よく安心立命という言葉があるが、これは精神的の面に限るように世人は思っているようだが、この考え方は大きな間違いであって、真の安心立命とは物質も伴なわなくてはならないのは勿論である。考えてもみるがいい、病気、貧乏、争いの三つの災厄の内の、例え一つでもあるとしたら、何故に安心があるであろうかということである。俺は一生涯病気の心配はない、貧乏になりっこはない、争いを起すようなこともないという自信がもててこそ、真の安心立命は得らるるのである。ところがそのような三拍子揃うなど、今の世の中では到底夢でしかあるまい。そんな人は恐らく世界中只の一人もないといってよかろう。
先ず世間をみればよく分る如く、何事も思うようにならない、嫌なことは次々降って来る、好いことなどは滅多に来ない、全くこの世の中は地獄その侭だ。第一健康にしてもそうだ。いつ何時病気に罹るか分らない、一寸した風邪を引いても、簡単に治ることもあれば治らないこともあるし、拗らしたり大病の前兆になることさえあるのだから、風邪位などといって安心してはおられない。又医学でいっている通り黴菌はそこら中ウヨウヨしているから、いつ何時伝染病や結核菌が飛込むか分らない。それがため当局でも医学衛生を喧しくいい、清潔にせよ、暴飲暴食をするな、外出から帰ったら嗽をしろ、食事の前は手を洗え、食物に注意せよなど、何だかんだと煩いほど注意を与えている。それら悉くを信ずるとしたら現代社会生活は全く恐怖の渦の中にいるようなものである。
勿論貧乏も争いもその殆んどは金銭問題が主となっており、その原因が又霊体の不調和にあるのであるから、健全なる精神と肉体とを保持するに非ざれば、絶対安心は出来ないのは言うまでもない。しかし世人はそんなことは到底出来ない相談でしかないと思うであろうが、それが立派に出来るとしたら、大変な福音であろう。ところが必ず出来ると、私は断言するのである。
(昭和二十七年十二月十日)
世の中は善悪入り乱れ、種々の様相を現わしている。即ち悲劇も喜劇も、不幸も幸福も、戦争も、平和も、その動機は善か悪かである。一体どうして善人もあれば悪人もあるのであろうか。この善悪の因って来る処の何か根本原因がなくてはならないと誰しも思うであろう。
今私がここに説かんとする処のものは、善と悪との原因で、これは是非知っておかねばならないものである。勿論普通の人間であれば善人たる事を冀い、悪人たる事を嫌うのは当り前であり、政府も、社会も、家庭も、一部の人を除いては善を愛好する事は当然であって、平和も幸福も悪では生まれない事を知るからである。
私は分り易くする為、善悪の定義を二つに分けてみよう。即ち善人とは「見えざるものを信ずる」人であり、悪人とは「見えざるものは信ぜざる」人である。従って「見えざるものを信ずる」人とは、神仏の実在を信ずる、所謂唯心主義者であり、「見えざるものは信じない」という人は唯物主義者であり、無神論者である。その例を挙げてみよう。
今人間が善を行う場合、その意念は愛からであり、慈悲からであり、社会主義からでもあり、大きくみれば人類愛からでもある。そうして善因善果、悪因悪果を信じて善を行う人もあり、憐憫の情止むにやまれず、人を助けたり、仏教でいう四恩に酬いるというような報恩精神からも、物を無駄にしない、勿体ないと思う質素、倹約等、何れも善の現われである。又人に好感を与えようとし、他人の利便幸福を願い、親切を施し、自己の天職に忠実であり、信仰者が神仏に感謝し、報恩の行為も、神仏の御心に叶うべく努める事も、悉善の現われである。まだ種々あろうが、大体以上の如くであろう。
次に悪事を行うものの心理は、全然神仏の存在を信ぜず、利欲の為人の眼さえ誤魔化せば、如何なる罪悪を行うも構わないという--虚無的思想であり、欺瞞は普通事の如く行い、他人を苦しめ、人類社会に禍いを及ぼす事などは更に顧慮する事なく、甚だしきは殺人さえ行うのである。そうして戦争は集団的殺人であって、昔からの英雄などは、自己の権勢の為、限りなき欲望の為、大戦争を起し、「勝てば官軍」式を行うのである。「人盛んなれば天に勝ち、天定って人に勝つ」という諺の通り一時は華やかであるが、必ずと言いたい程最後には悲惨な運命に没落する事は歴史の示す処で、勿論動機は悪である。
かように人の眼さえ誤魔化せば、如何なる事をしても知れないという事であれば、出来るだけ悪事をして、栄耀栄華に暮す方が得であり、怜悧--という事になる。又死後人間は零となり、霊界生活などはないと思う心が悪を発生する事になる。然るに如何程悪運強く、一時は成功者となっても、長い眼でみれば必ず何時かは没落する事は例外のない事実である。第一悪事を犯した者は、年が年中不安焦躁の日を送り、何時何どき引張られるか分らないという恐怖に怯え、良心の呵責に責められ、終には後悔せざるを得なくなるものである。よく悪事をしたものが自首したり、捕ってから反って安心して刑罰にあう事を喜ぶ者さえある事実を、我等は余りに多くみるのである。それは即ち神より与えられたる魂が、神から叱責さるるからである。何となれば魂は霊線によって神に通じているからである。故に悪を行う場合、完全に人の眼を誤魔化し得たとしても、自分の眼を誤魔化す事は出来ないから、人間と神と霊線で繋がっている以上、人間の如何なる行為も神には手にとる如く知れるからで、如何なる事も閻魔帳に悉く記録さるるという訳である。この意味に於て悪事程割の悪い事はない訳である。
