人間生活に於て何事もそうであるが、特に観音信仰に於ては円転滑脱自由無碍でなくてはいけない。円転とは丸い玉が転がるという意味であるから、角があっては玉が転がらない。世間よくあの人は苦労人だから角が除れてると言うが、全くその通りである。処が世の中には角処ではない。金平糖のような人間がいる。こういうのは転がる処か、角が突っかかってどうにもならない。そうかと思うと自分で型を作ってその中へ入り込み苦しむ人もある。それも自分だけなら未だいいが、他人までもその型の中へ押込んで苦しませるのをいいと思う人があるが、これ等は小乗的信仰によくある型で、所謂封建的でもある。こういうやり方は信仰の上ばかりではない。社会生活に於てもカビ臭くて、鼻もちがならない。
そうして自由無碍という事は型や枠を作らない、戒律もない、天空海闊の自由で、無碍もそういう意味である。ただ自由といっても我侭主義ではない。人の自由も尊重する事は勿論である。
観音信仰は大乗信仰であるから、戒律信仰とはよほど違う点がある。併し戒律信仰は、戒律が厳しいから中々守れない。止むなくつい上面だけ守って蔭では息つきをやるという事になる。つまり裏表が出来る訳でそこに破綻を生ずる。と共に虚偽が生まれるから悪になる。この理によって小乗信仰の人は表面が善で、内面は悪になるのである。それに引替え大乗信仰は人間の自由を尊重するからいつも気持が楽で、明朗で、裏表などの必要がない。従って、虚偽も生まれないという訳で、これが本当の観音信仰であり、有難い処である。
又小乗信仰の人は不知不識虚偽に陥るから衒いたがる。偉くみせたがる。これが臭気芬々たる味噌になって甚だ醜いのである。そればかりか反って逆効果となり、偉く見えなくなるものである。小人というのはこういう型の人である。
又こういう事がある。私は普請をする時にはいつも職方と意見が違う。どういう訳かというと、職方はただ立派に見せようとするので、それが一種の嫌味になるから私は直させる。人間も右と同様で偉く見せないようにする人はすべて謙遜となり、奥床しく見えるから、そういう人は心から尊敬されるようになる。故に観音信者は心から尊敬される人にならなければならないのである。
(昭和二十四年四月二十日)
私は今迄幾度となく、伊都能売の身魂の事を言ったり書いたりしたが、余程難かしいと見えて、真に行える人は何程もないようである。処が決してそう難かしいものではない。根本が分って習性にしてしまえば案外容易に実行出来るものである。実行出来ないというのは、非常に難かしいと思うその先入観念の為である。と共にそれ程重要な事と思っていない点もあるように思うから、幾度も書かない訳にはゆかないのである。
伊都能売とは一言にしていえば、偏らない主義で、中道を行く事である。小乗に非ず大乗に非ず、といって小乗であり、大乗であるという意味である。つまり極端に走らず、矢鱈に決めてしまわない事である。そうかといって決めるべきものは勿論決めなくてはならないが、その判別が難かしいと言えばいえるので、言わば料理のようなもので、甘すぎていけず、辛すぎてもいけないという丁度良い味である。これは又気候にも言える。暑からず寒からずという彼岸頃の陽気で、この頃が一番快いのである。というように人間の心の持ち方も行いも、そういうようになれば、第一人から好かれ、万事旨くゆくのは当然である。処が今日の人間はどうかというと、実に偏りたがる。これがよく表われているのが彼の政治面であろう。今日右派とか左派とかいって、初めから偏した主義を標榜している。従って物の考え方が極端で、然も我が強いと来ているから、年中争いが絶えない。という訳でこれが国家、人民に大いにマイナスとなるのである。この意味によって政治と雖も伊都能売式でなくてはならないのは当然だが、そこに気のつく政治家も政党も中々出そうもないらしい。又、戦争の原因もそうで、この両極端の主義を通そうとする思想から生まれるその結果である事は勿論である。
そうして信仰上の争いもよく検討してみると、ヤハリ小乗と大乗、即ち感情と理性との相違からである。だからその場合、経の棒を半分短かくし、緯の棒も半分縮めれば一致するから、円満に解決出来るのである。従ってよく考えてみれば仲直りも大して難かしいものではないのである。それに就いてこういう事もよくある。
即ち如何なる方面にも保守派と進歩派が必ずあって、宗教でもそうである。この二者の争いを見ると、前者は古い信者で伝統墨守的頑なで、新しい事を嫌う。先ず丁髷信仰ともいえるが、後者の方は進歩的ではあるが、新しさに偏して何事も古きを排斥したがる。そこに意見の不一致が起り、相争う事になるが、これ等も伊都能売式になれば何なく解決出来るのである。そうして肝腎な事は宗教と雖も、時代精神を深く知る事である。処が宗教人はどうも時代に無関心で、寧ろこれをよいとさえしている傾向が強い。何百何千年前の伝統を金科玉条としている。成程信仰は精神的なもので、経であり、永久不変の真理であるから、曲げられないのはいいが、経綸の方はそうはゆかない。これは物質面であるから、時代相応に変遷するのが本当である。即ち精神物質両方の完全な働きで、即ちどこ迄も伊都能売式で行かなくてはならない。てはならない。
