宗教の見方

世人が宗教を見る場合、はなはだ正鵠を得ていないことに気がつく。それは宗教なるものの地位である。というのは宗教は他の何ものよりも最高に位するものであるからである。故に哲学も、道徳も、科学も、宗教からみれば以下の存在であるのは勿論である。処が、それを知らないため、宗教哲学等という言葉があるが、これは宗教を哲学的に解釈しようとするもので、まったく逆である。形而上のものを形而下の理論で解こうとするのである。何となれば宗教は神が造ったものであり、哲学は人が造ったものであるからである。又、宗教と道徳とも違う。勿論道徳も人が造ったもので、ただ哲学と違う処は、哲学は科学的西洋的であるに反し、道徳は心理的東洋的のものである。又科学は哲学や道徳に比べて一層形而下的で、宗教と隔る点の最も著しいことはいうまでもない。

以上によってみても、現代有識者の宗教観が如何に当を得ていないかが分るであろう。併し右を今一層徹底してみるとこういうことになる。元来哲学とは、人間の創造的理論の組立によって今日に到ったものであるから、宗教と比べる時その価値は自ら明らかである。究極する処壁にブツかってどうにもならなくなる。その証拠には哲学は研究すればする程迷路に落ち込み、懐疑は懐疑を生み、到底結論は得られない結果、厭世的になり易く、極端なのは自殺によって解決しようとするものさえある位で、これは誰も知る処であろう。

次に、道徳であるが、これは今日まで相当人類社会に貢献したのは勿論であるが、これとても有能者の頭脳から生まれた一種の戒律的人心を改善するものであるから、人間の魂を根本的に揺り動かすことは出来ないのみならず、昔の日本なればイザ知らず、今日の如く一切が西洋文化に支配されている以上、道徳という東洋的なものでは、最早今日の人間を納得さすことは出来得ない。何よりも道徳の影は漸次薄れつつあるにみて明らかである。

次は、唯物科学であるが、これは我等が常に批判しつつある処で、今更言う必要はないが、とにかく、現在文化といえば科学そのものとしている位で、文化の進歩とは科学の進歩と見ている現状である。処が、科学の進歩によって人類の幸福は如何に増大されたかは疑問である。寧ろ正比例的に不幸の増大をさえ思わしむる事実である。今日恐るべき原爆戦争の脅威に晒されている世界人類を見れば多言を要しないであろう。

ここに於て、一体、全人類は一部の例外を除き、何を望んでいるであろうかを検討してみる時、言うまでもなく幸福そのものである。科学の進歩発達も人類の幸福を目的としたものに外ならないが、悲しい哉、事実はその逆でさえある。とすればその根本を探究することこそ今日の急務であらねばならないのである。

曩に述べた如く、哲学でも道徳でも科学でも解決の力がないとすれば、宗教以外に何があるであろうか。この点、識者に於ても気のつかないことはなかろうが、事実宗教といえば現在までの既成宗教を標準としている以上、既成宗教によって右の条件を解決出来ようとは思えないのである。従って、人類の幸福などは何時の日に達成さるべきか見当さえつかないであろう。何となれば実に暗澹たる世相である。

然るに、以上の如く諦め切ってしまった世界へ出現したのが我等の超宗教的一大救済力である。恐らく何人も夢想だもしなかったもので、容易に受入れ難いではあろうが、併し事実を否定することは出来ない。何よりも一度本教の真相を知るに於ては、盲目者が開眼の喜びにあった如く豁然として覚醒するので、そのよろこびの報告は本教刊行物に満載されているのが何よりの証拠である。故に真の幸福を得んとする人達よ、先ず試みに本教に触れてみることである。如何に美味なる食物でも、説明を聞き、眼でみるだけでは分かる筈がない。先ず口へ入れて味わうべきで、味わってみて初めて分るのである。恐らく今まで味わったことのない醍醐味に何人といえども満足せずにはおかないであろう。

(昭和二十五年四月二十九日)

宗教と信仰

単に宗教といい信仰というと、世間は同一のように思い勝ちだが、実は別々の場合も多くあるのである。世間よくいう“鰯の頭も信心から”などの言葉は、これは信仰ではあるが宗教ではない。これと同様、野蛮人が木や石で作った怪異な偶像を拝むのも、信仰ではあるが、宗教ではないのである。

以上の意味に於て、今日の文化人が偶像信仰等は低級として顧みないのは無理もないのである。といって、宗教でさえあればいいという訳にもゆかない。それは単に宗教といっても上中下の段階があるからである。人間が本当に救われるのは上級宗教でなくてはならないが、一寸聞くと宗教に上中下のあるなど変に思われ易いが、万物一切は上中下の差別があり、宗教と雖もそれに漏るる筈はないのである。即ち上の宗教とは最高神が主宰され給うもので、その威徳は高く大にして強力である以上、救いの力もそれに伴なうのは当然で、何よりも奇蹟の顕著であることである。

本教が、医学で治らない病気が治り、危機一髪の間に災害を免れたり、当然焼けるべき火難を免るる等の奇蹟はそれが為である。従って現当利益が顕著であればあるほど、その宗教の中心には最高神が御在しますことを知るべきである。

(昭和二十五年四月二十日)

宗教不感症

普通常識からいえば、世の為に尽くすとか、人を幸福にするという事は善い事に違いないから、賛意を表し援助をしたくなるのが真の人間性である。処が不可解にも甚だ冷淡に振舞う人をよく見受けるが、そういう人は案外多いようである。彼等の偽らざる心情は、世の為とか人の事などはどうでもよい、そんな事は骨折損の草臥儲けにすぎない、すべては自分だ、自分に利益がある事だけすればいい、それが一番利巧だ、そうしなければ金を儲けたり出世したりする事は不可能だ、と思っているらしい。実はこういう人の方が反って利巧に見えるものであるから、世の中は可笑しなものである。

したがって、この種の人は自分がどんな苦しみに遭っても唯物的打算的に考える。即ち病気は医者にかかればいい、面倒臭い事は法律の力を借りればいい、言う事を聞かない奴は叱言を言うか痛い目に遭わせてやればそれでいい、と甚だ簡単に片づけてしまう。又我さえよければ人はどうでもいいとする主義だから、自分だけが贅沢に耽り、他を顧みようとしない為全然徳望などはない。集る輩は利益本位のみであるから、一朝落目になるとみんな離れてしまう。勿論こういう人に限って年中問題や苦情の絶えた事がない。終いには何事も巧くゆかなくなり失敗すると、それを我で挽回しようとして焦り、無理に無理を重ねるのでいよいよ苦境に陥り、再び起つ能わざるに到るもので、こういう例は世間あまりに多く見受けるのである。勿論信仰の話などには決して耳を傾けない。眼に見えない神や仏などあって堪るものか、それ等はみんな迷信である。神仏は人間の腹の中にあるんだ、俺だって神様なんだよと誇らしげに言うのみか、そんな事に金や時間を使うのは馬鹿の骨頂である。信仰などは弱虫の気休めか閑人の時間ふさぎに過ぎないとして、テンデ相手にならないのである。

こういう人を称して、我等は信仰不感症と言うのである。

(昭和二十五年四月八日)

信仰と戒律

政治にも封建的と自由主義的とあるが、宗教も同様である。今日までの既成宗教は封建的が大部分を占めていた。その現われとして、何をすべからずとか、何をすべしとかいう戒律が多かった。これらは何れも封建的であって、小乗的である。それに引替え本教には殆んど戒律がない。実に自由主義的である。

宗教における戒律は社会における法規と同様であって、人間は法規の力で不正を支えているということは本当ではない。本当に立派な人間になれば、どんな所に放り出しておいても取締法規がなくとも、悪は行えないというのが真の人間である。

この理によって、戒律とは所謂宗教の法規である。したがって戒律によらなければ正しい信仰的行いが出来ないということは、本当の信仰ではないということになる。とはいうものの人類が野蛮未開の時代は人間の智能が低いので、宗教を真に理解し得ないので、どうしても戒律によって悪を制御しなければならないからである。

以上によってみても明らかなるが如く、高度の文化時代の宗教は、真に神意を理解し得らるる人間にまで進歩したとしたら、戒律という刑罰は必要がないので、そういう宗教こそ恒久平和の地上天国を造り得る資格ありというべきである。

(昭和二十四年十二月十七日)