併し乍ら世の中にはこういう人もある。悪事をしようとしても、もしか行り損って世間に知れたら大変だ、信用を落し非常な不利益となるから、という保身的観念からもあり、悪事をすればうまい事とは知り乍ら、意気地がなくて手を出し得ないという人もあり、又世間から信用を得たり、利益になるという観念から善を行う功利的善人もある。又人に親切を行う場合、こうすれば何れは恩返しをするだろう--と、それを期待する者もあるが、このような親切は一種の取引であって、親切を売って恩返しを買うという訳になる。以上述べたような善は、人を苦しめたり、社会を毒したりする訳ではないから、悪人よりはずっと良いが真の善人とはいえない。先ず消極的善人とでもいうべきであろう。従ってこのような善人は、神仏の御眼から見れば真の善人とはならない。神仏の御眼は人間の肚の底の底まで見通し給うからである。よく世間の人が疑問視する“あんな好い人がどうしてあんなに不幸だろう”などというのは、人間の眼で見るからの事で、人間の眼は表面ばかりで肚の底は見えないからで、この種の善人も詮じ詰めれば「見えざるものは信じない」という心理で、何等かの動機に触れ、少々悪事をしても人に知れないと思う場合、それに手を出す憂いがある以上、危険人物とも言える訳である。これに反し見えざる神仏を信ずる人は、人の目は誤魔化し得ても神仏の眼は誤魔化せないという信念によって、如何なるうまい話と雖も決して乗らないのである。故に現在表面から見れば立派な善人であっても、神仏を信じない人は何時悪人に変化するか分らないという危険性を孕んでいる以上、やはり悪に属する人と言えよう。
以上の理によって真の善人とは、「信仰あるもの」即ち見えざるものを信ずる人にしてその資格あり--と言うべきである。故に私は現在の如き道義的観念の甚だしき頽廃を救うには、信仰以外にないと思うのである。
そうして今日まで犯罪防止の必要から法規を作り、警察、裁判所、監獄等を設けて骨を折っているが、これ等は丁度猛獣の危害を防止する為檻を作り、鉄柵を取廻らすのと同様である。とすれば犯罪者は人間として扱われないで、獣類同様の扱いを受けている訳で折角貴き人間と生まれ乍ら、獣類に堕して生を終るという事は、何たる情ない事であろう。人間堕落すれば獣となり、向上すれば神となるというのは不変の真理で、全く人間とは「神と獣との中間である生物」である。この意味に於て真の文化人とは、獣性から脱却した人間であって、文化の進歩とは、獣性人間が神性人間に向上する事であると私は信ずるのである。従って、神性人間の集る所--それが地上天国でなくて何であろう。
(昭和二十三年九月五日)
最近新聞紙上を賑しているものに、公務員の汚職問題がある。然も御承知の如く次から次への続出で、殆んど底知れぬ観がある。これによって想像してみると、官界方面は何処も彼処も腐敗し切っており、丁度第三期梅毒患者のように、何処を圧しても膿汁が出るのと何等変りはない。恐らく今までにこんなにまで腐敗した事は聞かなかった。そこで当局も何とかせねばならぬと、対策に腐心しているようだが、それとても知れた事で、例の如く官紀粛正の一途あるのみであろうが、これも致し方がないとしても、これ等も一時的手段で根本には触れていない以上、何れは再び同様な問題が起るのは知れ切った話である。
そうしてこの問題に関連して、近頃喧しく言われているものに彼の社用族の暗躍がある。彼等はそれぞれの役人を料理屋、待合等に招待しては、ウンと饗応し骨抜きにしてしまって、旨い金儲けをするのだそうだが、これ等に要する費用も莫大な額に上るであろう。言うまでもなくそれらの金も物価や税金に掛けられて、その負担は国民が負うのであるから、考えれば国民こそいい面の皮である。このような訳で、この問題は一日も早く徹底的に解決しなければならないが、遺憾乍ら当局も有識者もその根本原因が分っていないから、どうしようもないのが実情である。そこで私はこれに就いて、必ず解決出来る方法を教えたいと思うのである。
先ず何よりも理屈に合わない事は、この問題を起す処の連中は、残らずと言いたい程、高等教育又は相当の教育を受けた者ばかりであるから、教育と犯罪とは余り関係がない事になろう。処が世間一般は高等教育を受けた程の人間なら、犯罪を犯すような馬鹿な事はする筈がないと信じ切っている。それが今日の社会通念であろう。成程知識人に限って、暴力的犯罪は行わないからそう思えるのも無理はないが、事実は暴力を揮わないだけの話で、それに代るに智能的に行うのであるから、結果に於ては寧ろ深刻さがある訳で、然も彼等は社会的地位ある人間であるから、一般に与えるその影響も少なくないであろう。では何故知識人であり乍ら、彼等はそのような忌わしい犯罪を犯すかというと、そこには重大な理由があるので、私は先ずこの点にメスを入れてみよう。
その根本理由というのは、彼等の心理に一大欠陥がある事である。それはどんな不正な事でも巧妙にやり、人の眼にさえ触れなければ旨く済んでしまうという唯物観念である。処が意外にも予想もしない処などからバレてしまうので、大いに驚くと共に首を捻るであろうが、その場合の彼等の心境を想像してみると、こんな処であろう。俺はアンナに巧くやったんだが、到頭バレてしまった。俺だって法律上の事位相当知っているから、間違っても法の網に引っかかるような間抜けな事はしてないつもりだが、それがこんな結果になるとはどうも分らない。併し出来た事は仕方がないから、なるべく速かに軽くなるようにすると共に、若し今度再び役人になった節は、もっと巧くやってやろうと思うのがその殆んどであろう。中には殊勝な公務員もあるだろうが、そういう人は今度のような汚職事件を起したのは全く間違っていた。俺が悪かった、この上は潔く罪に服し、これを契機として立派な人間に更生しようと決心するであろうが、なる程一時はそう思っても日の経つに従い、その決心は段々緩んでしまい。元の木阿弥となるであろう。というのはその原因が何れも無神論者であるからである。