右の意味に於て、今日釈迦やキリストの時代と同じように思って、その教えや行り方をその侭実行しても、現代人の魂を掴む事は到底出来ないのは言うまでもない。既成宗教の振わないのもその点にある事を知らねばならない。要するに伊都能売の働きこそ、一切の根本的真理である事が分ればいいので、私が常に伊都能売の意義を説諭するのもその為である事を、信者諸君は充分心得て貰いたいのである。
(昭和二十七年四月二十五日)
単に信仰といってもいろいろ種類がある。ざっと書いてみるが、(一)お蔭信心。(二)景場信心。(三)有難信心。(四)利用信心。(五)神憑信心。(六)身欲信心。(七)たがる信心。(八)御無沙汰信心。(九)浮気信心。(十)気紛れ信心。(十一)鰹節信心。(十二)贋信心。--等々がある。
これ等を一つ一つ解説してみるが--
ただお蔭さえ貰えばいい。神様の為とか世の中の為とか、そういう事は第二義的で、自分さえよければよいという利己的信心で、これ等は多く中流以上の人に多い。信仰を利用する事は知っても、神に感謝し、報恩する事を知らないのである。そうして信仰を利用するという事は人間が上で神が下になる。神を崇め奉仕する事こそ神から恵みを受けるのであるから、このお蔭信心は反ってお蔭をなくする訳で、長続きしないものである。
その宗教が世の中に埋っている間は甚だ不熱心であるが、一度世の中に知れ渡り、世間から何や彼や言われるようになると、急に思い出したように神様に接近し働きたがる。
これはただ有難い有難いで、客観的には洵に立派な信仰者のように見えるが、神様の大目的たる人類救済というような大きな考えはない。極めて小乗的だから、さっぱり働きがないから、枯木も山の賑やかし程度である。
その宗教を利用して一儲けしようとしたり、何等かの野心を包蔵しているなかなか狡い信仰である。こういう人は利用不可能と知るやサッサと逃げてゆく。
やたらに神憑りが好きで、神憑りを扱うのをよいとし霊界の事を知りたがるのである。これはさほど悪くもないが本筋ではない。何故なれば心霊研究会のやる仕事で、低級霊のご託宣を信じ易く、外れるようなくだらない予言を有難がるので、先ず邪道である。
欲一方で信心する。世間によくある〇〇様や〇〇稲荷等へ月詣りしたり、金銭や供物を上げてご利益目当てに信仰し、社会や人間の不幸などはテンデ思った事もないという、先ず最もありふれた種類のものである。
威張りたがる、貰いたがる、人からよく思われたがる、よく言われたがる、褒められたがるというように、自己愛から離れ切れない誠に浅はかな信仰で、これ等も先ず低級信仰の部類である。
忘れた時分にやってくる。あまり御無沙汰だから、信仰をやめたのかと思うとそうでもない。何を思い出したのか、亡霊のようにフラフラやって来る。これ等は寧ろ信仰をやめた方がよいと思う。
一つの信仰を守れない、種々の信仰をやってみたがる、今日は向うの岸に咲く浮草式。だから本当のご利益などは決して戴けない。といって何か信仰がなければ淋しい、迷いが多過ぎる、人から一寸話を聞くとすぐその気になる。これは寧ろ不幸な人である。
甚だ気紛れで、浮気信心と同様、一つの信仰へ熱中する事は出来ない。次々変える。つまり宗教遍歴者である。この種の人は割合インテリに多い傾向がある。
神様や信仰をダシにして自分の欲を満たそうとする。身欲信心と同じで宗教団体にはよくある型で、指導者、学者等のエラ方に多い。
表面信仰者らしく見せかけて肚の底は全然神を認めない。そしてこの種の信者に限って非常に口がうまいから最初は大抵騙される。併し長くは神様が許さないから、遂に尻尾がバレて逃げだしてしまう。
右のうちどれにも該当しない信仰でありとすれば、それは正しい信仰である。
(昭和二十四年八月三十日)
これは以前も書いた事があるが、本来人間というものは、神様の御目的たる理想世界を造る役目で生まれたものである以上、その御目的に叶うようにすれば、いつも無病息災愉快に働ける。これが不滅の真理である。処が何しろ祖先以来の罪穢があり、又生まれてからも、本当の事を知らないが為毒をやたらに入れるので、それが為反って病気を増す事もあるが、これも止むを得ないのである。併し神様は、お役に立つ人が病気の為働けないとすれば神様の方では損になるから、速かに治して下さるのは当然で、何等心配はないのである。処がそれを知らない人達は、薬を唯一のものとし、病気を抑えるのみであるから、全く霊体一致の真理に外れており、完全に治る訳には行かないのである。
この事は独り病気ばかりではない。それ以外凡ゆる災も同様であって、総ては浄化作用である。併し同じ浄化作用でも原因によっては浄化の形も自ら違うのは勿論である。例えば金銭や物質の罪である盗み、遣込み、人に損をかける、分不相応の贅沢をする等々の罪穢は、ヤハリ金銭や物質で償われる。世間よく金持の息子などが道楽者で、親の遺した財産を湯水のように使う事等も、親や祖先の罪障消滅をさせられるのである。それというのは、祖霊が自分の血統を絶やさぬよう、益々一家繁栄を望む為、子孫の中の一人を選んで浄化に当らせるのであるから、この場合何程意見しても糠に釘である。
