[]の文化

この標題を説くに当っては、先ず最初[]の意味から書いてみるが、見らるる通り[]とは、〇の真中にチョンがついている。只これだけなら別に大した意味はないが、実はこの[]の形ほど神秘偉大な意味はないのである。それは何かというと、この〇はこういう意味である。つまり、森羅万象一切の形は〇である。第一地球も太陽も月もそうであり、人間も霊になると他へ移動する場合、〇の形になって行く。これは人魂がよく現わしているし、神様でも移動なさる場合ヤハリ〇になられるが、同じ〇でも神様の方は光の玉となる。だが人間の方は光がなく、只白色又は黄色の朦朧体であって、黄色は男、白色は女である。これは太陽と月に相応する訳である。

これ等の説明はこの位にしておいて、肝腎なことを書いてみるが、勿論この世界も〇であるが、〇だけでは輪であるから、中身は空虚である。人間でいえば魂がない訳であるから、この真中へチョン即ち魂を入れれば、生きた人間になり、活動が出来るのであるから、[]とは空ッポに魂が入った形である。昔から美術家などがよくいう入魂という言葉がこれである。この理によって今までの世界は、チョン即ち魂がなかったのであるから、以前私は外郭的文化と書いたのはこの意味である。何よりもこの理は凡ゆる文化面に現われている。いつもいう通り病気に対する対症療法がそうで、痛みや痒みを外部から注射をして麻痺させたり、薬を塗ったり発熱を氷で冷したり、服薬で浄化を止めたりして、一時的苦痛を免れるのであって、中心には触れていないから根治は無論不可能で、時が経てば必ず再発する。つまり病気の延期でしかないのである。という訳で病原もチョンにあるのだが、それが今まで分らなかったのである。

その他犯罪にしてもそうだ。現在は刑罰の苦しみで懲りさせ、防止する手段以外方法がない。医学と同様対症療法であるから、大抵は一旦犯罪を犯すと、二度も三度も犯すようになり、中には何十回も犯す奴さえ出来る。酷いのになると一生涯の内、娑婆にいるより牢屋にいる時の方が多い奴さえある。この原因もチョン即ち魂がないからである。戦争にしてもそうだ。軍備を充実させれば、相手も勝目がないから一時止めてしまう。つまり延期手段でしかないので、何時かは必ず始まるというのが歴史上明らかな事実である。こうみてくると、今までの文化は〇だけで、チョンがなかったことがよく分かるであろう。

そうして私は九分九厘と一厘ということを常にいうが、〇にチョンが入るとなると、これが九分九厘を一厘で替えてしまう。言い変えれば九分九厘の悪を一厘の善の力で往生させるという意味である。丁度〇全体が黒く塗りつぶされようとする時チョン一つの力で、反対に黒を消して白全体にしてしまうので、これを世界的にいえば空虚な文明に実を入れる。即ち魂を入れるのである。これによって今迄形だけで、死人同様になっていた文明を生かす、即ち新世界の誕生である。

(昭和二十七年九月十日)

霊界叢談序文

この著は、私が二十数年間に渉って探究し得た霊界の事象を、出来るだけ正確を期し書いたもので、勿論作為や誇張などは些かもないつもりである。

抑々、今日学問も人智も進歩したというが、それは形而下の進歩であって、形而上の進歩は洵に遅々たるものである。文化の進歩とは形而上も形而下も歩調を揃えて進みゆく処に真の価値があるのである。文化が素晴しい進歩を遂げつつあるに拘わらず、人間の幸福がそれに伴なわないということは、その主因たるや前述の如く跛行的進歩であるからである。これを言い変えれば体的文化のみ進んで、霊的文化が遅れていたからである。

この意味に於て私は、霊的文化の飛躍によって、人類に対し一大覚醒を促がさんとするのである。とはいえ元々霊的事象は人間の五感に触れないものであるから、この実在を把握せしめんとするには非常な困難が伴なうのである。併し乍ら、無のものを有とするのではなく、有のものを有とする以上、目的を達し得ない筈はないと確信するのである。

そうしてこの霊的事象を信ずることによって、如何に絶大なる幸福の原理を把握し得らるるかは余りにも明らかである。故に如何なる信仰をなす場合に於ても、この霊的事象を深く知らない限り真の安心立命は得られないことである。それについて稽うべきことは、人間は誰でも一度は必ず死ぬという判り切ったことであるに拘わらず、死後はどうなるかということは、殆どん判り得なかった。考えてもみるがいい、人間長生きをするとしても、精々七、八十歳位までであろうが、それで万事お終いであっては実に儚ない人生ではないか。これは全く死後霊界生活のあることを知らないからのことで、このことを深く知り得たとしたら、人生は生くるも楽しく、死するも楽しいということになり、永遠の幸福者たり得るわけである。

以上述べた如き意味に於て、この著を書いたのである。

(昭和二十四年八月二十五日)

未知の世界

われわれが生を保ち、呼吸しつつある処のこの世界は物質界であり、第一世界であるが、人の死するや霊界なる未知の世界-すなわち第二世界の人間となるのである。この未知の世界は眼に見えず補捉する能わず、無と何等異ならざる世界なるが故に、一遍の説明や文字の羅列等では到底信じ得られない事である。然るに実は霊界は真の無に非ずして確固たる実在である以上、何等かの形式によって現象に現われなくてはならないはずである。いな人事百般古今東西到る所に、大中小、微に入り細に渉って表現されているが、ただそれが人間に感受され得ないというだけである。この事は既成文化の教育が霊に対しあまりに無関心であったがためで、それは夜の世界であったからである。何となれば夜の暗さは漸く月光に映し出され得る程度に過ぎないが、昼間の太陽の光は全般的に、瞬間的に、一切が明々白々に知り得るからである。然るにいよいよ近き将来においては未知の世界は有知の世界となり、月光世界は太陽世界即ち大光明世界となるのである。その結果一切の秘密も偽りも誤謬も、白日下に暴露されるのである。

(昭和二十二年二月五日)

自然力

大自然、即ちわれわれが呼吸し棲息している処のこの世界の構成について、私の研究によれば、先ず大別して三つの原素、即ちさきに述べたごとく火水土である。そうして現在科学及び人間の五感によって知り得たものとしては電磁気、空気、物質、元素等である。然るに私が言わんとする処は、科学的にも五感によっても未だ知り得ざる処の気体即ち霊気である。しかしながら、霊または霊気という文字は今までとても相当使用されて来たが、その多くは宗教または心霊科学の面に限られていた。それが為に霊という言葉はともすれば迷信視せられ、むしろ霊を否定する事を以て、識者の資格とさえ見らるるごとき傾向があった。然るに何ぞ知らん。この霊なるものの本質こそ、驚くべき力の根源であって、森羅万象あらゆる物の生成活動変化はこれによるのであって、これを私は不可視力とも言うのである。

右のごとくであるから私は有知の世界を現界と言い、未知の世界を霊界として説き進めてみよう。抑々万有の原則として現界におけるあらゆる事象は、すでに霊界に発生し運動を起している。それはちょうど人間が手足を動かす場合すでに意志が先に動いていると同様の理である。然るに現界の事象のみによって解決を与えようとしたのが現在までの学問の理念であった。文化が進歩せりといいながら人類の福祉がそれに伴なわないというのも右の理によるのである。故に現界における事象を解決せんとするには、先ず霊界のそれを解決しなければならない。この意味において病患治療といえども霊界より

の解決即ち霊を以て霊の治療をなす事こそ、真の治療法でなければならないのである。

従って人体といえども霊体は霊界に属し、現体は現界に属しているのは勿論である。そうして病気とは既記のごとく集結せる毒素の浄化すなわち毒結の解体作用であるが、その過程を霊体に当嵌める時、毒素溜結は霊体局部の曇りであり、毒結の溶解とは曇りの消滅である。

然るに既存の如何なる療法といえども体の解決のみを企図したのであるから、それは逆法で、病気の真の解決ではなかったのである。

霊体における曇りの解消は、病気治癒の原則であるとしたら、その曇りを解消すべき力は何か、それがすなわち宇宙の本霊より人体を通して放射される一種の神秘光線である。この理を真に把握せんとするには、実地浄霊を数年間継続する事によって徹底し得らるるのである。従って、ここでは概念を得る以上には出で難いと思うから、読者はそのつもりで読まれたいのである。

抑々人間の霊体とは如何なるものであろうか。この説明に当って知らなくてはならない事は死の問題である。すなわち現体が老衰または病気、負傷、出血等によって使用不能にいたったとき、霊と体とは分離する。それが死である。故に死とは現体から霊体が離脱する事である。そうして霊体は霊界に帰属しある時期を経て再生し、現体は腐朽し土に還元する。これは人の知る処である。これによってみても霊体なるものは無限の生命体であり、現体なるものは有限、第二義的の存在である事を知るのである。従って人間を取扱う上においては、霊体こそは真実の対象である事である。

近代科学においてあらゆる生物否鉱物、植物等にも一種の放射能を有している事はようやく知られて来た。私の研究によれば、人体からの放射能は最高級のものであって、昔人の言った所謂人は万物の霊長なりのごとくである。そうして霊は高級である程、その原素は稀薄(純粋)の度を増し、稀薄の度を増す程機械的には把握し得られないという唯物観とは反対の理になる。故に反って一般低級霊である鉱物におけるラジウム、植物における燐等の把握の方が容易である。そうして霊は稀薄(純粋)であればある程その偉力は増大するという。この原則の認識こそ重要である。併し乍ら人体放射能は最も強力ではあるが、人によりその差別のはなはだしい事も想像以上であり、放射能の強力である程浄霊力も増大する。故に私はこの放射能を強力化するため、身体の一局部に集注させて放射し、曇りの解消に成功したと共に、各人保有の放射能力を一層強化すべき特殊の技能発揮にも成功したのである。この両者の方法を応用し、原理を知り、経験を積むことによって、驚くべき能力を発現し得らるるのである。

(昭和二十二年二月五日)

火素・水素・土素について

抑々、宇宙における森羅万象一切は三大元素から成立っている。即ちあらゆるものの生成化育は、この三大元素の力によらないものはないのである。然らば、その三大元素とは何であるかというと、それは日、月、地である。即ち日は火素の根原であり、月は水素のそれであり、地は土素のそれである。そうしてこの火、水、土の力が経と緯に流動交錯密合しているのである。即ち、経とは天から地まで、太陽、月球、地球の三段階となっているのであって、日蝕の時、日月地が経に三段になっているにみても明らかである。即ち、天界は太陽中心の火の世界であり、中界は月球中心の水の世界であり、地は、地球中心の土の世界である。次に、緯とは、われわれ人類が棲息しつつあるこの地上そのものの実体である。それはどういう意味かというと、この地球上における実世界は空間と物質との存在であって、物質は人間の五感によってその存在は知り得るが、空間は長い間無とされていた。然るに文化の進歩によって、空間は無ではなく空気なる半物質-私は仮に半物質という-の在る事を知ったのである。然るに、今日まで空気だけと思っていた空間に、いま一つ他の元素が存在している事を私は知ったのである。それに対して私は、「霊気」というのである。もっとも或る種の宗教においては、霊界または生霊、死霊、憑霊等の説を唱えたり、行者または霊術師等も霊を云々し、欧米においても、霊科学の発達によって、霊と霊界の研究は相当進歩しつつあり、彼のオリヴァー・ロッジ卿の有名な著書「死後の生存」やワード博士の「霊界探険記」等の記録もあって、これ等は相当信ずべきものであるが、私の研究の目的範囲とは全然異なっているのである。

