人生死の問題ほど切実なる問題はあるまい。故に死及び死後について幻想的でない実証的の解説を得たならば、これ程の喜びはないであろう。私はこの問題に対し霊的事象の研究から得た成果を発表し、遍く世人に知らせ、蒙を啓きたく思うのである。もっとも死後の問題に対しては欧米においても心霊研究家としてオリヴァー・ロッジ卿、メーテルリンク、ワード博士等の如きは、名著もあり、斯界の権威でもある。日本においても故浅野和三郎氏のごときは心霊研究家としてその造詣も深く、著書も多数あり、数年前物故したが、私もいささか関係があったので惜しまれるのである。
私が霊の問題を説くに当って断っておきたいことは、出来るだけ自分自身の経験を主として記述することにした。これは正確を期するためで、何分霊に関した問題は捕捉し難い不可視的である以上、ともすればドグマに陥り易いからである。
人間はさきに説いたごとく、使用不能になった肉体から離脱した霊は、霊界に復帰し霊界人となり、霊界生活が始まるのである。そうして先ず人間死の刹那は如何なる状態であるかを霊界から観察した時の模様を書いてみよう。
死即ち精霊が肉体から離脱の場合、概ね人体の三箇所から出る。すなわち前額部、臍部、足の爪先からである。この区別は如何なる理由によるかというに、霊の清浄なるものは前額部、中位のものは臍部、汚濁せるものは足部という訳である。その理由としては霊の清浄なるものは、生前善を行い徳を積み霊が浄化されたためで、汚濁は生前罪穢を重ねたるもの、中位はその中間であって、すべては相応の理によるのである。また左の例は死の刹那を霊視した或る看護婦の手記であるが、非常によく書いてあるから参考に供することにした。
これは西洋の例であるが、人によって霊の見える人が西洋にも日本にもたまたまあるのである。私は詳しいことは忘れたが、要点だけは覚えているから書いてみよう。『私は、あるとき今や死に垂んとする病人を凝視していると、額の辺から一条の白色の霧のようなものが立上り、空間に緩やかに拡がりゆくのである。そうする内に、雲煙のごとき一つの大きな不規則な塊のようなものになったかと思うと、間もなく然も徐々として人体の形状のごとくなり、数分後には全く生前そのままの姿となって、空間に立ち、ジット自己の死骸を見詰めており、死骸に取ついて近親者が悲歎に暮れているのに対し、自分の存在を知らしたいようなふうに見えたが、何しろ幽冥所を異にしているので諦めたか、しばらくして向直り窓の方に進んでゆき、すこぶる軽げに外へ出て行った』というのであるが、これは全く死の刹那をよく現わしている。
仏教においては人の死を往生という。これは現界から見れば往死であるが、霊界から見れば生まれてくる、すなわち往生である。また死ぬ前のことを生前というのも右の意味に外ならないのである。そうして人間は霊界における生活を、何年か何十年、何百年か続けて再び生まれるのである。かくのごとく生変り死変り何回でも生まれてくるので、仏語に輪廻転生とはこのことを言ったものであろう。
霊界なるものは人間に対し如何なる関係ありやというに、それは現界において、神よりの受命者として人各々の業務を遂行するにおいて、意識せると意識せざるとにかかわらず、霊体に汚穢が堆積する。それと共に肉体も、病気、老衰等によって受命を遂行し難くなるから、一旦体を捨てて霊界に復帰する。すなわち帰幽である。昔から霊の抜けた体を称してナキガラということや、肉体をカラダというのもそういう意味である。そうして霊魂が霊界に入るや、大多数は汚穢の浄化作用が始まる。汚穢の量によって霊界生活においての高下と浄化時限の長短があるのは勿論で、早きは数年、数十年、遅きは数百年、数千年に及ぶものさえある。そうしてある程度浄化されたものは、神の受命により再生するのである。右は普通の順序であるが、人により順序通りゆかぬ場合がある。それは生に対する執着であって、死に際会し生の執着が強いものは、霊界の浄化が不充分でありながら再生する場合もある。こういう人は不幸の運命を辿るのである。何となれば浄化不充分のため、前生における罪穢が相当残存しており、それの浄化が発生するからである。この理によって世間よく善人にして不幸な人があるが、かかる人は前生において罪を重ね、死に際会し飜然と悔悟し、人間は未来永劫悪は為すまじと固く決心し、その想念が霊魂に染みついており、浄化不充分のまま再生するを以て、悪を嫌い善を行うにかかわらず不幸の境遇を辿るのである。