私は若い頃、当時持てはやされたフランスの哲学者、故アンリ・ベルグソン氏の学説に共鳴した事がある。その説たるや、今も尚思い出す事がよくあると共に、信仰上からいっても裨益する処大なるものがあるから、ここに書いてみるのである。
氏の哲学の内、その根幹を成しているものは万物流転、直観の説、刹那の吾の三つであろう。特に私の感銘を深くしたものは、直観の哲学で、氏の説によるとこうである。
人間は物をみる場合、物そのものを聊かの狂いなくみる事は容易ではない。物の実体の把握は洵に困難である。これは何故であるかという事である。
元来、人間は誰しも教育、伝統、慣習等種々の観念が綜合的に一つの棒のようになって潜在しているものであるが、それに気づく事は殆んどない。これが為、物をみる場合その棒が邪魔をする。例えば、新宗教をみる場合でも、新宗教はみんな迷信邪教であり、インチキであると決めてかかる事で、全く棒が妨害するのである。今日の社会人は、絶えず新聞雑誌から眼を通じて新聞人の意見が入ってくる。ラジオや人の噂からも耳を通して入ってくるという訳で、益々棒が太く固く出来上ってくる。医者で治らない病気が信仰で治った奇蹟を見ても、そのまま素直に受入れる事が出来ない、先ず真先に疑惑を起すのであるが、これが棒の為である。病気は医学で治るという観念が棒の中心をなしているからで、もし治ったとしたら、それは治る時節が来たからだというように、棒が種々の理窟をつけ、事実を彎曲してしまうという事は、我々の常に経験する処である。
かように人間の陥り易い過誤を訂正するのが直観の哲学である。即ち物をみる場合、棒に禍いせられない、虚心坦懐白紙の吾となるのである。それにはどうすればよいかというと、刹那の吾となるのである。即ち物をみた一瞬直観した印象こそ物そのものの実体を把握して誤まりがない。従って、確かに難病が治った事実をこの眼で見たなら、そのまま信ずべきで、それが正しい見方である。然るにそんな筈はない、器械や薬で治らないものが、眼に見えない空に等しいものなどで治る訳がないと思うのは、最早棒が邪魔しているからである。そこへ誰かが「それは迷信だ。そんな馬鹿な話があるものか」と言うのは、他人の棒が邪魔の協力者となったのであるから、この点大いに警戒しなければならないのである。以上が直観の哲学のホンの概念である。
次に万物流転とは、一切は一瞬の間もなく流転しているという。例えば昨日の吾と今日の吾とは必ずどこか違っている。否五分前の吾と今の吾とも違っている。昨日の世界も、今日のそれとは同一ではない。社会も文化も国際関係も勿論そうである。従って人間の観方も、変化そのものに対してもハッキリ見なければならない。それが正しい観方である。この理によって宗教も文化もその観方や考え方を変えるべきであるに拘わらず、何百何千年前の宗教の観方を通して、新宗教を批判するのであるから、正確な認識を得られる筈のないのは当然である。これが万物流転の説である。
(昭和二十五年一月三十日)
私は以前、仏蘭西の有名な近代哲学者である、彼のアンリ・ベルグソンについて書いた事があるが、今度再び書いてみたい心が起ったので筆をとったのである。というのは、よく私に向っていろいろな事を訊いたり、又私の方から話す場合、その意味が簡単に分る人は洵に少ないのであって、事柄としては実に簡単で分りそうなものだが、中々分らない。訊く人は相当の教養があり乍ら頷けないので、私はいろいろな例を挙げて、諄々しく並べてやっと分るのである。その都度思い出すのは、ベルグソンの哲学である。
何故、簡単な事がそれ程分らないかを考えてみると、こういう理由がある。それはベルグソンの所謂刹那の吾にならないからで、勿論それを意識しないからでもあろう。彼の説によれば人間は誰でも物心がつき始めると、いろいろな事を聞いたり伝説や既成学問を詰め込まれたりするので、一人前になるまでには、それが棒のようなものになって心の中に出来てしまう。だから棒以外の説を聞いても、その棒が邪魔をして想念の中へそのまま入らない。だから想念の中が空ッポなら苦もなく入るから直ぐ分る訳で、よく白紙になれなどと言われるが、全くその通りである。そうはいうものの棒などに気がつくものは殆んどないらしい。だからこの文を読んだ人は、今からでも刹那の吾となる事である。刹那の吾とは、物を見たり聞いたりしたその瞬間、咄嗟の感じを言うのである。全く棒が邪魔をする間隙のない、丁度子供と同じようにする。よく子供が大人の言葉をきき返す言葉に感心させられる事がよくあるが、全く棒の邪魔がないからである。この事を彼は又、直観の哲学とも言った。この意味も、歪めないで真直に物を見よ、それが正しい見方であるという訳で、刹那の吾に附随したものである。それから又彼の哲学には、万物流転という言葉がある。これも中々面白いと思う。それは万有一切は一瞬の停滞もなく動いているという意味で、例えば去年と今年とは一切が何処か違っている。世界も社会も同様であり、自分自身の想念も環境もそうである。否昨日の自分とも五分前の自分とも必ず違っている処がある。としたら昔からいう一寸先は闇という言葉もそれである。このように何でもかんでも一秒の停止もなく流動してやまないのである。
従って、この理を人間に当嵌めてみる時、こういう事になろう。何かの事にブツかった時、去年の見方も考え方も、今のそれと違っていなければならない。大きく見れば終戦前と終戦後とはまるっきり違っているではないか。僅かの間に驚異的である。処が多くの人は、何百年前の行り方や、何十年前の考え方が、先祖代々から棒のように続いているから、的確に現在を把握する事が出来ない。これを称して封建とか、旧い頭とか言うのであろう。つまり一切が流転しているのに、ご自分だけは泥水のように停滞しているからで、こういう人こそ世の中から置き去りを食ったり、不幸な運命となるのである。
既成宗教が振わないというのも、右の理を考えてみればよく分る。この理によって万物流転と少しもズレる事なく、千変万化する事が観世音のお働きでもある。観世音の別の御名である応身弥勒とはその意味で、応身とは身を以て応ずる。即ち外界の事物に対し、自由無碍に応ずる事である。無碍光如来の御名もその意味に外ならない。分り易く言えば老人に対しては、老人に合うような話をし、婦女子には物柔らかく、知識人には科学的に、一般人には常識的平凡にするというように、如何なる人にも話す場合、先方が理解し興味が湧き、快く聞くというようにすればいいのである。この方針で信仰を勧めるとしたら、案外巧く行くものである。
(昭和二十六年七月十八日)
