私は十数年前から原稿を書き始めたのであるが、勿論信仰を中心にしたものばかりで、今までの宗教の開祖などと違って、堅苦しいことや、野暮くたいことなど一切抜きにして、如何なる階級の人にも解り易いようにと、意を用いて来たのである。既成宗教も結構ではあるが、どれもこれも一種の悪く言えば宗教臭味があり、よく言えば何かしら神秘的で分るような分らないような処に反って魅力があるのではないかとも思えるのである。と言って解釈が難かしいから、その人次第で色々にとれるから、どうしても分派が出来易い。何よりもその宗教が大であればある程分裂し、相剋し合う例は歴史がよく示している。そんな訳で信徒はその信仰の真髄を掴み得ないため、迷いが生じ易く、真の安心立命は得難いのである。
右の如くであるから、今までの教えの行り方では、一つの宗教でさえ和合統一など到底出来ようもない。況んや全宗教の帰一など夢にも思えないのであって、年々新宗教の増えるのも、そんな処にあるのであろう。仮に日本だけにみても、人口増加に比例して、宗教の数も増えつつあるのが現状である。
ところが如何なる宗教でもその拝む的といえばエホバ、ジュース、ロゴス、天帝、無極、天照大神、国常立尊、キリスト、釈迦、阿弥陀、観音等が主な神仏で、その他何々の尊、同如来、同大師等々色々の御名はあるが、勿論立派な神仏には違いはない。中には稲荷や天狗、龍神など、低俗な信仰は別として、その根本に遡れば、独一真神即ち主神一柱で在すことは論のない処であるが、今日までどの宗教でも、自分の方が一番最高で立派な宗教なりとし、排他的観念も多分にあるから、統一などは出来ようわけがないのである。そうかと言って最後の理想だけはどの宗教も同一である。即ちこの世の天国、極楽世界、理想世界の実現であり、人類全体の幸福であって、これに反対である宗教は一つもあるまいが、それならそのような世界の実現はどうすればいいかというと、即ち世界をうって一丸とする帰一的宗教が生まれなければならないのである。それこそ万人挙って信じ得られる程の、超宗教的偉大なものでなくてはならない。それが我が救世教であるとはいわないが、そういう世界を造り得る手段、方法、即ち計画設計はどうすればいいか、それを教えるのが本教の使命であって、その認識者が各民族の智識人間に増えるに従って、目標に向って一歩々々前進するのである。これを一言にして言えば真理の具現であり、これによって一切の誤謬は明らかになり、是正され、明朗清純な光明世界が実現するのである。勿論人間から悪は追放され、虐げられていた善が興隆し、人類は幸福を楽しむようになるのである。従って先ず真理を普く全人類に知らせることこそ根本である。
故に私の現在実行しつつある事業は、一言にしていえば、真理具現の一大過程であり、筆によって真理を分らしむべき大努力である。
(昭和二十六年九月二十五日)
抑々、宗教の真の目的は何であるかと言えば、言う迄もなく真理の具現である。然らば真理とは何ぞやというと、勿論自然そのままの姿を言うのである。東から太陽が出て西に沈むという事も、人間は生まれれば必ず死ぬという事も、これは仏説の所謂生者必滅、会者定離という事であり、人間は空気を呼吸し食物を食う事によって生きているという事も、勿論真理である。こんな分り切った事を言わなければならない程、人類の現状は出鱈目になっているのである。
右の理によって、現在社会万般に渉る混乱、闘争、無秩序、罪悪等の忌わしい事象を見ても、人類が幸福になるよりも不幸になる条件の方が多い事は否み得まい。とすれば、その原因が那辺にありやを考えてみなくてはならない。私の見る処では、一切の根本が真理に遠ざかり過ぎているからで、それが余りにも明らかである。ただ真理に遠ざかっていながら、それに気がつかないだけである。併しながら、それは何が為であろうかをここに検討してみるが、実は現代人は真理そのものさえも分らなくなっている。というのは、生活問題の窮迫に真理など考える余裕がないからでもあろう。尤も、肝腎な宗教でさえ、今日迄真理そのものがはっきりしなかった点もあり、真理と思って非真理を説く事が多かったのである。もし真理を真に説き得たとしたら、人類社会は現在よりもっと良くなっていなければならない筈である。或いは天国楽土が或る程度実現していたかも知れないと思う。然るに天の時来たってここに神意の発現となり、啓示を下され、真理を説き、真理の具現を遂行さるる事になったのである。故に私が説く処の諸々の言説は、真理そのものを万人に最も分り易く伝える以上、読む人は虚心坦懐白紙になって熟読玩味すれば、髣髴として真理は浮かぶであろう。
右によって私は最も手近な処から説いてみるが、人間が病気をするという事は、真理に外れた点があるからであり、それを治し得ないのは、これ又真理に外れているからである。政治が悪い、思想が悪いという事も、犯罪が殖える、金詰り、インフレ、デフレで苦しむという事も、どこか真理に外れた処があるからである。もし真理に外れていないとすれば、正しい事は人間の希望通りにゆく筈で、そのように人間社会を神が作られているのである。故に思想的善美な社会も、人間が歓喜幸福者の生活者たり得る事も、敢えて難事ではないのである。即ち私が唱える地上天国出現の可能性もここにあるのである。
このような訳であるから、私の言説には随分違った点があると思うであろうが、実は聊かも違ってはいない。至極当りまえの事である。違っていると思うのは非真理の眼で見るからである。私の説が異説と思えば思う程、社会の現実が異説的な為である。
神は人間に対し無限の自由を与えている。これが真理である。人間以外の動植物には限られる自由しか与えられていない。ここに人間の尊さがある。然らば人間の自由とは何であるかと言うと、人間向上すれば神となり、堕落すれば獣となるという両極端のその中間の位置に存在しているからである。この理を推進する時、こういう事になる。それは人間の行り方次第で、この世はいとも楽しい楽苑ともなり、その反対であれば、いとも悲惨な地獄ともなる。
これが真理である。とすれば、人間は右の何れを選ぶべきか、考えるまでもなく、先天性の悪魔でない限り前者を欲するのは当然であろう。
右の如くでありとすれば、前者の天国世界の実現こそ、人類究極の目的であり、その目的達成こそ、真理の具現あるのみである。そうして、それが宗教本来の使命である以上、私は常に、筆に口に真理を教え、尚且つ真理の具現者として、日もこれ足らず努力活動しつつあるのである。
(昭和二十四年七月十六日)
昔から真理ということは誰も言うのであるが、非真理即ち偽理ということは言わないようである。ところが凡ゆる実際問題を検討するに当って、この真理と偽理との区別のあることを知らなければならない。それによって結果に重大関係があるからである。それ等に就いていつも思うことは、偽理を真理と誤っていることが頗る多いのであって、ただ一般はこれに気がつかないだけである。
偽理と真理は、宗教にも、哲学にも、科学にも、芸術、教育にもある。何事に就いても偽理は数年、数十年、数百年にして崩壊するが真理は永久不変である。何か新しいものを発見した当時、世人は無上の真理と信ずるが、新学説や新発見が出て何時かは崩壊することも頗る多い。それと同じように、大宗教と雖も、何百何千年の時を経てから消滅しないと誰か保証し得よう。といっても全然消滅することもなく、偽理の部面だけが消滅し、それに含まれている真理の部面だけが残されることも勿論で、よし残るものはないとしても、それまで文化の進歩に対し一段階の役割は果した訳であるから、非難の的とはならない。そうして偽理であっても真理に近いもの程長期間の生命があり、遠いものほど短命に終るのも必然の理であろう。