しかしながらこういう人もある期間不幸が続き、罪穢が払拭されるにおいて一躍幸福者となる例もまた尠くないのである。またこういう人がある。自分の妻以外の女は知らないという品行方正を誇りとするのや、妻帯を欲せず、独身同様に終るものもあるが、これ等の人は前世において婦人関係によって不幸の原因を作り、死に際会し女性に対する一種の恐怖心を抱き、その想念が霊魂に染みついているためである。その他鳥獣、虫類等のある種に対し、特に嫌悪または恐怖を抱くものがあるが、それらもその動物によって死の原因を作ったためである。また水を恐れたり、火を恐れたり、高所を恐れたりするのは、それらが原因となったためである。
人間恐怖症というのがある。例えば多人数集合の場所を恐れるが、これ等も人込で押しつぶされたりして死せるためであり、面白いのは独居を恐怖するものがある。私が扱った患者でこういう人があった。それは留守居が出来ない。すなわち己一人では淋しく恐ろしいので、独居の場合は必ず外へ出て誰か帰るまで待っているのである。これ等は前世において独居の際急病が起り人を呼んでも間に合わぬうち死せるものであろう。以上のごとき数種の例によってみても、人間は死に際し、執着や恐怖等なく、平安に大往生を遂ぐるよう、平常から心掛くべきである。
生まれながらにして畸形や不具者があるがこれは霊界において、完全に浄化が行われない内再生するからである。例えば高所から転落して手や足を折った場合、それが治り切らないうちに生まれてくるからである。
また早く再生する原因として、本人の執着のみでなく遺族の執着も影響する。世間よく愛児が死んでから間もなく妊娠し生まれるという例があるが、これ等は全く死んだ愛児が母親の執着によって早く再生するのであるが、こういう子供はあまり幸福ではないのである。
人は生まれながらにして賢愚の別がある。これはどういう訳かというと、古い霊魂と新しい霊魂との差異によるのである。古い霊魂とは、再生の度数が多く現世の経験を豊かに持っているからで、これに反し新しい霊魂とは霊界において新生して間もないものであるから、経験が浅くどうしても愚かな訳である。そうして新しい霊魂とは、霊界においても生殖作用が行われ生誕するのである。
また誰しも経験する処であるが、見ず知らずの他人であっても、一度接するや親子のごとく兄弟のごとく、否それ以上に親しみを感ずることがあるが、これは前生において、近親者または非常に親密な間柄であったためで、このことを称して因縁というのである。また旅行などした際、ある場所に非常に親しみを感ずることがあり、是非住みたいと思うことがある。それ等は前生においてその辺に住み、または長く滞在していたためである。また男女関係などの場合、熱烈な恋愛に陥り盲目的にまで進む場合があるが、これらも前生において心と心とで相愛しながら結合の機会を得なかった。処が今生においてその機会を得たので、爆発的恋愛関係となるのである。
また歴史を繙く時、ある時代の場面や人物などに好感や親しみを持ったり、反対に憎悪することがあるが、それ等も自分がその時代に生まれ合わせ、何かしら関係があったためである。
(昭和二十二年二月五日)
死にも種々あるが、脳溢血や卒中、心臓麻痺、変死等のため、突如として霊界人となる場合があるが、何も知らない世人は病気の苦痛を知らないからむしろ仕合せであるなどというが、これ等は非常な誤まりで実はこの上ない不幸である。それは死の覚悟がないため霊界に往っても自分は死んだとは思わず相変らず生きていると思っている。しかして霊線は死後といえども血族の繋がりがあるから、精霊はそれを伝わり人間に憑依しようとするが、憑依せんとする場合衰弱者、産後貧血せる婦人、特に小児には憑依しやすいので、多くは小児に憑依する。これが真症小児麻痺の原因であり、また癲癇の原因ともなるので、小児麻痺は脳溢血の如き症状が多いのはそのためであり、癲癇は死の刹那の症状が現われるのである。例えば泡を吹くのは水死の霊であり、火を見て発作する火癲癇は火傷死であり、その他変死の状態そのままを現わすもので、夢遊病者もそうであり、精神病の原因となる事もなる。