ではこの問題を根本から解決するにはどうすればいいかというと、言わずとしれた信仰である。信仰によって神の実在を認識させる事である。それ以外効果ある方法は絶対あり得ない事を断言するのである。それというのは彼等の犯罪心理は前述の如く、この世に神仏などは絶対ないと信じ切っており、この地球の上は空気だけで、外にも何もありはしないという、至極単純な観念である。処が、我々の方は眼には見えないが、神は必ずあると言うと、それは迷信に囚われているからだと決めてしまうのである。処が真に実在しているから実在していると言っても、そう思われない処に恐るべき無神迷信が伏在しているのである。とすれば実に憐れむべき彼等であって、この考え方が犯罪心理の温床となっているのであるから、この迷信を打破する事こそ、問題解決の鍵である事は余りにも明白である。では何故彼等はそのような迷信に陥っているかというと、言うまでもなく子供の時から唯物教育を散々叩き込まれた結果、唯物主義至上の迷信に囚われているからで、この啓蒙こそ我々の仕事である。つまり彼等の再教育であって、事実これによってのみ犯罪を犯さない人間が作られるのであるから、為政者も知識人もこの事に目覚めない限り、他の如何なる方法も一時的膏薬張りに過ぎないのである。つまり人の眼は誤魔化し得ても、神の眼は誤魔化し得ないという只その一点だけを、彼等の肚の底へ叩き込む事である。
(昭和二十六年十二月十二日)
私は前々号に無神迷信の題名の下に、公務員の汚職問題に就いて詳しく書いたから大体分ったであろうが、要するにその根本は不正をする人の心理である。勿論人の目にさえ触れなければ、どんな悪い事をしても隠しおおせるという、所謂無神思想である。そこで今一層徹底して書いてみるが、成程右の考え通り悪が絶対知れずに済むとしたら、こんな旨い話はないから、出来るだけ悪い事をして儲けた方が得という事になる。今日悪い事をする人間の殆んどは、そうした考え方であるのは言うまでもない。処がいくら巧妙にやっても、いつかは必ず暴露してしまうというこの不思議さである。としたら彼等と雖もそこに気がつかない訳はなかろうが、本当の原因がハッキリ分らないが為、悪事を棄てかねるというのが偽らざる心情であろう。
そこで私は、何故悪事は必ずバレるかというその原因を明らかにしてみるが、先ず何より肝腎な事は、成程人の目は誤魔化す事が出来ても、自分の目は誤魔化せないという点である。どんなに人に知れないようにしても、自分だけはチャンと知っている以上、自分には暴露されている訳である。そうして一般人の考え方は、自分は社会の一員としての独立の存在であって、別段他には何等の繋がりがないから、何事も自分の思った通りにやれば一向差支えはない。だから自分に都合のいい事、利益になる事だけを巧くやればいい、それが当世利巧なやり方であるとしている。従って偶々利他的道義的な話を、先輩や宗教人などから聞かされても、上辺は感心したように見せても、肚の中では何だ馬鹿々々しい、そんな事は意気地なしの世迷言か、迷信屋の空念仏だ位にしか思わないのが実際であろう。全くそういう人間こそ形に囚われ、精神的には零でしかないから、人間としての価値は零と言えよう。
右は、現代人大部分の考え方をありのまま書いてみたのであるが、ではこういう思想の持主が果して将来幸福であろうかというと、例外なく失敗するのである。
では何故失敗するかというと、前述の如く悪は人には知れなくとも、自分だけは知っているのだから、この点が問題である。何故かというと、どんな事でも人間の肚にあるものは何でも彼んでも手に取るように分る、或る恐ろしい所がある。その恐ろしい所とは一体何処かというと、これが霊界にあって、現界でいえば検察庁のような所で、所謂閻魔の庁である。処が悲しい哉、唯物思想に固った人間には信じられないので、偶々人から聞かされても、そんなものはあるもんかと否定し、少しも耳を傾けようとしない。この想念こそ悪の発生原である。この理によって本当に悪をなくすとしたら、これを教え信じさせる事で、これ以外効果ある方法は絶対ない事を断言するのである。では閻魔の庁へ何故知れるかというと、人間の魂とその庁とは霊線といって、現界の無線電波のようなものが一人々々に繋がっていて、一分の狂いなく閻魔の庁に記録されてしまう。庁には記録係があって、一々帳簿へ載せ、悪事の大小によってそれ相応に罰するので、それが実に巧妙な手段によって暴露させ、現界的刑罰を加えるのであるから、この事が肚の底から分ったとしたら、恐ろしくて少しの悪い事も出来ないのである。尤もその反対に善い事をすれば、それ相応な褒美を与えられるという、これが現幽両界の実相であるから、この世界は神が理想的に造られたものである。
これが絶対真理であってみれば、これを信ずる以外、根本的解決法はないのである。処が現代はそういう霊的な事は、政府も有識者も盲目であるから、反って大衆に知らせるのを非文化的とさえ思っているのだから、困ったものである。そんな訳で、折角それを分らせようとする我々の仕事も迷信と断じて警戒する位だから、本当からいえばご自分の方が余っ程迷信にかかっているのである。その何よりの証拠は、これ程骨を折っても汚職などの犯罪は少しも減らないばかりか、むしろ増える傾向さえ見えるではないか。それは単に表面に現われた犯罪を膏薬張りで防ごうとしているのだから駄目で、容易に抜けられそうな法網を張ったり、誰でも破れるような取締りの塀で塞ごうとしていて、全然急所が外れているのだから、その愚及ぶべからずといいたい位である。然もこれが文化国家と思い、得々としているのだから、余りに幼稚で、現在は文化的野蛮時代といってもよかろう。
(昭和二十六年十二月二十六日)