例えばここに二人の兄弟があり、兄はドラ息子で手がつけられないが、弟は律儀真道であるとする。一寸考えると、兄の方が悪く、祖先の名を傷つけるように思えるが、大乗的にみるとその反対である。何故なれば祖先の罪穢を消す点から言えば、兄の方が上だからである。というように、人間の考えで善悪は決められるものではない。
又、火事で焼け、泥坊に盗られ、詐欺に遭い、相場や競馬、競輪等で儲けようとして損をしたり、商売の失敗、病気で金を使う等々、総て物質の罪は物質で浄化されるのであるから、仮令人間の法律は免れ得ても、神の律法は絶対であるから、どうしようもない。
従って人間の眼を誤魔化す罪は眼病、耳に痛いような言葉の罪は耳の痛みや舌の病、人の頭を痛めるような行為は頭痛、自己の利益のみに腕を奮う罪は腕の痛みというように、総て相応の理によって浄化が行われるのである。
又こういう事もある。それは信仰へ入ってからの苦しみである。しかも熱心になればなる程一層苦しむものである。
そこで信仰の浅い人はつい迷いが起るが、この時が肝腎である。この理は何かというと、神様はその人の熱心に対して、早く御利益を下されようとするが、まだ汚れがあるから浄めねばならないので、入れ物の掃除としての浄化である。その場合少しも迷わず辛抱さえすれば、それが済むや思いもかけない程の結構なお蔭を戴けるものである。
これについて私の経験を書いてみるが、私は二十年間借金に苦しめられ、いくら返したいと焦っても駄目なので、到頭諦めてしまった。それが昭和十六年になって漸く全部返す事が出来たので、ヤレヤレと思った事である。すると翌十七年になるや思いもかけない程の金が入り始めたので、今更ながら御神意の深さに驚いたのである。
又世間よく焼太りなどと言うが、これも浄化が済んだから運がよくなった訳である。かの熱海の火事にしてもそうで、焼ける前と今日とを比べたら、雲泥の相違である。以上によってみても、善い事は無論結構だが、悪い事も浄化の為で、それが済めばよくなるに決っているから、ドッチへ転んでも結構な訳で、無病結構、病気結構としたら、これこそ真の安心立命である。と言ってもこれは信仰者に限るので、無信仰者は寧ろ反対であり、苦しみが苦しみを生み、焦れば焦る程悪くなるばかりで、遂には奈落の底へ沈むようになる。この理によって人間の幸福の秘訣はこの道理を弁える事である。
(昭和二十八年十二月二日)
罪穢と病気の関係については、宗教方面において多く唱えられてきた。これは事実であるが、私は霊的医術の見地から説くつもりである。
前項に述べたごとく、人は悪を思い、悪の行為を重ねるに従って漸次曇りが増量する。然るに曇りの濃度がある程度に達するとき、それを解消すべき自然浄化作用が起る。勿論霊界における鉄則であるから、如何なる人といえども免れ得ない。そうして右の浄化は多くの場合病気となって現われるが、時としては他の形すなわち種々の災害等によることもある。勿論右の曇りといえども、体的には毒血、膿の溜積である。併しながら体的方面からでなく罪穢による霊的から来る病気は治り難く長年月を要する。結核、カリエス、癌等執拗なる症状の多くは、これに属するのである。
罪穢を払拭する方法としては、苦悩によるかまたは善行を重ねるかの二つであるが、後者を選ぶ方が如何程安易であるか知れない。この例として私が天理教研究時代こういう話があった。肺結核で不治と断定された一青年、天理教の信仰に入り、何か善行を施さんと思案の結果、都会の道路上に吐き出された痰を清掃せんと思い立ち、三年間毎日それを実行した処が病気はいつしか跡形もなく消え全快したとのことであった。次は有名な話であるが、彼の清水の次郎長こと山本長五郎氏が当時ある高僧に出会い、その僧侶から『貴下の顔には死相が現われている。恐らく一年以上この世に在ることは難かしい』と言われたので、次郎長は死を決し、資産全部を慈善事業に投じ、某寺に入って死を待っていた処が、一年を経、二年を経ても何等異常がなかったので非常に立腹していた。偶々さきの僧侶に会う機会を得たので大いに詰ろうと思った。遇うや否や彼の高僧曰く『実に不思議だ、貴公に以前遇ったときの死相は跡形もなく消えている。これは何か深い仔細があるだろう』とアベコベに詰られたので、流石の次郎長も、実は斯々と語ったので、その僧侶も『それは貴公の善行によって死生を転じたのである』との話であった。
これでこの理を拡げてみるとき、日本が敗戦の結果、国民ほとんどが苦悩に喘いでいる現実も、全く長い間他国を侵略し、他民族を搾取し、または殺戮した罪穢に対する浄化作用に外ならないのである。
(昭和二十二年二月五日)
感謝が感謝を生み、不平が不平をよぶとは正に真理だ。何となれば感謝の心は神に通じ、不平の心は悪魔に通ずるからだ。この理によって常に感謝をしている人は自然幸福者となり、常に不平不満や愚痴を言う人は不幸者になるのは事実だ。大本教のお筆先に曰く、
「喜べば喜び事が来るぞよ」
とは正に至言である。(昭和二十四年九月三日)
霊界なるものは、実は霊妙不思議な存在であって、現世人の常識判断では到底理解し難いものである。それについて人間の想念が霊界に如何に反映するかを書いてみよう。