本当からいえば、この真理と偽理との正しい判別をすることがその時代の識者や先覚者の責任であるに関わらず、そういう超凡的識見を有する者は至って少ないのは事実である。併しながら偽理であっても相当長く続くこともある。専制政治や封建思想なども、偽理を真理として扱われたこともある。早い話がムッソリーニのファッショ、ヒットラーのナチス、東条の八紘一宇なども洵に短い運命ではあったが、その当時はそれに気がつかなかったことも不思議である。このように、偽理であっても一時はその民族をして真理と思わしめ、生命をまで軽く扱われたのであって、このような錯覚のため犠牲となり終った数多くの気の毒な人達を、我等の記憶にまざまざと残っている。全く偽理の恐ろしさが知らるるのである。
偽理と真理に就いては、宗教に多いことも見逃せない事実である。群小幾多の宗教が出ては滅び、初期は華々しいものであっても、短命に終り、跡形もなくなったものもあ
るが、全く偽理宗教であったからである。故に真理同様の価値ある宗教である限り、一時は強力なる圧迫を蒙ると雖も、何時かは必ず起上り大宗教となることは、現在ある大宗教をみても頷かるるであろう。
(昭和二十五年一月三十日)
世の中で一口に智慧というが、智慧にも種々あり、浅い深いもある。それ等について解説してみよう。
智慧の中でも神智、善智、叡智は最上のもので、これ等の智慧を磨くべく大いに信仰を励むべきである。何となればかような智慧は神を認め、正しい誠心からでなくては湧起しないからである。故に善智によって行動の規範とし努力すれば決して失敗はなく、真の幸福を獲得し得られるのである。
右に引替え、悪から発生する智慧は奸智、才智、邪智等で、凡ゆる犯罪者はこれ等の智慧の持主である。特に詐欺の如き智能犯はこの最も勝れた者である。この意味に於て昔から英雄や一時的成功者等も実はこの悪智慧の輪郭が大きいというに過ぎないのである。
処が面白い事には、善智である程深く、悪智は浅いという事実である。これは昔から今に至るまでの悪人の経路を見ればよく現われている。非常に巧妙に仕組んだようでも、どこかに抜けてる処がある。その隙が破綻の因となり、暴露失敗するのである。この理によって一時的でなく、永遠の栄を望むとすれば、深い智慧が働かなくてはならない。そうして深い智慧程誠の強さから湧くのであるから、どうしても正しい信仰人でなくては駄目だという結論になる。
今日の社会悪も右の理が分れば何でもない。全く現代人の考え方の浅い為である。それは各面に現われている。例えば政治家にしてもただ目先ばかりを考え、問題が起ってから周章ててその対策を講ずる。この点医学の対症療法とよく似ている。処が問題の起るのは起るべき原因があって起るので、決して偶然に起るものではない。又浅智慧では将来の見通しがつかないから本当の政策は立てられない。丁度、碁、将棋と同じようなもので、達人は五手も十手も先が見えるから勝つが、ヘボは二手か三手先がやっとと言う訳で負けるに決っている。
以上の意味に於て、人間は大いに善智を養い、叡智が働かなければ何事もうまくゆく筈がない事を知るべきで、それには信仰によるより外に方法のない事を知るであろう。
(昭和二十四年五月二十五日)
単に智慧といっても種々ある。今それを分類してみよう。先ず最高は神智、次が妙智、叡智、才智、奸智の順序で、大別して五段階になる。私は名づけて五智という。これを一つずつ説いてみよう。
神智とは最高の智慧で、これは普通人には得られない。特別の人が神から受ける智慧で、それはその人が重大使命を神から委任されたからである。昔から「学んで知るを人智と言い、学ばずして知るを神智」と言うが、一言にしてよく表わしている。
妙智というのは、観音妙智力などといい、前述の神智に対し仏智ともいうべきもので、神智は男性的とすれば、妙智は女性的ともいえるので、妙の字が女偏であるのも面白いと思う。
叡智とは、賢明な人間が現わす智慧で、仏教で智慧証覚とか単に智慧というのはこれをさすのである。併し今の世の中はこの叡智さえも働く人は洵に少ないのである。それはいうまでもなく邪念の為に物の正しい判断がつき難いからである。この例を一つ書いてみよう。今日政治家は勿論の事、凡ゆる有識者と雖も、或る問題に対し会議をする場合、小さい問題でも多数の人間が何時間も掛かって頭をひねらなければ結論が見出せない。少し大きな問題になると十数人或いは数十人が額を鳩め侃々諤々の議論を闘わし、何回も何日も会合しても中々結論を得られないというのであるから、如何に頭脳の働きが鈍いかという事である。
考えてもみるがいい、如何なる問題と雖も結論はたった一つである。決して幾つもありはしない。それが大勢の頭脳と幾日もの日時がかかるというのであるから、実に情ないの一言に尽きるのである。これというのも全く叡智が足りないからで、叡智の足りないという事は頭脳が曇っているからで、頭脳が曇っているという事は邪念があるからで、邪念があるという事は唯物主義を信奉するからで、唯物主義を信奉するという事は神の実在を認めないからで、神の実在を認めないという事は神を信じさせ得る宗教がないからである。とすれば神の実在を如実に知らしむる宗教こそ、本当に生きた宗教というべきである。かように諄々しく言わなければならないことほど左様に、現代人は頭脳が悪くなっている訳である。
この意味に於て叡智ある人は、如何なる問題に打つかっても、数分間乃至数十分間に結論を発見し得るのである。これに就いて私は部下に対し、如何なる問題に当っても結論を見出すまでの論議は先ず三十分位を限度とし、長くとも一時間以上になる場合は、その会合を一時中止し、他日を期して再会議するか、又は直接私に相談せよというのである。
私の事を言うのは心苦しいが、私はどんな難問題に対しても数分間で結論を見出すのである。偶には急速に結論を見出し得ない場合もあるが、そういう時は強いて見出そうとしないで一時それを延ばすのである。そうすると間もなくインスピレーション的に必ず結論が頭に閃くのである。
次に才智であるが、これは誰も知っている通り、表面だけの浅智慧であるから、一時的良くても時が経つと必ず失敗したり信用を落したりする。言い換えれば愚智又は鈍智とも言えるのである。
奸智は、これも読んで字の如く邪悪の智慧で、悪智慧である。これも世間にはなかなか多く、然も知識階級、指導者階級にも相当多いのだから社会が良くなりよう訳がない。故にこういう悪智慧がなくなる日本人になってこそ、明朗な社会が出現し、立派な国となるのである。然らばこの奸智を抹殺する方法はありやというに、それは訳はない。悪智慧の発生地を全滅させる事である。その方法こそ、神の実在を信じさせる力ある宗教の活動による外はない。
(昭和二十四年八月二十日)
神の目的であるこの世界を天国化するに就いては一つの根本条件がある。それは何かというと、現在大部分の人類の心中深く蔵されている悪そのものである。処が不可解なことには、一般人の常識からいっても、悪を好まず、悪に触れることを非常に恐れるのはもとより、昔から倫理、道徳等によって悪を戒め、教育もこれを主眼としている。その他宗教に於てもその教えの建前は善を勧め悪を排撃するにあり、世間を見ても親が子を戒め、夫は妻を、妻は夫を、主人は部下に対してもそうであり、法律もそれに刑罰を加えて、より悪を犯さぬようにしている。処がこれ程の努力を払っているにも拘わらず、事実この世界は善人より悪人の方がどの位多いか分らない程で、厳密に言えば恐らく十人中九人までが悪人で、善人は一人あるかなしかという状態であろう。