悪人とは何ぞや。言うまでもなく善人の反対であって、自己の利益の為他人を犠牲にして平気でいるばかりか、中には一種の興味の為かとも思える奴さえあり、ここで先ず彼等の心理を解剖してみるが、よく悪人は太く短かくという事を口にするが、悪事千里の譬え通り長い期間は隠しおおせないという意味であろう。従って彼等は初めから承知してかかるので、もし知れたら百年目という覚悟である。処が単に悪事というと市井の無頼漢か強窃盗や殺人等のように思われ勝ちだが、そうばかりではない。社会的地位のあるものが実に危険至極と思われるような不正をする。終戦後新聞雑誌を賑わしているものに物資の隠匿、横流し、脱税、贈収賄等の忌わしい犯罪があまりにも多い事実である。この人がと思うような立派な名士等が、小菅行きとなるなどは不思議と思う位である。然らば何故以上のような不正を行うかというと、人の目を誤魔化し、巧妙にやれば知れずに済むという考えからである事は勿論である。処が悪い事はどうしても知れずにはいない。これは見えざる霊界に於て神々が照覧ましましているからで、常に我々が口を酸っぱくして言う処の「無信仰者は危険人物である」とはこの事で、相当偉い人でもこの肝腎の事が認識出来ないのである。
処が一度不正が暴露し犯罪者となった以上、社会的信用は失墜し、それを挽回するまでには相当長年月を要する事は勿論で、中には運悪く一生埋れ木となる人さえ往々見受けるのである。考えてもみるがいい。一寸した不正利得の為に及ぼす損失たるや、利得した何倍何十倍に上るか知れないのである。
明治時代、有名なピストル強盗清水定吉なるものが捕えられた時、彼はつくづく述懐したそうである。その言葉によれば「強盗位割の悪い商売はない。自分が今まで盗んだ金を日割にすると一日四十五銭にしか当らない」との事であるから、いくら物価の安かった明治時代でも全く割に合わなかったに違いない。
以上の如く信仰上から考えても打算的からいっても割に合わないばかりか、罪悪が暴露するまでの期間常に戦々兢々として枕を高くして寝る事は出来ないのであるから、悪事不正をやる人間位愚かな者はない訳である。故に標題の如く“愚かなるものよ、汝の名は悪人なり”と言うのである。
(昭和二十四年四月三十日)
この標題を見たら、誰しも首を捻るであろう。何故ならば、悪人でも健康そうに見える者も沢山あるからで、寧ろ悪人の方がそういう人間が多い位だ。併しこれは表面から見るからで、内容即ち霊の方は立派な病人なのである。というのはいつもいう通り、悪人というものは悪霊が憑依して、本守護神を押込め、正守護神を蹴っ飛ばして、早くいえばその人の霊の大部分を占領してしまい、悪霊自身が主人公になりすまし、勝手気儘に振舞うからである。
その悪霊とは、言うまでもなく、狐、狸、龍神、その他の動物霊であるから、その行為は動物と大差ない事になる。従って人としたら到底出来得ない程の、無慈悲残虐な事を平気でやる処か反って面白がる位だから、如何に人間離れがしており、常識では考えられないかが分るのである。
といっても人間誰しも副守護神、即ち動物霊は生まれながらに憑ついている事は私が教えている通りであるが、これも人間の生存上止むを得ないので、それは体欲が必要だから神は許されているのである。処が悪人となると新しく動物霊が憑る場合と、元からいる右の副守護神が動物の本性を現わす場合との両方がある。ではどうしてそのようになるかというと、つまりその人の霊に曇りが生じ、その曇りが濃厚になるに従ってその相応の動物霊が憑く事になり、憑くと前述の如く、人間の本霊の方が負けてしまうから、彼の思い通りになってしまい活躍するのであるから、悪人とは即ち霊の曇りが原因であって、その霊の曇り通りに血液も濁るから、何れの日か猛烈な浄化作用が必ず起るのである。その場合曇りの程度の苦痛が生まれる。それが不時の災難や、病気その他の不幸の原因となるのである。面白い事には、よく大悪人が聊かでも反省の念が湧き、仏心が起ると間もなく悪事が露見し、捕まるという事をよく言われるが、それはヤハリ浄化が起ったからである。又「悪盛んなれば天に勝ち、天定まって人に勝つ」という諺などもその意味で、つまり人間は心に曇りが溜ると、苦しみによって浄められる天則の為である。
こうみてくると、悪人になる原因は我々から見ると霊の曇りで、立派な病人なのである。勿論大悪人程浄化も猛烈であり、大苦痛が起り、大病人となるのは言うまでもない。処が霊に曇りが生ずるという事は、本守護神に力、即ち光が足りないからで、それを免れるには宗教によらなくてはならないという訳になる。従って信仰に入り、常に神に向かっていれば、霊線を通じて神の光が魂に注入され、光が増えるから曇りが減るので、その為動物霊は苦しみ、居候の方は早速逃げ出すが、元からいる副守護神は縮んでしまい、悪は出来なくなるのである。この理によってみても、神に手を合わさない人は、何時如何なる時、何かの動機に触れて悪人になるかも分らない危険があるのだから、無信仰者は危険人物といってもいいので、現代社会は如何にこの危険人物が多いかは、右によっても分るであろう。全く社会悪が一向減らないのも右の理に因るのである。従って現在如何に善人であっても、無信仰者である限り真の善人ではなく、言わば悪人の素質をもっている善人に過ぎないので、無信仰者には絶対気は許せないのである。昔から人を見たら泥棒と思えというのは、無信仰者を指したものであろう。
処が右のような簡単な理屈でさえ、今の偉い人も政府当局者も全然分らない結果、宗教を否定し、法のみに頼って悪をなくそうとするのであるから、如何に間違っているかが分るであろう。
(昭和二十六年十一月二十一日)