そうして本来、物質の元素は土であり、あらゆる物質は、土から生じ土に還元する事は、何人もよく知る処である。次に、半物質である水の元素は、月球から放散されて、空気に充満している。然るに霊気とは、太陽から放射される物質でもなく、半物質でもない処の非物質であるから、今日まで未発見であったのである。故に、最も分り易くいえば、土が物質、水は半物質、火は非物質といえるのである。

右のごとく、物質の元素が土で、空気の元素が水で、霊気の元素が火であって、この三元素がいずれも密合して、そこに力の発生があるのである。これを科学的にいうならば、三元素なるものが、ほとんど想像もつかない程の微粒原子として、融合活動しているのが宇宙の実体である。故に、われわれの呼吸しているこの空間が生物の棲息に適する温度や、乾度、湿度があるという事は、火素と水素の融合調和によるからで、もし火素が無となり水素のみとなれば一瞬にして氷結すべく、反対に水素が無になって火素のみとなれば一瞬にして爆発し、一切は無となるのである。そうしてこの火水の二元素が土と密合して、土が力を発生し、万物が生成化育されるのである。この理によって、火は経に燃え、水は緯に流動するのが本性であり、火は水によって燃え、水は火によって動くのである。

古えから、人は小宇宙と言われているが、右の理は人体にも当嵌るのである。即ち、人体における火、水、土は「心臓、肺臓、胃」-に相当するのであって、胃は土から生じた物を食い、肺は水素を吸収し、心臓は火素を吸収するのである。故に、人体における心臓、肺臓及び胃は、火、水、土の三元素を吸収する機関で、この機関が人体構成の最重要部を占めているにみても、右の理は肯かるるであろう。然るに、今日までは心臓はただ汚血を肺臓に送り酸素によって浄化されたる血液を還元吸収するというように、血液のみの機関とされていたのは、全く火素の存在を知らなかったからである。

右のごとく、胃は食美濃ち土素を口中から食道を経て嚥下し、肺臓は呼吸によって水素を吸収し、心臓は鼓動によって火素を吸収するのである。

従って病気発生するや、発熱するという事は疾患部の凝結毒素を溶解せんが為、必要量の熱即ち火素を心臓が霊界から吸収するのである。即ち心臓の鼓動は霊界から火素を吸収するポンプ作用である。発熱時より先に心臓の鼓動即ち脈搏が増加するのは、火素吸収が頻繁になるからである。その際の悪寒は、浄化に必要な熱量を吸収する為、一時体温の方への送量を減殺するからである。故に、解熱するという事は、毒素溶解の作用が終ったのである。

右のごとくであるから、心臓が一瞬の休みなく、霊界から火素を吸収する-それが体温である。また肺臓も空気界から水素を呼吸によって不断に吸収しているので、人体内の水分は口から飲下する以外、肺臓の吸収によって得る量もすこぶる多いのである。

右の理によって人の死するや、瞬時に体温は去って冷却し、水分も消えて、血液は凝結し、屍は乾燥し始めるのである。右を説明すれば、死と同時に、精霊は肉体を脱出して霊界に入るのである。故に精霊の火素が無くなるから、水分は凝結するのである。言い変えれば火素である精霊は霊界に還元し、水分は空気界に還元し、肉体は土に還元するのである。

(昭和十八年十月五日)

霊線について

霊線、という言葉は今日まであまり使われないようである。というのは霊線というものの重要性を未だ知らなかった為で、空気より稀薄な目に見えざるものであったからである。処が人事百般、この霊線による影響こそは軽視すべからざるものがあり、人間にあっては幸不幸の原因ともなり、大にしては歴史にまで及ぶものである。故に人間はこの霊線の意義を知らなくてはならないのである。

抑々霊線なるものの説明に当って、前以て断っておきたい事は、これは科学であり、宗教であり、将来の学問でもある。相対性原理も、宇宙線も、社会や個人に関する凡ゆる問題も、霊線に関係のないものはないのである。先ず人間と霊線の関係から述べてみよう。

ここに一個の人間がある。先ず読者自身と思ってもいい。その自分は、自分に繋がっている霊線なるものが何本か、何百本か、何万本か、測り知れない程あるものである。霊線には太い細いがあり、長い短いがあり、正もあり邪もあって、それがたえず或る程度の影響、変化を人間に与えている。故に人間は霊線によって生存を保っているといっても過言ではない。その中で夫婦が繋がっている霊線が最も太く、親子はそれにつぎ、兄弟、伯父、甥、従兄弟、友人、知己等順々に細くなっている。昔から縁の糸とか、縁が結ばれるとかいうのは、この事を言ったものであろう。そうして霊線は常に太くなったり細くなったり変化しており、夫婦仲睦じい時は太く光があり、争う時は或る程度細くもなり、光をも失うのである。親子兄弟その他も同様であるが,これ以外霊線が新しく作られる事がある。それは新しく出来た知人、友人、特に恋愛等の場合であって、恋愛が高潮に達するや無制限に太くなり、両方の霊線が激しく交流する。それが一種微妙な快感を与え合うと共に、一種の悲哀感、寂寥感をも反映し合うのである。終には霊線は極度に強力化し、到底別離し能わざるに到るのは右の理に由るので、こういう場合第三者が如何に説得しても何等効果がないばかりか反って熱度を増すようになるのは誰も知る通りである。相愛は丁度電気の陰陽が接触して電力を起すようなもので、その場合電線の役目をするのが霊線である。私は以前同性愛に陥った女学生が、情死をしようとした一歩手前で助けた事がある。それは一方の陽電の方を霊的に消滅さしたのである。凡そ一週間位で成功し、陽電女性は愛着の情熱が冷却し平常の如くなったと共に、相手の女性も平常に復したという経験がある。併し乍ら他人の霊線は打切る事が出来るが、血族は打切ることが出来ない。次に親子の霊線には注意すべき事がある。それはたえず親は子を思い、子は親を思うので、双方反映し合っているから、子供の性質は霊線を通じて親の性質を受入れる事になるので、親が子を良くせんとする場合、先ず親自身の心をよくしなければならない。世間よく親が道に外れた事をし乍ら子に意見をしても、余り効果がないのはその為である。併しこういう例もよくある。それはあんな立派な親であり乍ら、息子はどうしてあんなに不良であるのかといって不思議がるが、この親は功利的善人で、外面は善く見えるが魂は曇っている為で、それが子に反映するからである。次に兄弟で一方が善人で一方が悪人の場合がある。これはどういう訳かというと、前生の関係と、親の罪の原因とがある。これに就いて説明してみよう。

この説明に当って人間再生の原理から説かなければならない。先ず簡単に説明すれば、人間は死後霊界に往く、即ち霊界に生まれるのである。仏教で往生というのは「生まれ往く」と書くが霊界から見ればそういえる訳である。然るに霊界は、その人が現界に於て犯した種々の罪穢に対し浄化作用が行われ、或る程度浄化された霊から再生する。然るに前生に於て悪人であった者が、刑罰やその他の事情で死に際して悔悟し、人間は悪い事は決してするものではない、この次生まれ変った時は必ず善人になろうと強く思うので、再生するや大いに善事を行うのである。この理によって現世生まれ乍らの善人であっても、前生は大悪人であったかも知れない。そうして人間は生前に死後の世界在るを信じない人が多いから、死後霊界に於て安住が出来ず、生の執着によって浄化不充分のまま再生する。その為に罪穢がまだ残存しているから、その残存罪穢に対し現世に於て浄化作用が行われる。浄化作用は苦しみであるから、生まれ乍らの善人であり乍ら不幸であるのは、右の理に由るのである。又生まれ乍らにして不具者がある。例えば盲目とか聾唖、畸形とかいうのは、変死に因る死の為、その際の負傷が浄化半途にして再生するからである。この再生に就いて今一つ顕著な事実を書いてみよう。嬰児が出産するや、その面貌が老人のようなのがよくある。これは老人が再生した為で、二、三カ月経ると初めて赤児らしき面貌になるもので、これは経験者は肯くであろう。次に親の不正な心が兄弟の一方に反映して悪人となり、親の良心が反映して善人となる事もある。又こういう例もよくある。親が不正の富を積んで資産家になった場合、祖霊はその不正の富を蕩尽しなければ一家の繁栄は覚束ないから、その手段として子の一人を道楽者にして、金銭を湯水の如く使わせ、終に無財産にまでするのである。この場合道楽息子に選ばれた者は、実は一家を救うべく立派な役をしている訳で、それを知らない人間は親の財産を潰した怪しからぬ奴と看做すが、むしろ気の毒な訳である。

霊線は人間においては生きている近親者のみではない。死後霊界における霊とも通じており、正神に連結している霊線もあり、邪神に連結しているそれもある。正神は善を勧め、邪神は悪を勧める事は勿論で、人間は常に正邪何れかに操られているのである。そうして霊界に於て或る程度浄化されたるものが守護霊に選抜され、霊線を通じて人間の守護をする。すなわち危難の迫れる現界人に対し、危険信号を伝えて救おうとする。この例として汽車などに乗車せんとする場合、時間が間に合わなかったり、故障があったりして乗り損ね、次の汽車に乗る。すると乗り損ねた汽車が事故に遭い、多数の死傷者が出る等の事があるが、これ等は守護霊の活動に因るのである。守護霊は現界人の運命を前知し、種々の方法を以て知らせようとする。

霊線は人間の階級に従って数の多少がある。数の多い人、例えば一家の主人なれば家族、使用人、親戚、知人。会社の社長ならば社員全部。公人ならば村長、町長、区長、市長、知事、総理大臣、大統領-国王等、何れもその主管区域や支配下に属する人民との霊線の繋がりがあり、高位になる程多数となる訳である。この意味において、各首脳者たるべき者の人格が高潔でなければならない。首脳者の魂が濁っていれば、それが多数に反映し多数者の思想は悪化するという訳であるから、一国の総理大臣などは智慧証覚に富むと共に、至誠事に当るべき大人格者でなくてはならないのである。然るに国民の思想は悪化し、道義はすたれ、犯罪者続出するが如きは、為政者の責任となる訳である。特に、教育者の如きは、自己の人格が霊線を通じて学徒に反映することを知ったなら、常に自己の霊魂を磨き師表として恥ずかしからぬ人とならなければならないのである。

特に宗教家であるが、一宗の教祖、管長、教師等に至っては、多数の信徒から生神様の如く讃仰される以上、その霊魂の反映力は著しいものであるから、大いに心すべきである。然るにその高き地位を利用して面白からぬ行動のあった場合、信徒全般に反映し

、終にはその宗教は崩壊の止むなきに立到るので、このような例は人の知る処である。

霊線は人間ばかりではない、神仏からも人間に通じさせ給うのである。ただ人間と異なる処は神仏からの霊線は光であり、人間の霊線は上根の人で薄光位であり、大抵は光のない灰白線の如きもので、悪人になる程黒色をおびるのである。世間よく友人を選ぶ場合善人を望むが、それは善に交れば善となり、悪に交れば悪になるという訳で、全く霊線の反映によるからである。