私は若い頃哲学が好きであった。そうして諸々の学説のうち、最も心を引かれたのは彼の有名な米国の哲学者ウィリアム・ジェームズのプラグマチズムである。先ず日本語に訳せば哲学行為主義とでもいうのであろう。それはジェームズによれば、只哲学の理論を説くだけであっては一種の遊戯でしかない。宜しく哲学を行為に表わすべきで、それによって価値があるというのである。全く現実的で米国の哲学者らしい処が面白いと思う。私はこれに共鳴して、その当時哲学を私の仕事や日常生活の上にまで織込むべく努めたものであった。その為プラグマチズムの恩恵を受けた事は鮮少ではなかった。
私はその後宗教を信ずるに至って、この哲学行為主義をして宗教にまで及ぼさなくてはならないと思うようになった。即ち宗教行為主義である。宗教を総てに採入れる事によって如何に大なる恩恵を受けるかを想像する結果として、こういう事が考えられる。先ず政治家であれば第一不正を行わない。利己のない真に民衆の為の政治を行うから民衆から信頼をうけ、政治の運営は滑らかに行く、実業家にあっては誠意をもって事業経営に当るから信用が厚く、愛をもって部下に接するから部下は忠実に仕事をする為堅実な発展を遂げる。教育家は確固たる信念をもって教育に当るから生徒から尊敬を受け、感化力が大きい。官吏や会社員は信仰心がある以上立派な成績が挙り、地位は向上する。芸術家はその作品に高い香りと霊感的力を発揮し、世人によき感化を与える。芸能家は信仰が中心にあるから品位あり、観客は高い情操を養い、よき感化を受ける。といっても固苦しい教科書的ではない。私のいうのは大いに笑わせ、大いに愉快にし、興味満点でなくてはならない。その他如何なる職業や境遇にある人と雖も、宗教を行為に表わすことによってその人の運命をよくし、社会に貢献する処如何に大であるかは想像に難からない。ここで私は注意したい事がある。それは宗教行為主義を実行の場合、味噌の味噌臭きはいけないと同様に、宗教信者の宗教臭きは顰蹙に価いする。特に熱心な信者にして然りである。世間よく信仰を鼻の先へブラ下げているような人がある。これを第三者からみる時一種の不快を感ずるものであるから、理想的にいえば、些かの宗教臭さもなく普通人と少しも変らない、只その言行が実に立派で親切で、人に好感を与えるというようでなければならない。一口にいえばアク抜けのした信仰でありたい。泥臭い信仰ではいけない。世間或る種の信者などは熱心のあまり精神病者かと疑わるる程の者さえあるが、この種の信者に限って極端に主観的で家庭を暗くし、隣人の迷惑など一向意に介しないという訳で世人からその宗教を疑わるる結果となるが、これらは指導者に責任があり、大いに注意すべきであると思う。
(昭和二十三年九月五日)
アメリカの有名な哲学者ピアスが、最初唱え出したプラグマチズムは、ウィリアム・ジェームズに至って世界的哲学思想となったので、今日はジェームズが本家のようになってしまったという事である。このプラグマチズムの言葉を訳すと、実利主義とか、実行主義とかいうのだそうだが、私は行為主義と言った方が、どうもピッタリするように思う。これは哲学に関心を持つ程の人は、誰もが知っているから多くをいう必要はないが、今私が言いたいのは、宗教プラグマチズムである。これは以前も一度書いた事があるが、今一度徹底したいと思うので、再び書くのである。
単に、宗教行為主義というと、既成宗教の何れもは、実行しているように見えるが、成程文書による宣伝や、言葉の説教、祈り、宗教的行事、禁欲、難行苦行といったような事は、誰も知っているが、肝腎な実生活に迄及んでいないのが遺憾である。だから忌憚なく言えば、実生活と離れた一種の精神的修養でしかないと言えよう。処が哲学プラグマチズムは、実生活に哲学を採り入れ、役立つものにしようとするもので、この点実にアメリカ式である。それと同様私は宗教を実生活に取入れるというよりも、宗教と実生活と密接不離な関係に迄溶け込ませようとするのである。だから今迄の既成信仰者のように、独善的、孤立的、観念的ではなく、超世間的な点を最も嫌い、飽迄一般人と同様であるのは勿論、極力信仰の臭味をなくするようにし、万事常識的で、信仰があるのかないのか、人の目には映らない位にする処迄、信仰が身に着いてしまわなければならないと思う。つまり応身の働きである。
宗教行為主義とは、以上によって略々納得されたであろう。
(昭和二十六年五月三十日)
この題を見たら一寸見当がつくまいが、左に説く処を読んでみれば、成程と合点がゆくであろう。それは私の書いた文章を読むことによって、目から浄霊を受けるのである。ではどういうわけかというと、総ては文章を通じて書く人の想念がそのまま映るものであるからで、この点充分知らねばならないのである。これを霊的にみれば、つまり書く人の霊が活字を通して、読む人の霊に通ずるので、この意味に於て、私が書く文章は、神意そのままであるから、その人の霊は浄まるのである。
このように、読書というものは読者の魂を善くも悪くもするものであるから、作家の人格が如何に大きな影響を及ぼすかは勿論である。従って、たとえ小説のようなものでも新聞記事でも同様で、この点作家もジャーナリストも、大いに考えて貰いたいのである。といっても、堅苦しい御説教がよいというわけではない。勿論興味津々たるものでなくては、好んで読まれないから役に立たないわけで、面白くて読まずにいられないというような、魅力が肝腎であるのはいうまでもない。
処が近頃の文学などをみても、売らん哉主義のものが殆んどで、単なる興味本位で、評判になり、本も売れ、映画にもなるというような点のみ狙っているとしか思われないものが多く、読み終って何にも残らないという活字の羅列にすぎないのである。こういう作者は小説家ではない、小説屋だ。人間でいえば骨のないようなもので、一時は評判になっても、いつかは消えてしまうのは誰も知る通りである。
そうして現在の社会を通観するとき、社会的欠陥の多いことは驚く位であるから、その欠陥をテーマの基本にすれば、取材はいくらでもある。私は映画が好きでよく見るが、偶々そういう映画に出遇ったとき、興味津々たると共に、何かしら知己を得たような気がして嬉しいので、その作者やプロデュサーに頭を下げたくなるのである。しかもそういう作は必ず評判になって、世間からも認められ、本屋や映画会社も儲かるから一挙両得である。以上思いついたまま書いてみたのである。
(昭和二十七年十一月二十六日)
今まで、本教の宣伝方法としては、浄霊と刊行物の二つによって行われて来たことは知る通りであるが、これからは今一つ座談会、講演会等を各地に開いて宣伝するのである。これは勿論耳からの宣伝で、今までの病気治しと目の宣伝の外に、今度から耳の宣伝が加わる訳だ。このように三位一体的方法によれば、大いに効果のあがることは期待し得るであろう。