難行苦行

信仰と難行苦行とは密接な関係があるように、昔から一般人に思われているが、元来難行苦行は古代印度のバラモン教が起源で、釈尊出現以前の印度は、殆んどバラモン信仰が印度人の大半を占めていたという事である。彼の達磨の面壁九年の苦行もそれであるし、又羅漢とは苦行の修行をした時の行者の姿であって、その苦行たるや、羅漢の絵や彫刻にある如く、片手に物を捧げたり、木の股に坐したり、甚だしきは板の裏から何本もの釘を打込み裏返してその上に坐禅を組むので、臀部はその何本もの釘に刺され、非常な苦痛の下に一年二年又は数年に及ぶ者さえあるそうで、それ等の痛苦を我慢する事によって悟りを得る。即ち覚者たり得るというのである。彼の達磨が苦行の或る夜満月を仰ぎみている際、月光が胸中を明々白々照らすと思う瞬間、豁然として真理を悟り得たという事は有名な話である。何しろ九年も坐禅をしていたので、足は萎え起つ能わざるに至ったのが達磨に足がないという伝説となったものであろう。今日も印度に於てはバラモン行者が相当いるそうで、なかなかの奇蹟を現わすとの話である。故タゴール翁が常に行ったという森林の冥想や、ガンジー翁が再々行った断食等もバラモン行の一種であろう。

彼の釈尊出現の当時盛んに行われていたバラモン式苦行の、余りに悲惨なるに憐愍の情禁じ兼ねた釈尊は、苦行をせずとも、経文を読む事によって覚者たり得るという事を教えたので、当時の印度民衆はその功徳に感激し、釈尊を讃仰の的とするようになったという事である。この意味に於て仏者が難行苦行をするという事、それは釈尊の恩恵に叛くという訳になろう。日本に於ても未だ相当バラモン式苦行を行う行者や宗教家もあるようであるが、私はあまり賛成出来ないのである。というのは、我が救世教の信徒が別段難行をせずとも、覚者となり、正しき道を履み、天職使命を実践するようになり得るからである。

(昭和二十三年九月五日)

小乗信仰

今日宗教を批判する場合、こういうことをよく聞くのである。それは宗教の本来は教主初め幹部その他も、粗衣粗食、茅屋に住み、出づるに電車バス又はテクで、出来るだけ質素にすべきであるというのである。成程、往昔の開祖教祖が信仰弘通に当って、草鞋脚絆で単身巷に出て街頭宣伝をやったり、時には野に伏し山に入り、断食をし、滝にかかる等凡ゆる辛酸を嘗めたり、又は牢獄へ投ぜられ、遠島の刑罰まで受けたのであるから、今日からみればその苦難の実蹟は、涙なしでは見られないのである。そうして漸く得た処は一区域一地方がようやくであって、大抵は死後数代又は数十代を経てから全国的に広がるという訳で、今日に比しその不遇に終始した事実は想像以上である。

右のような実情が一般人の頭にコビリついている為、新宗教を見る場合もそういう眼鏡を通すので誤まられ易いのは当然である。勿論このような宗教こそ小乗信仰というのである。この小乗信仰の発祥は最も古く釈迦誕生以前の、印度に生まれたバラモン宗からで、この教えの主眼とする処は難行苦行によって悟りを開くとされている。今でも印度の一部にはこのバラモン行者が少数ではあるが残存しているそうで、彼等は相当霊力を発揮し、奇蹟も現わすそうである。彼のガンジーの断食行も彼が若い頃バラモン行者であったからであろう。

これに就いて面白い話がある。釈尊が八万四千の経文を説いたその根本はこうである。釈尊がその頃の印度の状態を客観する時、何しろバラモン宗が蔓延っていたので、難行苦行をやらなければ悟りが開けないとなし、それが信仰の本道とされていたのである。今日日本各所に残っている羅漢の絵画彫像はバラモン行者の難行苦行の姿であるにみて、如何なるものかが想像され得るであろう。ここに於て、釈尊の大慈悲心はこれを見るに忍びず、難行苦行によらないで悟りを得る方法を開示されたのが彼の経文である。経文をただ読誦するだけで、難行苦行によらずとも悟道に徹し得るというのであるから、それを初めて知った大衆の歓喜は言うまでもない。実に釈尊ほど有難い聖者はないとして敬慕讃仰し、遂に仏法は印度全般を風靡したのである。これによってみても、釈尊の救業中最も大なる功績がこれであったといえよう。

以上の意味にみても、苦行的小乗信仰は釈尊の大慈大悲の御意志に背く訳で、実は釈尊の救いの対象であったバラモン宗に傾く訳であり、如何に誤まっているかが分るであろう。故に釈尊も極楽界に於てさぞ歎かせられ給うと思うのである。右によってみても、小乗信仰の如何に誤まっており、時代錯誤であるかを知るべきである。又別の面から見る時、今日の宗教弘通の上に於て、交通や出版術等の発達は、昔十年かかったものが一日で同様のことを為し得る以上、どうしても時代に即応し文明の利器を極度に利用すべきが本当である。然るに独り宗教のみが古代人的のやり方では、真目的が達し得られないのは分り切った話である。何よりの証拠は、今日既成宗教が時代から離れんとしつつある事実にみても余りに明らかである。

従って、我々が現に行いつつある宗教活動を見る時、小乗的眼鏡の持主はただ驚歎するのみで、真相の把握など思いもよらないのである。それだけならまだいいが、或る一部の人は我等を目して金殿玉楼に住むとか、豪奢な生活をするとかの悪評を放つことである。しかしながら、我々は多数の信徒からの寄進のみで経営しつつある以上、金銭による必要はないと共に、仮に小乗信仰者の批評を是とすれば、せっかく寄進した食物も腐らすか、塵溜へすてなければならないことになろう。又種々の物品も闇で売る訳にもゆかず、返還する訳にもゆかない。しかも信徒の誠で大きな家を献納されるので、それを使用しない訳にもゆかない。それ処か、それによって人類を救うべき大きな仕事が出来るのだから、これ等を考える時、小乗者の見方の如何に誤まっているかが分るであろう。

然も、本教の理想とする処は病貧争なき世界を造るにある以上、入信者の悉くは健康で裕かで、和気藹々たる歓喜の生活者たり得るので、今日の如き地獄的社会に呻吟しているものからみれば、想像もつかないばかりか、むしろ実現を否定し、大衆を釣る為の好餌位にしか思わないであろう。そうして現在造りつつある地上天国の模型を、金殿玉楼的贅沢品位に思うかも知れないが、我等の目的は今日の地獄的社会を脱れて、時々天国的塵外境に遊ばせ、真善美の天国的気分に浴せしめ、歓喜の境地に浸りながら、高い情操を養わせるのであるから、如何に現代人にとって必要事であるかは、今更多言を要しないであろう。全く今日の社会の雰囲気では下劣な人間が造られ、青年を堕落させ、到る所社会悪の温床たらざるはないのであるから、この地上天国こそ現代に於ける唯一のオアシスと言ってもよかろう。我等のこの遠大にして崇高なる計画を真に認識さるるに於ては、非難どころか双手を挙げて賛意を表すべきである。

次に今一つの重要事がある。それは日本人が過般の侵略戦争によって如何に世界から誤まられ、信用を失墜したかは今更言うまでもないが、その信用を一日も早く挽回することこそ我等に課せられたる最も切実な問題であろう。この意味に於ても日本の自然美と日本人の特色である美的才能を示すべき重要施設であろう。今後益々外客の訪日に対し、旅情を慰めると共に、日本高度の文化面を認識させる上に如何に役立つかは、実現の暁、世をあげて讃美するであろうことを今より期待しているのである。

以上が小乗信仰と大乗信仰の解説である。

(昭和二十五年三月十一日)

自由なる信仰

信仰の自由は、新憲法制度以来そうなったので、これに就いては論ずる必要はないが、私の言わんとするところは、信仰それ自体の自由である。というのは、世界中大中小幾多の宗教があるが、例外なく自分の宗教は最高であり、他の宗教は必ず劣るとしているのは誰も知るところであろう。という訳で、他の宗教へ触れることを極力戒めている。他教は邪教であるとか、コチラの神様のお尤めが恐いとか、二心あっては救われないとかいうのである。それが宗教によっては随分厳しいのがある。万一転向でもすると、大きな災いが来る、大病に罹る、命がなくなる、中には一家死絶えるというような、縮み上るようなことを言って食止めようとする布教師もある。これこそ、邪教の常套手段であって勿論このようなことは常識的に見ても馬鹿々々しいが、本人自身は、案外信じて中々決心がつきかねる。ところがこういう信仰は新しい出来星の宗教のみではない。相当古い立派な宗教でも、それに似たようなことが往々あるのだから不可解である。これなどもよく考えてみると、自由思想は政治や社会面のみではない。宗教にも封建の桎梏は相変わらずのようである。