しかしながら単に悪人といっても、それには大中小様々ある。例えば一は心からの悪、即ち意識的に行う悪。二は不知不識無意識に行う悪。三は止むを得ず行う悪。四は悪を善と信じて行う悪である。これ等に就いて簡単に説明してみると、こうであろう。一は論外で説明の要はないが、二は一番多い一般的のものであるし、三は民族的には野蛮人、個人的には白痴、狂人、児童の精神薄弱者であるから問題とはならないが、四に至っては悪を善と信じて行う以上、正々堂々として然も熱烈であるから、その害毒も大きいのである。これに就いては最後に詳しく書くこととして、次に善から見た悪の世界観を書いてみよう。
衆知の如く、現在の世界を大観すると、悪の方がズット多く、全く悪の世界といってもよかろう。何よりも昔から善人が悪人に苦しめられる例はいくらでもあるが、悪人が善人に苦しめられた話は聞いたことがない。このように悪人には味方が多く、善人には味方が少ないので、悪人は法網を潜って大腕ふりつつ世の中を横行するに反し、善人は小さくなって戦々兢々としているのが現在の世相である。このように弱者であるが為、善人は強者である悪人から常に迫害され、苦しめられている不合理に反抗して生まれたのが彼の民主主義であるから、これも自然発生のものである。日本も右の如く長い間封建思想の為、弱肉強食的社会となって続いて来たのであるが、幸いにも外国の力を借りて、今日の如く民主主義となったので、この点自然発生と言うよりも、自然の結果といってよかろう。というようにこの一事だけは珍らしくも、悪に対して善が勝利を得た例である。しかしながら全体から言えば、外国はともかく、日本は今の処生温い民主主義で、まだまだ色々な面に封建の滓が残っていると見るのは、私ばかりではあるまい。
ここで悪と文化の関係に就いても書いてみるが、抑々文化なるものの発生原理は何処にあったかというと、古えの野蛮未開時代強者が弱者を圧迫し、自由を奪い、掠奪、殺人等思うがままに振舞う結果、弱者にあってはそれを防止すべく種々の防御法を講じた。武器は固より垣を作り、交通を便にする等、集団的にも個人的にも、凡ゆる工夫を凝らし努力したのであった。これが人智を進めるに役立ったことは勿論であろう。又その後に到って安全確保の為、集団的契約を結んだのが今日の国際条約の嚆矢であろうし、社会的には悪を制御するに法の如きものを作り、これが条文化したのが今日の法律であろう。処が現実は、そんな生易しいことでは人間から悪を除くことは到底出来なかったのである。これによってみても、人類は原始時代から悪を防止する善との闘争は絶えることなく続いて来たのであるから、何と不幸な人類世界であったであろうか。この為如何に大多数の善人が犠牲にされたかは誰も知る通りである。そこでそれらの悩みを救おうとして、時々現われたのが彼の宗教的偉人であった。というのは、弱者は常に強者から苦しめられ通しでありながら、防止の力が弱いので、せめて精神的なりとも不安を無くし希望を持たせると共に、悪に対しては因果の理を説き悔い改めさせようとしたので、多少の効果はあったが、大勢はどうすることも出来なかった。処が一方唯物的には、悪による不幸を防止せんとして学問を作り物質文化を形成し、この進歩によって目的を達しようとしたのであるが、この文化は予期以上に進歩発展はしたが、最初の目的である悪を防止するには役立たないばかりか、反って悪の方でそれを利用してしまい、益々大仕掛な残虐性を発揮するようになったのである。これが戦争を大規模にさせる原因となり、遂には原子爆弾の如き恐怖的怪物さえ生まれてしまったのであるから、こうなっては最早戦争不可能の時代となったといえよう。これを忌憚なくいえば、悪によって物質文化が発達し、悪によって戦争不可能の時代を作ったので、洵に皮肉な話である。勿論その根本には深遠なる神の経綸があるからで、この点よく窺われるのである。そうして精神文化の側にある人も物質文化の側にある人も、共に平和幸福なる理想世界を念願しているのは勿論であるが、それは理想のみであって現実がなかなか伴なわないので、識者は常に疑問の雲に閉され、壁に突当っているのが現状である。中には宗教に求め哲学等によってこの謎を解こうとするが、大部分は科学の進歩によってのみ解決されると確信している。しかしそれも確実の見通しもつかないで、未解のまま人類は苦悩を続けているのである。としたら、世界の将来は果してどうなるかということを、私はこれから徹底的に説いてみようと思うのである。
前記の如く、悪なるものが人類不幸の根本原因であるとしたら、何故神は悪を作られたかという疑問が湧くであろう。これが今日迄最も人間の心を悩ました問題である。処が神は遂にこの真相を明らかにされたので、ここに発表するのである。先ず第一、今日迄何故悪が必要であったかということである。というのは、悪と善との争闘によって現在の如く物質文化は進歩発達し来ったという、何と意外な理由ではないか、処がこのような夢想だも出来ないことが実は真理であったのである。それに就いては先ず戦争である。戦争が多数の人命を奪い、悲惨極まるものなるが故に、人間は最もこれを恐れ、この災害から免れようとして最大級の智能を絞り、工夫に工夫を凝らしたので、このことが如何に文化の進歩に拍車をかけたかは言う迄もない。何よりも戦争後勝った国でも負けた国でも、文化の飛躍的発展は歴史がよく示しているからである。しかしながら戦争が極端にまで進み、長く続くとなれば、国家は滅亡の外なく、文化の破壊ともなる以上、神は或る程度に止め、又元の平和に立返らすので、このように戦争と平和は交互に続いて来たのが、世界歴史の姿である。又社会を見てもそうであり、犯罪者と取締当局とは常に智慧比べをしているし、個人同士のゴタゴタもその因は善と悪との争いからであって、これ等の解決が人智を進める要素ともなっているのは分るであろう。
このように、善悪の摩擦によって文化が進歩するとすれば、今日迄は悪も大いに必要であった訳である。しかしながらこの悪の必要は決して無限ではなく限度があることを知らねばならない。これに就いては順次説いてゆくが、先ず肝腎なことは、この世界の主宰者たる主神の御目的である。これを哲学的に言えば絶対者と、そうして宇宙意志である。彼のキリスト始め、各宗教の開祖が予言された処の世界の終末であるが、これも実は悪の世の終末のことであったのである。そうして次に来るべきものが理想世界であって、病貧争絶無の地上天国、真善美の世界、ミロクの世等々、名は異なるが意味は一つである。というように、これ程の素晴しい世界を造るとしたら、それ相応の準備が必要である。準備とは、精神物質共に右の世界を形成するに足るだけの条件の完備である。それに対して神の経綸は物質面を先にされたことである。というのは、精神面の方は時を要せず一挙に引上げられるが、物質面の方はそうはゆかない。非常に歳月を要するのは勿論であるからである。然もその条件として先ず第一に神仏の実在を無視させ、人間の精神を物質面に集中させたことでその意味で生まれたものが彼の無神論である。というように悪を作るには無神論こそ最も根本的であるからである。かくして勢いを得た悪は、益々善を苦しめ、争闘を続け、人間をして苦悩のドン底に陥らしめたので、人間は常に這上ろうとして足掻いている。これが文化の進歩に大いなる推進力となったのは勿論で、悲惨ではあるが止むを得なかったのである。