霊界は全く想念の世界である以上、無から有を生じ、有が無になり、変移極まりないものである。その例としてここに絵画彫刻等によって神仏の本尊が作られるとする。処がその作者の人格によって憑り給う神霊仏霊に自ら高下を生ずる。即ち作者の人格が然らしめるので、最も高い場合はそれに相応する高級神霊が降臨される。故に形は同一であっても、作者の人格が低い場合はそれに相応した代理神霊、または分神霊が憑られるのである。
いま一つは、すべて礼拝の的である御神体に対し礼拝者が誠を以て心から念願する場合、その神霊の威力、即ち光明は偉力を発揮するに反し、礼拝者の想念が形式だけで、心からの尊信の念がない場合、神霊の偉力はそれだけ減殺されるのである。また礼拝者が多数あればある程、神威弥々赫々たる光明を増すのである。
よく昔から「鰯の頭も信心から」というが、これはどういう訳かというと、何等資格もない下根の者が御神体を作り、巧妙なる手段を以て宣伝をすると、一時は相当多数の参拝者が礼拝するとすれば、参拝者の想念によって霊界に神仏の形が作られるのである。したがって相当の偉力を発揮し、利益も与えらるるので、これは全く人間の想念の作為で、実に不思議というより外はない。しかしこれらはある期間は繁昌するが、それは本物ではない。一時的架空のものであるから、いつかは消滅するのである。こういう例も少なからずあることは誰もが知る通りである。所謂流行神というのはこの種のものである。
以上は神霊についてであるが、その反対である悪魔についても解説してみよう。
世の中に最も多いこと、それは自己欲望のため人に迷惑をかけ、人を苦しめ、不幸に陥れる悪徳者の余りに多いことである。無論これらはわれわれが常にいう処の見えざるものを信じないという、唯物思想の産物ではあるが、これを霊的にみれば、奇々怪々、実に恐ろしいのである。
人を苦しめる以上、その被害者は必ず怨んだり憎んだり、仇を討とうとする。その想念は霊線を通じて相手にぶつかってくる。それを霊的にみると、忿怒や恨みの形相物凄く、仮に眼に見えるとしたら、如何なる悪人といえどもひとたまりもなく往生するのである。処が被害者が一人や二人処ではなく、何千何万の人数となると、多数の想念が集合し、いよいよ恐ろしい怪奇極まる妖怪が出来、種々の形となってその悪人を取巻き、滅ぼそうとするからたまらない。如何に英雄豪傑といえども、終には悲惨なる運命の下に滅亡するより外ないのである。これは古今を通じて歴史上の大人物をみれば例外なく右のごとき運命を辿っている。
その他悪徳政治家の悲劇、成金の没落は勿論、多数の婦女を迷わせ翻弄した輩や、悪質の高利貸等の末路をみればよく分るのである。
右に引替え多くの善根を施し、多数者から感謝感激の想念を受くるとすれば、その想念は光となって、その人を囲繞するから、いよいよ有徳者となり、悪霊邪神もその光に恐れて近づき得ない以上、大いなる幸福者となるのである。よく神仏の像などにある円光なども、それを表徴したものである。
以上によってみても人間の想念は、如何に重要視すべきものであるかが知らるるのである。
(昭和二十四年十月二十五日)
私はさきに浄霊としての神秘光線について説明したが、ここに今一層詳説してみよう。
人間の霊体は肉体と同様の形態を有しているが、ただ異なる処は霊体には霊衣なるものがある。洋語ではアウルという。それは霊体から不断に一種の光波を放射している。あたかも霊体の衣ともいうべきものでその名がある。色は大体白色で、人によりやや黄色または紫色をおびたものもある。そうして厚薄の差別はなはだしく、普通は一寸位の厚さであるが、病人は薄く、重症となるに従い漸次薄くなり、死の直前には全然なくなるのである。世間よく影が薄い等というのは、この霊衣の薄いための感じであろう。また右と反対に健康者は厚く、有徳者は一層厚く光波も強いのである。英雄などは普通人より厚く、偉人となれば尚厚く、聖者に至っては非常に厚いのである。しかしながら霊衣の厚薄は一定のものではなく、その人の想念や行為によって常に変化する。すなわち正義に立脚し、善徳を行う場合は厚く、反対の場合は薄いのである。普通人の眼では霊衣は見得ないのが原則であるが、まれには見得る人もある。ただ普通人でも心を潜めて凝視するとき、ある程度感知し得ない事はない。
そうして霊衣の厚薄は人間の運命に大関係がある。すなわち霊衣の厚い人程幸福であり、薄い人程不幸である。また霊衣の厚い人は温か味があり、接する人に快感を与え多くの人を引つけるが、それは霊衣に包むからである。これに反し薄い人に接すると冷たく感じ、不快、寂寞、長く居るを欲せざる事になる。このような意味によって人は霊衣を厚くするよう努めるこそ、幸運の本である。
然らば、霊衣を厚くするには如何にすべきやという事であるが、その説明にあたって先ず霊衣なるものの本質を説明しよう。
人間のあらゆる思想行為を分析するとき、善悪何れかに属する事は今更いう迄もないが、霊衣の厚薄も善悪の量に比例するのである。すなわち善を思い善を行う場合、内面的には良心の満足感が起るので、その想念は光となり、これが霊体に加わって光を増す事となり、その反対である場合悪は曇りとなって霊体に曇りが増す。また外面的には人に善を行うときは相手の人の感謝の想念が光となって、善行者に対し霊線を通じて伝達するから光が増す事になる。その反対である場合、怨み、憎み、嫉み等の想念は曇りとなって伝達して来るから曇りが増すのである。これによってみても人は善を行い他人を喜ばすべきで、決して他人から憎み、怨み、嫉み等の想念を受けてはならないのである。
