りを除るより方法はないから、曇りがあるだけは免れる事は出来ないので、曇りを減らすのが開運の絶対的条件である。つまり或る程度魂が浄まれば浄化の必要がないから不幸が幸福に変る事になる。これが真理であるから、運は寝て待てではなく、運は浄めて待てというのが本当である。
処が前記のように苦しまないで魂が浄まるその方法が信仰であるから、無信仰者に幸福は絶対ない訳である。併し信仰にもいろいろあるから、立派な力のある信仰でなくては真の幸福は得られない。そこへゆくと我が救世教こそ右の条件に叶う宗教である事を知らねばならない。
(昭和二十七年十月二十五日)
抑々、真の信仰とは言語行動が常識に外れない事を主眼としなければならない。世間よくある神憑式や、奇怪な言説、奇矯なる行動等を標榜する信仰は先ず警戒を要すべきである。処が多くの人はそういう信仰を反って有難く思う傾向があるが、これ等は霊的知識のない為で無理もないが、心すべきである。又自己の団体以外の人々と親しめないというような独善的信仰も不可である。真の信仰とは世界人類を救うのが宗教の使命と信じ、自己の集団のみにこだわらず、排他的行動をとらないようにするのが本当である。丁度一国の利益のみを考え他国の利益を無視する結果、惨澹たる敗戦の苦杯を嘗める事になった終戦前の日本を鑑みれば分るであろう。
私は信仰の究極の目的は、完全なる人間を作る事であるとも思う。勿論世の中に完全という事は望み得べくもないが、、少なくとも完全に一歩々々近づかんとする修養--これが正しい信仰的態度である。故に信仰に徹すれば徹する程、平々凡々たる普通人の如くに見えなくてはならない。そうなるのは信仰を咀嚼し、消化してしまったからである。その人の言動が如何に常識的であり、万人に好感を与え、何を信仰しているか分らない位にならなければ本当ではない。人に接するや軟らかき春風に吹かれる如くで、謙譲に富み親切であり、他人の幸福と社会福祉の増進を冀うようでなくてはならない。私は常に言う事であるが、先ず自己が幸福者たらんとするには他人を幸福にする事で、それによって与えらるる神の賜物が真の幸福である。然るに自己のみの幸福を欲し他人を犠牲にするというが如きは、全く逆効果以外の何物でもない事を知るべきである。
(昭和二十三年九月五日)
先ず宗教とは何ぞやといえば、言うまでもなく宗教理論や宗教哲学を難かしく説く事ではなく、帰する処正しい人間を造る事であって、それ以外の何物でもない。併し口で言えばそれだけの事で甚だ簡単であるが、実際上その簡単な事がとても難かしいのである。論語に「言うは易く行うは難し」という言葉があるが、全くその通りである。としたら、何でそのように難かしいかを書いてみよう。
如何なる人間でも、偉くなるにも金を儲けるにも出世をするにも、大抵の人は善い事ばかりでは駄目だ、どうしても幾分かの悪い事が交るのも止むを得ないというように思い込んでいるのが実情である。然も楽しみや遊び事に対してさえも、善い事よりも悪い事の方が面白いとされている。右のような考え方が何百何千年も続いて来たので、遂に人間処世の常識とさえなってしまったのである。昔からこれに対し、法律や道徳教育等によって改善しようと骨折っては来たが、その効果は甚だ微々たるものである。とすればどうしても宗教より外に方法のない事は今更いうまでもない。併し単に宗教といってもその力の強弱が大いに関係する。それは力の足りない宗教ではどうしても悪に勝つ事が出来ない。宗教信者でありながら非行に打ち勝ち得ないものもその為である。如何なる宗教でも本当に正義を貫く信者は寥々たる有様である。
以上によってみる時、その結論としては、悪に打ち勝つ力ある宗教が現われなくてはならない。それによってのみ、より善い社会も幸福な平和世界も生まれるのである。我等が唱える信仰即正義とはこれを言うのである。
(昭和二十五年六月三日)
支那の碩学朱子の言に「疑は信の初めなり」という事があるが、これは全く至言である。私は『信仰は出来るだけ疑え』と常に言うのである。世間種々の信仰があるが、大抵はインチキ性の多分にあるものか、そうでない迄も下の位の神仏や狐、狸、天狗、龍神等を的としたものが多く、正しい神を的とする信仰は洵に少ないのである。従って厳密に検討を加える時、大抵の宗教は何等かの欠点を包含しているものであるから、入信の場合何よりも先ず大いに疑ってみる事である。決して先入観念に捉われてはならない。何程疑って疑り抜いても欠点を見出せない信仰であれば、それこそ信ずる外はないであろう。然るに世の中には最初から「信ずれば御利益がある」という宗教があるが、これは大いに誤っている。何となれば些かの御利益も認めないうちから信ずるという事は、己を偽わらなければならない。故に最初はただ触れてみる。研究してみるという程度で注意深く観察し、出来るだけ疑うのである。そうして教義も信仰理論も合理的で非の打ち所がないばかりか、神仏の御加護は歴然として日々奇蹟がある程のものであれば先ず立派な宗教として入信すべき価値がある。又こういう宗教もある。それは信者が他の宗教に触れる事を極端に嫌うのであるが、これ等も誤っている。何となればそれはその宗教に欠点があるか、又は力が薄弱である事を物語っている。最高の宗教であればそれ以上のものは他にない筈であるから、他の宗教に触れる事を恐れる処か反って喜ぶべきで、その結果自己の信ずる宗教の優越性を認識し、却って信仰は強まる事になるからである。