勿論、耳の宣伝とは言葉によって本教に関する一切を知らせ、如何に本教が勝れた宗教であるかを伝えるのである。そうして相手に対し分らせるためには、此方も信仰的知識が豊富であらねばならない。何しろ聞く者は、成程救世教というものは実に立派なものだ、いい信仰だ、自分も是非入信したい、という心を起させなければならない。そういう場合よく、自分は喋るのが下手だ、どうも巧く喋れない等というが、これは間違っている。というのは、いくらうまく喋ったところで、相手の心は動くものではない。いつもいう通り人を動かすには誠である。此方の誠が先方の魂に触れる、つまり魂を揺り動かす、それだけである。喋ることのうまいまずいは二義的である。
以上のように熱と誠で人を動かすとしても、それには充分理解が必要である。とすれば此方も自己の智識を磨くことで、何よりも出来るだけ御教書を読むことである。又質問を受ける場合が大いにあるから、それに対し一々明確な答弁が与えられなければ、相手は納得しないに決っている。従ってどんなに難かしいことでも、相手が承知するだけの解答を与えなくてはならない。そうして特に注意すべきは、よく苦し紛れに嘘の答弁をする人がある。相手が激しく斬り込んでくると、心にもない一時逃れをするが、これは絶対いけない。仮にも神の信徒として嘘を吐くなどは許されない。知らないことは知らないと正直にいえばいいのである。処が知らないというと相手が軽蔑しやしないかと思って、知ってる振りをしたがるものだが、これが最もいけない。そうすると反って逆効果になる。というのは、知らないことは知らないというと、先方は、この先生は正直な人だから信用が出来ると思うことになる。いくら偉い人でも、何でも知っているなんて人は恐らくない。だから知らないことがあっても決して恥にはならないのである。
それから私に質問する場合、御教書の中にチャンと書いてある事柄がよくあるが、これ等は平素全く御教書を読むのを怠っているからである。だから出来るだけ御教書を読むことで、読めば読む程信仰が深くなり、魂が磨けるのである。御教書の拝読を疎かにするものは、力が段々減るものである。信仰が徹底すればする程、貪るように読みたくなるもので、繰返し繰返し肚に入るまで読むのがよいのである。勿論読めば読む程御神意がハッキリ分るものである。
これに就いて、序でに今一つ言いたいことがある。それは浄霊の場合、病原が分らないのに分ったような顔をしたがる。これは最もいけない。そういう人に限って思うように治らないと、必ず霊的だといって逃げる。本当からいえば病原が霊的か体的かなどは、非常に分り難いものであるが、人間は元来霊体一致だから、浄霊の場合差別はないのである。というのは、霊が治れば体が治り、体が治れば霊が治るからである。処が浄霊者は浄霊でスラスラ治れば普通の浄化と思うが、治らないと霊的と思い易いが、これは大変な間違いである。丁度お医者が治りが悪い病気だと結核性にするのと同様である。(昭和二十五年十一月二十九日)
世界も、国家も、個人も、凡ゆる問題を解決する鍵は『誠』の一字である。
政治の貧困は誠が貧困だからである。物資の不足は誠が不足しているからである。
道義の頽廃も誠のない為である。秩序の紊乱も、誠のない処に発生する。
凡ゆる忌わしき問題は誠の不足が原因である。宗教も学問も芸術も、中心に誠がなければそれは形骸でしかない。
嗚呼、誠なるかな、誠なる哉、人類よ、問題解決の鍵は、ただ誠あるのみである。
(昭和二十三年九月五日)
誠のあるなしを最も簡単に知る方法を書いてみよう。誠のある人は何よりも約束を重んじよく守る事である。単に約束を守る守らないだけでは世人は大した事とは思わないが、実を言うと中々そうではない。即ち、約束を守らないという事は人を偽った事になるから、一種の罪悪を犯した事になる。約束の中でも一番軽視し勝ちなのは時間である。時間の約束をしておき乍ら守らない事をよく考えてみるがいい。
即ち、先方は当にして待っているので、その退屈や焦心は中々苦痛である。諺に言う「待たるる身になるとも待つ身になるな」という事でも分る如く、待っている人の心持を察すべきで、その心が湧かないのは誠がないからである。とすれば外の事は如何によくても何にもならない事になる。従って神の信者たる者は、約束の厳守、時間の励行を疎かにしてはならない。もしその実行が出来ないとすれば、先ず信仰の落第生である。信者たるものよろしく肝に銘じて忘れてはならないのである。
(昭和二十五年一月二十八日)
凡そ世の中の人を見る時、誰しも持っている性格に我と執着心があるが、これは兄弟のようなものである。凡ゆる紛糾せる問題を観察する場合、容易に解決しないのは、この我と執着に因らぬものは殆んどない事を発見する。例えば政治家が地位に執着する為、最も好い時期に桂冠すべき処を、時を過ごして野倒死をするような事があるが、これも我と執着の為である。又実業家等が金銭に執着し利益に執着する為、反って取引先の嫌忌を買い、取引の円滑を欠き、一時は利益のようでも長い間には不利益となる事が往々ある。又男女関係に於ても、執着する方が嫌われるものであり、問題を起すのも、我執が強過ぎるからの事はよくある例である。その他我の為に人を苦しめ、自己も苦しむ事や、争いの原因等、誰しも既往を顧みれば頷く筈である。
以上の意味に於て、信仰の主要目的は我と執着心を取る事である。私はこの事を知ってから、出来るだけ我執を捨てるべく心掛けており、その結果として、第一自分の心の苦しみが緩和され、何事も結果が良い。或る教えに「取越苦労と過越苦労をするな」という事があるが、良い言葉である。
そうして霊界に於ける修業の最大目標は執着を取る事で、執着の取れるに従い地位が向上する事になっている。それに就いてこういう事がある。霊界に於ては、夫婦同棲する事は普通は殆んどないのである。それは夫と妻との霊的地位が違っているからで、夫婦同棲は天国か極楽人とならなければ許されない。併し乍ら或る程度修行の出来た者は許されるが、それも一時の間である。その場合、その界の監督神に願って許されるのであるが、許されて夫婦相逢うや、懐かしさの余り相擁するような事は決して許されない。聊かの邪念を起すや、身体が硬直し、自由にならなくなる。その位執着がいけないのである。故に霊界の修行によって全く執着心が除去されるに従って地位は向上し、向上されるに従って夫婦の邂逅も容易になるので、現界と如何に違うかが想像されるであろう。
従って信仰を勧める上に於ても、執念深く説得する事は、熱心のようではあるが結果はよくない。これは信仰の押売となり、神仏を冒涜する事となるからである。総て信仰を勧める場合、ちょっと話して相手が乗気になるようなれば話を続けるもよいが、先方にその気のない場合は、話を続けるのを差控え、機の到るのを待つべきである。
(昭和二十三年九月五日)