次に変死について知りおくべき事がある。それは他殺自殺等すべて変死者の霊は地縛の霊と称し、その死所からしばらくの間離脱する事が出来ないのである。普通数間又は数十間以内の圏内に居るが、淋しさの余り友を呼びたがる。世間よく鉄道線路等で轢死者が出来た場所、河川に投身者のあったその岸辺、縊死者のあった木の枝等よく後を引くが右の理によるのである。地縛の霊は普通三十年間その場所から離れられない事になっているが、遺族の供養次第によっては大いに短縮する事が出来得るから、変死者の霊には特に懇ろなる供養を施すべきである。そうしてすべての死者特に自殺者の如きは霊界に往っても死の刹那の苦悩が持続するため大いに後悔するのである。何となれば霊界は現界の延長であるからである。
この理によって死に際し、如何なる立派な善人であっても苦痛が伴なう場合中有界または地獄に往くのである。また生前孤独の人は霊界に往っても孤独であり、不遇の人はやはり不遇である。ただ特に反対の場合もある。それは如何なる事かというと、人を苦しめたり、吝嗇であったり、道に外れた事をして富豪となった人が霊界に往くや、その罪によって反対の結果になる。すなわち非常な貧困者となるので大いに後悔するのである。これに反し、現界にいる時社会のため人のために財を費し善徳を積んだ人は霊界に往くや分限者となり、幸福者となるのである。又こういう事もある。現界において表面は如何に立派な人でも、霊界に行って数カ月乃至一カ年位経るうちにその人の想念通りの面貌となるのである。何故なれば霊界は想念の世界で肉体という遮蔽物がないから、醜悪なる想念は醜悪なる面貌となり、善徳ある人はその通りの面貌となるので、これによってみても現界と異なっている事が知らるるのである。全く霊界は偏頗がなく公平であるかが知られるのである。
以前こういう例があった。その当時私の部下に山田某という青年があった。ある日彼は私に向って急に「大阪へ行かなければならない事が出来たから暇をくれ」というのである。見ると彼の顔色挙動等普通ではない。私はその理由を質ねたが、その言語は曖昧不透明である。私は霊的に調べてみようと思った。その当時私は霊の研究に興味をもちそれに没頭していたからである。先ず彼を端坐瞑目させて霊査法にかかるや、彼は非常に苦悶の形相を現わしノタ打つのである。私の訊問に応じて霊の答は次の如きものである。「自分は山田の友人の某という者で、大阪の某会社に勤務中、その社の専務がよからぬ者の甘言を信じ自分を馘にしたので、無念遣る方なく悲観の結果服毒自殺したのである。然るに自分は自殺すれば無に帰すると思っていた処、無になる処か死の刹那の苦悩が何時までも持続しているのであまりの予想外に後悔すると共に、これも専務の奴が因であるから、復讐すべく山田をして殺害させようと思い、自分が憑依して大阪へ連れて行こうとしたのである」。この言葉も苦悶の中から途切れ途切れに語った。なお彼は苦悩を除去して貰いたいと懇願するので、私はその不心得を悟し苦悩の払拭法を行うや、霊は非常に楽になったと喜び厚く謝し、兇行を思い止る事を誓い、去ったのである。
右憑霊中山田は無我であったから、自己の喋った事は全然知らなかった。覚醒後私が霊の語ったままを話すと、驚くと共に、危険の一歩手前で救われた事を喜んだのであった。
これによってみても人間は如何なる苦悩にあうも、自殺は決してなすべからざるものである事を知るべきである。
特に世人の意外とする処は情死である。死んで天国に往き、蓮の台に乗り、たのしく暮そうなどと思うが、これは大違いである。それを詳しく書いてみよう。
抱合心中などは霊界に往くや、霊と霊とが密着して離れないから不便この上なく、然も他の霊に対し醜態を晒すので後悔する事夥しいのである。また普通の情死者はその際の想念と行動によって背と背が密着したり、腹と背が密着したりしてすべての自由を欠き、不便極まりないのである。また生前最も醜悪なる男女関係、世に言う逆様事などした霊は逆さに密着し、一方が立てば一方は逆さとなるというように、不便と苦痛は想像も出来ない程である。その他、人の師表に立つべき僧侶、神官、教育者等の男女の不純関係の如きは、普通人より刑罰の重いことは勿論である。
(昭和二十四年八月二十五日)
病気とは浄化作用の発生とその過程である事は詳細解説した通りであるが、ここに霊に因る病気の相当多い事も知る必要がある。これ等も昔から相当唱えられてきた事で、特にある種の宗教の如きは病原のほとんどは霊作用としている位であるが、私の研究によれば霊作用と浄化作用と両方あるが、両者は実に密接不離の関係にある事を知るのである。何となれば病霊憑依は病者の霊体の曇りの部分に限られるものであるからである。故にその曇りの解消によりある程度浄化されたる霊体においては肉体の病患もなくなるのみか、病霊の憑依も不可能となり、心身共に健康者たり得るのである。