併しこういう事も注意しなくてはならない。それは相当の御利益や奇蹟の顕われる場合である。正しい神仏でも人間と同様上中下あり、力の差別がある。二流以下の神仏でも相当の力を発揮し給うから御利益や奇蹟も或る程度顕われるので、大抵の人は有難い神仏と思い込んでしまう。処が長い間には二流以下の神仏では往々邪神に負ける事があるから、種々の禍いとなって表われ苦境に陥る場合があるが、一度信じた以上何等かの理屈をつけ、神仏の力の不足など発見出来ないばかりか、反って神仏のお試し又は罪穢の払拭と解するのである。
信仰者にして病気災難等の禍いがあり一時は苦しむが、それが済んだ後はその禍い以前よりも良い状態になるのが、上位の神仏の証拠である。即ち病気災難が済んだ後は、罪穢がそれだけ軽減する結果霊的に向上したからである。それに引換え禍いが非常に深刻であったり長期間であったり、絶望状態に陥ったりするのは、その神仏の力が不足の為邪神に敗北したからである。
世間よく凡ゆる犠牲を払い、熱烈なる信仰を捧げて祈願するに関わらず、思うような御利益のないのは、その人の願い事が神仏の力に余るからで、神仏の方で御利益を与えたくも与えられ得ないという訳である。このような場合、これ程一生懸命にお願いしてもお聞届けがないのは、自分は最早神仏に見放されたのではないかと悲観し、この世に神も仏もあるものかと思い、信仰を捨てたり自暴自棄に陥ったりして益々悲運に陥るという例はよく見る処である。こういう信仰に限って断食をしたり、お百度詣りをしたり、茶断ち塩断ちなどをするが、これは甚だ間違っている。個人的にどんな難行苦行を行ったとしても、それが社会人類に些かの裨益する処がなければ徒労に過ぎない訳で、こういう方法を喜ぶ神仏があるとすれば、勿論二流以下の神仏か又は狐、狸、天狗の類である。故に正しい神仏であれば、人間が社会人類の福祉を増進すべき事に努力し、その効果を挙げ得た場合、その功績に対する褒賞として御利益を下し給うのである。序でに注意するが昔からよく「鰯の頭も信心から」という事があるが、これは大変な間違いであって、すべて信仰の的は最高級の神仏でなければならない。何となれば高級の神仏ほど正しき目的の祈願でなくては御利益を与えて下さらないと共に、人間が仰ぎ拝む事によって清浄なる霊光を受けるから、漸次罪穢は払拭されるのである。鰯の頭や低級なる的に向って如何に仰ぎ拝むとも、低級霊から受けるものは邪気にすぎないから、心は汚れ自然不善を行う人間になり易いのである。それ等を知らない世間一般の人は神仏でさえあれば皆一様に有難いもの、願い事は叶えて下さるものと思うが、それも無理はない。尤も昔から神仏の高下正邪等見分け得るような教育は何人も受けていないからである。そうして、狐、狸、天狗、龍神等にも階級があり、力の強弱もあり、正邪もあるが、頭目になると驚くべき力を発揮し、大きな御利益をくれる事もあるから、信者も熱心な信仰を続けるが、多くは一時的御利益で、遂には御利益と禍いとが交互に来るというような事になり、永遠の栄は得られないのである。以上説く処によって、信仰の場合一時的御利益に眩惑する事なく、その識別に誤まりなきよう苦言を呈するのである。
(昭和二十三年九月五日)
霊憑りの危険な事は、常に私は注意しているに拘わらず、今以て止めない人があるが、これは断然やめるべきである。それについて何故悪いかを詳しく説明してみるが、霊憑りの八、九割迄は狐霊であって、狐霊の九割九分までは邪霊であるから、人を瞞す事など本能的であり、人間に悪い事をさせるのは何とも思わない処か、むしろ面白くて仕様がないのである。という訳で彼等の中でも高級な奴になると、憑依する場合何々神だとか、何々如来、菩薩、龍神などと言い、本人にもそう思わせると共に、人にも信じさせようとするので、御本人もすっかりその気になってしまい、生神様扱いにされて多くの人から敬われ、贅沢三昧に耽るのがよくあり、これが狐霊の本性である。そうして狐霊中でも劫を経た奴になると、相当神通力を有っており、人間に憑依するやその人の思っている事は何でも分るから、それに合わせて色々なたくらみをする。例えばその人が神様のように人から尊敬されたいと思っていると、いつしか憑依してしまい、本人の思惑通りにとりかかる。