神仏といえども正邪があり、正神からの霊線は光であるから、常に仰ぎ拝む事によって人間の霊魂は浄化されるが、邪神からは光処か一種の悪気を受ける事になるから、思想は悪化し、不幸の人間となるのである。故に信仰する場合、神仏の正邪を判別する事が肝要である。また正神といえども、神格の高下によって光の強弱がある。そうして高位の神仏程その信徒に奇蹟の多いのは、霊線の光が強いからである。以上、人間に関する霊線の意義を概説したが、人間以外の事象にも霊線の活動がある。それは人間が住居している住宅、平常使用し愛玩している器物、特に愛玩の物程霊線が太く、衣服、装身具等もそうである。こういう話がある。以前米国の心霊雑誌中にあった記録であるが、ある一婦人は不思議な能力をもっている。それは器物によってその持主の人相、年齢、最近の行動等が分るそうで、その場合器物を熟視すると、その器物の面に写真の如く現われているとの事であって、これは霊線によって印画されたものである。これによってみても霊線の活動は、如何に幽玄微妙であるかが知らるるのである。

近来宇宙線なるものを科学的に研究しているが、これは私の見る処によれば星と地球と連結している霊線である。元来地球が中空に安定しているという事は、地球周囲の衛星の霊線が地球を牽引しているからである。故にその霊線の数は何万、何億あるか測り知れない程の数で、地球の中心部にまで透過しているのである。序だから、私は天体と地球との関係についていささかのべてみよう。

元来天体と地球とは合わせ鏡のごとくになっている。そうして星には明暗二種あり、すなわち光星と暗星である。暗星は全然光がないから人間の眼には映らないが、年々光星に変化し、増加する。何故暗星が光星に変化するかというと、それは宇宙物質の硬化作用によるので、硬化の極点に達した時光輝を発し始めるので、地球にある最硬化の鉱物が最も光るダイヤモンドであるのと同一の理である。したがって地球の創造当時は、星の数は暁の星のごとく少かったもので、星の数の増加と地球上の人類の増加と正比例しているのである。故に向後、星の数も人類の数も、如何程増加するか計り知れないものがあろう。よく天文学者が新星を発見するが、これ等は暗星が光星に変化し、人間の眼に映じ始めたためである。また流星は星の分裂作用であり、隕石はその際の破片である。星にも木火土金水の巨星を始め、大中小無数の星があるが、これ等も悉く地球人類に反映しているので、右の五星はその時代に世界的人物五人ある訳である。人間を星に準え、著名な人物に対し“巨星往来”とか“巨星墜つ”とかいう事も、面白いと思うのである。

泰西においても星占いのすこぶる盛んな時代があって、僧侶がそれを行い、人間の吉凶禍福、病気判断等に利用したりして一世を風靡したという事が史実にある。支那の易学にも九星を本義とした等、反って古代人が星に関心をもっていた事は、無意味ではなかったと思うのである。

(昭和二十三年九月五日)

半文明半野蛮の世界

現代は最も進歩した文明世界と誰しも思っているだろうが、その内容をよく検討してみると、余りに欠点が多いのは、日々の新聞をみても分る通りで、犯罪者や不幸な人間の記事で埋っている。公平に見て善い事よりも悪い事の方が、断然多い事実である。最近大問題となった汚職事件などを見ても、検察当局が一度手をつけ始めるや、それからそれへとどこまで拡がってゆくか分らない位であるから、今度の事など或いは氷山の一角で、本当に調べたら、政界も財界も、無傷の人間は果して幾人あるであろうか。残らずと言いたい程であろう。

それに就いてよく考えてみると意外に思う事がある。それはこの事件の関係者の悉くは、教育の低い田夫野人なら兎に角、何れも高等教育を受けた文化人のみである事である。従ってこれでみると高等教育を受ければ智識は発達し、文化的人間となる以上、犯罪など減るばかりと思うが、今回の事実を見る時、只唖然とするばかりである。としたら実に不可解千万と言わねばならない。そこで標題の如く半文明半野蛮の時代といったのであるが、これを見ても否といえる人は恐らく一人もあるまい。では一体この情勢に対し如何にすればいいかというと、それは敢えて難かしい事はない。至極簡単である。即ち私が常に唱えている唯物偏重教育より目覚め、唯心教育を勃興させる事である。分り易くいえば形のみを信じ、形なきものは信じないという迷蒙を打破する事であって、その唯一の方法としては、宗教の力によって、神の実在を認識させる事である。

そうして、この事が指導者階級に分ると共に、国民全般に行渡るとしたら、犯罪を犯しても人の眼にさえ触れなければいいとする間違った根性が直る以上、犯罪は出来なくなり、明るい良い世の中になるのは分り切った話である。処がこんな簡単明瞭な道理が分らないとみえて、いつになっても法という網や檻を厳重に作って取締るのみであるから、人間を動物扱いにしている訳で、これでは効果のないのは当然である。処が事実はこの法の檻でも、社会秩序が維持出来ないとしたら、その原因は何処にあるかという事に気がつきそうなものだが一向に気がつかない。相変らず社会は半人半獣の人間の集団となっているのである。この意味に於て最早唯物教育では、人間の獣性を取り除く事が出来ないのは余りに明らかである。故に今迄の教育では結果に於て、獣性を蔽い隠す技術の進歩でしかない。従ってこれではいつになったら、真の文明社会が出来るか見当がつかないのである。としたらこれを解決するには、どうしても人間の魂から獣性を抜く事であって、それ以外に根本的方法はあり得ない。

それが宗教であるが、不思議にも高等教育を受ければ受ける程宗教が嫌いになるのはどうしたものか。これが文明の一大欠陥であろう。この原因こそ肚の中にある獣性が宗教を忌避する為であって、悪は善を好まないからである。としたら現代教育は智能的悪を作るものといってもよかろう。処が最早それは赦されない時が来た。というのは本教の出現である。何となれば本教は神の実在を目に見せ、手に掴ませる事が出来るからである。というとそんな素晴しい事はありよう筈がないというであろうが、実は訳なく出来るのである。本教に接するや立所に神霊を把握出来るからであって、それが奇蹟である。本教が驚くべき奇蹟を無限に現わしつつあるのが何よりの証拠であって、これこそ愈々神は半文明半野蛮の跛行的文明を是正し、唯物唯心の両脚揃って歩む処の真の文明世界を造るべく、神の大経綸の現われであると思う。 

(昭和二十九年四月十四日)

守護神

如何なる人間といえども正守護神、または守護霊なるものが霊界に在って附随し、常に守護している事である。そうして人は神の子であり、神の宮であるといわれるが、既説のごとくそれは神から受命されたすなわち神の分霊を有しているからで、これが本守護神であり、後天的に憑依せる動物霊が副守護神であるが、動物霊とは狐、狸、犬、猫、馬、牛、猿、いたち等の獣類若しくは種々の龍神、天狗、あらゆる鳥類等が主なるものである。大抵は一人一種であるが、稀には二、三種以上の事もある。こういう事については現代人は到底信じ難く嘲笑する位であろうが、私は幾多の経験によって動かすべからざる実体を把握し得たのであるから、否定は不可能である。そうしてさきに説いたごとく、本守護神は善性であり、良心であり、副守護神はその反対で悪であり、邪念である。仏教においては良心は菩提心または仏心といい、邪念を煩悩という。そうして本副両守護神の外、正守護神がある。これは祖先の霊であって、人が生まれるやそれを守護すべく祖霊中の誰かが選抜されるのである。この場合普通は人霊であるが、同化霊である龍神、狐、天狗等もある。私といえども副守護神は烏天狗で、正守護神は龍神である。よく人間が危険に遭遇した場合、奇蹟的に助かったり、また暗示を与えられたり、夢知らせや虫が知らせる等の事があるが、皆正守護神の活動によるのである。また芸術家が創作の場合や発明家が熱中する時一種のインスピレーションを受けるが、これ等も勿論正守護神の暗示である。その他人間の正しい希望が実現したり、信仰によって御利益を得る場合、神が正守護神を通じて行われるのである。昔から至誠天に通ずるとか、真心が神に通ずるとかいうのは、神が正守護神を通じてその人に恩恵を垂れるのである。

(昭和二十二年二月五日)

神仏はあるか

私がこの偉大なる浄霊法を発見し得たという事は、霊の実在を知り得た事がその動機である。すなわち霊を浄める事によって体が正常化するという原理であるが、これは将来の文化に対する一大示唆とみねばなるまい。実に科学の一大革命である。何となれば病気治療以外のあらゆる部面に対して、この原理を応用するとき、人類福祉の増進は測り知れないものがあろう。それのみではない。この原理の研究を推進めてゆくとき、宗教の実体にまで及ぶであろう事も予想し得らるるのである。

神は有るか無いかという事の論争も、数千年前から今日に及んでなお解決し得られないで、何時も古くして新しい問題となっている。それは勿論無に等しい霊である神を、唯物的観点からのみ取扱う一般人には分りようがないのは当然である。然るに私の提唱する霊科学によれば、神の実在といえども知り得るとともに、人間死後と再生の問題、霊界の実相、憑霊現象等々、未知の世界(私はこれを第二世界ともいう)における種々の問題についても解決されるであろう。

私は先ず既往における私の思想の推移から説く必要がある。私は若い頃から極端な唯物主義者であった。その事について二、三の例を挙げてみるが、私が如何に唯物主義者であったかという事は、四十歳位まで神仏に決して手を合わせた事がない。何となれば神社の本体などというものは、大工や指物師がお宮と称する桧で箱様のものを作り、その中へ鏡か石塊あるいは紙へ文字を書いたもの等を入れる。それを人間がうやうやしく拝むという事はおよそ意味がない。馬鹿々々しいにも程があるという考え方であったからである。また仏にしても技術家が紙へ描いたり木や石や金属等で観音とか阿弥陀、釈迦等の姿を刻んだものを拝む。然も観音や阿弥陀等は実在しない、言わば人間の空想で作り上げたものに違いないからなお更意味がない、何れも偶像崇拝以外の何ものでもない、というのが持論であった。その頃私は独逸の有名な哲学者オイケンの説を読んだ事があった。それによれば「本来人間は何かを礼拝しなければ満足が出来ないという本能を有している。そのため人間自身が何等かの偶像を作り、それを飾って拝み自己満足に耽けるのである。その証拠には祭壇へ上げる供物は神の方へ向けずして人間の方へ向けるという事によってみても分るのである」という説に大いに共鳴したのであった。

以上のような私の思想は国家観にも及び、古き寺院の多い伊太利などの国は衰退しつつあるに反し、アメリカのごとき寺院の少ない国家は非常な発展をするという現実であるから、神社仏閣等は国家発展の障碍物とさえ思われたのである。然るにその当時私は毎月救世軍へ若干の寄附をしていたため、時々牧師が訪ねてきてはキリスト教を奨めた。牧師は『救世軍へ寄附する方は大抵クリスチャンであるが、貴方はクリスチャンでもないのに如何なる動機からであるか』と質くのである。そこで私は『救世軍は出獄者を悔改めさせ、悪人を善人にする。従って救世軍がなかったとしたら、出獄者の誰かが私の家へ盗みに入ったかも知れない。然るにその災難を救世軍が未然に防いでくれたとしたら、それに感謝し、その事業を援けるべきが至当ではないか』と説明したのである。、未だその外にもこれに似たような事は種々あったが、ともあれ私は善行はしたいが神仏は信じないというのがその頃の心境であった。従って如何に見えざるものは信ずべからずという信念の強さが判るであろう。