近来多い犯罪の中で、最も悪質なのは、僅かな金を奪りたい為、人の命をとるのを犬一匹殺すよりも、簡単に考えているかのようで、こういう人間をみる時、常識では到底考えられない程の無手法さに唖然とする。普通から言えば、何たる怖ろしい世の中ではないか。然も殺される本人もそうだが、遺族の者の歎きはどんなだろうなどとは、全然考えないと共に、もしか捕まったら死刑は勿論、よくいっても無期は免れ得まいとの予感は、必ず起らなければならない筈だが、どちらにしても若い身空で、娑婆の風にも当れなくなり、一生を棒に振るようになる。という考えが浮かびそうなものだが、そうでないらしい。という心理こそ実に不可解である。全く彼等の行為は本能の赴くまま、刹那主義的一時の享楽を欲する以外の何物でもあるまい。僅かな時間の享楽が目的で、その何十倍、何百倍の高価な代償を払うとしたら、どう考えても人間とは思えない、四ツ足そのままだ。御承知の通り、四ツ足という奴は、犯罪後殺されるなどとは、無論意識もしないのだから、厄介だ。
こうみてくると、理屈のつけようがないと思うだろうが、実はこれには理由がある。というのは霊的にみると実によく分る。本教の教えにもある如く、人間には三つの守護神が憑いている。即ち神から与えられた本守護神、祖霊から選ばれた正守護神、体欲専門の副守護神である。勿論本守護神は良心の源であり、善を勧めるのが正守護神である。そこで副守護神が霊を占領すると、四ツ足が支配する事になるから、形は人間であっても獣と同様になる。従って、獣である以上、慈悲や情などありよう筈もなく、徹頭徹尾残虐性を発揮するのである。というのが兇悪犯罪の根本原因であるから、どうしても人間は、獣に支配されない魂にならなくては、実に危険である。何かの衝動にかられるや忽ち邪欲が起って、犯罪者となる。ではどうすればいいかと言うと、これこそ宗教の力による外はない。然らば、何故宗教によらなければならないかと言うと、前述の如く、人間が獣即ち副守護神に支配されるからである。としたら、つまりその副守の支配力を弱らせる事である。分り易く言えば、悪よりも善の力を強くする。つまり副守の方が被支配者になる事である。それ以外絶対解決の方法はあり得ない事を断言する。
先ず何よりも、信仰に入り、神に向い、拝み、祈れば、神と人間とが霊線によって繋がれる以上、霊線を通じて神の光は魂に注入され、魂の光が増すに従って副守は萎縮し、人間を自由にする力が弱るのである。これを例えてみると、人間誰しも絶えず心の中で善悪が戦っているであろう。これは右の理によるからである。だから如何程法規を密にし、取締を厳重にすると雖も、それは他動的に抑えるだけであるから、ないよりはましだが、根本に触れない以上、効果は薄く、今日の如き悪世相が生まれるのである。
こんな分り切った事に、政府も教育家も今もって気がつかないのであるから、不可解である。見よ、今日兇悪犯罪が多いとか、青少年の犯罪が激増するとか言って、溜息をつくばかりで、ヤッと思いついたのが、ヤレ修身を復活せよとか、教育の方針を改めよとか言う位の、カビ臭い智慧より出ないのであるから、我々からみれば情ないと言うより外ないのである。皮肉な言い方かも知れないが、丁度笊へ水を汲んでいた処、余りに水が洩るので、これではならぬと笊の目を細かくするようなものであろう。
この文を、社会の指導者諸君に提言するのである。
(昭和二十六年七月二十五日)
私は、この前悪に勝つという論文を書いたが、これは悪人に負けてはならないという意味であったが今度は他人事ではなく、御自分の肚の中にいる悪に勝たなくてはならないという事を書いてみる。凡そ如何なる人間でも、肚の中ではいつも善と悪と戦っている。つまり仏教でいう煩悩を抑えつけようとする戦いである。何しろ人間の欲にはキリがないから“ヤレ金が欲しい、女が欲しい、勢力を得たい、名誉が欲しい、我侭がしたい”というような悪の奴が始終頭を持ち上げようとするので、其奴を押えつけようとする。“そんな事をしてはいけない、気をつけろ、若し行ったら酷い目に遇わしてやるぞ”と言って善玉が押えつける。又善玉は“人を喜ばせろ、他人様がみんな幸福になるようにしろ”と言って、どこ迄も善悪が戦って闘って闘いぬいているのが万物の霊長様のあるがままの姿だ。
このような訳であるから、悪が勝てば罪を犯し不幸を生み、善が勝てば幸福を生むのは、将に判然としているんだから訳はないようだが、人間はそれが分っていて実行が出来ない。特に無信仰者程そうである。そこへゆくと信者はよく知っているから、悪に負ける事は極めて少ない。とは言うものの、実は容易の業ではない。勿論悪をさせるのは副守護神であり、善をさせるのは正守護神であるが、それ以上絶対善の命令者が本守護神であるから、結局本守護神の威力を増すようにする事で、これが根本的悪を征服する力である。だから人間はこの力を育てるように常に心掛けるべきで、その唯一の方法が神様を拝み、信仰を徹底させることである。これ以外幸福者となる方法はないのである。
(昭和二十六年六月二十日)
今日、口を開けば社会悪を言って歎くが、全く到る所悪人が多過ぎるからである。
我々の経路を振返ってみると、悪人との闘争史であると言ってもいい程、常に悪人からイジメられている。処が悪人の心理をよく解剖してみると、決して無意識にやるのではない、承知の上でやっているのである。兇悪無類の大悪人は別だが、大多数の悪人は、悪い事はいけないと知りつつ金が欲しい、酒も女もいろいろな物が欲しい結果、つい悪の道へ飛込んでしまう。一旦悪の道へ入ると、容易に抜け切れないのが一般悪人の通念である。