以上によって善悪に就いての根本義は分ったであろうが、前記の如く愈々悪不要の時が来たと共に、それが今日であるから容易ならぬ問題である。しかしこれは臆測でも希望でもない、現実であって、信ずると信ぜざるとに拘わらずそれが最早人の眼に触れかけている。即ち原子科学の素晴しい進歩である。従って若し戦争が始まるとしたら、今度は戦争ではなく、一切の破壊であり、人類の破滅であるが、これも実は悪の輪止まりであるからむしろ喜んでいいのである。然もこの結果今日まで悪が利用して来た文化は、一転して善の自由となり、ここに待望の地上天国は生まれる段階となるのである。
(昭和二十七年八月十三日)
何人と雖も、現在は最も進歩せる文明世界と思っている。成程野蛮未開の原始時代に比ぶれば、確かに高度の文明を形作ってはいるが、それは唯物的の反面であって、唯心的には半野蛮を出でないといっても、恐らく否定は出来得まい。事実古代から人類は常に戦争の為に人間精力の大半を費しつつあることで、勿論戦争なるものも最も強大なる暴力の行使であり、彼の猛獣が牙を鳴らし爪を立てて怒号し相食むのと、内面的には何等択ぶ処はあるまい。もっとも一方平和を愛好する民族もあって、戦争を極力避けんとし種々の方策を講じつつあることも事実である。これによって考えるならば前者は野獣的人類であり、後者は人間的人類であるといっても間違いはあるまい。この相反する二種類の人間が各々その意欲を満足せんとして活動しつつある。これが世界歴史の課程でもあり現状でもある。勿論この二種の思想は個人的にもあるが、これ等は法によって暴力を防止し秩序を保ってともかくことなきを得ている。しかしながらともすれば善人良民が常に悪人に圧迫され、被害を蒙りつつあるのも事実である。
又他の方面をみてみよう。今日科学の進歩によって偉大なる発明発見があるが、それを行使する人間の意志によって悲惨なる結果を生むこともあれば、反対に人類福祉の増進に役立つこともある。しかしこの野蛮と文明との相反する二大思想の摩擦が戦争の原因ともなり、それにつれて発明発見を悪用することともなる。
そうして別の方面からこれを検討するとき、闘争民族は無宗教であり、平和民族は有宗教であるにみても、どうしても宗教の必要が生じて来るのである。これによってこれをみれば、現在高度の文化時代と誇称すると雖も、実は半野蛮半文明時代であると言っても過言ではなかろう。
この意味に於て、半文明を物心一如の全的文明にまで飛躍させなくてはならない。今後の宗教人の使命や実に大なりと言うべきである。
(昭和二十四年六月二十五日)
ジャーナリストは殆んど本教を迷信邪教というが、これはどういうわけであろうか。端的にいえば彼等と我々とは観点が違う。唯物主観によって唯心的を批判するからである。ということは、唯物主義とは文字通り判然と目に見える存在であるから、何人も把握し得るが、唯心主義に至っては不可視である以上、どうしても否定することになる。故にただ単に比較さるる時、唯心主義の方は実に歩が悪いのは致し方ないのである。
しかしながら唯物観は目に見え、五感に触るるだけのもので、局限されている以上小なる存在ともいえる。それに引替え唯心観は無限大である。いわば地球の大きさに対する際限のない宇宙の大きさともいえる。今ここに目で見得る程度としては精々富士山位で、数十哩に過ぎないが、目に見えぬ想念は地球の涯はおろか、無限大に拡がり得ることも一瞬にして可能である。丁度大海が唯心観ならば、それに浮いている船が唯物観であるともいえよう。
以上の理によって、唯物主義は仏陀と同様唯心主義者の掌に何千里か駈けたが、とうとう負けてしまった孫悟空にも似ている。また他の例を借りていえば、彼の釈尊が唱えた一切空の説も、唯心観から唯物観を対象としたものであり、生者必滅・会者定離もそうであり、禅のいう「形あるもの、必ず滅する」という悟りもこれである。勿論唯心観は永遠無窮の生命体である以上、有限である処の唯物観で唯心観を批判するのは、如何に誤まっているかが分るであろう。丁度小さな壷へ象を入れようとするものであり、葭のずいから天井を覗くようなものである。
唯物主義者よ!この説を読んで、以て如何とするや!
(昭和二十四年十二月二十日)
現代は最も進歩した文明世界と誰しも思っているだろうが、その内容をよく検討してみると、余りに欠点が多いのは、日々の新聞をみても分る通りで、犯罪者や不幸な人間の記事で埋っている。公平に見て善い事よりも悪い事の方が、断然多い事実である。最近大問題となった汚職事件などを見ても、検察当局が一度手をつけ始めるや、それからそれへとどこまで拡がってゆくか分らない位であるから、今度の事など或いは氷山の一角で、本当に調べたら、政界も財界も、無傷の人間は果して幾人あるであろうか。残らずと言いたい程であろう。
それに就いてよく考えてみると意外に思う事がある。それはこの事件の関係者の悉くは、教育の低い田夫野人なら兎に角、何れも高等教育を受けた文化人のみである事である。従ってこれでみると高等教育を受ければ智識は発達し、文化的人間となる以上、犯罪など減るばかりと思うが、今回の事実を見る時、只唖然とするばかりである。としたら実に不可解千万と言わねばならない。そこで標題の如く半文明半野蛮の時代といったのであるが、これを見ても否といえる人は恐らく一人もあるまい。では一体この情勢に対し如何にすればいいかというと、それは敢えて難かしい事はない。至極簡単である。即ち私が常に唱えている唯物偏重教育より目覚め、唯心教育を勃興させる事である。分り易くいえば形のみを信じ、形なきものは信じないという迷蒙を打破する事であって、その唯一の方法としては、宗教の力によって、神の実在を認識させる事である。
そうして、この事が指導者階級に分ると共に、国民全般に行渡るとしたら、犯罪を犯しても人の眼にさえ触れなければいいとする間違った根性が直る以上、犯罪は出来なくなり、明るい良い世の中になるのは分り切った話である。処がこんな簡単明瞭な道理が分らないとみえて、いつになっても法という網や檻を厳重に作って取締るのみであるから、人間を動物扱いにしている訳で、これでは効果のないのは当然である。処が事実はこの法の檻でも、社会秩序が維持出来ないとしたら、その原因は何処にあるかという事に気がつきそうなものだが一向に気がつかない。相変らず社会は半人半獣の人間の集団となっているのである。この意味に於て最早唯物教育では、人間の獣性を取り除く事が出来ないのは余りに明らかである。故に今迄の教育では結果に於て、獣性を蔽い隠す技術の進歩でしかない。従ってこれではいつになったら、真の文明社会が出来るか見当がつかないのである。としたらこれを解決するには、どうしても人間の魂から獣性を抜く事であって、それ以外に根本的方法はあり得ない。