その当時私は事業に相当成功し得意の絶頂にあったが、悪い部下のため大失敗し、その上先妻の不幸に遭い、破産もし、数回の差押えをも受ける等、惨憺たる運命は私を奈落の底に落してしまった。その結果大抵のものの行くべき所へ私も行ったのである。それは宗教である。私も型のごとく神道や仏教方面に救いを求めざるを得なくなった。それがついに神仏の実在、霊界の存在、死後の生活等、霊的方面の知識を得るに到って、以前の自分を省み、その愚を嗤うようになったのである。そのような訳で、目覚めてからの人生観は百八十度の転換をなし、人は神仏の加護を受ける事と“霊の実在を知らなければ空虚な人間でしかない”事を覚ったのである。また道徳を説くに当っても“霊の実在を認識させなければ無益の説法でしかない”事も知り得たのである。この意味において読者よ、順次説く処の霊的事象に対し活眼を開かれん事を望む次第である。

(昭和二十二年二月五日)

幽霊はあるか

昔から幽霊の有る無しについては、諸説紛々として今以て決定しないが、私は有りと断定する。何となれば実際有るからである。有るものを無いとは何人といえども言えないであろう。彼の釈尊の説いた地獄、極楽説も、ダンテの神曲における天国、地獄、煉獄も決して荒唐無稽な仮説ではない事を私は信ずるのである。そうして霊界とは如何なる所であるか、これを一言にしていえば、意志想念の世界である。それは肉体なる物的障碍がないから素晴しい自由がある。霊の意志によって如何なる所へでも飛行機よりも早く行ける。彼の神道において、招霊の際「天翔り国駈りましまして、これの宮居に鎮りましませ」という言葉があるが、千里といえども数分否数秒間にして到達するのである。ただし霊の行動の遅速は、その階級によるのである。高級霊すなわち神格を得た霊程速かで、最高級の神霊に到っては一秒の何万分の一よりも早く、一瞬にして如何なる遠距離へも達するが、最低級の霊は千里を走るに数十分を要するのである。それは低級霊程汚濁が多いから重い為である。

また霊は霊自体の想念によって伸縮自在である。一尺巾位の仏壇の中にも数百人の祖霊が居並ぶ事が出来る。そういう場合、順序、段階、服装等はすこぶる厳格で、何れも相応の秩序が保たれている。勿論人間が心からの祭典は霊は非常に喜ばれるが、形式だけのものは余り喜ばれない。その場合仏教では戒名、神道においては御鏡、石、文字、神籬等に憑依する。故に、祭典の場合は身分に応じ、出来るだけ誠をこめ、立派に執行すべきである。

昔から偶々幽霊を見る人があるが、これ等多くは死後短時日を経た霊である。新しい死霊は霊細胞が濃度であるから人の眼に映ずるのである。彼のキリストが復活昇天した姿を拝したものは相当あったという事は不思議ではなく、有り得べき筈である。ただキリストは天に向って上昇したという事は高級霊であるからである。そうして死霊は年月を経るに従い浄化され稀薄になるので、眼に映じ難くなる。また幽霊は針のような穴からでも出入自在である。それは肉体なる邪魔物がないからで、かような点だけでみる時、自由主義者の理想境のように思われるが、そうはゆかない。というのは霊界は厳然たる法則があって、自由が制限されるからである。また霊の面貌について一言述べるが、幽霊は絵にある如く死の刹那の形相であるが、これは時日を経ないからで、時日を経るに従って緩ろに変化するのである。それは想念の通りになる。例えば消極的、悲観的、孤独的の人は淋しく痩せ衰え孤影悄然たる姿であり、鬼畜の如き想念の持主は鬼のごとく、悪魔的の人は悪魔の形相となり、醜悪なる想念は醜悪なる面貌となり、善美なる心の持主はその通りの容貌となるのである。現世においては肉体という外郭によって偽装が出来るが、霊界は総てが赤裸々に現われるのである。そうして現われるまでには大体一カ年以内とされている。ある有名な宗教家の著書にこういう事が書いてあった。それは「人間は死後霊が滅消してしまい、霊の存続や霊界などあるものではない。何故なれば、もしそうでありとすれば、昔から死んだ人の数は何億に上るか分らないから、霊界は満員になっていなければならない」というのである。

この人などは仏教界の偉人でありながら、霊魂の伸縮自在を知らないのである。

(昭和二十二年二月五日)

霊界の存在

抑々、人間は何が為にこの世に生まれて来たものであろうか。この事を先ず認識せねばならない。それは神は地上経綸の目的たる理想世界を建設せんがため人間を造り、それぞれの使命を与え、神の意図のままに活動させ給うのである。原始時代から今日のごとき絢爛たる文化時代に進展せしめたのも、現代のごとき人間智能の発達もそれがために外ならない。そうして人間なる高等生物は固より、他のあらゆる生物否植物、鉱物、その他形体を有する限りのあらゆる物質は霊と体の二要素によって形成されたものであって、如何なる物といえども霊が分離すれば亡滅するのであるが、ここでは人間のみについて説明してみよう。抑々人間の肉体は老衰、病気、大出血等によって使用に堪え得なくなった場合、霊は肉体を捨てて離脱し、霊界に赴き霊界人となり霊界生活が始まるのである。これは世界如何なる人種も同様で、その例として第一次欧州大戦後英国において当時の市価を高からしめたオリヴァー・ロッジ卿の名著「死後の生存」であるが、その内容は著者ロッジ卿の息子が欧州戦争に出征し、ベルギーにおいて戦死し、その霊が父ロッジ卿に対し種々の手段を以て霊界通信を夥しく贈ったそれの記録であって、当時各国人は争って読み、それが動機となって霊界研究は俄然として勃興し、研究熱が盛んになると共に、優秀なる霊媒も続出したのである。また彼の有名なるベルギーの文豪「青い鳥」の著者故メーテルリンク氏も、心霊の実在を知って彼の有名なる運命観は一変し、心霊学徒として熱心な研究に入ったという事は、その方面に誰知らぬ者もない事実である。然もその後のイギリスのワード博士の名著「霊界探険記」が出版され、心霊研究は弥々盛んになったという事である。ワード博士に到っては霊界探究がすこぶる徹底的で、同博士は一週に一回、一時間位椅子に坐した侭無我の境地に入り、霊界へ赴くのである。その際博士の伯父の霊が博士の霊を引連れ、霊界のあらゆる方面に対し具さに霊界の実相を指示教導されて出来た記録であるが、その際友人知己の霊も種々の指導的役割をなし、博士の霊界知識を豊富にしたという事である。これはなかなか興味もあり、霊界生活を知る上において大いに参考になるから、読者は一度読まれん事を望むのである。勿論西洋の霊界は日本とは余程相違のある点はやむを得ないが、私は最後において、日本および泰西における霊界事象を種々の実例を以て解説するつもりである。

十数年前、英国よりの通信によれば同国においては数百の心霊研究会が生まれて盛んに活動しつつある事や、心霊大学まで創設されたという事を聞きおよんでいたが、その後大戦のため如何様になったか、今日の実状を知りたいと思っている。

さて霊界の種々相について漸次説いてみよう。

(昭和二十四年八月二十五日)

霊界の構成

前項にのべたごとく霊界は天国、八衢、地獄の九段階になっており、その段階の差別は何によるかというと光と熱である。すなわち最上段階は光と熱が最も強く、最低段階の地獄は、暗黒と無熱の世界であり、八衢はその中間で現界に相当する。現界においても幸福者と不幸者があるのは、天国と地獄に相応するのである。最高天国すなわち第一天国においては光と熱が強烈で、そこに住する天人はほとんど裸体同様である。仏像にある如来や菩薩が半裸体であるにみて想像し得らるるであろう。第二天国、第三天国と降るにしたがって、漸次光と熱が薄れるが、仮に地獄の霊を天国へ上げるといえども、光明に眩惑され、熱の苦痛に堪え得られずして元の地獄に戻るのである。丁度現界において、下賎の者を高位に昇らすといえども反って苦痛であるのと同様である。

天国における最高最貴の神は主の大神である。各々の宗教団体には、主宰神、主宰仏および宗祖、教祖がある。例えば大社教は大国主尊、御嶽教は国常立尊、天理教は十柱の神等であり、仏界においても真宗は阿弥陀如来、禅宗は達磨大師、天台は観世音菩薩等々で、また各宗の祖である弘法、親鸞、日蓮、伝教、法然等は各団体の指導者格である。この意味において生前何等かの信仰者は、死後霊界に入るや所属の団体に加盟するを以て、無信仰者よりも幾層倍幸福であるかしれない。それに引替え、無信仰者は所属すべき団体がないから、現界における浮浪人のごとく大いに困惑するのである。昔から中有に迷うという言葉があるが、これらの霊が中有界で迷うという意味である。

故に霊界を知らず、死後の世界を信じないものは、一度霊界に往くや安住の所を得ないため、ある時期まで痴呆のごとくなっている。この一例として先年某所で霊的実験を行った際、有名な〇〇〇〇氏の霊が霊媒に憑依してきた。早速〇〇夫人を招き、その憑霊の言動を見せた処確かに亡夫に相違ないとのことであった。そうして種々の質問を試みたが、その応答は正鵠を欠き、ほとんど痴呆症的であったそうである。これは全く生前霊界の存在を信じなかったためで、現世においては〇〇程の卓越した人が霊界においては右のごとくであるにみて、人は霊界の存在を信じ、現世にある内死後の準備をなしおくべきである。

天国や極楽は如何なる所であるか、否一体天国や極楽などという世界は事実存在するものであるか、大抵の人は古代人の頭脳から生まれた幻影に過ぎないと思うであろう。然るに私は、天国も極楽も浄土も厳存している事を信ずるのである。それに就いてこういう話がある。昔某高僧と某学者と“死後地獄極楽ありや”という論争の結果、高僧は有りといい、学者は無いという、竟に高僧は、「真偽を確めるには死ぬより外ない」といい、学者に対し両者死を以て解決しようと言ったので、学者は兜を脱いだという話がある。これは笑い事ではない。高僧の言う方が真実である。然るに生きながら霊界を探求出来得るとしたら、これ程仕合せはあるまい。先ず私の体験によって知り得た種々の例証を書いてみよう。

昔某会社重役夫人(三十歳)から重病の為招かれたことがあった。勿論医師から見放され、家族や親戚の人達が是非助けて欲しいとの懇願であった。その患者の家は私の家より十里程離れていたので、私が通うには困難のため直ちに自動車にのせて私の家へ連れて来た。その際途中においての生命の危険を慮り夫君も同乗し、私は途中で片手で抱き、片手で治療しつつ兎も角無事に私方へ着いたのである。然るに翌朝未明附添の者に私は起された。直ちに病室へ行ってみると患者は私の手を握って離さない。曰く『自分は今、身体から何か抜け出るような気がして恐ろしくてならないから、先生の手に掴まらしていただきたい。そうして私はどうしても今日死ぬような気がしてならないから、家族の者を至急呼んでいただきたい』というので直に電話をかけた。一時間余の後、家族や親戚数人、会社の嘱託医等自動車で来た。その時患者は昏睡状態で脈搏も微弱である。医師の診断も勿論時間の問題との事である。そうして家族に取巻かれながら依然昏睡状態を続けていたが、呼吸は絶えなかった。終に夜となった。相変らずの状態である。ちょうど午後八時頃、突如として目を開き不思議そうに四辺を見廻している。曰く『私は今し方、何ともいえない美しい所へ行って来た。それは花園で、百花爛漫と咲き乱れ、美しき天人達が大勢いて、遙か奥の方に一人の気高い絵で見る観世音菩薩のような御方が私の方を御覧になられ、微笑まれたので、私は有難さに平伏した、と思うと同時に覚醒したのである。そうして今は非常に爽快で、このような気持は、罹病以来未だかつてなかった』との事である。そのような訳で翌日から全然苦痛はなく、否全快してしまって、ただ衰弱だけが残るのみであった。それも一カ月位で平常通りの健康に復し、その後も何等異常はなかったのである。以上は全く一時的霊が脱出して天国に赴き、観世音菩薩より霊体の罪穢を払拭されたのである。