勿論、法律は怖いという事は知っていても真面目では容易に欲望を充たせ得られないから、法に触れないよう、人に見られないようと、細心の注意を払い、苦心惨澹する。勿論嘘でも誤魔化しでも、出来るだけ巧妙にやるというわけで、漸次時の進むに従い技能は益々発達する為、うまく人を騙す位など朝飯前という事になる。処で騙される方は善人が多いから諦めてしまう。これをいい事にして益々悪事を行うと共に、この域に達すると、真面目な事よりも悪の方が手取り早く成績を上げるというわけになる。こうなったのは、なかなか足を洗う処か、漸次泥沼へ嵌り込んでしまう。勿論この種の悪人は知能犯であるから、比較的中流以上に多いのも事実である。
そうして人間は誰しも何等かの癖を持っているもので、昔から人は「無くて七癖」という言葉がある位だ。悪事は、人を苦しめ不幸に陥し、罪を作るという事は、流石に悪人でも気は咎めるに違いない。又酒を飲む癖も、よけいな散財をし、生活も苦しくなり、妻子にも泣きを見せ、可哀想だとは知っている。又、女が欲しいがよけいな金を使わなければならないし、悪性な病気を背負う危険もあり、親や妻に心配をかける事も分っている。博打や賭事をすると損する事の方が多い事等、悪い事はよく知り乍ら、どうしてもやめられない、制える事が出来ない--というのは、殆んど経験のない人はあるまい。私の言いたいのはこの点である。
悪いと知り乍ら制える事が出来ないというのは、制えつける力、即ち真の勇気が足りないからである。この勇気こそ人間の最も尊いものである。私は常に「人間向上すれば神となる」という事を言うが、この悪い事と知れば、それをピッタリ制御してしまって、悪には絶対負けないという心の持主こそ、その人は立派な神格者となったのである。全くこの力こそ真の力で、こういう力が本当の観音力である。
以上の意味によって、「弱きものよ、汝の名は悪人なり」と私は言うが、右によって了解さるるであろう。
(昭和二十四年十月二十九日)
日本人ほど泣寝入りをする国民は、他の文化国に類を見ないそうである。しかしこれは無理もない。昔から“泣く子と地頭には勝たれない”と言われる通り、今もその封建的遺産が残っているためである。
一例を挙げれば新聞雑誌の中傷的記事で迷惑をしても、新聞屋に睨まれると又どんな記事を書かれるかもしれないと言って泣寝入りする。官憲の処置が納得がゆかない場合でも、それに不服をいうと後の祟りが恐ろしいといって泣寝入りする。税務署の課税が不当だと思っても、感情を害ね睨まれでもすると大変だからといって泣寝入りする。押借、ユスリ等を断わったり訴えたりすると、後のシッペイ返しが恐いといって泣寝入りする。未だに絶えない各地のボスなども、泣寝入りをいいことにして大いに跋扈し、良民を苦しめることは誰でも知っているところである。
彼の米国などの話をきくと、人権を無視したり、不合理な扱いを受けたりすると、断乎として抗議をし、正理が貫徹する迄は決して後へ引かないそうである。人民にこの意気あってこそ、社会の不正は防遏され、正義は守られるので、真の民主主義社会が実現するのである。故に日本が民主的明朗なる社会を造らんとすれば、正義の蹂躪に対し断乎として屈せざることで、即ち善が悪に勝たなければならないことである。この風潮が社会に瀰漫するにおいて、初めて民主日本となるのである。
(昭和二十四年五月三十一日)
由来、昔から宗教なるものは、絶対無抵抗主義を基本として発達して来たものであって、彼の世界的大宗教の開祖キリストさえ「右の頬を打たれれば、左の頬を打たせよ」と言われた事や、又キリスト自身がゴルゴダの丘に於て、十字架に懸けられた際、隣の柱に縛られていた一人の泥棒があったが、彼はキリストに言った。“オイ、イエスよ、お前は先程から何か口の中で唱え乍ら悲しそうな面をしているが、多分お前を罪人にした奴が憎いので呪っていたのであろう”。するとキリストは“イヤそうじゃない、俺は俺を讒言した人間の罪を赦されたいと父なる神に祈っていたんだ”と言ったので、泥棒は唖然としたという有名な話があるが、これ等をみても、キリストは如何に大きな愛の権化であったかが分るのである。
又、釈尊にしても、提婆の執拗な凡ゆる妨害に対して、仏道修業と解釈したのであろう。何等抵抗的態度に出なかったようである。右の如く二大聖者でさえそのようであったから、その流れを汲んだ幾多の聖者や開祖もそうであったのは洵に明らかである。只一人日蓮のみは反対であって、彼の燃ゆるが如き闘争心は、行過ぎとさえ思われる程であった。彼の有名な「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」なるスローガンにみても、その排他的信念の如何に旺盛であったかは、我等と雖も賛成し兼ねる処である。
以上の如き例によってみるも、確かに神の愛、仏の慈悲は、人々の心を捉え、それが敬仰の原となっているのは言うまでもないが、その結果を批判してみると、一概にはその是非を決めかねる。というのは、釈尊やキリスト歿後二千有余年も経た今日、尚邪悪は依然として減らない処か、寧ろ殖える傾向さえ見らるる事である。善人が悪人に苦しめられ、正直者は馬鹿をみるというような事実は、昔から今に至るまで更に衰える事なく、文化の進歩とこの事とは全然無関係であるとさえ思えるのである。只文化の進歩によって、悪の手段が巧妙になったまでで、その本質に至っては、聊かも違う処はない。現在としては法の制裁の場合、僅かに暴力が伴なわなくなったのみである。併しそれだけ事柄によっては、深刻性が増したとも言えるのである。