それが宗教であるが、不思議にも高等教育を受ければ受ける程宗教が嫌いになるのはどうしたものか。これが文明の一大欠陥であろう。この原因こそ肚の中にある獣性が宗教を忌避する為であって、悪は善を好まないからである。としたら現代教育は智能的悪を作るものといってもよかろう。処が最早それは赦されない時が来た。というのは本教の出現である。何となれば本教は神の実在を目に見せ、手に掴ませる事が出来るからである。というとそんな素晴しい事はありよう筈がないというであろうが、実は訳なく出来るのである。本教に接するや立所に神霊を把握出来るからであって、それが奇蹟である。本教が驚くべき奇蹟を無限に現わしつつあるのが何よりの証拠であって、これこそ愈々神は半文明半野蛮の跛行的文明を是正し、唯物唯心の両脚揃って歩む処の真の文明世界を造るべく、神の大経綸の現われであると思う。
(昭和二十九年四月十四日)
この標題は少し厳しすぎるようだが、事実であるからやむを得ないのである。というのは、唯物主義即ち無神主義こそ、我々から見れば最も危険な思想であるといっていい。ブチまけていえば、もしこの世の中に本当に神がないとしたら、私なども随分人に知れないように、巧く誤魔化して金を儲け、したい放題の事をし、贅沢三昧に暮すと共に、相当出世も出来たであろうが、何しろ神様の実在を知った以上、どうしてもそんな事は出来ない。出来るだけ真直な道を歩いて、人の幸福を念願する人間にならなければならない。そうでないと幸福には決してならないから、生甲斐ある生涯を送る事は出来ない。
これは理屈でも何でもない。昔から歴史を見ても分る通り、悪で一時はどんなに栄えても長くは続かないで、結局は滅びてしまう例は余りにも多すぎる。そこに気がつきそうなものだが、中々気がつかないとみえて、相変らず社会は犯罪で埋っている。強盗、詐欺、殺人などの兇悪犯罪をはじめ、地位ある人の汚職事件、市井の巷などでの人騒が
せや、数知れない程の中小犯罪なども、その悉くは無神思想から生まれたものである。従ってこの無神思想こそ、犯罪を生む母体であるといってもよかろう。従って世の中から犯罪を除くとしたら、何よりもこの無神思想を撲滅する以外に方法のない事は、余りにも明らかである。処が今日識者も、当局も、教育家も、反対に有神思想を迷信と見ている錯覚で、相変らず法の取締や、教育、御説教等に頼って効果を挙げようとしているが、これでは何程熱心に努力しても、効果のあがる筈がないのは当然である。何よりも日々の新聞の三面記事を見れば、よくそれを物語っている。
以上によってみても、社会を清浄にするには、有神思想を大いに鼓吹するより外に仕方がないが、情ない哉現在の日本は、知識階級程無神思想者が多い実情で、然も無神思想がインテリやジャーナリストの資格とさえ思われ、無神論を大いに唱える人程進歩的とされているのである。という訳だからこれが一転して、無神論者は古い人間に見られ、有神論者が時代の尖端を行く知識人と見えるようにならなくては、住みよい、明朗な社会とはならないのである。
(昭和二十七年五月七日)
相変らずジャーナリストは馬鹿の一つ覚えのように、新宗教は残らず迷信邪教と決めている。曰く終戦後の人心混乱に乗じ迷信邪教が横行して、人心を惑わすとは怪しからん。と言うだけで、何のためにそういう現象が現われたのかということなどには言及せず、何等の検討を加えようともしない。新宗教は十ぱ一からげに邪教と看做し、世間の噂や自己判断のみで頭から断定するというのであるから、彼等の物の考え方の単純さには呆れざるを得ないのである。故に我等の責務の一面として、彼等に対しても一大啓蒙の必要を痛感するのである。
しかし乍ら、右に対し我々は彼等の態度を一概に否定をしようとは思わない。何となれば彼等の根本観念が唯物主観を通じて見るのであるからである。彼等は勿論目に見えざる悉くは迷信と断ずるのであるが、我等と雖も彼等と同じ立場となれば勿論そういうであろう。しかしながら仮に不可視的存在を否定するとしたら、世の中は一体どうなるであろう。唯物主義の結果大変なことになろう。それは人間間の情愛も恋愛も親子兄弟の関係も、利害と打算で決めてしまうからで、石の牢獄の如き冷たい社会となるであろう。そのような社会はまさか彼等と雖も要望する筈はあるまい。としたら彼等の考え方は中途半端で、徹底味がないことになる。
次に実際面を客観してみるが、それは案外にも高等教育を受けたインテリ層に案外迷信の多い事実である。以前世界各国の迷信の種類を調査した表を見たことがあるが、彼の最も科学教育の盛んとされているドイツが最も迷信の数が多いということであった。このように迷信は科学と正比例しているということに注目さるべきである。然らばこれらは何に原因するかというと、我等の見解によればこうである。長い間学校で唯物教育を叩き込まれたので、唯物教育とは理屈が基本であるから、一度学校を出て社会人となるや、現実はあまりにも理屈に合わないことばかりで、大抵は懐疑に陥る。勿論理屈通りやったもの程成績が悪いからである。そこで賢い者は考える。即ち新しい社会学という学問を学ぼうとするが、そういう学校はないから独学で始める。ところが早くて数年、遅いのは数十年かかって卒業するのである。いわば第二の学問である。折角習い覚えた第一学問とは凡そ反対であるが、実際的であり確実性があるから処世に応用すると今度はうまくゆく。勝れた者は社会学博士となる。そういう人は酸いも甘いも噛み分けた苦労人となる。しかしこの苦労人博士になる頃は老年期に入るので、多くは今一歩というところで大方は平凡に終ってしまうのである。しかし中には傑出した大博士もある。今の吉田首相などはそれで、彼の苦労人的、人を食ったような態度も、老練な政治的手腕もその現われである。
以上によってみても迷信の原因は分ったであろう。一言にしていえば絶対信じた学理を実行して失敗し懐疑に陥る。その時多くは迷信邪教に走り易いが、本当に解決してくれる宗教は先ずないといってよかろう。してみれば実際を遊離した学理に罪がある訳である。この理によって、迷信を作る者は実は現代科学教育の一面といっても否とはいえまい。
最後に今一ついうことがある。それは彼等のいう如き、今日迷信邪教の氾濫も確かに事実であるのは我等も認めるが、全部が全部そう決めてかかるところに誤まりがある。多くの迷信の中にも幾つかは必ず迷信でないものもあるのに違いない。とすれば迷信ならざるものを迷信と断ずることも一種の迷信である。この点を我等は警告したいのである。故にジャーナリスト諸君に要望したいのは、迷信邪教に対しては大いに筆誅するを可とするが、迷信邪教ならざるものを迷信邪教と断定することの不可を言いたいのである。それは文化の進歩の阻害者と言わざるを得ないからである。
(昭和二十四年十二月二十四日)
一口に学問というが、学問にも生きた学問と死んだ学問とがある。というと可笑しな話であるが、分り易くいえば、学問の為の学問は死であり、学問を実社会に活用するのが生の学問である。併し真理探究の為の学問は又別で、これは貴重なものである。
先ず学問とは何ぞやということであるが、今日大、中、小の学校に於て教科書を経とし、実地を緯として先生から教えられる。処がその教育方法は幾多の先哲学究が刻苦研鑽の結果構成されたもので、今日の如き学問形態となったのである。勿論新発見や新学説が現われては消え、現われては打破され、その内の価値ある部分のみが残存集積され来ったのは言うまでもない。その当時真理として受入れられ金科玉条としていたものも、それ以上卓越せる新学説、新発見が現われた事によって跡形もなく消滅したり、又今もって生命を保ち社会の福祉を増進しつつあるものもあり、一切は時が価値を決定するのである。