次に二十歳位の女子、重症肺結核で一旦治癒したが、一カ年程経て再発し、終に死んだのである。それでその霊を私が祀ってやった。ところがその娘に兄が一人あった。非常に酒飲みで怠惰で困り者であった。娘が死んでから二、三カ月経た頃、ある日その兄が自分の居間に坐っていると、眼前数尺の上方に朦朧として、紫色の煙のごときものが見えるかと思うと、その紫雲は徐々と下降する。すると紫雲の上に死んだはずの妹が立っている。よく見ると生前よりも端麗にして美しく、衣服は十二単の如き美衣を着、犯し難い品位を備えている。そうして妹の曰く『私は兄さんが酒を廃めるように勧告に参りました。どうか家のため身のため禁酒して戴きたい』と懇ろに言ってふたたび紫雲にのり、天上に向って消え去ったのである。処が数日を経て同様の事があり、また数日を経た三度目の来降である。その時は眼前に朱塗の曲線である美しき橋が現われ、紫雲から静かに降り立った妹は、橋を渡り来って曰く、『今日は三回目で今日限りで神様のお許しはなくなる。今日は最後である』といって例の如く禁酒を奨めたが、それ以後はそういう事はなかったそうで、これは勿論一時的霊眼が開けたのである。

右は、天国から天人となって現界へ降下せる実例として好適なものであろう。また面白い事は、右の兄なる人物は全然無信仰者で、霊などに関心など持たず、潜在意識などあるわけがないから、観念の作用でない事は勿論で、右の話は母親から聞いたのである。

次にこれは肉体の病気でない--言わば精神的病気ともいうべき二十幾歳の青年があった。その頃彼はある花柳界の婦人に迷い、遂に合意の情死を遂げんとする一歩手前の処を私は奇蹟的に救ったのである。その際彼は二人分の毒薬を懐中に用意していたにみても危い処であった。私の家へ連れて来、早速霊的調査をしてみた。すると彼の口から、狐霊が憑依してそういう事をさしたという訳が分ったので、その狐霊へ対し戒告を与えなどして約二十分位で終った。終ったに関わらず彼は尚も瞑目合掌(これは被施術者の形式である)している。そうして左方に向い首を傾げている。それが約三、四分位でようやく眼を開き、不思議そうに尚も首を傾げている。彼曰く『不思議なものを見ました。それは自分の傍に琴の如き音楽を奏している者があり、その音色は実に何ともいえない高雅で、聞惚れながらあたりをよく見ると、非常に広い神殿の如きものの内部で、突当たりに階段がありその奥に簾がたれている。すると、先生が衣冠束帯の姿で静かに歩を運ばれ、階段を昇り簾の中へ入られた』とのことである。私は『後から見たのでは誰だか分らないではないか』というと彼は『否、誰かに先生にちがいない』との事で、その服装は、冠を被り、纓が垂れ、青色の上衣に、表袴は赤色との事であった。これは彼が一時的霊眼が開け、霊界が見えたのである。彼は何等の信仰もない商店の店員であって、霊的知識など皆無であるから反って信を置けると思う。そうして彼の坐した左側には神床があって、神様を祀ってあったのである。

以上示した処の三例は、天国の室外と室内と天人の降下状態を知る上において参考になるであろう。

次に仏界における極楽の状態を書いてみよう。この時の霊媒は十八歳の純な処女であった。この娘に憑依したのはその娘の祖先である武士の霊で、二百数十年前に戦死したわけである。その霊は生前真言宗の熱心な信者で、死後間もなく弘法大師の団体へ入ったので、私の質問に応じて答えた処は左のごとくである。『最初自分が来た時は数百人位いたが、年々生まれ変る霊が入り来る霊より多いので、今は百人位に減じてしまった。そうして日常生活は大きな伽藍の中に住んでいて、別段仕事とてはなく、琴、三味線、笛、太鼓等の遊芸や絵画、彫刻、読書、書道、碁、将棋、その他現世におけるとほぼ同様の楽しみに耽り暮している。また時々弘法大師または〇〇上人(私はその名を失念した)の御説教があり、それを聞く事が何よりの楽しみである。また弘法大師は時々釈迦如来の下へ行かれるそうで、そこはこの極楽よりも一段上で、非常に明るく、眩しくて仰ぎ見られない位である。また戸外へ出ると非常に大きな湖があって、そこへ蓮の葉が無数に浮かんでおり、大きさは丁度二人がのれる位で、大抵は夫婦者がのっており、別段漕がなくとも欲する方へ行けるのである。そうして夜がなく二六時中昼間で、明るさは現世の晴れた日の昼間より少し暗く、光線は金色の柔かく快い感じである』-と言うのである。

私は度々極楽に住する霊から聞いた事であるが、極楽に長くいると飽きるそうである。二六時中遊びに耽るだけで面白くないから、神界の方へ廻して貰いたいとよく希望された。私は要求を容れて神界へ移住さした霊は少からずあった。その理由は神界は最近活動状態に入り、諸神諸霊は多忙を極めている。言うまでもなくこれは昼間の世界が近づいたためである。何となれば神は昼の世界を主宰し、仏は夜の世界を主宰していたからである。

次に地獄界であるが、三段階の最下段は、神道にては根底の国といい、仏教にては極寒地獄といい、西洋にては地獄といい、全くの無明暗黒界で真の凍結境である。そこへ落ちた霊は何十年何百年もの間全然何も見えず、凍結のまま一寸の身動きさえ出来得ないのであるから、寔に悲惨とも何とも形容がし難いのである。私はそこから救われた霊から聞いた時慄然としたのである。彼のダンテの神曲にある凍結地獄の状態は真実であろう。

中段地獄は昔から一般に言われている修羅道、畜生道、色欲道、餓鬼道、針の山、血の池地獄、蛇地獄、蜂室地獄、蟻地獄等種々あり、それら取締りの赤鬼、青鬼も地獄図絵に見る如くであって、地獄の刑罰としては彼の棘のついた鉄棒で殴るのであるが、霊の話によれば人間の時よりも数倍痛いそうである。それは肉体なる掩護物がなく直接神経に触れるからであろう。

地獄苦について種々の例を挙げてみよう。

先ず針の山は読んで字の如く、無数の針の上を歩くのであるから、その痛さは非常なものであろう。血の池地獄は姙娠や出産が原因で死んだ霊が必ず一度は行く所であって、これは多くの霊から聞いた話であるが、文字通り一面の血の池で首まで浸っており、血腥い事はなはだしく、その池には夥しい蛆虫様のものがいてそれが始終顔へ這い上ってくるので、その無気味さは堪らないそうで、始終虫を手で払いおとしており、そのような苦痛が普通三十年位続くのである。蜂室地獄はこれも霊から聞いた話であるが、ある芸者の死霊が某美容院の弟子に憑依し語った処によると、人間一人位入る箱の中に入れられ、無数の蜂が身体中所嫌わず刺すので名状すべからざる苦痛であるとの事であった。焦熱地獄は焼死したり、三原山のごとき噴火口へとびこんだりした霊である。それに就いてこういう例があった。或る中年の男子、一種の火癲癇で、彼曰く就寝していると夜中に目が覚める。見ると数間先に炎々と火が燃えながら、段々近寄るとみるや発作状態となり、その瞬間身体が火のごとく熱くなるとともに無我に陥るのである。これは大震災の翌年から発病したとの事であるから勿論震災で焼死した霊であろう。

色欲道は無論不純なる男女関係の結果落ち行く地獄であって、その程度によってそれぞれの差異がある。例えば情死のごときは男女の霊と霊とが結合して離れない。それは来世までも離れまいという想念に因るからであり、抱合心中のごときは密着した侭で離れないから、不便と恥ずかしさのため大いに後悔するのである。偶々新聞の記事などに現われている-生まれた双子の身体の一部が密着して離れないというのは情死者の再生である。また世間で言う逆様事、すなわち親子兄弟、弟子と師匠などの不義の霊は上下反対に密着するので、一方が真直であれば一方は逆様というわけで、不便と苦痛と羞恥によって大いに後悔するのである。これによってみても世間よく愛人同志が情死の場合、死んで天国で楽しく暮そうなどという事は思い違いもはなはだしいわけで、実に霊界は至公至平である事が分かるであろう。

こういう事も知っておかねばならない。それは現世において富者でありながら、非常に吝嗇な人がある。こういう人は現体は金持であっても霊体は貧者であるから、死後霊界に行くや貧困者となり、窮乏な境遇に陥るので大いに後悔するのである。それに引替え、現世において中流以下の生活者でありながら常に足るを知って満足し、日々感謝の生活を送り、余裕あれば社会や他人のため善徳を施すような人は霊界に行くや富者となって幸福な境遇を送るのである。また富豪などが没落する原因としてこういう事がある。それは出すべき金を出さず、払うべきものを払わないという人がある。かくして蓄めた金は盗みと同様の理になるから霊的には盗金を蓄めているわけで、これに逆利子が溜る結果、実際の財産は僅少なわけである。それがため霊主体従の法則によって何時しか没落する。大抵な富豪の二代目が不良か低能で財産を蕩尽するという例がよくあるが、右の理を知ればよく分るのである。

又今度の戦争の結果、財閥解体という事になったが、その原因は右のごとくであって、従業員や労働者に当然与えるべき金額を与えないで、それを蓄積し漸次富が殖えたのであるからである。本来資本に対する利潤は、例えば郵便貯金や銀行預金は最も安全であるから三分内外が適当であり、安全性が稍々欠除せる国債は三分五厘、信託は三分八厘、次いで幾分危険性を伴なう株券は四、五分位が適当でありとしたら、資本家が出資する事業資金の利潤を、右を標準として合理的に考える時、先ず七、八分乃至一割位が適正であろう。然るにそれ以上の利潤を挙げる場合、その余剰利潤は勤労者に分配すべきが至当であるに拘わらず、多くの資本家はそのような意志はなく、自己の利欲を満足させる事のみ考え、出来るだけ多額の利潤を所得しようとするのが一般的である。労働運動などに怯えたり、ストライキ等に手を焼いたりするのもそれがためである。したがって妥当なる所得以外の、当然勤労者に配分すべき利潤を取得するという事は、勤労者の所持金を窃取する意味になる。すなわち盗金である。従って盗金を蓄積して財閥となり栄耀栄華に耽ったのであるから天は赦さない。然も霊界では逆利子がどしどし殖えるから、終に今日に至って盗金と逆利子の分だけ剥奪返還されなくてはならない事になったので、全く身から出た錆で誰を怨む事も出来ないのである。故に右と反対に適当な利潤を勤労者に分配し蓄積した富を社会や他人のために費し善徳を積むとしたら、社会から尊敬を受け、永久に栄える事になるわけである。