それはとも角として、何故邪悪は根絶しないかという事をよく考えてみなくてはならない。言うまでもなくその根本は、善が悪に負けるからである。それが為悪人はいい事にして、善人を絶えず苦しめようとする。何よりも彼等悪人は、善人を非常に甘くみる。思うに彼等の心情は、善人なんて者は至極愚かで、意気地なしに決っているとして軽蔑しきっている。又善人の方でも、悪人には到底勝てない、なまじ抵抗などすると、思いがけない迷惑を蒙ったり、危害を加えられたりする。だから温和しく我慢して済ましてしまうに限る、その方がいくら得だか分らない、というように諦めてしまう。そんな訳で悪人は益々つけ上り、毒牙を磨き、法に引っ掛らない限りの悪を逞しくするという、これが目下の社会状態である。
右に述べた処は、個人に関したものであるが、一層怖るべきは官憲やジャーナリスト達の誤解である。先頃私が経験した事件によってみてもそうであって、これは法難手記に詳しく書いてあるから、読んだ人は分っているであろうが、官憲が法律という武器を思うまま振り回して、武器を持たない人民を苦しめる事である。何しろ法の濫用によって、人民は罪なくして被告にされるのは堪らないから、彼等の感情に訴え、少しでも軽くして貰いたいと願うのである。そのような訳で弁護人にしても、検察官の感情を害さないよう、心証をよくするようにと、我々に対してもよく注意するのである。又上申書を書く場合と雖も、その文章の中に、哀訴歎願的言葉を混えなければならないのである。これ等によってみても、我々が不断考えていた処の、司法官は法を重んじ公平なる裁きをするものと想像していた事の、如何に思い違いであった事を知ったのである。
少し言い過ぎかも知れないが、調官の行り方を見ると、法以外、自己の面目や感情などが割合微妙に働いている事を知ったのである。
次に言いたいのは、ジャーナリスト諸君である。彼等は独善的判断の下に、殆んど傍若無人的に書き立てる。その場合真実と違おうが違うまいがお構いなしで只興味本位を中心に、人に迷惑がかかろうが損害を与えようが、一向無関心である。誰かが言った、新聞は二十世紀の暴君とは満更間違ってはいないように思われる。常に口には民主主義を唱え乍ら、事実は言論の暴力者であるというその原因は、全く言論に対しては、厳しい制裁がないからであろう。右のような訳だから、先年本教が新聞のデマ記事で度々攻撃を受けた場合「物識りというような人々は、どんな事を書かれても反抗するのは損だから、マア我慢して泣寝入りにした方が得ですよ。特に大新聞などに逆らうと、どんな目に遭わされるか分らないから温和しくするに限りますよ」とよく注意を受けたものである。
以上、私は個人の場合と、官憲と新聞との三つを書いたが、このどれもが悪が善に勝つという見本である。そんな訳で常に被害者は、我慢、泣寝入り、損をしたくない等の利害を先にして無抵抗に終るのであるから、彼等は益々跋扈し、止どまる処を知らない有様である。これでは折角の法があっても、法としての威力は大いに減殺され、人民はいつも被害者となるのであるから困った社会である。としたら、何時になったら善人が安心して住める世の中になるか、実は心細い限りである。ここに於てたとえ宗教家たる我等と雖も、常に唱えている如く善が悪に負けてはならない、悪に負ける善は真の善ではなく、意気地なし以外の何物でもないと、警告するのである。
特に、彼等が宗教家に対する場合、どうも普通人と区別して見る。宗教家と無抵抗主義であるから、どんなに虐めても大した事はないと頭から嘗めてかかる。ここに宗教の弱さがある。というよりも弱いものと決められている事である。従ってどうしてもこの彼等のサタン的観念を払拭しなければならないのは勿論で、この意味に於て大いに悪と闘わねばならない。何よりも以前大新聞が本教を盛んに攻撃した時も、本教は決して恐るる事なく、飽迄も本教機関紙によって彼等の邪悪と闘ったが、諸君も知っているであろう。このような訳であるから、我等は、如何に大なる力を持って押潰そうとしても、敢然として先方が反省するまで闘うのである。これが真の神のご意志でなくて何であろう。
従って、悪は到底善には敵わないから、悪を捨て善に改める方が得策であると覚らす事で、これが生きた宗教のあり方であろう。これを大きく考えてみると尚よく分る。彼の米国が武力侵略国に対し、悪では成功しないという事を覚らせ、諦めさせなければ世界平和は出現しないとして、今日国力を傾けて諸国家を援助しているのと、理屈は同じである。
私はこの主義を以て今日まで一貫して来たので、決して不正には負けない信念である。一例を挙げてみると、私が被告になって、以前から続いている土地問題の係争事件があるが、驚く勿れ、今年で丁度十四年目になるがまだ片がつかない。何しろ書類を積み重ねた高さが一尺以上あるので、裁判官が代る毎にそれを最初から読まなければならないから、裁判官も辟易してしまい、極力示談を勧めているが、私は元々不正に対して戦うのだから、利害は第二として、先方が自己の非を覚り、正しい条件を持って来れば直ぐにも応ずるが、そうでなければ決して和解をしないのである。以上長々と述べたが、ここで結論を言えば、宗教本来の目的は、善を勧め悪を懲らすにあるのであるから、決して悪には負けてはならないのである。何となれば善が勝っただけは悪が減るのであるから、それだけ社会はよくなるという訳で、かくして地上天国は生まれるのである。
(昭和二十六年四月十八日)
つくづく今日の世相を見るに、悪い奴があまりにノサばり過ぎている。それが為、善人が如何に虐げられ苦しみつつあるかで、これは誰も知る処であろう。それに就いてその根本の原因を書いてみよう。