この意味に於て、現在絶対真理とし、永久不変のものと確信しているものと雖も、それを破る処の新学理が何時如何なる人間によって主唱さるるかも判らない。処がこれは昔からその例に乏しくないことであるが、ともすれば新発見が現われた場合、その新発見なるものはそれ迄の既成学理の型には当嵌らないのが当然で、当嵌らないだけその価値がある訳である。一言にして言えば型破りであり、それが大きければ大きい程価値が大きいのである。このように旧学説が退陣するということは、それ以上の新学説が生まれたからであり、真理と思ったものが葬り去られるということは、それ以上の真理が生まれたからである。かくして止りなき文化の進展があり得るのである。
私は今一層掘り下げてみよう。それは既成教育は長年月に亘って構成された処の一応の整った形式が成立っている。処が文化の急速な進歩はその固定的形式を非常な速度をもって切離すのである。最近私は某大会社の社長某氏の述懐を聞いたことがある。その人曰く、十年以上経った大学出の秀才も、今日では実際問題に当って適合しないことが多い。何となればその時代修得した学問と、今日の時代とは余りに隔絶しているからで、いわば時と学問のズレである。技術家に於て特に然りであるというのである。これ等をみても私がさきに述べた如く、学理はその時代までの基準が本質である以上、その後の文化の進歩と平行しなければ死んでしまうのである。これについて今一つの例を挙げてみよう。
それは今日の政治家は非常に型が小さくなったと言われる。つまり肚の大きい、腹芸をやるような政治家は殆んど見当らない。この頃の大臣は機略など薬にしたくもなく、ただ当面発生した問題のみを処理するに汲々たる有様で、肚が見え透いていると言われる。これは何が為であるかというと、今日の大臣級は官立大学出であり、古い学理に捉われ勝ちで何事も理屈一点張りで、理外の理というものを知らない。丁度自動車の走っている街路に馬を曳出そうとするようなもので、馬車の操縦は習ったが自動車の運転は知らないと同様であろう。全体、学問は人間の頭脳を開発し或る程度の基礎を作るものであって、いわば建築なら土台である。その基礎の上に新建築を打建てなければならない。即ち学問を活用し、進歩せしめ、新しいものを作るのである。日進月歩の文化と歩調の合うことである。否それ以上に前進し指導的役割をすることこそ生きた学問である。
彼の米大統領トルーマン氏が千九百二十一年頃は小間物雑貨商人であったとは彼が最近の言明で、これによってみても彼の実社会的経験が如何に役立ったかは想像に余りある。
私は十数年以前から、医学に関する新学説を唱え、それを著書として発刊するや忽ち発禁となった。三回までも発禁となったので、やむを得ず今は諦めている。その理由は現在の医学とは凡そ反対の説であるからとの理由に因るのである。処がその実績に於ては現代医学の治癒率に対し、私の医学は数十倍の効果を奏することで、然も一時的ではなく根本的に治癒するのである。これは一点の誇張もない事実で、著書の中にも“実験には何時でも応ずる”旨を書いておいたに拘わらず、当局も専門家も一顧だも与えないのでどうしようもないのである。
抑々医療の目的は凡ゆる病患を治癒し、人間の健康を増進させ、寿齢を延長させるという以外に何の目的があろう。如何に学理を云々し、唯物的施設や機械的巧緻を極めると雖も、右の目的に添わない以上何等の意味もないことになる。私の説がただ既成医学の理論と異なるの故を以て、何等の検討もなく抹殺してしまうということは、文化の反逆者たる譏は免れまい。然も政府がそれに絶対の信を与え何等疑義を起さないのであるから、現代人こそ洵に哀れな小羊というの外はない。
以上に述べた如き大胆極まる私の説は何が故であろうか。私と雖も狂人ではない。絶対の確信がなければ発表し得らるる筈はない。全く今日進歩したと誇称する医学には恐るべき一大欠陥の伏在していることを私は発見したのである。この発見こそ、今日までの如何なる大発見と雖も比肩するものはあるまい。何となれば人間生命の問題の解決に役立つものであるからである。故にこの大欠陥に目覚めない限り、人間の病患は決して
解決出来得ないことを私は断言するのである。併し近き将来現代医学が一層進歩したあかつき、必ず発見さるるであろうことも予想し得らるるのである。飜って巷を見る時、誤まれる医学によって重難病に呻吟しつつある哀れな者が如何に多数に上るかは何人も知る処であろう。これ等を見る時、我等は到底晏如としては居られないのである。
ここに於て、私は今の処、ただ神に祈るより外に術はない。
嗚呼、この誤まれる医学に一日も早く目覚めさせ給え。然して人類の健康を全からしめ給え。万能の神よ!
(昭和二十四年六月二十五日)
普通無神論を書く場合、宗教的に論理を進めてゆくのが当り前のようになっているが、私は全然宗教には触れないで、自分自身無神論者の立場に置き、書いてみようと思うのである。それは先ず人間オギャーと生まれるや、早速育つに必要な乳という結構な液体が、然も産んだ親の体から滾々と湧き出てくる。それによって子は順調に育ってゆき、歯が生える頃になると噛んで食う食物も親は運んでくれる。というようにして段々育って、遂に一人前の人間となるのは今更言うまでもないが、中でも最も肝腎な食物に就いていえば、食物にはそれぞれの味が含まれ、舌には味覚神経があり、人間楽しみながら食う事によって充分カロリーは摂れるのである。併し何といっても人間の楽しみの中での王者は先ず食事であろう。そんな訳で肉体は漸次発育すると共に、学校教育等によって頭脳は発達し、かくして一人前の人間としての働きが出来るようになる。そうなると色々な欲望が出て来る。智慧、優越感、競争欲、進歩性等から、享楽、恋愛等の体的面までも頭を持ち上げてくる。というように理性と感情が交錯し、苦楽交々到るという一個の高級生物としての条件が具わり、社会を泳ぐ事になる。以上人間が生まれてから成人までの経路をザット書いてみたのであるが、次は大自然を眺めてみよう。
言うまでもなく天と地との間には、日月星辰、気候の寒暖、雨風等々有形無形の天然現象から、直接人間に関係ある動物、植物、鉱物等々凡ゆるものは大自然の力によって生成化育されている。これがあるが侭の世界の姿であって、これ等一切を白紙になって冷静に客観するとしたら、無神経者でない限り只々不思議の感に打たれ、言うべき言葉を知らないのである。実に何から何迄深遠絶妙の一語に尽きる。としたらこんな素晴しいこの世界なるものは、一体誰が、何が為、何の意図によって造られたものであろうかという事で、何人もこれを考えざるを得ないであろう。そうして天を仰げば悠久無限にして、その広さは、何処まで続いているか分らない。又大地の中心はどうなっているのであろうか。太陽熱の最高は、月球の冷度は、星の数は、地球の重さは、海水の量は等々、数え上げれば限りがない。考えれば考える程神秘霊妙言語に絶する。然も規則正しい天体の運行、昼夜の区別、四季の変化、一年三百六十五日の数字、万有の進化、止まる処を知らない文明の進歩、発展等々は勿論、全体この世界は何時出来たのか、何時迄続くのか、永遠無窮かそうでないのか、世界の人口増加の限度、地球の未来等々、何も彼も不可解で見当はつかない。