(昭和二十二年二月五日)
今の世の中で、人々は口を開けば思想の悪化、犯罪の増加、政治の貧困等々を言うが、これについて私は、その原因が精神病と密接な関連のある事で、今それを書いてみよう。
先ず精神病なるものの真因は何であるかというと、これがまた破天荒ともいうべき何人も夢想だもしないことである。勿論真理そのものであるから真の精神病者でない限り、何人も納得のゆくはずである。そうして精神病の真因は肉体的と憑霊現象とである。というと唯物主義教育を受けて来た現代人には一寸分り難いかも知れない。何しろ眼に見えざるものは信ずべからずという教育をサンザ叩き込まれて来た以上、そう簡単には分りようはずのない事は吾等も充分承知の上である。といっても真実はいくら否定しても真実である。眼に見えないから無というなら、空気も無であり、人間の心も無という事になろう。
霊が在るからある。憑霊現象も在るからある--という真実を前提としなければこの論は書けない。
故に霊の実在を飽まで否定する人は、この文を読まない方がいい。そういう人はわれわれを目して迷信者と見ると同様、われわれからみればそういう人こそ気の毒な迷信者というのである。さていよいよ本文にとりかかるが、先ず精神病者は憑霊現象であるとすれば、何故であるかというと、世間よく首が凝る、肩が凝るという人は余りに多い事実である。恐らく日本人全部といってもいい程であろう。私は長い間の経験によって、如何なる人でも必ず頚、肩に凝りがある。稀には無いという人もあるが、それ等は凝りはありながらあまり凝り過ぎていて、その苦痛に鈍感になっている為である。右の如き凝りが精神病の真原因といったら、その意外に吃驚するであろうが、順次説明するにしたがって成程と肯くであろう。
頚、肩の凝りは頭脳に送血する血管を圧迫するので、それが為前頭部内に貧血を起す。処がこれが問題である。というのは頭脳内の貧血は貧血だけではない。実は血液なる物は霊の物質化したものであるから、貧血は頭脳を充実している霊細胞の貧血ではない、貧霊となる事である。この貧霊こそ精神病の原因であって、憑霊は霊の稀薄を狙って憑依する。その霊とは何であるかというと大部分は狐霊で、次は狸霊、稀には犬猫の如き霊もある。勿論何れも死霊で、又人霊と動物霊との共同憑依もある。
ここで人間の想念を解剖してみると、先ず理性と感情とそれを行為化する意欲である。その理由としては、前脳内の機能は理性を掌り、後脳内のそれは感情原となる。この証左として白色人種は前頭部が広く発達しているのは理性の豊富を示し、反対に黄色人種は前頭部が狭く、後頭部が発達しているのは、感情の豊富を示しているにみて明らかである。白人が智的であり、黄人が情的であるのは誰も知る処である。故に人間は常に理性と感情とが相克しており、理性が勝てば失敗はないが、そのかわり冷酷となり、感情が勝てば本能のままとなるから危険を生ずる。要は両様相調和し、偏らない事が肝腎であるに拘わらず、人間はどうも片寄りたがる。そうして理性にしろ感情にしろ、それを行為に現わす場合、大小に関わらず意欲が要る。その意欲の根原こそ、腹部中央臍部内にある機能である。所謂行いの発生原であって、右の三者の合作が想念の三位一体である。
処が前頭内の貧霊は、不眠症を起す。不眠の原因のほとんどは、後頭部右側延髄附近の固結であり、それが血管を圧迫するからである。不眠は貧霊に拍車をかけるから、得たりかしこしと狐霊は憑依する。前頭内は人体の中枢である為、その部を占有する事によって人間を自由自在に操り得るのである。狐霊はこの人間を自由にする事に興味を持ち、然もそれによって狐霊仲間で巾が利く事になるので、到底人間の想像もつかない訳である。この狐霊については私の実験を基とし近く詳細書くつもりだから読者は期待されたいのである。
以上の如く、人間の本能である感情を常に制約し、過ちなからしめんとする活力こそ理性の本能で、人間が兎も角普通生活を営みつつあるのは、理性という法律によって本能を抑え生活秩序が保たれているからである。従ってこの法律の力を失うとすれば感情は自由奔放脱線状態となる。それが精神病である。