凡そ人間生活上、我程恐ろしいものはあるまい。霊界の修業は我をとる事が第一義とされているにみても知らるるのである。私は以前大本教信者の時、お筆先の中にこういう一節があった。「神でさえ我でしくじりたのであるから、我程怖いものはないぞよ」とあり、又「我がなくてはならず、我があってはならず、我があって我を出さないのがよいのであるぞよ」とあり、この意味たるや実に簡単にして我の実体を道破しているには感銘に堪えなかったのである。それによって私も大いに反省した事は勿論である。
又お筆先に、人間は「素直が一等であるぞよ」との言葉も、実に至言と思った。というのは、今日まで私の言う事を素直に聞いた人は洵に順調に行き失敗はないが、我の強い為なかなかそうはゆかない人もある。その為よく失敗するのをみるのは、実に辛いものである。
右の如く我を出さない事と、素直にする事と、嘘をつかない事が先ず信仰の妙諦である。
(昭和二十五年二月十八日)
私はいつもお任せせよという事を教えているが、つまり神様にお任せし切って、何事があってもクヨクヨ心配しない事である。というと実に造作もない訳なく出来そうな話だが、ドッコイ中々そうはゆかないものである。私でさえその境地になった時、随分お任せすべく骨を折るが、ともすれば心配という奴、ニョキニョキ頭を抬げてくる。というような訳で、然も今日のような悪い世の中では殆んど不可能と言ってもいい位である。併し乍ら神様を知っている人は大いに違う。というのは先ず心配事があった時、それに早く気がつく以上、ズッと楽になるからいいようなものの、ここに誰も気がつかない処に重要な点があるから、それを書いてみよう。
というのは、これを霊の面から解釈してみると、それは、心配するという想念そのものが一種の執着である。つまり心配執着である。処がこの心配執着なるものが曲者であって、何事にも悪影響を与えるものである。だが普通執着とさえ言えば、出世をしたい、金が欲しい、贅沢がしたい、何でも思うようになりたいという希望的執着と、その半面、彼奴は怪しからん、太い奴だ、実に憎い、酷い目に遭わしてやりたい等という質の悪い執着等であるが、私の言いたいのはそんな分り切った執着ではなく、ほとんど誰も気がつかない処のそれである。では一体それはどんなものかというと、現在の心配や取越苦労、過越苦労等の執着である。それらに対し信者の場合、神様の方で御守護下されようとしても、右の執着観念が霊的に邪魔する事になり、強ければ強い程御守護が薄くなるので、その為思うようにゆかないという訳である。この例として人間がこういうものが欲しいと頻りに望む時には決して手には入らないものであって、もう駄目だと諦めてしまった頃ヒョッコリ入ってくるのは、誰も経験する処であろう。又こうなりたいとか、アアしたいとか思う時は、実現しそうで実現しないが、忘れ果てた頃突如として思い通りになるものである。浄霊の場合もそうであって、この病人は是非治してやりたいと思う程治りが悪いが、そんな事は念頭におかず、只漫然と浄霊する場合や、治るか治らないか分らないが、マアやってみようと思うような病人は、案外容易に治るものである。
又重病人等で、家族や近しい人達が、みんな揃って治してやりたいと一心になっているのに、反って治りそうで治らず、遂に死ぬ事が往々ある。そうかと思うと、その反対に、本人は生死など眼中におかず、近親者も余り心配しないような病人は、案外スラスラ治るものである。処でこういう事もある。本人も助かりたいと強く思い、近親者も是非助けたいと思っているのに病状益々悪化し、もう駄目だと諦めてしまうと、それからズンズン快くなって助かるという事もよくある。面白いのは、俺はこれしきの病気で死んで堪るものか、俺の精神力でも治してみせると頑張っているような人は大抵死ぬもので、これらも生の執着が大いに原因しているのである。
右の如く種々の例によってみても、執着の如何に恐ろしいかが分るであろう。従ってもう迚も助からないというような病人には、先ず見込がない事を暗示し、その代り霊界へ往って必ず救われるようにお願いするからと、納得のゆくようよく言い聞かせてやり、家族の者にもその意味を告げ浄霊をすると、それから好調に向うものである。又これは別の話だが男女関係もそういう事がよくある。一方が余り熱烈になると相手の方は嫌気がさすというように、寔に皮肉極まるが、これも執着が相手の心を冷すからである。このように世の中の事の多くは、寔に皮肉に出来ているもので、実に厄介なようでもあり、面白くもあるものである。右によっても分る如く、物事が巧くゆかない原因には、執着が大部分を占めている事を知らねばならない。私がよく言う逆効果を狙えというのもその意味で、つまり皮肉の皮肉であって、これが実は真理である。
(昭和二十六年十一月二十八日)
私は信仰の味に就いて世人に告げたいのである。天下何物にも味のないものはない。物質にも、人間にも、生活にも、味のない物は殆んどあるまい。人生からこの味を除いたら、文字通り無味乾燥全く生の意欲はなくなるであろう。従って人間が生に対する執着の根本は、味による楽しみの為である--といっても過言ではあるまい。信仰にも味のある信仰と味のない信仰とがあるのは当然である。処が世の中は不思議なもので、恐怖信仰というのがある。それは神仏を畏怖し、戒律に縛られ、窮屈極まる日を送り、自由などは全くなく、常に戦々兢々たる有様で、こういう状態を私は信仰地獄というのである。
本来信仰の理想とする処は常に安心の境地にあり、生活を楽しみ、歓喜に浸るというのでなければならない。花鳥風月も、百鳥の声も、山水の美も、悉神が自分を慰めて下さるものであるように思われ、衣食住も深き恵みと感謝され、人間は固より鳥獣虫魚草木の末に到るまで親しみを感ずるようになる。これが法悦の境地であって、何事も人事を尽して後は神仏にお任せするという心境にならなければならないのである。
私は常に、どうしても判断がつかぬ難問題に逢着した時、神様にお任せするという事にして、後は時を待つのである。処が想ったよりもよい結果を得らるる事は幾多の体験によって明らかである。殆んど心配したような結果になった事は一度もないといってもよい。又種々の希望を描くが、その希望よりも必ず以上の結果になるから面白い。こういう事もある。何か悪い事があるとそれを一時は心配するが、きっとよい事の前提に違いないと思い、神様にお任せしていると、必ずよい事の為の悪い事であった事が分り、心配したのが馬鹿らしくなる事さえ往々あるので、実に感謝に堪えない事がある。要するに私は奇蹟の生活者と思っている。私が言う信仰の醍醐味とは即ちこのような次第である。
(昭和二十三年九月五日)