世間よく急激に出世したものや成金輩が、いつしか失敗没落するような事があるのは右の理によるのである。すなわち成功の原因は自己の力量、手腕、努力に因るとなし、増長慢に陥り、利己的独善的となり、贅沢三昧に耽る結果、多数者から憎み、怨み、嫉み等の曇りの想念が蝟集する結果、霊衣は光を失い、薄くなり、終に没落するのである。また何代も続いた名家や富豪などが没落するのは、元来社会的上位にある者はそれだけ国家社会から恩恵を受けている以上、それに酬いなければならない。すなわち大いに社会に向って善事を行い、これによって断えず曇りを消すべきである。然るに多くは己の利欲のみを考え、利他的行為に乏しい結果曇りの方が増量し、形態は立派であっても霊の方は下賎者同様になっている。そのため霊主体従の法則によって終に没落する事になるのである。私は以前東京の大震災の少し以前、ある霊眼の利く人の話を聞いたが、それによれば大厦高楼の街も、霊的には小さな陋屋が立並んでいるとの事であったが、果してその通りになり驚いたのであった。
またこういう例がある。それは米国の話だが、彼の有名な大富豪初代ロックフェラー氏が未だ商店の小僧であった時、人は善事を行わなければならないとしてキリスト教会へ献金したのである。最初は一週間に五銭であったが、収入の増すに従い十銭となり、五十銭となり、何千何万円となり、終には彼の有名なロックフェラー研究所の如きものを創設したのである。右の献金の額を最初手帳の裏面に記入したので、その手帳は同家の家宝となっているそうである。また米国最大のベッレヘム製鋼所を創設した彼のアンドリュー・カーネギー氏は、死に際会し、氏が平素から唱えた持論を決行した。それは全財産数億ドルを社会公共のため献金し、後継者たる子息には百万弗の資産と大学教育とを与えたに過ぎなかったとの事である。またミュンスターベルヒは大著「米国民」で美田を買わぬアメリカ富豪の気質を絶讃している。例えば一九〇三年に大学、図書館、研究所などの寄附金だけで約一千万ドル、秘密の寄附はその数倍にのぼるという。また、前大戦の直後、カーネギー氏は「国際平和財団」に巨額を寄附した。その一部でドイツの学者や学界は蘇った。リープマン教授等が完成した戦争と犯罪に関する世界最初の尨大な研究叢書の公刊もかれの寄附金でやれた仕事だ。この研究だけでも、世界の幸福にどれ程寄与しているか測り知れないという。私はこれ等の事実を考えるとき、米国繁栄の由ってくる処を知るのである。それに引替え日本の財閥のあまりに利己的であったことが、今日の没落を招いたであろう事を思い、決して偶然ならざるを知るのである。
また霊衣の薄い程、不幸や災害を受けやすいものである。それはどういう訳かというと、曇りのために頭脳が鈍り、判断が正鵠を欠き、決断力が乏しく、物事の見通しがつかない。従って一時的成功を夢み焦るのである。こういう人は小成功はしても長い間には必ず失敗する。この意味において一国の政治が悪いということは、霊衣の薄い人が政治を行うからであるとともに、その悪政治によって苦しむ国民もまた霊衣が薄いからで、洵に止むを得ない訳である。
また曇りの多い人は浄化作用が発生しやすいから病に罹りやすく、災害も受けやすい。交通事故などで災害を受けるのは霊衣が薄いからで、厚い人は如何なる場合といえども難を免れる。例えば電車、自動車等に衝突しようとする際、電車、自動車の霊は、霊衣の薄い人には当るが、厚い人には当らない。揆ね飛ばされて疵一つ受けないものであるが、これは霊衣の弾力によるのである。
右の理を考うる時、人間は善徳を積み霊衣を厚くする事こそ、幸運者たり得る唯一の方法である。世間よく、自分は生まれながら不運であると諦める人があるが、これ等も右の理を知らないからで気の毒なものである。また本教の布教師も霊衣の厚い者程治病成績が良い。また多くの患者を救う程、その布教師は多数者から感謝を受ける結果、霊衣は弥々厚く、多々益々成績優秀となる訳で、こういう人は私の弟子中に多数あるのである。
(昭和二十二年二月五日)
今更神は正なりなどというのは可笑しな話であるが、一般人は勿論、宗教に携わる教師も一般信者も兎角忘れ勝ちであるからここに書くのである。というのは、本教などは特に正義と善行に力を入れているに拘わらず、稀には本道から逸脱し、あらぬ方面へ彷徨うものもない事はないからである。そのような場合必ず神からお気づけを戴くが、それを無視する場合神の大鉄槌を蒙るのである。
先ず普通信仰者の最初の内は至極真面目にご神徳や奇蹟に感激し、熱心な信仰を続けつつあるのであるが、正しい信仰である以上おかげは著しく、自然多数の人から尊敬される事になり、生活境遇も大いに恵まれるので、本来なれば愈々神恩に感謝し、一層身を慎しみ、報恩に尽すべきに拘わらず、凡人の悲しさ、不知不識恩に馴れ、慢心が生じ、心に隙が出来るのである。処が邪神はこの隙を常に狙いつめているので、得たり賢しとその隙に入り込みその人を占領し、肉体を自由自在に操るようになるので、実に危い哉というべきである。然も覇気あり、役に立つ人ほど邪神は狙うのである。併し本当に正しい信仰者であるとしたら、邪神は手が出ないので諦めてしまうから安全であるが、中には引掛る人もあるので、この点中々難かしいのである。