右の如く法律が前頭内に光っているのを知っている憑霊は、そこを目がけて憑依しある部分を占有する。勿論霊が充実しておれば憑依する可能性はないが、稀薄といっても厚薄の差別があり、その差別に憑霊の活動力が相応する。例えば、前頭部の霊の充実が十とすれば憑霊する事は全然出来ない。九となれば一だけ憑依出来る。二となり三となり四となり五となり六となった場合憑霊は六の力を発揮し得る。すなわち、四の理性の力では六の感情の力は抑圧不可能となるから、憑霊は自由に人間を支配し得るのである。
最初に述べた如く、凝りの為血管が圧迫され貧霊する。その割合だけ憑霊が活動し得る事は前述の通りである。処が現代人に凝りのないものはないから、霊の充実が十ある人等一人もないといっていい。社会で尊敬されるような人でも、二乃至三位の欠陥はある。あんな偉い人がアンナ間違いをするとか、アノ位の事が分らないかとか、どうして失敗したのか等といわれるのは右の二、三の欠陥ある為である。しかしながらこの欠陥は一定不変ではない。常に動揺している。非常に立派な行為をする時は二位の欠陥の時であるが、何等かの動機にふれて邪念が起り罪を犯す場合は四位かそれ以上の状態になった時である。これは世間によくある事だが、大抵は罪を犯してから後悔するが、その時は二位に返った時である。よく魔がさすというのはこの事をいうのである。
処が一般人は先ず平常三乃至四位であって動機次第ではいつ何時五の線を突破するか判らない。この場合思いもよらぬ罪悪を犯すのである。この例としてヒステリーであるが、この原因はほとんど狐霊で、この狐霊が前頭内に蟠居し五の線を突破するか、あるいは嫉妬、怒りの為五の線が先へ破れる場合である。そうなると心にもない滅茶苦茶な事をいい、狂態を演ずるが長くは続かない。というのは五の線が再びそれ以下に保たれるからである。従って人間は三の線を確保すべきで、四位の線では危いのである。今日犯罪者が多いというのは右の理を知ればよく分るであろう。憑霊とは勿論獣霊である以上、五の線を突破すれば形は人間でも心は獣類と何等異ならない事になる。この点人間と獣類の差別の著しい事は、人間には反省心があるが、獣類には反省心はほとんどない。獣類の欲は口腹のみであるが、人間の欲には限りがないから一旦人間が獣性を発揮するや、到底考えられない程の残虐性を現わすのである。
以上述べた如く、十の霊保持者がないとすれば、それ以外は憑霊に多少なりとも左右される訳で、それだけ精神病者といえるわけである。忌憚なくいえば日本人全部が多少の精神病者であるといっても過言ではない。
これについて私の経験を書いてみるが、私は毎日数人乃至数十人の人に遇い種々の談話を交換するが、いささかも破綻のない人は一人もないといっていい。如何なる人といえどもいくらかは必ず変な処がある。世間から重くみられている人でも、普通では気のつかない位の欠陥はあるにみて、軽度の精神病者はまず全般的といってもよかろう。
今一つは言語ばかりではない。行為の点も同様である。勿論行往坐臥誰でも出鱈目ならぬはほとんどない。道法礼節など全然関心をもたない。大抵の人は部屋へ入りお辞儀をする場合でもほとんど的外れである。壁へ向ってするもの、障子へ向うもの、庭へ向うもの等、実に千差万別である。また馬鹿丁寧な人があるかと思えば簡単すぎる人もあり、これ等ことごとくは軽度な精神病者であろう。
(昭和二十四年九月二十五日)
昔から言われている風水火の大三災、飢病戦の小三災とは如何なるものであるか、これについてその根本義を書いてみよう。
風水の原因は天地間の浄化作用であって、何故浄化作用が発生するかというと、霊界における曇りすなわち眼に見えざる汚濁が堆積するのである。それを風力によって吹き払い、雨水によって洗滌される。それが為の暴風雨である。然らば右の如き曇りとは如何なるもので如何にして堆積するかを解説してみるが、それは人間の想念と言霊によるのである。即ち想念の悪に属するものとして、不平、憎み、呪い、嫉み、個人的怒り、偽り、復讐心、執着等が霊界を曇らせるのである。
次に言葉であるが、気候が悪いとか悪天候とか米の不作とかいうような自然に対する不平や、人に対する非難攻撃、怒号、罵声、秘密、欺瞞、咎め、愚痴等、すべて悪から発するものは想念界の次位である言霊界を曇らすのである。それ等種々の曇りの堆積の量がある程度を越ゆる時一種の毒素が発生し、人間生活に支障を来す事になるので、その自然浄化が発生する。それが天地の法則である。前述の如く霊界の曇りは人間の健康にも影響すると共に、草木特に農作物にも悪影響を与える結果、凶作の原因ともなり、害虫の発生も旺盛になるのである。故に今日日本各地における松や杉を枯死させる害虫の発生もこの理によるのであるから、人間が大いに向上しない限り、これを防ぐ事は難かしいのである。言変えれば日本人自身の過ちが、自分の国の松や杉を枯死さしているという訳であるから、人間の想念と言霊は大いに慎まなければならないのである。