正直にする方がいいか嘘をつく方がいいかといえば、正直にする方がいいということは余りにも明らかである。併しながら世の中のことはそう単純ではないから、正直でなければならない場合もあり、嘘をつかねばならない場合もある。この区別の判り得る人が偉いとか利巧とかいう訳になるのである。然らばその判断はどうすればよいかというと、私はこう思うのである。先ず原則としては出来るだけ正直にするということであるが、併しどうしても正直に出来得ない場合、例えていえば病人に接したとき“あなたは影が薄いから、そう長くはあるまい”などと思っても、それは反対に嘘をつく方がよいので、否嘘をつかない訳にはゆかないであろう。処が世間には苦労人などと言われる人で、案外嘘をつきたがる人がある。そうしてつくづく世の中のことを見ると、嘘で失敗する場合は非常に多いが、正直で失敗するということは滅多にないものである。
(昭和二十四年八月三十日)
この標題の如き言葉は大分前から聞くのであるが、この言葉を深く考える時、甚だ面白くない響きを社会人心に与えやしないかと思う。併し事実その通りであるなら致し方ないとしても、私の経験上、この言葉のような事実は絶対にない事は保証する。これに関し、以下論じてみよう。
世の中をつくづくみる時、人事百般に渉って、二種類の見方がある。即ち、一は一時的見方であり、一は永遠的見方である。処が一般人は、一時的の結果によって善悪の判断を下したがる。例えば、一時的巧く人を騙したり、物を誤魔化したりする不正直者の成功をみて眩惑され、“正直者は馬鹿をみる”と決めるのであるが、これ等を今少し長い眼で見なくてはならない。そうすると必ずボロを出し、恥を掻き、破綻者となる事は決定的と言ってもよい位確実である。これに引替え正直者は、仮え一時は誤解を受け、損をしたり、不利な立場に置かれても、時たち日を経るに従い、必ずその真相が明らかになるもので、これ又決定的といってもよい位である。これに就いて私の体験を述べてみよう。
先ず私の体験から書いてみるが、私というものは、若い頃から、自分で言っては可笑しいが実に正直である。どうしても嘘がつけない。若い頃「君のような正直者は成功は覚束ないから、心を入れ替え出来るだけ巧く嘘をつかなければ、世渡りも成功も難かしい」と、よく言われたものである。私も成程と思って、一時は一生懸命嘘をついてみるが、どうもいけない。苦しくて堪らない。人生が暗くなり、不愉快な日ばかり送るのである。そんなわけだから、勿論結果のいい筈がない。その頃私は商人であったから、尚更駆引や嘘が良いはずであるが、どうも良くないので、遂に意を決して、私本来の性格である正直主義で通してみる事に決意した。処が面白い事には、それから予想外に結果が良く、第一、業界の信用を増し、トントン拍子に成功し、一時は相当の資産を作ったのである。その為調子づいて、あんまり手を伸ばし過ぎた処へ経済界のパニックに遭い、再び起つ能わざる迄に転落した結果、宗教生活に入ったのである。
けれども一旦決意した正直主義は、飽迄通して今も変らない。勿論結果は良い。尤も長い間には、誤解を受けたり、非難を浴びたり、迫害を蒙ったり、波瀾重畳茨の道を越えては来たが、信用は聊かも落ちなかった事は、正直の御蔭であると今も痛切に思っている。このようなわけで、現代人はどうも物の見方が一時的で、一時的結果に眩惑されがちである。故に人間は、何事を観察する場合でも、永遠的の眼で見なければならないのである。
この事は凡ゆる事に当嵌る。例えば政治家にしても、一時的に政権を獲得しようとして無理をする。丁度熟柿の落ちるのを待ち切れないで、青い内にモギ取り、渋くて失敗するようなものである。こういう諺もある。大政治家は百年後を思い、中政治家は十年後を思い、下政治家は一年後を思うというのであるが、全くその通りである。処が今日は、この下政治家が一番多いように思われるのは、困ったものである。又私の唱える自然栽培にしても、今迄の農業は、金肥や人肥を施すと一時は成績が良いが、土を殺すから土は段々痩せてくる。それが気がつかないで、肥料の一時的効果に眩惑され、遂に肥料中毒に人も土も罹ってしまうのである。この理は現代医学にて当嵌る。薬剤や機械的療法は一時は効果を奏するが、時が経つと逆作用が起り悪化するが、最初の一時的効果に眩惑されて飽迄同一方法をとる。その結果益々増悪するという事になるのである。
最初に述べた、一時的と永遠的との物の見方に就いて、注意を促したのである。
(昭和二十四年四月二十日)
今ここに書く、ヨクナイ人間というのは、善くない人間のことではない。欲ない人間のことである。というと、一寸変に思うであろうが、以下の説明によって誰しも成程と思うであろう。
つくづく今日の社会をみると、欲張りの人間は山程あるが、実をいうとそれ等は悉く欲のない人間ばかりである。欲張りでヨクのない人間とは変だが、実は一時的に儲けようとするだけで、その先は損をすることに気がつかないのである。というのは最初嘘で固めたうまいことをいうが、嘘は必ずバレるから、そこで信用は零となる。但し嘘も巧妙につくほどバレるのが遅くなるから、その時は俺はうまいことをしたと思うのであるが、嘘はいつかバレずに済む筈はない。処が彼等は永久にバレないように錯覚してしまうので、性懲もなく一生懸命人を騙そうとする。勿論世の中には神様などあるものかと彼等は信じない。即ち唯物思想で固まっているからで始末が悪い。処が、バレるが最後、信用は一ペンに吹飛んでしまうから、それでお仕舞になってしまう。というわけで大変な損になる。それが為最早此方では相手にしないことになる。そういう時つくづく思うことは、彼等が最初から真正直で誠実にやったら、今頃は信用がついて実に大きな利益となるのは必定で、僅かの間うまいことをしただけで、それでお終いとは、何と欲のない奴かと惜しむのである。従って、この手合こそ、実に欲のない人間ということになるのである。
今日、事業の不振や金詰りに困っている人の大方は、右のようなヨクない人が多いのである。とにかく人間は信用第一である。信用ほど大きな財産はない。信用財産からは何程でも利子が生まれるので、金詰りの世の中でも、こういう財産家は決して困るようなことはないのである。というわけで、どうしても見えざる神の存在を信ずる人間にならなくては、何をやっても駄目である。それには信仰者になるより外ないのである。故に信仰者は無限の宝の持主で、これが真の幸福者であると共に、最も欲の深い人である。
(昭和二十五年二月十一日)
迷信にもいろいろあるが、一寸人の気のつかない迷信にこの嘘吐き迷信がある。つまり嘘を吐いても巧くゆくと思う迷信で、現代の人間は実によく嘘を吐く。大抵の人は最早馴れっこになってしまって、不知不識嘘を吐いても平気である。つまり嘘が身についてしまって全然気がつかないのであろう。部下などがそういう時私はついも注意を与えるが、ご当人は中々分らないで、嘘と本当との区別さえつかない者が多い。そこでよく説明してやると、どうやら嘘である事が分って謝るという訳である。このように嘘と本当との限界が分り難い程、今の人間は嘘が当り前になっている。併しこれ等は小さい嘘で論ずるに足りないが、それ処ではなく、意識的、計画的に見逃せない嘘を吐く者が多いので、今それを書いてみよう。