併し、これも標準に照らしてみればよく分る。つまり自己愛の有無である。神様の為、人類の為のみを第一義とし、自己の利害など考えず驀地に進めばいいので、こういう人こそ邪神はどうする事も出来ないのである。処が少しうまくゆくと自惚が出る、自分が偉いと思う、この時が危いのである。ついに野心をもつようになる。それが為自己を偉くみせようとし、勢力を得ようとする。実に恐ろしい事である。一度こうなると、邪神は益々魂深く入り込みついに占有してしまう。然も大きい邪神になると相当の霊力を発揮する。勿論一時的霊力ではあるが、病気を治したり奇蹟なども現わすから、慢心はいよいよ増長し、ついには何々神の身魂とさえ思わせられ、生神様となってしまうのである。こういう生神様は世間に沢山ある。併し本当の神様ではないから、或る時期までで没落してしまうのである。ここで注意すべきは、そういう宗教の教祖とか生神様とかいうものの態度を厳正なる眼を以てみればよく分る。その著しい点は、愛の薄い事と、信仰は小乗的戒律的で厳しいと共に、自分のいう事を聞かないと罰が当るとか、自分のグループ又は信仰から抜ければ滅びるとか、生命がないとかいって脅し、離反を食止めようとする所謂脅迫信仰である。こういう点が聊かでもあれば、それは邪神と断定して間違いないのである。
私が常にいう通り、正しい信仰とは大乗的で、自由主義的であるから、信仰の持続も離脱も自由であると共に、天国的で明朗快活である。処が反対に秋霜烈日の如き厳しい戒律信仰は邪教であり、信仰地獄である。特に注意すべきは、これは人に言ってはいけないなどというような、聊かでも秘密があれば邪神と思っていい。正しい信仰は何等秘密がなく明朗そのものである。
(昭和二十五年三月十八日)
私はいつもいう通り、大乗の悪は小乗の善であり、小乗の悪は大乗の善であるという事であるが、この肝腎な点をどうも忘れ勝ちな信者があるが、これは大いに反省して貰わなければならないのである。分り易く言えば、何事も大局的見地から観察するのが大乗的見方である。それに就いてよく説明してみるが、一生懸命善と思ってしている事が結果に於て案外教えのお邪魔になる場合がある。然もこういう人に限って自力的で人間の力を過信し、大切な神様の御力を不知不識忘れ勝ちになっているのは誰でも覚えがあるであろう。
又こういう事も屡々聞かされる。それはアノ人は随分熱心にやっているが、その割合に発展しないのはどういう訳であるのかと訝るが、これこそ小乗信仰の為であって、小乗信仰の人はどうも堅苦しく窮屈になるので、人が集まって来ないから発展もしないのである。然も一番いけないのは、物事が偏りすぎるから常識を外れて、奇矯な言動をする。これを見て心ある人は本教を低級迷信宗教と思い軽蔑するようになるので、この点大いに注意すべきである。処がその反対に、それ程熱心に見えないようでも、案外発展する人がある。こういう人こそ本当に大乗信仰を呑み込んで実行するからである。
今一つ言いたい事は、小乗信仰の人に限って、他人の善悪を決めたがる。これも私は常にいう事だが、人の善悪を云々するのは飛んでもない間違いで、人間の善悪は神様以外分るものではないのだから、人間の分際で善とか悪とかいうのは僣上の沙汰で、如何に神様を冒涜する事になるか分らないので、これ程大きなご無礼はない訳である。何よりもこういう人に限って独善的で鼻が高く、人徳がないから発展しないばかりか、時には碌でもない問題を起し勝ちである。
この例として、終戦前の日本をみればよく分る。忠君愛国の旗をかついで、全国民命掛けでやった事がアノような結果に終った一事であって、この道理は大なり小なり何にでも当嵌る。成程その当時はみんな正であり善であると思って行った事だが、この善は小乗の善であるから、自分の国さえよければ人の国などどうなってもいいという利己的観念の為のその報いである。それに就いて私は先頃「世界人たれ」という論文を出したが、つまりその意味であって、大乗の善即ち世界的善でなくては本当の善とはならない事を示したのである。勿論こういう考え方でゆけば侵略戦争など起りよう筈がないから、アノような悲惨な目にも遭わず、今日と雖も平和を楽しみ世界から尊敬される国になっていたに違いないのである。
別言すれば、愛にも神の愛と人間の愛とがある。即ち神の愛は大乗愛であるから、無限に全人類を愛するが、人間愛は小乗愛であるから、自己愛や自分の仲間、自己の民族だけを愛するという限定的であるから結論は悪になる。この意味が分ったとしたら信者たるものは何事に対しても、大乗でゆかなければならない訳で、即ち神の愛をしっかり胸に畳んでお取次する事で必ず好結果を齎すに決っている。故にどこまでも神の御心を心とし、無差別的愛で臨む以上誰しも快く接する事が出来、喜んで人が集まって来るのは当然であり、発展するのは間違いない事を、最近感じたままここに書いた次第である。
(昭和二十六年十一月二十五日)