右の天災に引替え人災もまた怖るべきものがある事は何人も知る通りである。特に最も人間に被害を与えるものとしては彼の戦争であろう。私はこの戦争の原因について、破天荒ともいうべき新説を書いてみるが、あまりに意外であるから、読者は心を潜めて読まれたいのである。
戦争とはもちろん集団的闘争であって、今日までの人類は平和を好むよりも争いを好むかに見える傾向が多かった。それがひとり国際間のみではなく、国内各方面を見渡す時、争いのない所はほとんどあるまい。一役所、一会社、一組合等、如何なる集団の内部にも必ず絶間ない暗闘があり、互いに相手を非難し排斥し合う。又同業者間の争い、家庭内の争い即ち夫婦、兄弟、親子等の争い、友人間の争い等々、実によく争いを好む。電車汽車内、道路上においてすら通行人同士の争いは屡々見受ける処である。全く人間生活の中で争いの面の如何に多いかはいまさら言う要はない。とすれば一体人間のこのような争いを好む性格は何に原因するかを説いてみるのである。
如何なる人間といえども、先天性及び後天性に種々の毒素を保有している。それ等の毒素は人間が神経を使う個所へ集中するという、私の唱うる説に従えば、神経を最も使う局所としては頚から上である。頭脳を始め眼、鼻、口、耳等で、手足は休むことがあっても、右の機能は覚醒時中は一刻の暇さえなく活動している。従って毒素はこれ等の附近に集溜するのは当然で、大多数者が何時も訴える頚の廻り肩の凝り等もそのためである。この集溜毒素は時日を経るに従い一旦固結するが、固結がある程度に達すると、反対作用すなわち溶解排除作用が発生する。これを吾等は浄化作用というのである。その際必ず発熱を伴なうが、それは毒素排除を容易ならしむるための固結の溶解作用で、それによって固結は液体化するのである。この自然浄化が感冒であって、喀痰、鼻汁、汗等の排泄物はその現われであるが、感冒の極く軽微な浄化作用は、大抵の人は平常といえども持続しているのである。これはほとんど気のつかない程度であるから、本人は健康と思っているがこの程度の人といえども決して真の健康的感覚はない。何となれば精密に診査すると頭脳全体から肩部にかけて必ず微熱があり、軽度の頭重、頭痛、眼脂、鼻汁、耳鳴、歯槽膿漏、頚、肩の凝り等の自覚症状は必ずあるものであるから、これがために絶えず一種の不快感がある。この不快感こそ、曲者である。即ちこの原因によって怒りとなり、怒りの具体化が争いとなり、争いの発展が戦いとなるのであるから、人類から闘争心を除去する手段としては、この不快感を除去する以外他に方法は絶対にないのである。この理によって誰しも感ずる事は、同一の事柄であっても爽快感の時は何とも思わないが、不快感の時は憤怒を禁じ得ないので、この経験のないものはほとんどあるまい。この例として次のような事がある。
よく泣癖の赤児がある。それは虫気の為とか虫が強いとか言うが、こういう赤児を診査すると必ず頭脳及び肩部に微熱がある。赤児で肩の凝っているものも沢山ある。これ等を本教浄霊によれば、毒素は軽減し無熱となって泣癖は全く治癒するのである。又児童で怒り易く、親に反抗する性質のものも必ず右の赤児と同様の症状で、これ又浄霊によって治癒し従順となり、争いを嫌うようになり、学校の成績も可良となるのである。夫婦仲の悪い原因も同様で、浄霊によって親和するようになるのである。
以上の如く、争いの根原は頭脳と頚肩附近の毒結の浄化熱とすれば、それを全治させる事こそ唯一の解決の手段である。とすれば、本教浄霊こそ世界広しといえども唯一無二の根本的争闘除去の絶対法といっても過言ではあるまい。また今日戦争以外の苦悩に属するあらゆる問題といえども同様であって、彼の破壊的思想や階級的闘争等の思想は、不快感による不平不満が原因である。その他不快感から免れんがため、不知不識強烈な刺戟を求めようとする。それが飲酒、淫蕩、怠惰、争闘等の犯罪発生の結果となるのは勿論である。