先ず大にしては政治家の嘘である。余り自信がないのに、こういう政策を行うとか、こういう計画を立てるとかいって、堂々宣言しておき乍ら、空手形に終り責任を問われる事がよくある。そうかと思うと議員が選挙人に対する約束の不実行もよくあるが、これなども当然のように心得ている。又教育家なども口では立派な事を言い乍ら、その行為が全然反対の人も多いし、又新聞記事に嘘の多い事も常識のようになっている。勿論誇大広告などもそうである。処が一番厄介な問題は今日の税金であるが、これなども取る方と取られる方とは、嘘の吐き比べで、ややっこしく不快な事夥しい。これもよく知られている事だが、昔から花柳界の女等は子供の時から嘘を勉強して、卒業すればそれで一人前になるという事である。その他お医者さんはお医者さんで、治らないと知り乍ら治ると言ったりするが、これ等も嘘を吐かないと飯が食えないからであろう。処が嘘も方便と言って、坊さんが嘘を吐く事もよくあるが、これ等もどうかと思うのである。又昔から商売の駈引などと言って、商人の嘘も大変なものだが、これは天下御免の嘘となっている。マアザット書いてもこの位であるから、全く世の中は嘘で固っているといってもいい位である。特に日本人の嘘の多い事は世界的とされているのだが、余り名誉ではあるまい。併し単に嘘と言っても大した害のないものと、悪質な嘘とがある。悪質な嘘の中でも、こういうのは困りものだ。それは罪を裁く役人の嘘である。最近新聞を賑わした三鷹事件の如き、多数の死刑囚が一人を残して悉く無罪となった事や、二人で殺人罪になった無期徒刑囚が、三年経った今日、別に自分から名乗り出た真犯人が現われたり、大阪の大造事件で、懲役五年の検事の求刑を受けた二人の者が無罪になったりする事など、近頃よくある話だが、これなどは全く検事の嘘による被害者である。
こういう事を聞くと、検事とも言われる人が、そんなに嘘を吐く筈がないと思うであろうが、私の経験によっても決してない事はない。というのは昨年の事件当時から、現在の公判に到るまで、嘘によって罪を作ろうとするその熱心は大変なものである。その度毎に私はつくづく思う事は、こうまでして罪なき人民に罪を被せるべく努力するのは何の為であるかという疑問である。実に不可解千万で、理窟のつけようがないのである。又検察官という職責からいっても、悪人を罪にするのは至当であるが、善人を罪にするなどは到底信じられない話であるが、事実は事実であるからどうしようもないので、只世間に余り知られていないだけの話である。成程最初から有罪か無罪の判別は中々難かしいであろうが、少し調べてみれば兇悪犯罪でない限り白か黒かは大体分る筈である。何となれば一生懸命罪を作ろうとする行為そのものが、既に罪のない事をよく証明しているからである。
話は横道へ外れたが、つまり嘘を吐きたがるというその本心は、全く嘘をついても知れずに済むと思うからで、実に甘いものである。成程世の中に神様がないとしたら、それに違いないから、巧く嘘を吐く程利口という事になるが、事実は大違いだ。何となれば神様は厳然と御座るのだから、どんなに巧く瞞しても、それは一時的で必ず暴露するに決っている。だから暴れたが最後、恥を掻き、信用を失い、制裁を受け、凡そ初めの目的とは逆になるから、差引大損する事となるに違いない。只神様が目に見えないからないと思うだけで、丁度野蛮人が空気は見えないからないと思うと同様で、この点野蛮人のレベルと等しい訳である。何と情ない文化人ではなかろうか。従ってこの理を知ったら、何程立派な働きをもっていても駄目であるのは当り前で、特に人の善悪を裁くなどという神聖な職責にある人達としたら、大いにその点に留意しなければならないのである。だからそういう人こそ、人を裁き乍ら遂にはご自分が神様に裁かれる事になるのである。このような分り切った事が信じられないとしたら、全く嘘吐きの迷信に嵌り込んでいるからで、従って吾等の大いに望む処は、人を裁く司法官悉くは正しい宗教の信者になり、神の実在を知る事であって、何よりもアメリカの裁判官が人情味があり、比較的裁判が公平であるという事は、全く同国人に基督者が多い為であるのは、一点の疑い得ない事実である。
(昭和二十六年九月五日)
昔からある有名な格言に『なる堪忍は誰もする、ならぬ堪忍するが堪忍』と言い、又『堪忍の袋を常に首にかけ、破れたら縫え破れたら縫え』という事があるが、全くその通りである。私はよく人に聞かれる事がある。「先生が今日あるは如何なる修業をされたのであるか。山へ入って滝を浴びたか断食をされたか、種々の難行苦行をされたのではないか」と。処が私は『そんな修行はした事がない。私の修行は“借金の苦しみと怒りを我慢する”というこの二つが主なるものであった』と答えるので、聞いた人は唖然とするのである。併し事実そうであるから致し方がない。私は私を磨くべく神様がそうされたのだと信じている。特にこれでもかこれでもかというように怒る材料が次々にぶつかって来る。元来私の性格としては怒るのは嫌いな方であるが、不思議なほど怒らせられる。一度などは非常な誤解を受け、大多数の人に顔向けの出来ないような恥辱を与えられた。私は忿懣遣る方なく、どうしても我慢が出来ない。するとその時拠ろない所から招ばれ、断れない事情があったのでその家に赴いた。頭がボンヤリして精神が集中しない。どうにも致し方ないから紛らす為酒を一杯所望し、酒を飲んだのである。その頃私は一滴の酒も嗜まないから、よくよくの事である。そんな訳で二、三日経って漸く平静を取戻したというような事もあった。処が後になってその事の為に或る大きな災難を免れ得たのであった。もしその時の怒りがなかったら致命的打撃を受ける処だったので、全く怒りによって助かった訳で、神様の深い恩恵に感激を禁じ得なかったのである。右のように神様は重要なる使命のある者に対しては種々の身魂磨きをされ給うので、その方法の中で怒りを制える事が最も大きい試練と思うのである。従って、怒る事の多い人程重大使命を与えられている事を思うべきで、この意味に於て如何なる怒りにも心を動ずる事なく平然たり得るようになれば、先ず修行の一過程を経た訳で、これに就いて面白い話がある。
それは明治時代の話で、その当時商業会議所の会頭中野武営という人があったが、武営氏が如何なる事があっても怒らないので、或る人がその訳を聞いた。処が中野氏曰く「私は生まれつき非常に怒りっぽい性であった。或る日やはり当時有名な実業家渋沢栄一氏を訪問した際、次の間で栄一氏が妻女と何か口争いをしていたが、私の来訪を知って唐紙を開け着座したが、その時の顔は争いの後とは少しも思えない程の平常通りの温和しさなので、不思議に思うと共に或る事を感じた。それは怒りを制える力である。“渋沢氏が実業界の大御所と言われるまでに成功したのはこの為であろう。よし自分も怒りを容易に制えるようにならなければいけない”と思い、その心掛けをするようになってから、凡てが順調となり、今日の地位を得た」という話である。