今日世の中を見ると、ヤレ左翼だとか、ヤレ右翼だとか、否俺の方は左派でも右派でもない、中道だとか言って騒いでいるが、どうも或る限られたる主義や思想をあくまで固持し、それを貫こうとする結果、どうしても摩擦が生じ易い。尤も中には摩擦や争いを目的とするものもないではないが、これはまた別の話である。
終戦後国民の目標は言うまでもなく民主主義であるが、民主主義とは、勿論最大多数の最大幸福を目的とするものである以上、自己の主義や思想をあくまで固執するとすれば、争いを捲き起し、最大多数の幸福処か反対に最大多数の最大不幸を招くことになる。
これは私が言うばかりではない。事実今日の世相をみれば遺憾なく物語っており、この傾向は凡ゆる面に現われている。仮に政党を見てもそうである。一党内に何々派等と主義主張を異にしたもの同志の摩擦があり、ややもすれば分裂解体などの危険が絶えず起ろうとしいる。何でも自己の主義主張に合わないものは直ちに敵と見るのであるからたまらない。出来たばかりの内閣をすら倒そうと計画するかと思えば、僅か二、三カ月経たばかりの内閣に対し、野に居た時の政策の実行を督促し空手形呼ばわりをする。考えてもみるがいい、如何なる大政治家といえども半年や一年で全部の手形を支払うことは到底不可能であることは分り切った話である。このような訳で日本の内閣は頻々と代って席の温まる暇もない。この点フランスとよく似ている。彼の英国の労働党内閣が、最初一年位経た頃は意外に成績が悪かった。日本ならば囂々たる非難の声が揚がるべきに、流石英国民の寛容なる、アットリー氏に委任して静まり返っていたのを我等は不思議に思った位である。果せる哉、その後漸次好調の兆を現わし、最近に於ては経済的にも非常に好成績を挙げているようである。
又アメリカを見てもそうである。同国大統領が任期四年であるからこそ思い切った政策が行えるのである。彼の第二次世界戦争に当って勝利を得、戦後といえども綽々たる余裕を以て欧州も東亜も救済せんとする偉観と全くルーズヴェルト氏が四回の当選によって十六年の歳月を閲し、思いきった施策を行い、その宜しきを得たことにもよるのである。
さきに述べた如き日本の現状は、全く狭い島国根性が抜け切れない為であるから、先ず何よりも日本人全体がこの際大いに寛容の精神を涵養すべきで、これが最も当面の喫緊事であろう。
本教の目標は争いのない社会を作るとすれば、何よりも先ず自己独善から他を排斥する狭量を改めなければならない。この意味に於て、右にも左にも偏らず、中道にもこだわらず、凡ゆる主義主張総てを包含し、一切をコントロールした世界思想ともいうべき高い大理想を掲げて進まんとするものである。我等はこれを名づけて大道主義というのである。
(昭和二十四年四月八日)
曩に「私の見た私」という論文を書いたが、先の客観論と違い、今度は主観的にありのままの心理を描いてみようと思うのである。
現在私ほど幸福なものはあるまいとつくづくと思い、神に対し常に感謝で一杯だ。これは何に原因するのであろうか。成程私は普通人と違い、特に神から重大使命を負わされ、それを遂行すべく日夜努力しており、それによって如何に多数の人々を救いつつあるかは、信徒諸士の誰もが知る処であろう。処が私のような特殊人でない処の普通人であっても容易に行われる幸福の秘訣があるからそれを書いてみるが、書くに当って先ず私の常に抱懐している心境を露呈してみよう。
私は若い頃から人を喜ばせる事が好きで、殆んど道楽のようになっている。私は常に如何にしたらみんなが幸福になるかということを思っている。これに就いてこういうことがある。私は朝起きると先ず家族の者の御機嫌はどうかということに関心をもつので、一人でも御機嫌が悪いと私も気持が悪い。この点は世間と反対だ。世間はよく主人の機嫌が良いか悪いかについて何よりも先に関心をもつのであるが、私はそれと反対であるから、自分でも不思議のような、残念のような気もする。こんな訳で罵詈怒号のような声を聞いたり、愚痴や泣事を聞かされたりすることが何よりも辛いのである。又一つ事を繰返し聞かされる事も随分辛い。どこ迄も平和的、幸福的で、これが私の本性である。
以上述べたような結果が、私をして幸福者たらしむる原因の一つの要素であるという理由によって、私は『人を幸福にしなければ自分は幸福になり得ない』と常に言うのである。
私の最大目標である地上天国とは、この私の心が共通し拡大されることと思っている。この文は些か自画自讃的で心苦しいが、聊かでも裨益する処があれば幸甚である。
(昭和二十四年八月三十日)
よく私に初めて面会した人が異口同音に言う事は、実は御目にかかるまではとても近づき難いお方で、お附きが傍についており最敬礼でもしなければならないと、恐るおそる伺ったのであるが、意外にもすべてが余りに簡略率直で唖然としてしまったと曰うのである。成程世間一宗の教祖とか管長とかいう人は、右のような大袈裟な雰囲気の中にいる事は、一般の通念になっている。このような訳で、以前よくそういう行り方を希望した部下もあったが、私としてはどうもそういう気にはなれないので、今以て相変らずの普通人的の行り方である。