以上の理を悪用し、その時代の唯物的野心家が不平不満を助長させ、戦争を起し、悪質の社会革命を起すのである。したがってこの地球上に永遠の平和を樹立するとすれば、先ず人間一人々々の不快感を祓除し、爽快感を充実させる事である。その結果として闘争を嫌忌し、平和愛好者となる事は一点の疑いない事実である。
(昭和二十四年八月十三日)
昔から颱風や暴雨、洪水等はすべて天災とし不可避の現象として諦めている事は誰も知る処であるが、吾等から言えば実は天災ではなく人災である。それをこれから解説してみよう。今日これ等の災害を少しでも軽減しようとして科学は気象学の研究進歩によって目的を達せしめようとしている。勿論日本においても年々多額の費用を投じ、出来るだけの施設をなし常に努力しつつあるので幾分の成果は挙げているが、なかなか所期の目的は達し得られそうもない。見よ日本においてさえ、年々そのために蒙る災害は実に巨額に上るのである。近い話が今回のキテー颱風にしろ、数字に現われただけでも米の減収二百十四万石、家屋の倒壊流失四千二百二十九戸、死者行方不明を合わせて百四十四名に及び、負傷者の数は数万に達している。その他野菜の損害や道路護岸の荒廃、家屋や諸施設等の被害を総計すれば当局の発表によれば八百七十億に上るのであるから、如何に被害の甚大であるかを知るであろう。然も年に数回に亘る大小暴風雨の被害をも加える時、有形無形の損失は蓋し計上しがたい程の巨額なものがあろう。
とすれば、これ等の災害を絶無にされないまでも、出来得る限り被害を最小限に食止むべく努力しなければなるまい。勿論官民共に能う限りの方法は講じているが、予算の不足等もあり、予定の何分の一にも足りない程の施設であるから、このままでは年々蒙る被害の絶えない事は当然である。とすれば、僅かに気象の研究だけを頼りにする現状としては、急の間に合う訳にはゆかない。先ず百年河清を待つに等しいといってよかろう。という事は科学的研究は形而下的で、ちょうど物の表皮だけを研究する事によってその内面を発見しようと努めるようなものである。どうしてもその内面の奥にある根本をつかんで災害防止を講ずるより外に、絶対的手段はないのである。
然らば、そのような根本原因を知り得る可能性がありやというに、大いにある事を告げたいのである。
抑々、低気圧とは何かというと、それは地上の空間即ち吾等が言う処の霊界の清掃作用である。何となれば、霊界といえども常に汚濁が堆積する。ちょうど物質的にいえば町や個人の家屋に塵埃が溜るようなものである。ただ霊界は眼に見えないため、汚濁もその堆積も人間には分らないだけで、今日まで気がつき得なかったのである。勿論、現在までの学問が唯物のみに偏し、唯心的研究を等閑視していた罪でもある。これが人類の最大欠陥である事は、吾等が常に唱える処で、どうしても霊界の存在を認識し研究しなければ、暴風雨の原理は容易に知り得る筈がない。
以上の如き、否認の霊界の実在を認識せしむる事こそ、宗教本来の使命であるのにかかわらず、今日まで既成宗教においてはその点洵に微温的というよりも無関心とさえ思われる程であって不思議とさえ思えるのである。
余談はさておき、前述の如く、霊界に汚濁が堆積する以上、その清掃作用が自然に発生するのは当然である。すなわち風で吹き払い水で洗うのでそれが暴風雨である。全く現実界の清掃作用と何等異なる処はない。故にこの汚濁の根原を突止める事こそ絶対解決の鍵である。
然らば一体汚濁とは何であるかというと、それは人間の想念と言葉と行為によって作られる曇りである。即ち人間の悪の心、言、行が、眼に見えない霊界に影響する。その結果霊界に曇りが発生するのである。この理によって今日大暴風雨が頻繁に襲来するという事は如何に人心が悪化し悪言悪行為が多いかが分るのである。しかしながら右の曇りを消滅させる方法があるかというに、それは至極容易である。即ち右と反対の方法をとればいいのである。言うまでもなく人心が善化し善の言行である。即ち悪によって曇らされたる霊界を善によって晴らすのである。この場合善は光となって曇りを解消する。例えばキリスト教においての讃美歌の合唱も、仏教における読経も、神道の祝詞も、何れも善言讃詞であるから霊界清掃に幾分かは役立つのである。故にもし右の如き善言讃詞がないとしたら、今よりも一層大きな暴風雨が襲来する訳である。
以上の如くであるから、暴風雨は人間が作って人間が苦しむというのが真理で、自然は実によく出来ている。ちょうど人体に汚穢が溜れば病気という浄化作用が発生するのと同様である。