右の如くであるから、私は宗教に就いての自由を言いたいのである。それは、信者の意志を制約して教団の都合を図ることで、これこそ以ての外である。然もその手段として用いるのが言葉の脅迫であるから、ここに至っては最早赦すべからざる信仰的脅迫である。その一例として私はこういうことを聞かされたことがある。自分は随分長い間熱心に信仰して来たが、年中病人は絶えず、貧乏の苦しみからも脱けられないので、段々信仰が嫌になったので、脱けようとすると、その布教師は恐ろしいことを言うので、どうしていいか判らないで迷っているといって相談をかけられたので、私はそういう宗教は無論邪教だから、一日も早く止めなさいと言ってやった。しかしこういう宗教も世間中々多いようである。

ではその理由は以処にあるかというと、勿論信者を減らしたくないからの苦肉の策でもあろうが、その他の理由もある。それは昔からあることだが、その宗教が盛んになるとよく偽者が出たがる。本教なども今までにそういうことが時々あるので、その都度私は言うのである。宗教も化粧品と同様、売れると偽者が出るもので、偽者が出る位なら世の中から認められた証拠だから、寧ろ結構ではないかと笑うのである。このことは形は違うがキリスト教にもあるようだ。それは偽キリスト、偽救世主が今に出るから注意せよと戒めているが、これは善いこともあれば悪いこともある。何故ならば、もし本物の救世主が出ても、偽者と思い誤まり、救われない人が出来るからである。

ところで一番困るのは、自分の信じている宗教が最高のものと思い込んで、熱烈な信仰を捧げている人の多いことである。しかしこれは本当にそう思っているのだから、精神では救われているから、御本人だけは満足しているが、それは本当ではない。何故ならば物質面も救われ、霊体揃えて天国的生活者にならなければ、真の幸福ではないからである。ところがそのことを知らない盲信者が多いとみえて、一生懸命信仰をしながら、不幸から解放されない人も随分多いようである。右に就いて今一つ注意したいことがある。それは他の宗教に触るるのを恐れる理由は、その宗教より以上の宗教があるかも知れないとの懸念の為であろう。というのは、その宗教に弱点があるからで、大いに注意すべきである。

そうして自画自賛で言い辛いが、我が救世教に限ってその点実に自由である。これは信者はよく知っているが、他のどんな宗教にでも大いに触れるべしといっている。勿論研究も結構で、それだけ見聞が拡まるからである。その結果もし救世教以上のものがあったとしたら、いつ転向しても差支えない。決して罪とはならないからで、本当の神様ならその人が救われ、幸福になりさえすればそれでいいのである。

(昭和二十七年十月八日)

昔の宗教と今の宗教

私が、現在救世の業を達成すべく簡単な宗教形式を用いているが、併しそれは今まであった宗教形式とは余程の違いさがある。昔の開祖とか教祖とかいう人達は、敝衣粗食、生活は洵に質素簡略で、しかも修業のため深山に篭り、水を浴び、経文三昧に、所謂難行苦行を重ねたのである。従って真善美の三者の内、真善はあっても美は閑却されていた。殆んど芸術等には関心を持たなかったのである。そうして奇蹟も多少はあったが、主に経文を本義とし、形式を尊び、行事を重んじ、説教専一に衆生済度を行って来たのである。尤もこれ等は仏教に就いて批判したのであるが、神道、キリスト教は近代の発生又は布教であるから略して、仏教だけを対象としたのである。尤も仏教渡来以前古神道はあったが、文献にも言い伝えにもないから書く訳にはゆかない。

処が、今日私が行っている方法は非常に違うという事は、第一病貧争絶無の世界を目標とし、地上天国を樹立するという洵に大言壮語としか思われない程の極めて大胆不敵な宣言をしている。これだけでも既成宗教と如何に相違せるかは知られるであろうが、その第一手段として実行しつつあるものは、人間の最大悩みである病苦から解放すべき救いで、これが着々効果を現わしている事は勿論で、これによって身心健全者となる事こそ自ら貧乏も争闘も消滅するのであって、以上の信念を以て全信徒一団となり、日夜活動しつつあるのである。前記の宣言にある如く、天国化の実現は、理想だけではなく、現在如実に驚異的成果を挙げつつあるのである。又経綸の一部として、現在最高地上天国の模型を企画し、熱海及び箱根の最も景勝なる地を選び、整地に建築設計に造苑に建設を進めつつあり、これ等完成の暁は、最高天国なるものは如何に崇高善美なものかを世界に示すつもりである。

由来、地上天国とは芸術の世界ともいうべきものであって、本教が芸術に最も力点をおく所以である。併し乍ら政治、経済、教育等全般に亘っても、最も新しい神示による画期的方策を、経綸の進捗と相俟って順次発表するつもりであるから、それによって如何に構想の雄大なることを認識さるるであろう。

(昭和二十四年七月九日)

新宗教とは何か

近頃新宗教の言葉は、社会各方面の話題に上って来たと共に、新聞雑誌等にも割合重く扱われるようになったことは喜ばしい限りである。併しこれ等をよくみると、只漫然と、新しく出来た宗教だから新宗教というまでのことで、その内容に至っては殆んど無関心のようである。しかも新宗教に携わる人でさえそうであるのはまことに遺憾である。これに就いて私の言いたいことは、看板だけ新宗教であっても、内容がそれに伴なわないとしたら意味をなさない訳である。というのは、古くからある開祖の教えや文献等、長い間言い旧され、誰にも知られているような説を、その人の主観で変えたり色をつけたりしているだけでは、新しい宗教とは言えまい。その上建造物、形式等万事が昔のままであって、しかも開祖の教えに帰れなどというに至っては、むしろ時代と掛離れるばかりであり、それに対し怪しむ者のないのも不思議と思わざるを得ないのである。

何となれば、現代の如く高等教育を受け知性の発達した人々を相手にするとしたら、黴臭い教典を有難がらせようとしても受入れる筈はあるまい。特に青年層などは尚更そうである。というように今日既成宗教の大部分の信者は、伝統的、観念的に引きずられているにすぎないと言えよう。処が新宗教の信者はそれと違って、何等か新しいものを求めて入った人々に違いないからいいが、それでも真の不動の信者は割合少ないようである。としたら、現代人を心の底から信じさせるには、どうしても理論的には筋が通っており、疑い得ない現当利益が伴なわない限り、先ず駄目といってよかろう。従って単なる流行を追うような宗教信者では、一時的で長続きしないのは勿論である。次に言いたいのは、現代人とても決して信仰心のないわけではない。ただ現代的感覚からみて、信じ得る宗教が余りないからで、ありさえすれば必ず信ずるのは、私の経験によっても確かである。むしろそういう宗教を求めている人が大多数といっていい。

処がそういう宗教が見当らないため、止むなく無信仰者となっており、それに対し何といっても科学の方は手っ取り早く、目に見えて、人間の要求を満たしてくれる以上、自然依存することになるのは致し方あるまい。という訳で、無信仰者を非難することは出来ないと思う。処がここに問題がある。というのは、それ程信頼する科学でも解決出来ず、そうかといって宗教でも解決出来ないこともよくあるので、ジレンマに陥ってしまい、その上先の見通しもつかないので、知識人中の或る者は懐疑に陥り、或る者は希望を失い、その日暮しになったり、自暴自棄的となって、懐都合のいい者は享楽を求めるという結果になるので、これが現在の世相であろう。今一つ言いたいことがある。それは今迄現われた処の歴史的宗教偉人より以上のものは最早絶対出ないと決めていることで、この考え方も絶望に拍車をかけているのである。中には半ば諦め、半ば現実と遊離した人達は、骨董的教説を研究思索している等々もあり、現在思想界は全く混沌として帰趨を知らない有様である。

処が、この無明の闇を破って突如出現したのが我が救世教である。そうしていとも大胆に既成文化の凡ゆる部門に渉って大鉄鎚を下し、一々の誤謬を暴露し、真の文明のあり方を教え、着々として実行力を発揮しつつあるのであるから、公平に言って二十世紀の驚異であろう。そうしてこの根本こそいつもいう如く、今日までの世界は夜であり、僅かに月光を唯一の光としていたにすぎなかったが、そこへ太陽の光が現われたので、今まで見ることを得なかった不要有害物の悉くはハッキリ浮かび上ったのである。昔から“東方の光”とはこのことであって、時の進むに従い太陽は徐々として天心に昇り、全世界を照らすことになるので、現在はその黎明期である。