上段地獄は、地獄の刑罰が済み、八衢へ昇ろうとする一歩手前であるから大方は軽苦で労作のごときものである。例えば各家の神棚、仏壇等に饌供した食物の持運び、または通信伝達、霊の世話役等々である。

ここで右饌供の食物について知りおくべき事がある。それは霊といえども、食物を食わなければ腹が減る。そうして霊の食物とは、すべての食物の霊気を食するのである。ただし現世と違い、極めて少量で満腹するので、霊一人一日分の食糧は飯粒三つ位で足りるのである。したがって普通の家庭で饌供された食物といえどもかなり多数の霊人が食しても余りある位であるから、その余分は餓鬼道の霊達に施与するので、その徳によって、その家の祖霊の向上が速かになるのである。この意味において祖霊へ対しては出来るだけ飲食など供えるべきで、万一祖霊へ対して供養を怠る時は、祖霊は飢餓に迫られ、止むを得ず盗み食いする結果、餓鬼道へおちるか又は犬猫のごとき獣類に憑依して食欲を充たそうとする。それがため畜生道へおちるのである。すべて人霊が畜生へ憑依する時は、悪貨が良貨を駆逐するように、漸次人霊が溶け込み、獣霊の方へ同化してしまう。この人獣同化霊が再生した場合その獣となって生まれるが、これは生来の獣霊とは異なり人語を解する。よく馬、犬、猫、狐、狸、蛇等に人語を解するのがあるが、これ等は右の如き人獣同化霊の再生である。この同化霊は獣類になってある程度の修業が済むと又人間に再生するのである。ここで注意すべきは蛇、猫等を殺し祟ることがあるが、これは同化霊であるからで、同化霊でないものは祟らない。また旧家などに古くから青大将がいるが、これは祖先が蛇との同化霊となって子孫を守護しているので、これ等を殺す場合非常に立腹し戒告を与える。よく蛇を殺してから死人が出来たり、家が没落するというような事はそれである。また右と同様古くから祀ってある稲荷などは、それを取潰したり祭典を怠る場合よく戒告を与えられるが、それに気付かないと家の没落までに至る事があるから大いに注意すべきである。

右のごとき実例は非常に多く、読者中にも思い当る事が幾つかは必ずあるはずである。私の経験にこういう事があった。以前私がある家へ治療に行ったことがある。その家にかなり大きな犬がいた。家人の曰く『この犬は不思議な犬で、決して外には出ない。ほとんど座敷住居で、絹の上等の座蒲団でないと坐らない。又家人が呼べば来るが、使用人では言う事を聞かない。食物も粗末な物は絶対に食わないという贅沢さで、よく人語を解し、粗末な部屋や台所を嫌い、上等の部屋でなくては気に入らないというわけで、その他すべてが人間の通りである』との事で、その疑問に対し私はこう答えた。『それは貴方の家の祖先が畜生道におち、犬に生まれ変って来たので、その因縁によって貴方の家に飼われるようになり、祖先としての扱いを受けなければ承知しないわけである』との説明によって了解されたのである。

これは現在開業中の私の弟子が実験した事実であるが、今から二十数年以前、横浜の某所にある中年の婦人、不思議な責苦にあっているのを聞いたので、好奇心に駆られ早速行ってみた。本人に面会すると、彼女は首に白布を巻いていたが、それを取除くと、驚くべし一匹の蛇が首に巻きついている。その蛇は人語を解し、彼女が食事をする時は一杯とか二杯とか量を限って許しを乞うと、その間蛇は巻きついていた力を緩めるので食事をする。それが約束より少しでも超過すると再び喉を締めて、決して食わせないのである。処がその原因について語った処によれば『自分がその家へ嫁入後しばらくして姑が病気に罹ったので、自分は早く死ねよがしに食物を与えなかった。それがため餓死同様になって死んだ』そうである。『その怨霊が蛇になって仇を討つべく、このような責苦にあわせるのである』との事で『一人でも多くの世の中の人に罪の恐ろしさを知らせ、幾分なりとも功徳をしたい』という念願であるとの事であった。

また動物の使役に就いて世人の誤解している事がある。それは動物に対し人間と同様に見る事で、動物使役は人間から見ると非常に苦痛のごとくに思うが、実はそれ程ではない。むしろ牛馬のごときは使役さるる事を欲するのである。故に態と歩行を遅々とするのは鞭をあてて貰いたいからで、鞭の苦痛で走るのではない。牛馬は打たれる快感を貪りたいためである。これに就いて人間にもサディズムという性的変態症があるが、これは肉体的虐待によって快感を催すのである。勿論これは牛馬のごとき使役を好む動物霊の憑依によるのである。この意味において動物愛護も結構であるが、先ず人間の虐待防止を考えるべきであろう。

ここで仏壇についての説明をするが、仏壇の内部は極楽浄土の様相を備えて祖霊を招ずるのである。極楽界は飲食饒かに百花咲き乱れ、香気漂い優雅な音楽を奏している。故に小やかながらも、その型として飲食を上げ、花を供え、線香を上げるのである。また寺院においても同様で、木魚を叩き、鐃ばちを鳴らし、笙、篳篥の楽を奏するのは何れも音楽の意味である。また仏壇へ飲食を供する際鐘を叩くのは霊界への合図である。

(昭和二十二年二月五日)

霊層界

霊界は、天国、八衢、地獄の三段階になっている事は既説の通りであるが、これが人間の運命と密接な関係をもっている事を説いてみよう。

そうして右の三段階を細別すれば一段は六十になり、合計百八十段階の層になっている。私はこれを名付けて霊層界という。

人間は現世に生まれるという事は神の命によるのである。生命の命は命令の命と同一であるのもその意味であろう。誰しも思う事は、人間は何が故に生まれたかという事である。この事を真に把握せざる限り正しい行動も安心立命も得られないのみか、空虚な酔生夢死的人生に終る惧れがある。然らば神の意図とは何ぞやといえば、この地上をして理想世界言変えれば地上天国を建設する事である。とはいえどそれは恐らく、その規模において、その構想において、壮麗雄大なる言語に絶するものがあろう事は想像に難からない。何となれば無限に進歩しつつある文化は、極まる処がないからである。この意味において現在迄の世界歴史は、その基礎的工作に過ぎなかったのである。そうして神は一人々々それぞれの使命を与え、特長を持たせ、生き変り死に変り、理想目的に向って前進せしめつつあるのである。従って善も悪も、戦争も平和も、破壊も創造も、進化に必要なる一過程にすぎない事を知るのである。

そうして今は如何なる時かは詳細説いたごとく、私の唱える夜昼転換期のそれであり、全世界は今正に新時代に向って一大飛躍せんとしつつあり、今人類は野蛮の衣をカナグリ捨て、高度の文化人たる域に達せんとしつつある事である。ここに初めて戦争も病気も貧乏も終焉を告げるのである。勿論浄霊の出現はそのための先駆であり、核心的のものである。

以上のごとく、神の意図によって断えず人間に命令を下しつつある。それは如何なる手段によるかというに、霊層界においては人間一人々々の種が存在する。この種を私は名づけて幽魂という。この幽魂に先ず命が下るのである。然るに幽魂は人間霊体の中府に在る現魂に向い霊線を通じて神の命を伝達するのである。しかしながら一般人間が神の命を直感し得ることは至難であって、ある程度浄化されたる霊体の保有者にして可能である。それは大多数の人間は、多量の曇りに遮られ感知出来得ないばかりか、その曇りを利用する邪神によっても妨害されるからである。

右の証左として如何なる人間といえども、自己の企図する事が意の如くならない事や、予想もしない方向に運命が転ずる事があろう。又人間は常に何物かに支配されいる感や、どうにもならぬ運命の経路を辿る事があるであろう。そうして霊層界に在る幽魂はそれ自体の階級によって、使命も運命も差別がある。すなわち上位の階級に在る幽魂ほど神命も大きく高級で、然も幸運であり、下位に降る程漸次右と反対で薄幸となり、最下段は最も不幸者となるのである。何となれば上位は天国に相応し、病なく争なく物資豊かに歓喜の世界であるに反し、下位に降る程それと反対に病気、争闘、貧窮に充ちた

る苦悩の世界であるからである。この意味において人間が真の幸福者たらんとするには、先ず霊層界における幽魂をして向上せしめなくてはならない。然らばその方法如何というに、それは霊体を浄める一事である。本来霊体は曇りの多少によって上昇し下降する。すなわち浄魂は軽きを以て上昇し、曇魂は重きを以て下降する。故に浄魂者たらんとするには、善行を重ね、善徳を積まねばならない。それは相当の時間と犠牲を払わねばならないが、ここに一挙にして、霊層界の数十段階を飛躍し得る方法がある。すなわち本医術の講習を受けることである。本医術受講者が異口同音に言うことは、精神的にはまず人生観が一変する。智慧証覚が豊かになって、事物の真相をよく把握しえらる。前途に光明を認め、不安は解消する。楽観的になり、初めて真の安心感を得た。また物質的には不思議に財物が集まり、不自由がなくなる。不幸が減り幸福の面が多くなり、実に不思議である。全く救われた。有り難いという感謝の声は日々無数に私の耳や眼に入るのである。

(昭和二十二年二月五日)

時局と霊界

現在世界の状勢は、実に有史以来未だかつて見ない程の大規模な危機的様相を呈している。勿論第三次大戦への危惧は、世界の人間ほとんどの頭脳を支配している観念であろう。何しろ〇〇以上の国々が、残らず関連している痛切な問題であってみれば、その影響の大きい事もまた空前である。しかしこれは誰が目にも映る処の現在世界の姿であるが、この現世界の一切は霊界が根原であるとしたら、霊界の実相が分からなければ問題の根本は把握出来ないのは勿論である。先ずその事を知ってこそ、初めて将来の見通しもつき、心からの安心を得らるるのであるから、今それを書いてみよう。

抑々、主神の御経綸は、将来地上天国建設のため、物質文化をある程度まで進歩発達させなければならない。この意味において善と悪とを作られたのである。何となれば、この善悪の摩擦によって、現在見るが如き絢爛たる物質文化が出来上ったからであって、今や天国出現の一歩手前まで来たのである。この事は常に私の説く処であるが、本論に入るに先立って、一応は書かねば、新しく読む人には分かり難いからである。

霊界においては、人間が創造された時から、すでに人間同志の闘争が始ったのである。その中で最も強者である者は、その時代の全地域に亘る一切を専有し、意のままに支配せんとする欲望を抱き、それを実現すべく善悪無差別的暴力を揮ったのも、今日と同様である。それによって漸次人智は発達し、人口も殖えるに従って、争闘の規模も拡大され、ついに今日に到ったのである。処が今日見るが故き世界的覇権を握るべく計画を立てたのは、今から二千数百年以前であって、その首脳者こそ霊界における一大強力者である〇〇龍神であったのである。この龍神は〇〇〇之尊という神に憑依し、暴虐手段を以て、世界を自由にしようとし、目的のために手段を選ばざる的のやり方で、一時は成功したようだったが、九分九厘で失敗し遂に主神の厳罰を受け、一応は悔改め善神に立戻ったのであった。すると〇〇龍神は、次々、その時代の力量ある人物に憑依しては、世界制覇の野望を達成しようとし、その都度失敗したが、彼等は懲りる事を知らず、今尚執拗に奮闘しつつあるのである。古来からの英雄、豪傑といわれる人物は何れもそれであった。彼等が一時は時代の英雄として、権勢飛ぶ鳥を落す勢いであっても、終には失敗し、その末路に到っては哀れ儚く滅びてしまったのは史実に明らかである。彼のシーザーはじめ、ナポレオン、カイゼル、ヒットラー等も勿論それであった。ここまで書いただけでも、今日の事態の根本は大体判断がつくであろう。