以上によってみても、暴風雨の防止手段としては右の原理を自覚し、悪を改め善を行えばいいので、それ以外根本的解決は絶対ない事を知るべきである。
(昭和二十四年九月二十四日)
火事はどうして起るかということは、あまりに分り切った話である。新聞などにも出ている通り、原因はマッチ一本とか煙草、炬燵、電気、アンカ等々の原因で、そのほとんどは人間の不注意からとされている。これは勿論間違いない話であるが、われわれ宗教人としての立場として見えざる霊を通して、その原因を衝くのも強ち無駄ではあるまい。
われわが常に言う病気とは人体の浄化作用であり、人体に毒素がある程度溜るや、これが健康に支障を及ぼすため毒素排泄作用が発生する。つまり清浄作用である。これなくしては人間の健康は保ち得ないからで、それが一切の原則で、全く神の大なる恩恵である。その原理を科学は発見し得ないため全然間違った解釈をしている以上、何程進歩したとしても、事実は相変らず病者の氾濫をどうすることも出来ないで悩んでいるのが現在である。
火災の原因を説明するのに、病気を持出すのは可笑しく思うだろうが、実は病気の原因も火災の原因も同一であるからである。何となれば火災も浄化作用の現われであるのである。
又われわれが常に言うところの暴風雨の原因であるが、これも霊界に汚穢が溜る。すなわち曇りである。この曇りの原因とは人間の悪の想念と、悪の言葉と行為によるので、その浄化清掃作用が暴風雨である。すなわち風によって吹き払い水で洗い流し、天日で乾燥させる。それで浄まるのである。
右の如く病気は人体の清浄化であり、暴風は地上空間の清浄作用であるとすれば、右の外の物質は勿論地上建造物である。建造物といえどもその汚れがある程度堆積するや、それの浄化作用が発生する。それが火災である。勿論家屋の汚れとは、その建築に要した金銭に不純のあるためと、その家屋使用に当って不純行為の堆積である。
これについて以前こういうことをある人から聞いたことがある。その人は霊視能力があって、関東大震災の数年前東京市中を歩きながら霊眼で見ると、どの家屋もどの街も、大厦高楼もバラック建のお粗末な家屋が立並んでいるので不思議に思ったところ、果たせるかなアノ大震災が起ったので、成程と思ったとの話である。吾等がいつも言う、一切は霊界で先に起るというのは真実である。つまり霊主体従の法則によって、霊界の方が一足先に浄められ、それが現界へ移写されるのである。
今回の熱海火災の際、本教仮本部の建物は火に包まれながら助かったということは、右の如く汚れがなかったからで、むしろ当然というべきである。この事実によってみても、人的には不燃焼建造物を造り、霊的には出来るだけ汚さないようにすれば、初めて永久不変の安全都市となるのである。
このことについて、こういう疑問も起るであろう。それは西洋の如き不燃焼都市は、穢れがあっても燃える筈がないというであろうが、決してそんなことはない。第二次大戦の際、爆弾で破壊されたに見ても右の原理に因るのである。実に宇宙の原則は厳として犯す能わざるものたることを知ればいいのである。
(昭和二十五年五月二十日)
よく隣りまで焼けて来た火事が、御浄霊をするやたちまち風向が変り助かった、というお蔭話はよくあるが、これはどういう訳かというと、こうである。すなわち火事というものは火の浄化作用であって物質に穢れが溜っているとその霊も曇っているから、これに火が移り易くなる。そこで浄霊をするとその曇りが消えるから、焼くべき材料が無くなり、火は方向転換するので全く自然である。従って火災を無くすには、何よりも物質の霊を曇らせないようにする事で、これより外に根本的火事を無くす法はないのである。としたら先ず大神様を奉斎し、一家の霊界を浄めればいいのである。
処が近来の如く各地に火災が多く、いくら建てても焼失が多いので、住宅難の今日いつになっても解決出来ないのは勿論、火災は物質の損害のみではなく、精神的損害も多大であり、回復するまでの労力や休業等の被害も尠くないのであるから、当局も躍起となってベストを尽くしてはいるが、なかなか思うようにゆかないのは、右の如き霊的根本が分っていないからである。従って本当に火災無き日本とするには、大部分の人が本教信者になればいいんだが、そうもゆくまいから、今の処只物質的防火法を行うより手段はないので、時を待つより致し方ないであろうが、何れは神様が何とかして下さると思うのである。
(昭和二十七年二月二十日)