この理によって、私が説く凡ゆる説は、今迄誰も知らなかったもののみであるから、驚歎し、中には誤解する人さえある位である。何しろ長い夜の世界が続いてきたので、それに慣れた目には、突如として現われた昼の文化であるから狼狽するのも無理はない。処がここに問題がある。それは昼の世界になった以上、夜の文化中から、神は有用なものを残し、不用なものは揚棄せざるを得なくなるのである。しかも太陽の光は月光の六十倍に当るから、今日まで不明であり、治癒不可能とされていた病気も難なく解決されるのである。本教浄霊が日々現わしている事実によっても明らかである。なおこれを分り易く言えば、愈々赫々たる太陽の出現によって、月は光を失う如く文明の大転換と

なるのであるから、この任に当る本教こそ如何に偉大な事業であるかが分るであろう。

(昭和二十八年四月八日)

宗教の新店と老舗

つらつら世間を見る時、街の小売商店に二種あり、それは新店と老舗とである。人の知る如く、新店は新店で今後大いに発展せんとする気構えから、精気溌剌たるものがあるが、如何せんまだ信用が薄い。というのは、客からみれば商品はどの程度優良であるか、値段も適当であるかどうかということを心配するから、自然試しに買うか、或いは間に合わせ程度の買物でしかあるまい。ところが老舗となると客としては頭から絶対の信用をおく。何町の何店の何の品なら決して間違いはない。なまじ新店で不安心な思いして買物をするより安心して買えるから少々遠方でもそこへ行って買うし、また纒ったものは尚更買うという訳で、これは全く長年売り込んだ暖簾のおかげである。従って新店の方は血の出るような勉強をして、老舗へ買いにゆく客を幾分でも自分の方へ引附けなければならないというのが実情で、これは誰も知っているところで、今更事新しくいう必要もない。

ところがこれと同じようなことが宗教にもあるから面白い。御承知の如く宗教の新店ときては小売商人どころではない。頭から迷信邪教、インチキ宗教というように決められてしまうので、実に噫無情という外はない。成程おっしゃる通りの新宗教も沢山あろうが、偶には真物のあることも知って貰いたい。それに就いてこういうことも考えなくてはならない。即ち老舗である凡ゆる宗教も一番最初は新店であったことに間違いはない。それが段々年数が経って今日の如き老舗となったのであるから、今日の新店と雖も勉強して、値も相当で品物も確実でありさえすれば、何時かは老舗になる訳である。故に今日出来たての新店と雖も全部インチキ邪教であるとするのは、今述べたような点からみて慥かに間違っている。

以上述べた理由によって、批判の立場にある人々は新宗教を充分検討して、事実白か黒かの判断を下し、然る後、筆をとるのが本当の態度ではないかと思うのである。

(昭和二十四年三月三十日)

宗教と妨害

昔から宗教に妨害は附物とされているが、その中の一番大なるものは、彼のキリストの受難であろう。その外釈迦に提婆なども有名なものだが、日本においても法然、親鸞、日蓮等の受難も衆知の通りであるし、近い処では天理教、大本教、人の道等もそうであったと共に、本教も御多聞に洩れず、今までにも何回となく弾圧され新聞を賑わしたことは、新宗教中の有難くもない王座を占めていたわけである。そうして面白いことには、その宗教が将来性があり、価値の高いもの程正比例的に妨害も強い事実である。というのはどういうわけであるかを書いてみよう。

言うまでもなく、宗教なるものは霊主体従の法則により、霊界における神々が主神の命に従って、時と所と民族に適応する救いを行うので、キリスト教、仏教、マホメット教の如きは、その最大なものである。勿論宗教の建前は善を教え、人類社会を天国化するにあるので、人間からみれば結構ではあるが、邪神の方では全然反対である。というのは、邪神は悪の人間を作り、苦悩に充ちた地獄社会を造るのが目的であるから、絶えず正神と闘っている。これが霊界の実相であって、そのまま現界に映るのであるから、見らるる通りの地獄世界である。

そうして小善には小悪の邪神が妨害し、大善には大悪の邪神が妨害するのは勿論である。このようなわけだから、我が救世教に対しても、絶えず邪神界の頭目が妨害に当っている。何しろ歴史肇って以来ない偉大な宗教であるから、邪神界は大恐慌を起している。このことは細大洩らさず私には分るが、信者の方でも各地において神憑り等によってその片鱗を知らされているであろう。そうして今最も活躍しているのが赤龍と黒龍の頭目で、これが多くの眷族を使い、共同的に妨害しているのであるからたまらない。その争闘たるや血湧き肉躍るの概がある。それらを赤裸々に書きたいが、今は神様から止められているので、残念ながら何れ時が来れば発表するつもりである。処で何程邪神の頭目が大々的に妨害しようとしても、コチラの方には金剛力を揮われる最高の神様がついているから、一時は負けても最後は必ず勝つので心配は要らないが、勝つまでの苦しみは相当なものである。しかし随分妨害されながらも、順調に発展しつつあるのは見らるる通りである。ここで知っておくべきは邪神の特長である。それは驚く程の執拗さで、幾度失敗しても決して懲りたり諦めたりするようなことはない。どこまでも彼の手この手でやってくる。その点とても人間では想像もつかない程である。しかもその無慈悲残虐なる悪魔的心理に至っては、形容の言葉すらないので、これが邪神の本性であるから致し方ないのである。そうして悪魔中の力ある奴程、人間界の社会的地位ある者やインテリゲンチャ・ジャーナリスト中から選び憑くのであるから、この真相が分ったなら愕然とするであろう。

従って、こういう凄い悪魔と、それ以上の神様との闘いが始終行われているに拘わらず、見えざる霊界のこととて知る筈もないから、人形同様に躍らされているのが万物の霊長様である。勿論当事者である私にはよく分るから、恐ろしいこともあり、面白いこともあり、愉快でもあるので、この心境のみは如何なる人でも分らないのである。しかも今度の御神業における正邪の戦いは、古往今来嘗てない程の千変万化、虚々実々の大芝居で、只神秘というより外はないのである。処でそれについての大きな問題は、地球の一大転換である。それは昔から今日までの神と悪魔の戦いで、即ち夜の世界であったからで、神の方が一旦敗北すると、挽回に相当の時を要したものが、最近に至っては非常に狭まって来たことは信者も知る通りである。処が今や昼の世界に移りつつあるから、邪神の力は段々弱まって来た。そのため挽回の早いことは、反ってプラスになる場合さえある位で、それは事実が示している。一昨年五月のアノ事件は、一時は致命的と思われる位の打撃を受けたので、世間では再び立つことは出来まいと思われたに拘わらず、僅か二年を経た今日、箱根・熱海の地上天国の進捗や、教勢の拡大等誰も予想のつかない程の発展振りである。従ってもしアノ事件がなかったとしたら、この何倍の発展か分らない筈である。というのは神様の威力が非常に強くなった証拠であるから、何といっても今一息という処まで来ているのである。何れは全世界から引張凧にされる時の来るのは必定である。尤も世界人類を救うという空前の偉業であるから、これ位の妨害は当り前かも知れないとも思っているのである。

(昭和二十七年九月三日)

天国的宗教と地獄的宗教

先ず宗教に就いてありの侭を書いてみれば、今日までの凡ゆる宗教は、悉く地獄的宗教といっても、敢えて侮言ではなかろう。何となれば主立った宗教程、開教当時蒙った法難、受難に悩んだことは例外ない程で、宗教に法難は附物とされている位である。然もその宗教の信者までも迫害や受難の道を辿って来た事実は、史上数え切れない程であって、なかには読むに堪えない慄然たるものさえあるのである。

今日世界を風靡しているキリスト教の開祖、イエス・キリストにしてもそうであって、十字架上の露と消えた事蹟や、パリサイ人共の迫害は有名な話であるが、日本に於ても大なり小なり、茨の道を潜らない宗教家はなかったといってもいい。只その中で釈尊と聖徳太子のみが例外であったのは、言うまでもなくその出身が皇太子であったからである。