以上の如くにして一切は黙々として一定の規準の下に一粍の毫差なく、一瞬の遅滞もなく流転している。併しそれはそれとして、一体自分という者は何が為に生まれ何を為すべきであろうか。何時迄生きられるのか、死んだら無になるのか、それとも霊界なる未知な世界があってそこへ安住するのか等々、これ等も考えれば考える程分らなくなり、どれ一つとして分るものはない。仏者のいう実にして空、空にして実であり、天地茫漠、無限無窮の存在であって、これより外に形容の言葉を見出せないのである。これをアバこうとして人間は何千年も前から、凡ゆる手段、特に学問を作り探究に専念しているが、今日までにホンの一部しか分らない程で、依然たる謎である。としたら大自然に対する人間の智慧などは九牛の一毛にも当るまい。これも仏者の所謂空々寂々である。処が人間という奴自惚れも甚だしく、自然を征服するなどとホザいているが、全く身の程知らずの戯け者以外の何物でもあるまい。故に人間は何よりも人間自体を知り、大自然に追随し、その恩恵に浴する事こそ最も賢明な考え方である。
処で以上の如き分らないずくめの世の中に対し、たった一つハッキリしていることがある。それは何であるかというと、これ程素晴しい世界は一体誰が造り自由自在思うがままに駆使しているのかという事である。そこでこの誰かを想像してみると、先ず一家庭なら主人、一国家なら帝王、大統領といったように、この大世界にも主人公がなくてはならない筈であり、この主人公こそ右の誰である神の名に呼ばれているXでなくて何であろう。というより外に結論が出ないではないか。
以上の意味に於て、もし神がないとしたら万有もない事になり、無神論者自身もない訳である。恐らくこれ程分り切った話はあるまい。これが分からないとしたら、その人間は動物でしかない事になろう。何となれば動物には意思想念も知性もないからであって、人間の形をした動物というより言葉はあるまい。それには立派な証拠がある。即ち無神思想から生まれる犯罪者であって、彼等の心理行為の殆んどは動物的であるにみてよく分かるであろう。従ってこの動物的人間からその動物性を抜き、真の人間に進化させるのが私の使命であり、その基本条件が無神思想の打破であるから、一言にしていえば人間改造事業である。
(昭和二十九年一月六日)
キリストの言った最後の審判とは、何時如何なる形によって現われるものであろうかは、これは、基督者は固より一般人も知らんとする処であろう。愈々時期切迫の折柄、その片鱗をここに発表するのである。併しこれは私個人の見解ではない。全く霊感によるのであるから、一つの参考とし、論説として読まれんことである。
一体最後の審判なるものは、事実あるであろうかを先ず決めるべきである。そうして仮にも世界をリードしている文化国民を中心に、数億の尊信者が絶対帰依しているキリストともいわれる大聖者が、あり得ざることをあるといって予言するはずはない。もし本当にないとしたら、単なる嘘つきということになる。従って、基督者ならぬ我等と雖も一点の疑いなく確信しているのである。又私がこれだけは信じている彼の大本教祖のお筆先に曰く「神の申したことは、毛筋の横幅も違わんぞよ」という言葉は、そのまま審判の予言に当嵌めても間違いないと思うのである。又善悪についてこういうお筆先がある。「悪は根絶やしに致して善の世に致すぞよ」「悪の世は済みたぞよ」「悪の世は九分九厘で輪止りに致し、一厘の仕組で善の世に振替えるぞよ」「いよいよ世の切替時が来るぞよ」とあるのは、何れも最後の審判の意味でなくて何であろう。我等が常にいうこれが所謂夜昼転換のことである。又お筆先に「この世の大峠が来るから身魂を磨いておいて下されよ」という処もある。これは夜昼の転換期をいったもので、それを越す為には濁った身魂では駄目だという意味である。
以上によって聖書の審判を基礎とし、お筆先の意味を検討する時、こういう結論になろう。即ち大危機が迫っており、それを乗越すには心が浄くなければならない。悪人は転落して永遠に滅びるという意味である。とすれば、どうしても正しい信仰によって魂を浄め無事に乗越さなければならないのである。しかしながら世の中には、そんな馬鹿なことがあってたまるものか、神も仏も人間が造ったもので、現実にそんなものはある筈がないという唯物主義者はなかなか信じられまいが、その時になって如何にあわてふためき神に縋ると雖も、最早手後れで、どうにもならないことになるのは火を見るよりも明らかである。勿論神の大愛は一人でも多くを救わせ給うのであるから、神意を体する我等としては繰返し繰返し筆に口に警告を与えているのである。
このことをお筆先には「神は助けようと思って、筆先でなんぼ知らしてやれども、いつも鳴く烏の声と油断をいたしていると、今に栃麺棒をふるって、逆さになっておわびをせんならん時が来るが、その時になっては、神はそんな者にかもうてはおれんから、身から出た錆とあきらめて往生致そうよりしようがないぞよ」とあるのは、それをよく言い表わしていると思うのである。これについて、ノアの洪水のことを概略書いてみよう。
これは数千年か、或いは数万年以前の出来事であろうが、無論古代ヨーロッパの或る国に、ノアという名の兄弟があった。その兄が今日でいう神憑りになってこういうことを示された。それは、近く大洪水があるから、世人に向って大いに警告せよ。というので、兄弟は頗る熱心に民衆に向って警告を与えたが、誰も信じようとはしない。数年かかってようやく六人の信ずるものが出来た。神は又方舟を造れと命じた。方舟というのは銀杏の実の形をした舟で、即ち蓋があるのである。処がしばらくして果せるかな、長雨が続いた。この雨を百日降ったという説と、四十日という説があるが、とにかく長期間の豪雨には違いなかった。漸次水量は増し、人家は悉く水中に没し、僅かに山の頂きのみが残った。人々は争うて舟を行り、又は高山の上に登ったが、意外にも、猛獣、毒蛇も、人間と同様助からんとして、高山に或いは舟に登って来た。空腹のため残らずの人間を喰殺したのであるが、方舟には蓋があるから登ることが出来ず、八人だけは助かったのである。その八人の子孫は、今日の白人の祖ということになっている。
次に新約聖書に、ヨハネは水の洗霊をなしキリストは火の洗霊をするということが出ているが、ノアの洪水がヨハネの水の洗霊であるとすれば、キリストの火の洗霊は、いよいよ来たらんとする最後の審判でなくてはならないことになる。併しながら水とは体的であり、火とは霊であるから、我等が今行っている霊を以て霊を浄める方法こそ、全く火の洗霊である。すると霊から体に移写するのであるから、火の洗霊が体的に如何に影響するか、これこそ空前の変異でなくてはならない。といっても危機は悪に対してのみ現われ、善には危機はないことを知らねばならない。
この文を無信仰者に提供するのである。
(昭和二十五年一月二十日)
抑々、現代文化は数千年以前の原始時代に比べると驚くべき進歩発達を遂げ、又遂げつつあることは、今更贅言を要しない処であるが、こうなるまでには人類は如何に苦労努力して来たかは、彼の天災、戦争、病魔等に対し、惨澹たる苦闘を続けつつある人類史が物語っている。
かように、人類が進歩発達を目指して来た裏には、この世界をして恒久平和な、万人がより幸福な世界たらしむべき意図であったのは言うまでもないが、その理想実現の手段として、何でも彼んでも物質文化さえ進歩発達させればいいとして、唯物科学を唯一のものとし、脇目もふらず進んできたのである。新発見や新発明が生まれる毎に人類は称讃し、謳歌し、これによって人類の福祉は増進されるとなし、一歩々々理想に近づきつつあるを思い、幸福の夢を追うて来たことは誰も知る処である。
然るに、科学の進歩は遂に原子核破壊の発見にまで及んだのである。この大発見は、本当から言えば大いに祝福すべきに拘わらず、意外も意外、逆に一大恐怖的発見であった。