私は右のような英雄を称して、世界の壊し屋の親方と常にいうが、何しろこれまでの世界は真の文明ではなく、人間といえども半分は野蛮性が残っていた以上、霊的にいえば尠からず罪を犯し、罪穢を積んだのであるから、時々浄化作用の必要が起る。それには壊し屋も、掃除屋もなくてはならないから、英雄という掃除屋の出現も、神の経綸の一つの現われでしかない事を知るであろう。したがって憤慨する事も、絶望する事も、大した意味がない事が分かる。

(昭和二十六年二月二十五日)

霊界の審判

抑々人間は、現世において人類社会の為与えられたる天職使命を完全に遂行すべきであるにかかわらず、そのほとんどは事物の外郭のみを見、不知不識の内に悪に属する行為を重ねるため、それが罪穢となって霊体に曇りが堆積する。したがって死後霊界人となるや、その罪穢の払拭が厳密に行われるのである。私は幾多の死霊から霊媒を通じて出来るだけ詳細なる調査研究を行った。死霊の言説についても誤謬や虚偽と思う点をさけ、幾人もの死霊の一致した点を綜合して書くのであるから、大体において誤まりはないと信ずるのである。

人間一度霊界に入るや、大多数は神道で唱うる中有界、一名八衢、仏教でいう六道の辻、基督教でいう精霊界に往くのである。しかし、ここに注意すべきは、東洋の霊界は大体立体的で、特に日本の霊界は最も立体的であり、西洋の霊界は大体平面的である。日本の社会が特に階級的段階の多い事もそれがためであり、西洋は非階級的で平等なのもそれがためである。そうして私が研究したのは日本の霊界であるから、そのつもりで読まれたいのである。

右の八衢とは霊界における中間帯である。それは本来霊界の構成は大体九段階になっており、天国は三段階、八衢が三段階、地獄が三段階である。死後普通人は八衢人となるが、極善のものは直ちに天国に昇り、極悪のものは直に地獄に落ちるのである。それは死の状態によって大体の見当がつく。すなわち天国や極楽へ往く霊はおおよそその死期を知り、死に際会していささかの苦痛もなく、近親者を招き一人々々遺言をなし、平静常の如き状態で大往生を遂げるのである。それに引替え地獄往きの霊は死に直面するや、非常な苦悩に喘ぐ、所謂、断末魔の苦しみである。また八衢行の霊は普通の死の苦しみ程度である。したがって大部分は八衢往きで、死体の面貌を見ても大体判るのである。すなわち天国往きの霊はいささかも苦痛の色なく鮮花色を呈し、生けるがごとくである。地獄往きの霊は顔面暗黒色又は暗青色を呈し、苦悶の形相を現わしている。八衢往きの霊は一般死人の面貌で大体黄色である。

先ず八衢往きの霊から説明するが、死後八衢へ行くや三途の川を渡るのである。その際脱衣婆なる役人が着衣を調べる。白装束ならよいが、普通の着衣は白衣と替えさせる。その際橋を渡るという説と、橋がなく水面を渡るという説がある。ただし後者は川に水がなく龍体が無数に川中にうねっていて、それが水のごとく見えるというのである。そうして橋を渡り終るや白衣は種々の色に染まる。すなわち罪穢の最も多いものは黒色で、次が青色、紅色、黄色という順序で、罪穢の最も少ないものは白色という事になっている。これらの色によって、罪穢の多少が表示さるる訳である。それから仏説にある閻魔の庁即ち審判廷に行きそこで審判を受けるが、そこは娑婆と異なり厳正公平でいささかの依怙もなく誤審もない。その際閻魔大王の御顔は見る人によって異なるそうで、悪人が見ると御眼は爛々として口は耳元迄裂け、舌端火を吐き、一見慄然とするそうである。然るに善人が拝する時、御顔は優しく柔和にして威厳備わり、親しみと尊敬の念が自ら湧くという事である。勿論一人々々浄玻璃の鏡に照らし、その罪を判定する。また閻魔の帳面の記録によって大体の下調べを行うのである。現世における裁判官は霊界では冥官であり、その監督は神道における祓戸の神が行うといわれている。閻魔大王は神道における国常立尊という神様という事になっている。審判によって判決を与えられ、それぞれの天国または地獄へ往くのである。故に六道の辻とは、その名のごとく、極楽往きも地獄往きも上中下の三段二道で、その辻になっているからである。そうして地獄往きと決った霊は一時八衢において修行をさせ霊の向上を図るが、それによって改過遷善の者は地獄往きとならず極楽往きにふりかえられるのである。その際の教導者は、現界におけると同様、各宗教の教誨師が死後そういう役を命ぜられるのである。八衢において修行年限は数日乃至三十年となっており、それまでに改心出来ないものは全くの地獄へおちるのである。また霊体の罪穢に対し、その遺族が誠心誠意懇ろなる法要を営むとか、人を助け慈悲を施し、善徳を積む事によって、それだけ霊の浄化は促進さるるのである。この理によって親に孝を尽くし、夫に貞節を捧げる等は、現世は勿論死後も大きな意味となるので、慰霊祭などは霊は非常に喜ぶのである。

(昭和二十二年二月五日)

霊界と現界

抑々、宗教に関心を持つ場合先ず徹底的に理解するには、どうしても霊界と現界との関係を知らねばならない。何となれば宗教信仰の対象は神仏であり、神仏とは霊であるからで肉眼では見る能わざる以上、理論のみによって実体を把握せんとしてもそれは木によって魚を求むるの愚である。しかしながらこの世界には神も仏も立派に実在している以上、否定し去る事も勿論不可能である。丁度野蛮人に向って空気の存在を認識させようとしてもすこぶる困難であると同様、現代人の大多数に霊の実在を認識させる事の困難さは勿論である。私は先ず前提として霊界の構成、霊界人の生活等に亘ってなるべく深く説明してみよう。

抑々人間とは肉体と霊体との二元素から成立っており、人間が死するや霊肉離脱し霊はただちに霊界に入り霊界生活が始まるが、離脱の場合極善者は額から、極悪者は蹠の爪先から、一般人は腹部の中央臍部辺から霊は脱出するのであって、仏教においては死ぬ事を往生というが、これは霊界からみれば生まれ往く訳だからである。また死ぬ前を生前といい、神道にては帰幽といい転帰というのも同様の理である。そうして霊界人となるや昔からいわれている通り、先ず三途の川を渡り閻魔の庁に行くのであるが、これは事実であって私が多数の霊から聞いたそれは一致している。閻魔の庁とは現界における法廷と同じである。しかも三途の川を渡り終るや屍衣の色が変化する。すなわち罪穢の最も少なきものは白、次は各薄色、黄、赤、青、黒というように、罪穢の軽重に従い右のごとき色彩となるのである。ただ紫だけは神衣としてある。閻魔の庁においては祓戸の神が主任となり、各冥官が審問に当り、それぞれ相応の賞罰を決めるのであるが、その際極善人は天国または極楽に、極悪人は地獄へ落ちるのであって、普通人は中有界、神道にては八衢、仏教にては六道の辻と称する所に行くのであるが、大多数はこの中有界に行きここで修業するのである。修業を受ける第一は教誨師の講話を聴くので、それによって改心の出来たものは天国へ行き、然らざるものは地獄行となるのである。

右の修養期間は大体三十年を限度とし行先が決まるのである。教誨師は各宗教の教師が当る事になっている。ここで霊界の構成について書くが、霊界は上中下の三段階になっている。その一段は又三段に分けられ合計九段階である。すなわち上段が天国、中段が中有界、下段が地獄となっており、現界は中有界に相当する故に、仏語の六道の辻とは極楽の三道、地獄の三道へ行く訳で、神道の八衢とは右の外に、上は最高天国、下は根底の国が加わるのである。そうして天国と地獄の様相を端的に説明すれば、最高天国に上る程光と熱が強烈になり、ほとんど裸体同様の生活であって、昔から絵画彫刻に見るごとく至尊仏は裸体である。これに反し最低地獄に落ちる程光と熱が稀薄となり、極最低は暗黒、無明、凍結状態である。故にこの苦しみに遭うや、如何に極悪非道の霊といえども改心せざるを得ないのである。以上はごく大体の説明であるが、現代人が見たら荒唐無稽の説と思うかも知れないが、私は二十数年にわたり多数の霊から霊媒を通じ、又は他のあらゆる方法によって調査研究し、多数の一致した点を採って得た処の解説であるから、読者におかれても相当の信頼を以て読まれん事を望むのである。彼の釈尊の地獄極楽説も、ダンテの神曲も決して作為的のものではない事を私は信ずるのである。

右のごとく上中下三段階へ往く霊に対し、死人の面貌を見ればおよそ判るのである。すなわち何等苦悶の相がなく鮮花色を呈し、宛ら生けるがごときは天国往きであり、陰鬱なる淋しき面貌をし蒼白色、黄青色、つまり一般死人の状態は中有界行であり、苦悶の相著しく、暗黒色または青黒色を呈するものは、勿論地獄行である。

以上は、霊界における基礎的知識を得る為のものであるが、順次各面にわたっての私の経験によって得たる霊的事象を書いてみよう。

(昭和二十四年八月二十五日)

邪神の没落

キリストにサタン、釈迦に提婆は誰も知っている処であるが、われわれといえどもサタンや提婆が常に根気よく狙っている。面白い事には、時期の切迫につれ、彼等邪神はいよいよ躍起となって、昨今は獅子奮迅の勢いで活躍している事で、本紙にも近頃目立って掲載されているから知らるるであろう。これ等によってみても、邪神の運命の最早目睫に迫っている事が想察さるるのである。という事はキリストの言った最後の世の前夜というべき今である。一口に邪神というが、邪神にも大中小種々あって曇りの多い人間程邪気の霊線によって自由自在に操られ、神に対し不知不識妨害手段をとるのである。処が邪神は今日まで何千年間思うままに振舞って来たので、霊界の転換を知らず今まで通りと思って悪を続けているのである。然るにいよいよ霊界の転換が寸前に迫ったので、彼等は眼が醒めぬまま慌て出したのも無理はないのである。という事は、邪神の最も恐れるのは光であって、霊界が昼となるにしたがって光が強烈となるのである。すなわち邪神の恐怖時代が来つつあるのである。それは邪神は光に遭うや萎縮し活動する力が弱るのである。この例として心霊研究会等において、電気を消し真暗にしなければ霊の活動が出来ないという事はそれが為である。この場合よほど神格を得ている霊でないと、光の中では活動が出来ないからである。以上の理によって、本教に向って妨害するものは観音力から発する光を恐れるので、彼等邪神界は何とかしてこの光を防止しようとしてあらゆる妨害を行うのである。

(昭和24年11月20日)