そうして如何なる宗教の開祖にしても、勿論悪者ではないどころか、凡人以上の善者であり、人並外れて愛が深く慈悲に富み、不幸な者を救わねば措かないという信念を以て、命を犠牲にしてまで救いの業を貫こうとしたのであるから、善の塊りともいうべき聖者である。従って本当からいえばその時の政府も民衆も、その労苦を犒い感謝し、最大級の優遇を与えるべきに拘わらず、反ってその逆に悪魔の巨頭の如く憎悪し、迫害、圧迫、生命までも絶とうとするのであるから、恐らくこんな不合理な話はあるまい。故にこれを冷静に批判する時、右の如く大善者を憎み、虐げ、葬ろうとするその行為はその人達こそ悪魔ということになるのは理の当然ではあるまいか。そうして本来人間という者は善か悪かのどちらかであり、決して中間は存在しないのであるから、換言すれば神の味方か悪魔の味方かどちらかである。とすれば神を嫌い、無神思想を唱え、善を行う宗教に反抗する人は、悪魔の僕という事になるのは当然である。そうして今日偉大なる宗教とされているその開祖にしても、初めのうちは悪魔扱いにされ、極力迫害されたに拘わらず、遂に悪は負け善が勝ったのは歴史の示す通りである。キリストが受難に遭いながら「吾世に勝てり」と言われたのもその意味であり、味わうべき聖言である。

故に既成宗教は、開祖の死後相当の年数を経てから漸く認められ、神と祀られ、仏と崇められたのがほとんどである。勿論その教えによって人間に歓喜を与え、社会の福祉増進に寄与する処大であったからであろうが、開祖生存中にそのように認められた宗教はないといってもいい位で、法難は当然のように思われ、信者としても苦難の生活を寧ろ喜ぶような傾向にさえなってしまったのである。特にキリスト教の如きはキリスト贖罪の受難を亀鑑として、苦しみを覚悟の上蕃地深く分け入り、身を挺して活躍した悲壮なる史実も、これを読んで胸の迫る思いがするのである。だからこそ今日の如く世界到る所にキリスト教程、根強く教線の張られた宗教はないのである。日本に於てすら、彼の切支丹バテレンの迫害や、天草の乱などを見ても思い半ばにすぐるであろう。

処が以上書いた事は他動的不可抗力による苦難であるが、そうではなく、自分自ら進んで苦難を求める信仰も少なくはない。即ちキリスト教に於ける一派の戒律厳守、禁欲主義者、修道院に一生を捧げる人達もそうだが、彼のマホメット教、中国の道教やラマ教、印度の婆羅門教なども同様であって、彼等は禁欲を以て信仰の主眼としている事である。

又日本に於ける昔からある幾多の宗教にしても、それと大小の違いはあるが、大体は同じであり、受難にしても神道が散々仏教から圧迫され、一時は伊勢の大廟に阿弥陀如来を安置したことや、神道行者の難行苦行もそうだし、仏者の受難も並大抵ではなかった事も人の知る処である。その中での最も著名なものとしては、彼の日蓮上人であろう。彼の有名な龍の口法難の際、断罪に処されようとし、刃を振り上げられた途端一大奇蹟が現われ、危く死を免れた事などもそうである。又仏教の或る派によっては極端な程戒律を守り、求めて難行苦行に身を晒し、修業三昧に耽る信仰も、跡を絶たないのである。以上凡ゆる宗教を総括してみても、今日迄のその悉くは地獄的であって、苦難を以て宗教の本来と心得、魂を磨く手段とされて来たのであって、遂には苦しみを楽しみとする一種の変態的人間とさえなってしまったのである。

これを忌憚なくいえば、その宗教の力が弱かった為、自力を加えねばならなかったのである。

このような地獄的信仰の世界に、忽然として現われたのが我が救世教である。何しろ本教の総ては今までの宗教とは根本的に違う処か、寧ろ反対でさえあり、地獄的苦行を最も排斥し、天国的生活を以て真の信仰であるとしているので、その説く処は心も行も、既成宗教とは雲泥の相違である。然も本教輪郭の大なる事は、宗教も、哲学も、科学も、芸術も悉く包含されており、特に人類救いの根本である健康の解決、農業の革命等驚異に価するものばかりで、その悉くは地獄をして天国化する条件の総てであるといってもいいので、これこそ真の神の愛であり、仏の慈悲でなくて何であろう。この意味に於て難行苦行は邪道であり、歓喜溢るる天国的生活こそ真に救われたのである。これが世界全体に拡充するとしたら、ここに地上天国は如実に出現するのであって、以上の如く本教のモットーである天国世界の第一歩は先ず家庭からであり、そのような家庭が日に月に増えるとしたら、やがては世界全体が天国化するのは知れた事である。

以上の真相が分ったとしたら、如何なる人でも本教を謳歌し、絶讃し、直ちに入信しなければならない筈だが、何といっても或る種の小乗宗教や無神思想の観念に煩わされているので、反って疑念を起したり誤解したりするので、それだけ幸福を延ばしている訳である。併し乍ら本教の真相が必ず分る日の来るのは間違いないから、私はその時を待つと共に、今は神命のまま日夜奮励努力しているのである。

(昭和二十八年三月二十五日)

宗教と分派

宗教には種々の派がある。例えばキリスト教に於てもカトリック、プロテスタント等を主なるものとし、新旧種々の派がある。仏教に於ても、日本だけでさえ真宗、浄土、天台、真言、禅、日蓮等を主なるものとし、その一派が各派に分れており、現在五十八派に分れている。神道に於ても神社神道を別とし、教派神道に於ては大社、御嶽、扶桑、禊、天理、金光等を主なるものとし、十三派あるにみても明らかである。

以上のように何派にも分離するという事は理屈に合わないと思うが、私はこう見るのである。即ちその原因は教典にあるのではないか。というのは聖書にしても仏典にしても甚だ矛盾難解な点が多く、その解釈に当っては人により区々の見解に分れるので、勢い種々の分派が出来たのであろう。尤も教派神道は、キリスト教、仏教の如く大教祖がなく、古事記、日本書紀等の古典を基本としたり、神憑的教義や、教祖の教え等によって成ったものである。

以上の如く根本は同じ宗教であり乍ら、各派に分離する結果、ともすれば争いなどを生じ勝ちになるので、宗教本来の使命たる人類愛的教化に悪影響を及ぼす事は勿論で、遺憾の至りである。全くその原因が前述の如く教典の難解なるが為である事は議論の余地はない。尤も難解である処に、反って有難味があるという理屈も成立たない事もないが、遍く人類を救うべき意味から言えば、万人の最も理解し易くするのが本当ではないかと思うのである。

以上の如くであるから、私は難解を避け、何人にも理解出来得るよう、新しい形式の下に教えの道を説かんとするのである。

尚私は漸次政治、経済、教育、芸術等の方面に渉っても、宗教を通じての新解釈を発表するつもりである。

(昭和二十三年九月五日)

真の宗教

真の宗教とは世界主義を建前としなくてはならない。一国、一民族、一階級を対象としたものは真の宗教ではない。という訳は、そのように極限されたものは必ず勢力争いが生まれる懼れがあるからで、元来宗教なるものは和が基本である以上、争いを絶無にするのがその本質でなくてはならない。故に、争う事はそれ自体が宗教を放棄した事になる。

処が、昔から洋の東西を問わず、宗教争いという事も史上幾多の実例がある。そうして極限的宗教を小乗信仰といい、汎世界的宗教を大乗宗教というのである。

以上によってみても、大乗宗教こそ真の宗教である。

(昭和二十四年十一月五日)

現当利益

本教は、自画自讃ではないが、現当利益の素晴しいことである。昔から幾多立派な宗教が生まれ、今尚キリスト教、マホメット教、仏教の三大宗教を始め、有力なる宗教がそれぞれの地位を確保しているが、その殆んどは出発時から精神方面の救いを専らとしてきたことは誰も知る処である。

本教は、開教後日未だ浅く、他に比べては教線甚だ微々たるものではあるが、それでも発展の速かなることは前例がないとさえ言われ、注目の的になっており、そのため五月蝿いことも多いが、これも又止むを得ない過渡期の現象であろう。といってもこれは時の問題で、何れは公平なる世の批判の下に真価を認められる日の来ることは勿論である。併し本教も他の宗教と同様、教義もあれば理想もあって、精進努力しつつあるが、それに就いて本教が既成宗教とは根本的に相違する点があるのを書いてみよう。この点が認識出来なければ本教の実体は掴み得ないのである。