自分はこれこれの立派な神の再来だとか、最も多いのは〇〇〇〇神の御名を僣称することで、これは誰も知っているが、そうかと思うといとも巧妙に、この人はと思う人には自分との因縁を結びつけようとしたり、多少の奇蹟も見せるので善男善女は一杯くってしまうのである。これは世間よくある話で、方々にある流行神などは皆この類で勿論こういうのはイッパシ腕のある狐霊で、世間の甘い人達はつい瞞されてしまう。また中には無暗矢鱈に金を欲しがる人があると、それを知る狐霊は、憑依するや悪智慧を働かせて、巧く金を掴めるようにするが、勿論手段を選ばず式で、大抵は罪を犯させ、一時は巧くゆくが結局は失敗してしまい、その筋の御厄介になる者さえよくある。また女を得たい人間には巧妙にその女に接近させ、女の関心を得るよう甘い言葉や手段を用い、時には暴力を振う事さえあるのだから危い話である。そのように元々動物霊であるから、善も悪もない。只人間を道具にして自由自在に躍らせればいいので他愛ないものである。このように狐の方が人間より一枚上になるから、万物の霊長様も情ない話で、これが分ったなら人間様も余り威張れたものではあるまい。その他狐霊の外、狸霊、龍神、悪質天狗等も憑って人間を誑すが、その中でも邪悪の龍神が最も恐るべきものである。本来龍神なるものは、並々ならぬ強い力と、そうして智慧を有っているから、人間を自由にし、場合に依っては人に傷害を与えたり、命をとる事等朝飯前である。昨年の事件の時なども、多くの悪龍が活躍した事は以前も書いたが、そういう場合血も涙もない残虐極まるものである。しかも狐霊などとは違い、龍神は智能的で、悪智慧が働くから思想的にも人間を自由にする。何々主義などといって悪質犯罪を平気でやらせ、社会に害毒を流すのも原因の多くはそれである。そこへゆくと狸霊や天狗の霊は大した事もないが、ただ天狗は霊力が強いのと、学問のあるのが多いので、彼等の中の野心家はそういう人間を掴えて躍らせ、世間に名声を博し、出世をさせて大いに威張りたがる。そのような訳で、天狗の霊憑りは昔から禅僧、学者、宗教の創立者などに多く、長続きする者は至って少ないのである。以上憑霊に関しての色々な事を書いたが、ここで充分知って置かねばならないのは、単に邪神といっても個性的に悪い事をするのではない。その奥に邪神を操っている頭目があって、此奴こそ最も恐るべき存在である。この頭目の力には大抵な神も歯が立たない位である。処がこの邪神の頭目は陰に陽に絶えずわれわれの仕事を妨害している。特に本教は邪神にとっては一大脅威であるから、彼等の方でも頭目中の頭目が対抗しているので、これこそ正邪の大戦いである。
処がここに注意すべき重要事がある。それは本教信者は自分は御守護が厚いから大丈夫だ、邪神など容易には憑れるものではないと安心しているその油断である。この考え方が隙を与える事になり、邪神は得たり賢しと憑依してしまう。然も小乗信仰者で熱心であればある程憑り易いから始末が悪い。いつも私は小乗信仰を戒めているのはそういう訳だからである。何しろ邪神が憑るや小乗善にもっともらしい理窟をつけて押し拡げ、うまく瞞すので大抵な人はそれを善と信じ切って一生懸命になるのだが、何しろ根本が間違っている以上、やればやる程結果がよくないから焦りが出る。そうなると人の忠告など耳へも入らず、益々深味に嵌ってしまい、二進も三進もいかなくなって失敗する人がよくあるが、こういう人も早い内目が醒めればいいが、そうでないと何が何だか分らなくなってしまい、御蔭を落す事になるから、小乗善の如何に恐ろしいかが分るであろう。小乗善は大乗の悪なりと私が常にいうのはこの事である。またこの点一番よく分るのは小乗善の人は必ず常軌を逸する事で、これが奴等の狙い処であるから、何事も常識眼に照らして判断すれば間違いないので、全く邪神の苦手は常識であるから、私は常に常識を重んぜよというのである。この例は世間に有りすぎる程ある。よく奇矯な言動をよいとする信仰や、同様の主義思想、神憑り宗教などもその類であって、何れも問題を起し、世間を騒がす事などよく見聞する処である。
そうして右の理は霊的にみてもよく分る。何しろ狐、狸等は動物霊であるから、人間より以下である。従ってこれを拝んでいると四つ足の居所は地上であるから、人間は地の下になり、霊界では畜生道に落ちている訳で、霊界の事は一切現界に映るから、その人は地獄に落ちているのである。
しかしながら同じ狐霊でも、全部が全部悪い訳ではない。稀には正神界に属する正しい狐もある。それらは正神界のお使いであって白狐である。白狐は神界の御用に勤んでおり、なかなか役に立つものである。というのは狐は霊的には種々な特徴を有っており、悪もそうだが、善の場合もなかなか力があり、好い働きをするものである。
(昭和二十六年十二月五日)