邪神活躍

抑々、万有一切は霊主体従の法則によって動きつつある事は今さらいうまでもないが、あらゆる物象の動きは、霊界に先に起り、現界に移写されるとしたら、その場合時間の遅速があるのは勿論で、これはその事象の大小によるのである。すなわち速きは数日、遅きは数年経ってから移写される事もある。しかし、これが昼の世界になるに従って短縮されるので、最近に至って余程短縮されたようである。それ処か現在の霊界は、曾てない程の混乱状態を呈していると共に、変化の激しい事も、よく世の終末を物語っている。

邪神の一大活動

今、最も著しい事は、邪神の必死的活躍である。何しろ何千年という長い期間、大いに巾を利かして来た彼等は、没落の運命の迫るに従って、最後の足掻きという奴で、乗るか外るかの暴威を揮っている。そうして邪神にも頭目があり、今最も活躍しているのは、赤龍ならびに黒龍で、その眷族にいたっては無慮十億近くに上るのだから大変なものである。彼等にも上中下の階級があって、階級によりそれぞれの役目がある。彼等といえども命令された仕事は忠実に成し遂げようとして一生懸命である。というのはその功績次第で出世もし、論功行賞にも与る張合があるからである。勿論総本部の大頭目からは、一々指令が出て、霊線を通じて、人間に憑依せる副守護神に伝達されるのである。この場合人間界におけるその人の地位や階級に相応する眷族が働きかける訳で、彼等の任務としてはあらゆる手段を講じて、人間を悪に悪にと導こうとする。それが今日の世相に遺憾なく現われているから厄介だ。しかもその手段たるや実に巧妙残虐極まるもので、例えば下級の人間には殺人強盗とか、暴行とかいうような兇悪犯罪を行わせるが、少しマシなのになると詐欺や、貨幣、証券、書画等の偽造をさしたり、又婦女子などを言葉巧みに誘拐したり、姦通などを面白がったりする。その上になると余程高級で、善の仮面を被って智謀的犯罪を行わせる。人の財産を捲き上げたり、人を騙して金儲けをさしたり、贈収賄、涜職、脱税、隠匿物資、闇の売買等は勿論、酒を呑ませ、婦女子を弄ぶ等も彼等の常習である。

以上、何れもその行為が発覚すれば法にふれ犯罪者となるから、誰が目にも悪人に見られるが、それらと異なり善の仮面を被らせ、悪を行わせる場合もある。これ等は比較的中流以上に多く、特に智識階級に最も多いので、大いに注意を要するのである。例えば常に誰が目にも正しいと思うような説や、何々主義などを真理と思わせるよう口や文書に書いたりして、世人に信用をさせ、蔭ではそれと反対の行いをしている。この種の人間は智識人で、信用があり、すこぶる巧妙なので、その可否は一寸判り難い程である。これ等は政治家や、名士、論客にも多く、社会的相当の地位を占め、人から重んじられている人もあるから、なかなか油断は出来ないのである。

神見の善

又最も始末の悪いのは、善と信じて懸命に行う事が結果において悪の場合がある。彼の五・一五や二・二六事件の如きもそれである。はなはだしいのになると、善なり正なりと信じ命がけでやった事が、反対の結果になった偉い人達もある。先頃処刑された戦犯者なども無論そういう側の人達である。ここで全然人の気のつかない罪悪がある。それは立派な学説と思い、それに身を挺して実行しているが、実は人類に禍を与えているという気の毒な人達もある。以上説いた者は、何れも邪神が操っているのであるが、科学で固った頭脳では到底分りようがないのである。

処が、断然レベルを抜いた、高級な人々がある。この種の人は宗教の教祖、新学説や新発見をした大学者、有名な思想家等々、先ず超人型である。したがってこういう人々は歿後数世紀に亘って崇敬の的になり、偶像的に扱われる場合もよくある。この種の人は勿論邪念などはいささかもなく、私利私欲など微塵もなく、真に人類のためと信じて、一生をそれに傾けつくしたという立派な人もある。ところが私からみればそれら偉人の業蹟も、人類に対し福祉を与える点もあり、また禍を与える点もあって、功罪どちらにも決められない場合も尠くないのである。

言うまでもなく、右の偉人達は邪神とは関係はないが、その業蹟がある時期までは有用であったが、いつか有害無益になる例もある。学者にもそれがあり、宗教家にも同様の事がある。開教当時は立派なものであったのが、長年月を経て弛緩し、その宗団に争いがおこったり、堕落者等が出たりしてマイナス的存在になる事も、よく見聞するところである。また学問の場合も同様、発見当時一世を風靡した程のものでも、年の遷るにしたがい有害な存在となる事もよくあるのである。

要するに、一切は主神の経綸であって、文化発展上正邪相争い、明暗、美醜相混り、かくして一歩一歩理想に近づくので、これも深奥なる御神意であって、到底人智の窺い知るを得ざる事を知るべきである。

(昭和二十五年十二月二十五日)

神憑り

昔から神憑りなるものはすこぶる多く、その種類も千差万別である。そうして現代識者といわれる程の人等は全然迷信と片附け一顧だも与えないばかりか、神憑りなる言葉さえ嘲笑的意味にしか使用されないのである。しかしながら私の研究によれば、神憑りなるものは決して迷蒙的のものではなく、正邪の差別はあるが、それを正確に判別し得る眼さえあれば有用なる存在である。そうして神憑りは三種に区別する事が出来る。第一は真の意味における神(正神ではあるが上中下の階級がある)の場合と、第二は動物霊等が神を詐称する場合と、第三は人霊の場合とである。第一においては例えば何々宗の教祖、即ち天理教における中山みき刀自、大本教の出口直子刀自、その他妙霊教、金光教、黒住教、人の道等の教祖等、往昔の弘法、日蓮、法然、役の行者等のごときはそれであり、第二は世間数多くある如何わしい宗教、稲荷下しの行者、飯綱遣等の類であり、第三は人霊主に祖霊や近親者の霊等であるが、これは神憑りではなく霊憑りと称すべきが本当である。したがって神憑りに対し判別なし得る能力を養って、その取扱いと指導が宜しければ、人類社会に少なからず役立つのである。しかしながら神憑りに対する智識浅薄の場合、弊害発生の懼れもある事は自明の理である。欧米においては心霊科学の研究はすこぶる盛んで、英国をはじめ、神霊大学等も各地にあり、有力なるミージャム(霊媒)も数多く輩出しつつある。霊界よりの通信者として、彼の米大統領故ウィルソン氏や、ロンドン・タイムズ紙社長故ノースクリフ卿等の如き淙々たる霊の自働書記や、霊話通信の記録は注目に価するものがある。しかしながら何処も同じで欧米においても識者と称する頑迷なる人士や、唯物一点張りの科学者輩の否定と常に戦いつつ研究を進めている現状であるが、好い事には彼の地では今までの日本に見るような封建的取締りがないから研究は自由である事で、それに引替えこれまでの日本は、政府の弾圧と学者の反対の為何等見るべき研究が行われなかった事は遺憾の極みであった。

(昭和二十二年二月五日)

生霊

こういう事もあった。某大学生に霊の話をした処なかなか信じない。「それなら僕に何か憑依霊があるか調べてくれ」というので、早速霊査法に取掛った。間もなく彼は無我に陥り、若い女らしい態度で喋り出した。その憑依霊というのは、当時浅草公園の銘酒屋の女で時たま遊びに来るこの大学生に恋愛し、生霊となって憑依したものである。霊の要求は、「この人はチットモ来てくれないので、逢いたくて仕方がないから来るように言って欲しい」と言うのである。私も生霊とはいいながら、惚れた男の言伝を頼まれたという訳で、洵に御苦労千万な次第である。そうして覚醒するや彼は怪訝な顔をしている。私は『どうでしたか?』-と聞くと、彼「無我に陥ったのか全然判らなかった」と言うので、私はその女の話をした処、彼は吃驚して恥ずかしそうに頭掻きかき恐れいって霊の存在を確認したのである。

次に、ある所で若い芸者を霊査した事があった。すると旦那の霊が出て来たので、私は種々質問した処、左の如き事情が判った。その生霊は某砂糖問屋の主人で「今晩この芸者に会う約束がしてあった処、拠ろない用が出来、遇う事が出来ないから明晩遇うという事を伝えてくれ」というのである。その言葉も態度も、先ず四、五十歳位の男性の通りであったから疑う余地はない。その話をすると彼女は吃驚した。自分は無我に陥って何を喋ったか全然判らなかったので、私の話により、右の生霊の言う通りに約束がしてあったというのであった。

二十歳位某家の令嬢、私の所へ来て訴えるには「自分は近頃憂鬱症に罹ったようで世の中が味気なくて困る」というので、私は『貴方のような健康そうで、然も十人並以上の美人でありながら理窟に合わないではないか、何か余程の原因がなくてはならない』と種々尋ねた処やっとそれが判った。というのは,近所にいるある青年がその娘に恋慕し、「手紙や種々の手段で、自分を承知させようとするけれども、私はその青年が嫌いで何回も断わった処、その青年は始終私の家の附近に来るので、恐ろしくて滅多に外出も出来ない」という。私は『その男の生霊が貴女に憑くのだ』という事を聞かした為、彼女も成程と納得し、それから漸次快方に向い全快したのである。それは病気でないという事が分ったので安心したからである。

現代人に死霊の存在を認識させるのさえ余程困難であるが、生霊に至ってはなおさら困難である。しかし疑うことの出来ない事実である以上、そのつもりで読まれたいのである。生霊においてはまだ種々の例があるが、右の三例だけで充分と思うから後は略すが、生霊はすべて男女間の恋愛関係がほとんどである。そうして右の令嬢の憂鬱症は如何なる訳かというと、相手の男が失恋のための悲観的想念が霊線を通じてそのまま令嬢に反映するからである。右の如く生霊は相手の想念が反映する訳である故に、右と反対に両者相愛する場合は相互の霊線が交流し、非常な快感を催すもので、男女間の恋愛が離れがたい関係に陥るのはこの快感が大いに手伝うからである。また死霊が憑依する場合は悪寒を催し、生霊が憑依する場合は温熱を感ずるものである。

次に右のような他愛もない生霊なら大して問題ではないが、恐ろしい生霊もある。それは本妻と妾等の場合や三角関係等で一人の男を二人の女が相争う場合、その嫉妬心が生霊となり闘争するのであるが、大抵は妻君の方が勝つものである。その理由は正しい方が勝つのは当然であるからで、その場合妻君の執念によって妾の方は病気に罹るとか死亡するとか、または情夫を作って逃げるとか、結局旦那と離れるようになるものである。

人間の生霊はそれ程でもないが、ここに恐るべきは管狐の生霊である。これは昔から飯綱遣いといい、女行者が使うのであって、人に頼まれ、怨みを晴らす等の事を引受けるのであるが、管狐というのは大きさはメロンの少し小さい位の大きさで、白色の軟毛が密生したすこぶる軽くフワフワとしたもので、その霊は人間のいう事をよく聞き、命令すれば如何なる悪事でも敢行するのである。この飯綱遣いは昔から関西地方に多く、その地方では飯綱遣いと縁組するなと言うそうであるが、これは少し感情を害しでもすると返報返しをされるからである。

又、狐霊の生霊も多く、肉体だけが稲荷や野原に棲息し、生霊だけが活動するのである。

(昭和二十四年八月二十五日)