先ず諸子が怒ろうとする場合、神様が自分を磨いて下さると思うべきで、それが信仰者としての心構えである。
私は借金の事を書くのを忘れたが、私の経験によれば借金の原因は焦る為であって、焦るから無理をする事になる。何事も無理は一番いけない。無理をしてやった事は、一時は成功しても、何時かは必ず無理が祟って思わぬ障害に遭うものである。それが為物が早く運んだようでも、結局は後戻り、やり直しという事になる。日本の敗戦の原因などもよく検討すると一切が無理だらけであった。第一焦ったり無理をしたりすると心に余裕がなくなるから、好い考えが浮かばない。又好い考えの浮かばない時に無理に何かをしようとする事が更にいけない。好い考え即ちこれなら間違いないという計画が浮かんでから着手すべきで、所謂文字通り熟慮断行である。
故に研究に研究を竭し、これなら絶対間違いないという時は借金をする事も止むを得ないが、借金をしたら一日も早く返還すべきで、決して長引いてはいけない。元来借金なるものは中々返せないもので、長くなると利子が溜り、精神的苦痛は中々大きいものであるから、心に余裕がなくなり、好い考えも智慧も出なくなるので、仕事もうまくゆく筈がない。借金にも積極的と消極的とがある。事業発展の為にするのは積極的であり、損をした穴埋にするのは消極的である。積極的借金はやむを得ないとするも、消極的借金は決してなすべきではない。損をした場合、虚勢を張る事をやめ、一旦縮少して時機到来を待つべきである。
今一つ注意したい事がある。それは欲張らない事である。昔から大欲は無欲という諺がある通り、損の原因は十中八、九まで欲張り過ぎる為である。よく人が牡丹餅で頬辺を叩くようなうまい話を持って来るが、世の中には決してうまい事はあるものではない。故にうまい話は警戒すべきで、パッとしない話の方に反って将来性があるものである。これらに就いて私の経験を話してみるが、借金を早く返したいと思い、又積極的に宗教上の経営をやらなくてはならないと思い、金が欲しい欲しいと思っている時にはさっぱり金が入って来ない。しまいには諦めて神様にお任せし、金銭の事を忘れるようになってから予想外に金が入るようになったので、実に世の中の事は理窟では分らないと思った事がある。
(昭和二十三年九月五日)
私は最近、怒りを和げる方法を神様から教えられたので、今その福音を伝えようと思う。凡そ人間この世に生きている間、何が一番苦しいかといって、憤怒に越したものはあるまい。稀には怒らない人もあるにはあるが、これは倖せのようでも、実は一種の変質者である。先ず一般人としては、怒らない者は殆んどないと言ってよかろう。昔から淘宮術やその他の修養法によって、怒りを克服する方法もあるにはあるが、真に効果のあるものは殆んど見当らない。併しながら怒りを只抑えるだけとしたら、怒りの苦しみは免れるとしても、新たに抑える苦しみが生まれるから、何にもならない。怒りの苦しみが大きければ大きい程、抑える苦しみもそれにつれるからで、差引二一天作の五である。処が、今度私が神から教えられた方法は、怒りの感情を楽に消すことが出来る。何と素晴らしいではなかろうか。今それを書いてみよう。
抑々、人体の中央にある鳩尾は、昔から中腑と言われる程重要な部分である。よく臍が中心というが、これは腹部の中心であって、勇気とか胆力とか、決断力というような意志の中心である。よく肚が出来ているとか、太っ肚だとか、肚が据っているとかいうのは、その意味である。併し私が常に言う、前頭部は智慧、記憶等の理性を掌り、後頭部は喜怒哀楽等の感情を掌り、肚は右の如くであるとしたら、この三位一体的総合された結晶が、前述の如く人体の中腑である以上、怒りの場合もやはりこの部へ想念が集中するのである。何よりも、怒ったとき鳩尾部に何か結ばれた塊りのようなものが感じられる。これは誰しも経験する処で、又腹が立つという言葉も、腹にある棒が立って棒の頭が鳩尾に当る訳である。それはとにかく、腹の立った際鳩尾部を浄霊すると、間もなく塊りが溶け、結んだ紐がほどけるような、胸がひらけて何とも言えないいい気持となり、段々心が軽くなって、怒ったことが恥しいようになるものである。よく怒りが溶けるというが、その通りである。然も浄霊なるものは、自分でも人でもどちらも治せるから、これ程結構なことはあるまい。言う迄もなく個人は元より一家の平和、人との和合、大にしては社会や国際間の平和が破られるのも、怒りが原因であるから、実に大きな救いというべきであろう。
(昭和二十六年五月三十日)
この事に就いては、信者の中にも不知不識間違える人がよくあるから書いてみるが、これも以前私は書いたように思うが、今でも時々耳にするので再び書くのである。よくアノ人は善いとか悪いとかの批判をしたり、酷いのになると、アノ人には邪神が憑いているから気をつけろ、などと言う人があるが、これこそ大変な間違いであって、人を邪神という人こそ、実は御自分に邪神が憑いているのである。何故ならば人間が人間に対して、善悪正邪など分るものではない。というのはこれこそ神様の領分に属するからである。だからそういう人は人間の分際で神様の地位を侵しているようなものだから、飛んでもない慢心脱線である。
従ってこういう人こそ、邪神と見て間違いはないので、大いに注意すべきである。勿論そういう人は本当に神様を信じていないからで、よくアノ人の信仰は間違っているとか、アノ教会の行り方は悪いから改革せねばならぬなどと真面目くさって言うが、若し信者の中で本当に悪い人があるとすれば、神様はチャンと裁いて下さるから、神様にお任せしていればいいので、少しも人間の心配など要らないのである。それが信じられないとしたら、その人こそ神様よりも人間の力の方を信ずるのだから、これ程の慢心取違いはあるまい。総ては最高の神様が一切を統轄なされているので、間違った人に対しては、神様は最初その人を覚らせるべくお気づけをされるが、それで覚らない時は命まで召上げられる事がよくある。今までにもそういう例のあった事は、古い信者はよく知っているであろう。
従って“人を裁く勿れ”という格言をよく守ると共に、寧ろ絶えず自分自身を裁いていればいいので、そういう人こそ本当に神様が分っている人である。
(昭和二十七年五月二十一日)
よく信仰に熱心の余り自分の属している教会の会長始め、役員等の行り方が面白くないとか何とか非難して、それを改革しようと忠告したりしても、それが容れられない場合、非常に気を揉む人も時々あるようだから、これについて書いてみよう。