それは何であるかというと、本教は現当利益が大いにあることである。それに対し、有識者等が宗教を見る場合、現当利益的宗教は低級であるとし、殆んど歯牙にかけない態度である。然らば何故そうであるかを考えてみるに、それには訳がある。今、日本における数ある宗教を見渡した処、世俗的のものと非世俗的のものとの二種がある。一方は例えば何々稲荷とか、何々様とか、何々明神とかいうのが信仰の対象となっており、これ等信仰者は例外なく現当利益が目的で、理論も哲学も智性的のものはないといっていい人達で、ただ御利益本位であってみれば、識者からみれば愚劣で、問題視するには足らないものとしている以上、現当利益追求は直ちに低級信仰と決めてしまうのである。

そこで現当利益など問題にせず、教義を学問的に扱い、巧妙に理論づけている宗教形態を高く評価する。然も相当古い歴史をもっており、その間有名な中興の祖や、幾多高徳が輩出している以上、その宗教を重視するという訳で、これ等を高級と看做すのである。要するに看板がものを言う訳である。これに対し私は率直に批判の言葉を書いてみるが、ともかく前者の信仰は卑俗的ではあるが、事実は予想以上に一般民衆をリードしている。何しろ民衆としては智的レベルが低いため、理論もヘチマもない。ただ時々お参りに行き、何かの願望を祈願し、金銭を献げてそれで満足感に浸って来るのだから、至極簡単である。併しこれ等の信仰も社会人心にとって或る程度のよい感化を与えていることは争えない。というのは、こういう信仰でも見えざるものを信ずるという唯心観念からである以上、唯物主義に固ったものよりは、社会上プラスになっているのは確かである。仮にも神仏を拝む位の心の持主であるとすれば、平気で凶悪犯罪など犯す訳はあるまいからである。

次に後者であるが、これは前者と違い、見えざるものは信ずべからず、見えざるものを信ずるのは悉く迷信であるとして排斥する人達で、現在有識階級に最も多いようである。勿論唯物主義者である以上、宗教を学問的に扱うのを可としている。故に彼等は宗教を云々する場合、悉く理論化し哲学化されなければ承知しないので、我等から見ても、その論旨なるものの多くは外皮的浅薄極まるもので、我等を批判する場合も単なる悪口にすぎないのである。従って本当に宗教を批判するとしては、その宗教に深く没入し、内容に向って鋭い目を以てその実体を見極めるべきである。そうしてどこまでも主観を捨て去り、白紙となって批判すべきである。由来宗教の本質は、外容的のものではな

い。内存的のものである。としたら、彼等の批判的態度も大いに改める必要があろう。

右の如くであるから、本教にしては批判の場合外郭だけをみて、現当利益本位だから世俗的信仰だと決めてしまおうとする、不親切な軽率さである。これを改めない限り百の批判も意味をなさないといってよかろう。故に本当に本教を検討すれば分るが、本教は世俗的信仰でもあり、理論的宗教でもある。未だ嘗て人類に経験のない超宗教と言ってもいい。そればかりではない、本教の主張は独り宗教に関するもののみではない。医学も、農業も、芸術も、教育も、経済も、政治も、人事百般重要な部門は悉く対象としており、最高の指針を与えている。これを一言にしていえば、信仰即生活の理論を如実に現わそうとするのである。

(昭和二十五年十一月八日)

奇蹟と宗教

今更言うまでもないが、奇蹟とは有り得べからざることが有り、常識では計られない、理屈にものらないものを言うので、ただ不思議の一語に尽きるのである。では一体奇蹟なるものは何時頃からあったかというと、記録に残っているものとしては、何といっても彼のキリストの奇蹟であろう。これは余りにも衆知のことで説明の要はないから略すが、我が国としての著しい奇蹟は、彼の日蓮上人の龍の口の御難であろう。その他天理教、大本教、金光教、人の道(今のPL教)などの教祖の奇蹟も相当あったようだし、その他の小さい奇蹟は随所にあるのは知る人は知っているであろうが、不思議なことには、古い屋台骨の立派な宗教には殆んど奇蹟というものが無いようである。しかしそういう宗教も教祖生存中は相当あったものに違いなかろうが、時代の進むに従い、全然なくなってしまったのであろう。

そんな訳だから、賢明な既成宗教のグループの人達は、自己生存の必要上、奇蹟に代るべきものとして何等か価値づけるものを見出さなければならないので、その結果出来たものが彼の宗教哲学、宗教科学、神学等の学問的形体であろう。言う迄もなくその骨子とする処は、宗教とは精神的救いが正当であるとして、現当利益を蔑視し、その上宗派それぞれの伝統的形式を加えて、ともかく法城の命脈を保って来たのである。処が心ある人々や文化的大衆はそれでは承知しないが、といって外に希望に合うような信仰もないので、自然今日の如く無信仰者が多くなったのであろう。では現在人々の痛切に求めている信仰は何かというと、先ず第一古い衣を脱ぎすてた新しいもので、空理空論のない事実の裏附のあるもので、どこまでも智性的理論を建前としたものでなくてはならないのは言うまでもない。

処で今日相当繁昌している信仰もあるにはある。カノ成田の不動尊、豊川、伏見稲荷、金比羅権現、日蓮宗の或る一派等々であるが、成程これ等の信仰も社会上幾分の役には立っているであろうが、何しろ御利益本位の信心で、余りにもレベルが低いので、相当教養ある人達や青年層には全然魅力がなく、公平に見て一部の俗衆に満足を与えているに過ぎない存在である。としたら現在の処、前者の理論宗教と、後者の御利益信仰との二種あるのみであるから、何と心細い日本の宗教界ではなかろうか。としたらこの現状は一体何を示唆しているものであろうかを考えて見ると、言うまでもなく前記の如き新しい理想的宗教の出現であろう。

ここで本教の特異性を書いてみるが、本教に於ては宗教理論としての前人未発の哲学、科学、神学等の新解釈は素より現代文化の欠陥を指摘し、新しい文化の在り方を教え、新文明世界創造の指針を示しているので、むしろ宗教以上の宗教といってもよかろう。何よりも一度本教に入って具に検討してみる時、その言の偽りないことに驚歎するであろう。

然も本教の一大特色としての奇蹟の多い事で、これも信者になれば分るが、恐らく本教位奇蹟の多い宗教は史上嘗て類例がないであろう。勿論奇蹟とは現当利益であるから、本教のモットーである病貧争絶無の世界を造り得るのも何等疑いないのである。以上随分思い切って書いたが、先ず接して見ることである。

(昭和二十七年三月五日)

宗教即奇蹟

昔から、宗教に奇蹟はつきものとされているが、全くその通りである。この点自画自讃ではないが、我が救世教程奇蹟の多い宗教は、恐らく古往今来例があるまい。然らば、何故本教がそれ程奇蹟が多いかということを簡単に書いてみるが、それは本教の主宰神である神様が、最高最尊の御神格を有せられるからである。世間では、神様とさえ言えばそれ程差別はないものとして同一に見て拝む傾向がある。処が単に神様といっても、上中下の階級があって、最高の神様から段々下がって、産土神から天狗、龍神、稲荷等までもあるのだから、この点をよく認識しなければならないのである。だから神様の階級について詳しく書きたいが、そうすると他の宗教の神様を暴露することになり、どうも面白くないから遠慮して書かないのである。前述の如く、本教主宰神の御神格が如何に高いかを一つの例を挙げて書いてみよう。本教浄霊の如何に素晴らしいかは、今更言う必要がない位だが、日を経るに従い段々世間に知れるにつれ、それが発展の一大要素となっていることも勿論である。そうして又この浄霊による病気治しに就いて誰でも不思議に思うことは、疑っても物は試しだと思っても、こんなことで治るもんかと思っても思わなくても、同じようによく治る。今迄の信仰的病気治しは、殆んど初めから“信ぜよ、疑ってはならない”というのが通例であったから、それに馴れ切っている人の頭では、前述の如く不思議に思うのも無理はないのである。よってこれはどういう訳かを書いてみよう。先ず、何もない内から信ぜよというのは、実は己れを偽ることである。何等実証も見ない内から、信ずるなどは出来ない相談である。としたら、これは間違ってるのはいうまでもない。しかしながら、言われた通り一生懸命信じようと努めるのは、疑うよりも幾分の効果はあるにはあるが、それは神が下されたものではない。全く自力でしかない。然らば、何故この間違ったことが当然のように今まで思われてきたかというと、つまりその神様の力の足りないことを知らなかったからで、その足りない分を人力で補うという訳である。この意味に於いて、本教の如く疑っても治るということは他力の力が大きいから自力を加える必要がないからである。従って治病力が足りないということは、その神仏の位が低いためである。又、こういうこともよくある。それは思うように御利益がないと、その教師なり先輩なりが決って言うことは、あなたの信仰がまだ足りないからと言訳をする、丁度御利益なるものは、神様から恵まれるというよりも、人間の努力で引き出すように思うらしい。本来神様は大慈大悲であるから、御願いしたがけでも必ず御利益は下さるものである以上、人間が一生懸命になり、度を越すと、反って本当の神様ならお嫌いになる。特に断食とか、茶断ち、塩断ち、水を浴びたり、御百度参りするなどは、最も神意に添わないのである。何となれば、神様の大愛は人間の苦しみを厭わせ給うからである。考えてもみるがいい、人間は神様の子であるから、子の苦しむのを喜ぶ親はないではないか。故に苦行によって仮令御利益があっても、それは本当の神様ではなく、邪神に属する神様である。何よりもそういう御利益は、必ず一時的で長く続くものではない。処が、本当の神様の御利益というものは、信仰すればする程段々災いは減ってゆき、安心立命の境地に到達し、幸福者となるのである。要するに、御利益を得たい為無理に信じようとするのは低級宗教であって、疑っても信じないでも、神様の方から御利益を下さる、これが高位の神様の証拠である。