天国だと思って歩いて来た道は、豈計んや実は地獄の道だったのだ。一瞬にして幾十万の生霊を奪うという物質が出来てしまったのだ。恐らく、歴史上これ程人間の予想と食違った事件があったであろうか。人類、特に文化民族がこの戦慄を生んだ以上、その脅威から何が何でも逃れなければならないという大問題が起ってしまったとは、何たる皮肉ではなかろうか。しかしながら退いてよく考えてみると、この物質そのものは聊かも恐るべきものではない。寧ろ幸福に役立つべきすばらしい福音だ。恐れるということは、戦争の道具として使うからであって、平和に使ったとしたら、右の如く人類にとっての大発見である。そうしてこの物質を戦争に使用するその根本は悪であり、平和のそれは善である。とすれば、善か悪かによって、仏にもなれば鬼にもなるという訳である。
この意味に於て、この物質を駆使する人間が善であればよい訳だが、それはそう簡単にはゆかない事は勿論である。故に実際上から言って、悪を善に転換することで、これが宗教の尊き使命であることは言うまでもない。
そうして、今日までその役目をしてきた処の宗教、道徳、教育、法律等も成程或る程度の功績は挙げ得たが、今以て予期に反し、悪の跋扈によって善は虐げられている。前述の如く原子物質が悪に使用されるという憂慮がよくそれを物語っている。ここで別の面から今一層深く考えてみなくてはならない。例えば、原爆による悪魔的破滅行為がもし許されるとしたら、人類滅亡の運命は当然来るであろう。とすれば森羅万象を造り給い、これ程文化を進歩させられた造物主が黙認され給う筈はあるまいではないか。
こう説いて来ると、キリストが予言された“世の終わり”とはこれでなくて何であろう。と共に、このことだけの予言としたら人類は只滅亡を待つにすぎないことになる。処がキリストは又言った、“天国は近づけり”と。これだ、この二大予言が世界の将来を示していることは明らかである。とすれば、世の終りも来ると共に天国も出現するという意味になる。然もこれに附随してキリストの再臨、メシヤの出現をも予言された。そうして今一つ考えなければならないことは、原子の破壊から絶対免れんとすれば、前述の如く悪を善に転化することである。この力こそメシヤの力でなくて何であろう。唯併し、善悪の大転換が行われるとしても、善化しない悪人も多数あるに違いないから、このような見込のない者は清算されるより致し方ないであろう。このことをキリストは“最後の審判”とも言われた。これによってこれを見れば、善悪転換、破壊と建設、旧文化と新文化との交代が、今将に来らんとする直前であることを知るべきである。
そうして、新文化の構想は已に充分用意されている。これは人間の智慧や力でのそれではない。神が数万年以前から、着々準備され給いつつあったことである。然もそれは霊的のみではない。物質的事象によっても、私は現実的にみているのであるから、絶対誤まりはない事を保証して憚らないのである。
(昭和二十五年九月六日)
本教の名は、救世教となっているが、勿論最後の世の救いのために現われたのであるから、名実共に間違ってはいないが、一名創造教といってもいい。それを説明してみよう。
抑々現在迄何十世紀に亘って、人類は文化を進歩発展させようとして、営々撓まず、屈せず、総力をつくして今日に到ったことである。ために現在見るが如きおどろくべき絢爛たる文化を作り上げたのであるから、その功績は称えても称え尽せない程である。それは勿論人類の幸福を理想として来たことはいうまでもないが、事実は余りにも予期に反したことである。というのは彼の原子核破壊の発見である。一瞬にして何百万の生霊を奪い去るというのであるから、恐怖戦慄などの言葉でもまだ言い足りない程のものである。
おそらく、幸福を目標として来た夢が想像もつかない程裏切られてしまったことである。こんな大不幸が生れようなどとは、誰か予測し得たであろう。恐らく人類史上、これ程意外な食違いがあったであろうか。これにおいて人類少なくとも文化人は、このことの真因を徹底的に突止めなくてはならない。その真因を知って解決しないうちは、今後の文化の進歩は何等意味をなさないことになろう。しかしながら原爆と雖も、戦争の兵器に使用するから恐るべき悪鬼となるが、そうでないとすれば素晴しい平和の天使となるのは勿論である。
この理によって、実は原爆を問題視するには当らない訳だ。問題は戦争そのものであるので、何といっても戦争絶滅より以上、重大問題は絶対あり得ないのである。とはいうものの、幾千年前から戦争の脅威から免れようとして、全人類は如何に最大限の努力を払ってきたかで、これは何人も知り過ぎる程知るところである。にも拘わらず、戦争の脅威は依然たるばかりか、寧ろ回を重ねる毎に反って増大しつつある事実である。勿論人口増加のためもあろうが、兵器の進歩はそれ以上の脅威を加えている。遂にその極限的に現われたのが、原爆であってみれば、この発見こそ最早人類から戦争に終止符を打つべき運命が近づいたことの示唆でなくて何であろう。キリストの曰われた「最後の世」とはこのことであると私は信ずるのである。
こう考えてくると、既成文化なるものは成功ともいえるが、その成功を抹殺する程の大失敗も認めない訳には行くまい。これによってこれをみれば、以上述べた如き既成文化失敗に目醒めて、然る後、劃期的新文化の創造に乗り出すべきが本当であろう。言わば文化の再出発である。然らば右の新文化の創造とは何か。これが現人類の一大課題である。
それに応えるべく、顕現されたのが本教であることを信ずるのである。さればこの重任を引提げ、ここに我が救世教は地上天国建設の大偉業を、神命のまま遂行せんとするのである。先ずその基本的条件として、人類から病いを除去することを宣言し、実行し、現に素晴しい成果を挙げつつあるにみて、多くをいう必要はあるまい。言うまでもなく、戦争の真の原因は病気である。病気といっても肉体の病気のみではない、精神の病気である。それは狂っていない精神病者である。人類からこの狂わない精神病者を健全に導くことこそ根本的解決策であろう。これ以外戦争絶滅などは痴人の戯言にすぎないことを信ずるのである。
(昭和二十五年九月十三日)
今日聖書を通覧してみる時最も重要である点は「最後の審判」と「天国は近づけり」と「キリストの再臨」の三つであろう。これを検討する時、右の内最後の審判は神が行うのであり、キリストの再臨は、これは天の時到って現われる事で説明の要はないが、ただ天国のみは人間の力で建設するのである。とすればこれは何時の日か誰かが設計者となり、建設の実を挙げなければならないのは勿論である。
右の如くでありとすれば、その時であるが、我等の見解によれば時は今であり、そうして建設者は本教である事である。その具体化は已に始まっている。見よその模型を、目下建造しつつある事は本紙に再三発表した通りである。
右の如く、本教が地上天国を造る事によって、キリストの予言はここに的中するのである。といっても別段誇ろうとするのではない。何となれば聖書の予言も本教がそれを具体化する事も、神エホバが人類愛の御心によって理想世界の建設の為、時に応じて選ばれたる人間を自由自在に駆使せらるるからである。
右の意味に於て、現在行いつつある我等の事業は既に二千年前聖キリストによって予言せられており、その予言実行の為の使命を課せられた一員としての我等と思うのである。
(昭和二十五年三月二十日)