右のような考え方は、全く誠から出たのであるから、悪いとはいわないが、大いに考慮を要する点がある。というのはその考え方は小乗信仰であるからである。本教はいつもいう通り大乗信仰であるから、世間並の考えとは大変違っている。その点が認識出来ないと、神様の思召に適わない事になる。何よりも彼の人は善人だとか、悪だとかいうのは已に慢心である。何となれば人間の善悪は神様でなくては分らない筈で、以前も書いた事があったが、大いに慎まなくてはならない。
もし間違ったり、悪人であれば、神様がチャンとお裁きになられるから少しも心配はないのである。だから人間が心配や取越苦労などするのは、神様のお力を信じていないからという事になるではないか。その証拠には今まで間違った信仰のために、神様から裁かれ、人によっては命まで失った事実は沢山あり、古い信者は幾度も経験しているであろう。だから人の善悪を批判する前に、先ず自分の肚の中の善悪を見る事である。
そうして本教信者となる位の人には、先ず悪い心の人などありよう訳がない。みんな誠の人ばかりである事はよく分っている。只単に誠といっても、大きい小さいがあるから気をつけなくてはいけない。私が常にいう小乗の善は、大乗の悪であるという意味である。如何に善でも誠でも、小乗の考え方では結果は悪になるのである。本教は世界全人類を救うというこの世創って以来の大きな仕事であるから、本教内部の事などは神様にお委せしておけばよい。何よりも社会否世界を相手として考えるべきである。早くいえば眼を内へ向けないで、外へ向ける事である。
今一つ言いたい事は、神様のご経綸は実に深いもので、到底人間の眼や頭脳で分りよう筈がないのである。大本教のお筆先にこういう文字がある「神の奥には奥がある。その又奥の奥の仕組であるから、人民には分りよう筈がないぞよ。神界の事は分らんと思う人民は、分ったのであるぞよ」とか「そんな、人民に分るようなチョロコイ仕組で、三千世界の建替が出来ると思うかと申すのであるぞよ」このお言葉は実に簡単にして、よく言い表わされていると思う。
(昭和二十六年九月十二日)
私はいつも信者にいっている事だが、アノ人は善だとか悪だとか、お邪魔になるとかならないとかいっている人もあるようだが、そういう人がまだ少しでもあるのは充分教えが徹底していない訳である。そうして度々言う通り、人の善悪を云々するのは、徹頭徹尾神様の地位を犯す訳で、大いに間違っているから充分慎んで貰いたいのである。それは勿論人間の分際として人の善悪など聊かも分る筈もないからで、分るように思うのは全く不知不識のうちに慢心峠に上っているからである。従ってこういう人こそ、実は信仰の門口にも入っていない証拠である。又ご経綸にしても人間の頭で分るような、そんな浅いものではないので、この点も大いに心得ねばならないのである。何しろ三千世界を救うというような、昔からまだないドエライ仕組なんだから、余程大きな肚にならなければ、見当などつく筈はない。つまり小乗信仰の眼では、節穴から天井を覗くようなものである。
私は耳にタコの出来る程、小乗信仰では不可ない、大乗信仰でなければ神様の御心は分る筈はないと言っているが、どうも難かしいとみえて、間違った人がまだあるのは困ったものである。処が世間一般を見ても分る通り、凡ゆる面が小乗的であり、特に日本はそれが甚だしいようである。信仰団体なども内部的に派閥を立て、勢力争いなどの醜態は時々新聞を賑わしているし、その他、政党政派、官庁、会社等の内部にしても、ご多分に洩れない有様で、これ等も能率や事業の発展に悪影響を及ぼすのは勿論である。尤もそういう間違った世の中であればこそ、神様は建直しをなさるのである。そうしてこれ等の根本を検討してみると、悉く小乗なるがためであるから、どうしても大乗主義でなくては、到底明朗おおらかな社会は実現する筈はないのである。
それだのに何ぞや、本教信者でありながら、世間並の小乗的考え方がまだ幾分でも残っているとしたら、早く気がつき、頭を切替えて、本当の救世教信者になって貰いたいのである。そうでないと、段々浄化が強くなるにつれて、神様の審判も厳しくなるから、愈々となって臍を噛んでも追っつかないから、改心するなら今のうちと言いたいのである。大本教のお筆先に「慢心と取違いは大怪我の因であるぞよ」という言葉が、繰返し繰返し出ているが、全くその通りである。又キリストの「汝人を裁く勿れ」の一句も同様である。要するに人の善悪よりも自分の善悪を裁く事で、他人の事などは無関心でいる方が本当である。
そうして信者は知らるる通り、現在どんな人間でも毒素のない者は一人もない。これは体的だが、霊的にみても同様欠点のないものは一人もないので、それだからこそ神様は浄化によって救われるのである。又、“馬鹿野郎よく考えりゃ俺の事”の名句の通り“甘い奴よく考えりゃ俺の事”でもある。序だから今一つの事を書いてみるが、私は誰の心の中でも必要だけはチャンと分っている。只それを口へ出さないだけで、その為明主様はご存じないのだろうと心配するが、私としては百も承知で、只黙して神様にお委せしているのである。というのはどうしても見込のない人は、神様は撮み出されるか、悪質な人は命まで召上げて解決されるのであって、今までもそういう人も何人かあったので、古い人はよく知っている筈である。右のように万事神様にお委せしている私はいつも気楽なもので、心中春風の如しである。そうして私からみれば、世の中の人の殆んどは甘ちゃんばかりといっていい。世界的英雄にしても、日本の偉方にしても、甚だお気の毒だが、お人好の坊ちゃんと思っている。その中でも最も甘ちゃんは悪人である。面白いのはカノ踊る宗教の北村教祖は、人の顔さえ見りゃ蛆虫と言うが、言い方は野卑だが、本当だと私は思っている。話は大分横道へ外れたから、この辺で筆を擱く事とする。
(昭和二十八年五月十三日)
私は、人を憎むなという事を書いた事があるが、それと共に憎まれる事もいけないのである。というのは憎まれると、どうしても相手の怨み、嫉妬、報復等の悪念が霊線を通じて来る。それが邪魔をして、常に不快感がまつわり、晴々としないから、仕事も巧くゆかないようになり、幸運を妨げられるという訳だから大いに注意すべきである。処が世の中には、随分人を酷い目に遭わせ、不幸にさせる事を何とも思わない人間が沢山あるが、それでいて成功して褒められるような事になるのを見る人々の中では目先だけしか見えないから、やはりそういうやり方が成功すると思って、真似をしたがる。こういう人が増えるから、世の中はよくならないのである。処が少し長い目でみると、悪因悪果で、悪い奴の没落は一つの例外もなく必ず来るのである。
この理によって、年中気持よく、仕事は順調にゆき、災いも軽く済むようになるには、右と反対に人を喜ばせ、人を幸福にする事で、この実行者こそ、賢明な人と言うべきである。そうしてこの理を知らせる事が宗教の根本でもある。
だから、私がいつもいう通り「愚かなる者よ、汝の名は悪人なり」とは永久不滅の真理である。
(昭和二十六年七月十八日)