(昭和二十六年四月十一日)

宗教は奇蹟なり

宗教と奇蹟は切っても切れない関係にある事は昔から幾多の文献によっても明らかである。もし奇蹟のない宗教でありとすれば、それは最早宗教とは言われない。何となれば奇蹟は神が作るのであって、人間の力では一個の奇蹟も作られ得ないからである。故に奇蹟のない宗教は宗教としての存在価値はない訳である。ただ形式だけが如何に宗教的であっても、それは宗教的価値を喪失しているといってもいい。

以上の意味に於て、偉大なる宗教程奇蹟が多く顕われる事は当然である。奇蹟とは換言すれば予期もしなかった利益が現われる事である。それによって衷心から信仰心が湧起し、入信し不幸から救われる。これが真の宗教でなくて何であろう。百の理論よりも一の事実に如かない事は今更言う必要はない。今日の世相は敗戦による結果とは言い乍ら、社会悪の激増は勿論、特に将来の日本を担うべき青年層が不健全なる思想に禍いされ、混迷裡にある事実は寒心に堪えないものがある。その原因を衝けば唯物思想を金科玉条として教育された結果で、この誤謬に目覚めない限り到底この問題は解決され得る筈がない。然らば唯物思想を打破するにはどうしたらよいかというと、勿論宗教心に目覚めなければならないが、それには根本として見えざる処の神を認めしむる事で、常に我等が唱導する処である。とすればその方法はただ奇蹟あるのみである。奇蹟とは勿論人間業では不可能とされたものが可能となり、理論では絶対解釈が出来得ない事実を目の前で見せられるとすれば、如何なる疑惑も一遍に煙散夢消するのは当然である。

故に標題の如く「宗教は奇蹟であり、奇蹟は宗教である」と言い得るのである。従って奇蹟によって神の存在を認識せしめ、唯心思想を育む以外、平和日本建設も社会悪追放も、予期の成果は挙げ得る筈はない。

人文史上、本教位奇蹟の多い宗教は未だ見聞した事はあるまい。この意味に於て世界の大転換期に当って、唯心的魂を喪失した世界に対し、奇蹟の息吹きによって眠れる魂を揺り動かすのが本教の目的である。

万能の神は、観世音菩薩又の御名光明如来と現じ応身弥勒と化し、救世主の御手を通じて、自由無碍なるご活力を駆使し、多々益々奇蹟を示し給い、本教を機関として、救世の大業を行わせ給いつつあるのである。

(昭和二十四年六月十一日)

奇蹟の解剖

奇蹟とは、一言にしていえばあり得べからざる事実がある場合をいうのであるが、実は有り得べからざる処に有るという事は、本当はないのである。だからあると思うのは、それは誤解以外の何物でもない。というと何だかややこしい話だが、その理由を左に書いてみよう。

右は有り得べからざる事と、決めてしまっているその既成観念がすでに錯覚なのである。何となれば、その観念こそは表面に現われた、すなわち現象そのものだけを見て決めてしまうからである。勿論、現在までの物の考え方は、唯物的社会通念を通して見るのであるから、偶々変った事があると不思議に思えるのである。すなわち、あるべきはずがないのに、まざまざと見る事実である。例えば高い崖から落ちた子供が何ともないとか、自転車へ自動車が衝突しても、怪我もなければ時には車が少しも破損しない事さえある。汽車へ乗り遅れたので次の汽車へ乗ると、前の汽車が脱線転覆したり、衝突したりして難をまぬがれる。入りかけた泥坊が浄霊で逃げてしまったり、盗まれたものが間もなく戻ったり、隣家まで焼けて来た火事が浄霊するやたちまち風向が変って助かるというように、大なり小なり特別奇蹟の多い事は本教信者の常に体験する処である。

右のごとき種々な奇蹟は、一体どういう訳で起るのであろうか。何処に原因が潜んでいるのであろうか、という事は誰もが大いに知りたいと思うであろうから、ここに書いてみるが、言うまでもなく奇蹟の元は実は霊界にあるのである。しかし奇蹟にも自力と他力があるから、先ず自力の方から書いてみるが、私が常にいうごとく、人間には霊衣と言って霊の衣がある。それは普通人には見えないが、身体の形の通り、白色の霧のようなものに被われている。勿論厚い薄いがあるが、これは魂の清濁によるので魂の清い程厚いのである。普通人は先ず一、二寸位だが、有徳の人は二、三尺、神人となると無限大である。それに引替え濁った身魂は、霊衣が薄く貧弱である。

そうして災難を免れる場合、例えば自動車が人間に衝突しようとする刹那、自動車にも霊があるから、人間の霊衣が厚いと、突き当る事が出来ないで横へ外れてしまうので助かる。

高い所から落ちた場合、霊衣が厚いと地や石の霊に打っつかってもフンワリ軽く当るから怪我をしないし、また家にも霊があるから、その家の主人が有徳者であると家の霊衣が厚いから、火事の時など、火の霊はそれに遮られて燃え移らないのである。熱海大火の際、本教仮本部が不思議に焼けなかったのもその意味である。しかし稀には焼ける場合もない事もないが、それは焼ける必要があるからで、これは神様の経綸のためだが、滅多にはない。

次に他力の場合を書いてみよう。

抑々人間には、本、正、副の三つの守護神がある。この関係は以前書いた事があるから略すが、右の内の正守護神とは、祖霊の中から選ばれた霊で、危急の場合助けたり、重要な事は夢で知らせたり、また特殊の使命を持つ者は神様(大抵は産土神)がお助けになることもある。例えば汽車が衝突しようとする場合、神様はどんな遠くでもよく知られるから、一瞬にして汽車の霊を止めてしまう。その場合、何百、何千里でも、一秒の何十分の一の速さでその場所へ到着し救われるのである。

以上によってみても、奇蹟なるものは、決して偶然やマグレ当りではなく、立派に理由があるのであるから、それが分ったなら、奇蹟は不思議でも何でもない事になる。だから私などは奇蹟があるのが普通で、奇蹟がないと不思議に思う位である。この例として偶々難問題に打っつかって、解決がグズグズしていると、もう奇蹟がありそうなものだと待っていると、間もなく奇蹟が出て解決する事がよくある。これは信仰が深く、徳を積んだ人はそういう体験は数ある事と思う。従って人間は善を思い、善を行い、徳を積み、霊衣を厚くするよう心掛けていれば、不時災難など決してないのである。また霊衣の厚い人程、接すると何となく温か味を感じ、慕わしい気持が起る。よく人を惹きつけるというのはそういう人である。だからこういう人には自然多くの人が集まってくるもので、仕事も旨くゆき、発展するようになるのである。

(昭和二十六年六月六日)

大乗宗教

宗教、特に仏教に大乗小乗の区別のあるのは、遍く人の知るところであるが、どうも今日まで、徹底されない憾みがあったようである。これについて私の見解を述べてみよう。

抑々大乗とは大自然という意味である。大自然とは万有一切の生成化育の活動をいう事は勿論である。故に大乗とは一切を包含して余す処がない。この意味に於て今私の説く大乗は、大乗仏教ではなく、大乗道というべきである。即ち宗教も哲学も科学も政治も教育も経済も芸術も、その悉くが含まれている。そればかりではない。戦争も平和も、善も悪も包含されているのは勿論である。