然らば、私のこの生神様的でないのはどういう訳かと知りたい人も沢山あるであろうから、ありの侭の心境を書いてみよう。元来私の生れが江戸ッ子である為もあろうが、私は若い頃からどうも気取ることを好まない。というのは、何時も言う通り私は偽りを非常に嫌う結果、装ったり、道具立てをしたりする事は、一種の偽りであり、衒いでもあると思うと共に、他からみても一種の嫌味である。結局有るが侭が一番好いということになる。
先ず今日の私の境遇からいえば、生神様と神殿の奥深く納っており、人に面会を許す場合いとも勿体らしくする方が値打ちがあって良いかもしれないが、どうも私は嫌である。そんな訳で私が常に思っている主義としては、私の態度行り方が気に入らない人はおよしなさい、気に入った人はお出でなさいと言うだけである。併し日に月に発展して行く実情をみては、気に入る人の方が多いに違いないと満足している次第である。
ここで今一つ言いたい事は、私の天性は大いに変っていると思う。というのは、私は人の真似をすることが非常に嫌いだ。前述の如き生神様らしくしないのもそんな訳である。どこまでも外面は普通凡人的でありたいと思っている。これも型破りであろう。処がその性格が大いに役立って浄霊という劃期的治病法発見となったのである。又信者は知らるる如く、文字を書いた紙片をお守りにすれば治病力を発揮したり、神仏を同一に取扱ったり、地上天国の模型を造ったり、芸術に力を入れたり、宗教臭さを避けたりすることなど、数え上げれば型破り的種類は実に多いと思う。これに就いて先日婦人公論の記者が来訪した時、実に驚いたというから聞いてみると、仮本部の玄関から入ると、宗教味がさらにないのは不思議と思ったとのことであった。勿論今後万般に渉り宗教的事業を行う計画であるが、凡そ型破り的ならざるものはないつもりであるから、大いに期待されたいのである。
(昭和二十五年五月十三日)
私は何事でも、非常に深く考える癖がある。例えば或る計画を立てたとする。それが大抵の人は、なるべく早く着手しようと思ってジットしては居られないばかりか、行り始めたらどうにかなるだろう位に、運命に対する依頼心が強いが、さて始めてみるとなかなかそんな訳にはゆかないで、大抵はイスカの嘴と食違い失敗するのである。というように失敗の場合を考えないで、成功の場合のみを考えるから危険千万である。処が私は反対で最初から失敗を予想してかかる。もし失敗したらこういうように建直すという案を予め立てておくから、よしんば失敗しても余り痛痒を感じない。しばらく時を待つ。そうすれば致命処ではなく、容易に再起が出来るのである。
そうして金銭に就いてもそうである。これを私は三段構えにしている。第一の金を遣って足りなければ、第二の金を遣い、それでも足りなければ第三の金を遣う。というようにすれば決してボロなど出す気遣いはない。というように凡て準備を充分調べておき、何事も念には念を入れて行るから、これを上面から見ると間怠いようだが、失敗がないから案外早く進捗する。その為無駄な費用も、時間も労力も省けるから、算盤上予想外な利益になる。私も皆も知る通り、随分大胆な計画を次々立て実行するが不安がなく、気楽な気持でスラスラゆくのである。
右のように、最初から準備万端整っても私は直ぐに掛ることはしないで、徐ろに時を待っている。すると必ず好機会がやって来るから、その時ここぞとばかり乗り出すのである。そうして出来るだけ焦らないようにする。人間は決して焦ってはいけない。焦ると必ず無理が出る。無理が出たらもうおしまいだ。世間の失敗者をみると、例外なく焦りと無理が原因となっている。それに就いていつも思い起すのは、彼の太平洋戦争の時である。初めの間はトントン拍子にうまく行ったので、いい気持になり慢心が出て来たので、様子が大分変って形勢が悪くなって来ても、何糞とばかり頑張り、無理に無理を重ねたので、その結果ああいう悲惨な結末になったのである。その頃私はこう焦りが出た以上もう駄目だと考えたが、その頃は人にも言えないから、我慢してしまったのである。という訳で、最初から敗戦の場合を考慮していたなら今少し何とかなったに違いないと、実に残念に思ったものである。全く当時者の浅慮が原因であったのは言うまでもない。
右のような訳であるから、私を見たら或る時は頗る短兵急であり、また反対に悠々閑としていることもあるので、先ず端倪すべからずであろう。それもこれも神様の御守護の厚い為は勿論だが、私のすること、為すこと、実に迅速に捗んでゆくので、吃驚しない者はない。本教の異例な発展の速度をみてもよく分るであろう。次に注意したいことは、人間は精神転換をすることである。それは無闇に一つ仕事に齧りついている人がよくあるが、こういう人は割合能率は上らないものである。つまり飽きたり、嫌になったりしても我慢するからで、これがいけないのである。寧ろそういう時は遊びごとでもいいから転換するに限る。よく芸術家などで、気の向かない時は決して手を出さない話をよく聞くが、成程と思うので、寧ろ或る点は我侭な位が反って能率が上るものである。そのような意味で私は仕事に固着することを嫌い、それからそれへと転換して行く。そうすると気持もよく、面白く仕事が出来るから頭脳の働きもいいのである。とはいうものの、その人の境遇によってはそうもゆかないから、右の理をよく弁えて、臨機応変にやってゆけば、余程有利であるということを教えたまでである。
(昭和二十七年六月二十五日)