右の如く、一切万有の活動を観察する時、そこに自然の道がある。道に従う事によって順調に進みつつある事の認識を得る人にして、真の人たるの価値があるのである。この理によって道に外れる時は必ず支障を及ぼし、一時停止、又は破壊される事は疑いない処である。右の如く道に叶えば創造となり、道に外るれば破壊となるというように、破壊と創造を繰返しつつあるのがこの世界の実相である。丁度汽車、電車が軌道に外れなければ進行し、外るれば停止さるると同様である。

故に一切は滅ぶるものも滅ぶ理由があり、生まれるものは生まれるべき理由があり、決して偶然はない。総ては必然による事は勿論である。この意味に於て思想上に於ても、左に極まれば右が生まれ、右に極まれば左が生まれ、何れにも一方に偏する事なく軌道を進む、丁度自動車を運転するのと同様である。この理によって資本主義も、社会主義も、共産主義も、保守派も、進歩派も、積極主義も、消極主義も、他の何々主義も必要があって生まれ、必要があって省減して滅ぶのである。勿論宗教と雖もそうであって、出現するのは出現すべき理由があるからである。処が人間の多くは自己のいる観点に立って眺め、自己以外のものは兎角異端と見勝ちである。それはいとも小さき眼孔から見るからで、諺にいう「葭のズイから天井覗く」という訳である。併しこの大地を経綸し給う神の御眼よりみれば、蝸牛角上に日もこれ足らず相争う人間の小ささに苦笑し給うであろう。

凡ゆる物質は、人間に不必要であれば自然淘汰され、必要があれば如何に人間が淘汰しようとしても駄目である。例えていえば、ここに新しい宗教や新しい思想が生まれる。それが人間の眼には迷信邪道と見えても人類に必要があれば発展する事となり、不必要であれば自然淘汰されるのであるから、或る程度自然に任すべきである。

真に生命があり、価値がありとすれば、人力を以て弾圧すればする程、反って発展の度を高める事になるのである。何よりの例は彼のキリスト教である。教主キリストを断罪に処したに拘わらず、今日の隆盛をみれば何をか言わんやであろう。

現代人が一切をみる眼があまりに小さく、余りに短見である事の誤まりを反省すべきであると思うのである。

(昭和二十四年十月二十五日)

真の大乗宗教

宗教には大乗と小乗とあるのは一般に知られているが、これについて今までの宗教家や宗教学者が説く説は、甚だ曖昧杜撰極まるものであって、真諦に触れているものは殆んどないといってよかろう。従って私はここに徹底的に書いてみようと思うのである。その前に先ず知っておかねばならない事は、世界に於ける凡ゆる宗教の在り方である。それは昔から開祖、教祖の説いた処を基本とし、その宗教独特の教化方法、形式などもそれぞれ具わっており、言わば色分けになっている。

早い話が、世界的宗教としての仏教、キリスト教は固より、日本に於ける神道、仏教にしてもそうであり、然もその一宗一派の中にも分派があり、それぞれの色分けになっているので、これ等を考えてみると、どうも根本的不合理を感ずる。というのは、宗教なるものの本来である。言うまでもなく、人間相互の親愛、平和協調精神が生命である以上、目標は一つであらねばならない。従ってその手段方法にしても色分け等ないのが本当ではなかろうか。それが別れ別れになっているとしたら、人類の思想もそれに伴なうのは勿論で、これが又社会混乱の原因ともなるであろう。然も宗教という善の側にある人の力は分散されるから、邪神の力に対抗する事も出来なくなる。これは事実を見ても分る如く、宗教よりもその反対側である邪悪の方の力が勝つ事が常にある。尤も神は十全、邪神は九分九厘であるから、最後は神が勝つのは勿論だが、それだけ善の方の苦しみは並大抵ではない。これに就いて私の経験上そういう事がよくあった。それは邪神の勢力が旺盛で殆んど支配権を握っており、絶えず我々に対し眼を光らし、隙あらば切り込んで来る。彼のキリストにサタン、釈迦に提婆の言い伝えは今も変りはないとさえ思われる。

こうみてくると宗教は邪神以上の力を有たねばならない。それでなくては善の勝つ幸福な世にはなり得ないのである。そうなってこそ万教は帰一し、世界は打って一丸となり、ここに不安なき幸福な世界が実現するのである。併しそれは容易な業ではないが、不可能ではない。何故なれば主神の御目的たる地上天国は已に近寄りつつあるからである。その根本は勿論小乗を棄て、大乗精神が基本的条件となる事である。即ち地球上一切のもの、宗教、科学、政治、経済、芸術等悉くを包含された処の超文化運動であり、

その指導的役割こそ、超人的力と知恵とを有する巨人が出なければならない事である。

(昭和二十九年一月六日)

宗教は世界的たれ

抑々、宗教なるものは如何に他の条件は完備していても、その根本は世界的でなくては真の宗教とは言えないのである。何故なれば、民族的、国家的だとすれば、今日までの世界の実体と同様、争いを生ずることになるからである。という訳は、お互い自分の宗教の優越を誇り、他教を卑下することになり易いため、融和し得ないばかりか、時によりその国の為政者がそれを政治に利用することさえある。彼の日本の軍閥が太平洋戦争の際、神道を極端に利用したことなどもその一つの現われである。彼の古代ヨーロッパの十字軍の戦争などもよくそれを物語っている。

かような例は少なくないが、その原因が前に述べた如く、民族的宗教であった為である。とはいうものの、その時代が今日と違って交通の未開発や、国際関係の区域的であったからでもあり、文化の揺籃時代ともいうべき時とすれば、又やむを得なかったのである。

ところが、今日の如くすべてが世界的となり、国際的になった時代、尚更宗教もそれと歩調を共にすべきが本当である。本教が今回日本の二字を冠していたのを改め、世界救世教としたのも、以上の如き意味に外ならないのである。

(昭和二十五年二月十一日)

進歩的宗教

つくづく現在社会を見る時、日進月歩の今日、如何なるものと雖も進歩から外れているものは一つもない。ところが不思議な事には、人類に最も関連の深い宗教分野のみが聊かの進歩もみられないで、旧態依然たるどころか寧ろその逆でさえある。何よりの証拠は既成宗教がよくいう言葉に、本道に帰れ、即ち開祖の出発点へまで戻れというのである。とすれば横道へ外れたから元の道へ戻すという訳で、仮にこれを繰返すとしたら何等の進歩もない。実に文化の進歩と矛盾する訳である。既成宗教に何等人を惹きつける力がなくなり、現状維持に汲々たる有様はそれをよく物語っている。

成程、今日現存する何れの宗教と雖も、キリスト教は別とし、その開教当時は新宗教としての宿命ともいうべき迫害や圧迫に遭いつつも、兎も角新しい息吹によって溌剌たる発展があり、華やかな時代も通っては来たが、年を経るに従って漸次沈滞の気運に陥りつつあるのはその殆んどであろう。とすれば、これは何によるかを検討する必要がある。

それはいう迄もなく、時代の進歩に沿わないからで、教祖の教えを金科玉条として堅持する内、いつか掛離れてしまう。その結果、漸次溝が大きくなり、遂に今日の如き無力の非難を浴びせられるようになったのであろう。一切は原因があって結果があるとすれば、既成宗教たるもの大いに反省の必要があろう。何時までも超然たり得る筈がないからである。

これに鑑み、本教の根本義とするところは、凡てが進歩的であり、時代に即していることである。本教が既成宗教的形式を度外視し、形式の為に要する時間や費用をさけるということも右の点にあるからである。実際上形式のための負担は何等の利益とはならないから、神仏と雖もよろこばれる筈はあるまい。

以上の意味に於て現代人の生活をよりよく改善し、指導的役割を遂行することこそ真の宗教の使命であるべきで、一言にしていえば進歩的宗教こそ現代人を救い得る価値あるものというべきであろう。

(昭和二十四年十一月五日)

宗教の合理性

宗教を批判するに当って、正しいか正しくないかを判別する基準として、一番簡単な見方は合理性か非合理性かによるのが間違いない。この点神憑り宗教は危険性がある。といって神憑りはみんないけないというのではない。今日ある大宗教の開祖などに神憑りの多いのも事実である。しかし同じ神憑りであっても、そこに自ら正邪があるから、それを見分ける場合、先ず常識を以てみるのが最もいいのである。

(昭和二十四年七月二十三日)