昔から兎角善人は弱いもの、悪人は強いものとされている。これが為悪人共は益々跳梁跋扈する。といって昔は今日の如く法規の完備、暴力取締の機関がないから、悪人の暴力に対し善人は手が出せないので泣寝入りになってしまうというわけで、町人階級は腕っ節の強い奴、無鉄砲な奴が巾を利かしていた。又武士階級と雖も、その中の悪人は剣の力を悪用するので、町人階級は恐れて手が出せないのであった事は、歴史や物語りに数知れず遺っている。という訳で今日とは雲泥の相違があった。尤も維新後、世は文明開化の時代となり、漸次法規も完備し、暴力否定の傾向に社会全般が向いつつ今日に到ったのであるが、悲しい哉、我が国民性は今以て暴力根絶とはならない。特に終戦前までは軍閥や右翼の浪人壮士輩が、多少の暴力を伝家の宝刀として隠しつつ、機に触れ用いた事もあるにはあった。
処が、終戦後は軍閥もなく、右翼も殆んど鎮圧されたので、この点よほど明るくはなったが、近頃の悪人共は暴力以外の手段を巧妙に行使し始めた。勿論金銭を目的に善人を苦しめるのである。それはどういう手段かというに、いわば合法的恐喝である。つまり紙一重で法に引掛らないようにする。それ等は常に本紙に掲載しているユスリ、タカリの類は固より、本紙には載せないが数件に上る訴訟事件もある。これ等も勿論虚偽や捏造で法規を悪用し、自己の欲望を達成しようとするのである。然もこれ等は中流以上の人士であるから情ない話である。右は数十年以前から私は訴訟の絶えた事がないに見て明らかである。という事は、私は昔から一種の主義を堅持している。
その主義というのは、善人は悪人に負けてはならない事で、悪よりも強い善が真の善であると思うからで、事実善人が悪人に負けるから悪人が幅るので、それが社会悪根絶の出来ない最大原因である。その為悪人はそれを好い事にして益々爪を伸ばし善人を苦しめる。この点特に中流以上の者に多い事で、所謂智能的犯罪である。又善人が悪人からイジめられた場合、それを告訴したり抗議を発する事は知っていても、犬糞的シッペイ返しを恐れると共に、裁判をすれば費用とか手数がかかり、打算上馬鹿馬鹿しいから諦めてしまう。これ等の例は実に多いのである。故に私の訴訟なども、私を善人に見て、これ位の事をしても必ず諦めるだろうと高を括って始めたが、私は前述の主義によって悪に負けられないから勝つまで闘うので、結末までには非常に長くかかるのである。一番長いのは今年で十一年になるが未だ勝敗は決しない訴訟がある。
ボスが絶えないのも右の原因であり、官吏の醜聞の絶えないのもそうである。不正に反抗したくも犬糞が恐ろしいので諦める。これが官吏腐敗の一原因である事は誰知らぬものもない事実である。
以上種々の例を挙げたが、一言にしていえば社会悪の原因は善人が弱いからである。とすれば弱い善人は真の善人ではない、実は意気地なしである。悪に対する憤激が足りないからで、いわば消極的善人で、かような善人が殖えた処で、善人自身は悪をする勇気がないからその点はいいとしても、悪の跋扈を許す処の自己安全のみを願う一種の卑怯者である。分り易くいえば悪人共はどうしても善人には敵わない、善人という奴は実に強い、始末が悪い、悪人ではいくら骨折っても駄目だから、いっそ悪人をやめて善人の仲間へ入る方がいいというようになれば、社会悪は激減し、住みよい明るい世の中となるのは必然である。
右の理論を肯定するとして、何程善人が歯ぎしりしても個人では不可能である。とすればどうすればよいかというと、先ず善人が団結し連盟を作るのである。名称は悪徳排除連盟とでも言ったらよかろう。こういう案を私は提唱するのだが、これこそ社会改善に対する最も有効手段と思うからである。
(昭和二十四年十月十五日)
この題を見た人は、随分変な題と思うだろうが、こうかくのが一番適切と思うからである。では一体どういう意味かというと、今まで私を騙そうとしたり、一杯食わそうとするよからぬ人間が世の中に余りにも多いからで、尤も私が宗教家であり、善人らしく<らしくじゃない、全く善人なんだが>仏様のように見えるらしいので、舐めてかかるのである。そういう輩は奸智、邪智に長けていて凄い企らみをする。そうかと思うと社会的地位のある人間などで、図々しい押しの強い人間もよくあるが、この手合は最初から私を蟒蛇のように呑んでかかるが、そういう場合私は一旦は呑まれておいて、徐ろに対策を立てる。といっても別段変ったやり方ではなく、至極真面目に平々凡々たるものであるから、彼等も気がつかず、いい気になって図に乗り、食い込んで来る。併し私は肝腎な急所だけはギュッと抑えておって、後は先様の思い通りにさせていると、彼等は色々行ってみるが、どうも思うようにゆかないので、諦めてしまいそうだが、中々諦めない。反って岡田の奴もう往生しそうなものだ、そろそろ妥協を申し入れて来そうなものだと待っているが、私の方は落着き払って放っといた侭知らん顔をしているので、先方はどうする事も出来ず、運動費は使い果し、段々彼等の方が不利となり、焦り出す程尚悪くなって、結局往生してしまうという事がよくある。そうかと思うと、シタタカ者は巧妙な手段を以て、私から金を引き出そうとし、計略を回らし、執拗にあの手この手で食下って来る。つまり彼等の考えでは、救世教は金があるし、本尊の教主は所謂生神様同然で世相に暗いだろうから、何れは相当金を出すに違いない。又少し位損をかけても、面倒だからと諦めてしまい、裁判沙汰などにする事はないと、高を括っている。処が私としては先方の肚がチャンと見え透いているから、裏の裏をかいたり逆手を打ったりするので、先方は当が外れ、手も足も出なくなり、結局骨折損の草臥儲けとなるので、お気の毒様でも何でもないという訳である。
こういう事をかくと、明主様は宗教家に似合わず、寔に無慈悲なように思うかも知れないが神様からいうとそれでいいのである。本来神様の御心というものは、善は飽くまでもお助けになるが、悪は寸毫と雖も容赦されなのである。これも私がいつもいう通り、悪に勝たねばいけないというのもこの意味である。又よくある言葉に、彼奴は食えないというが、この言葉の裏には悪い意味が含まれており、その反対は彼奴は善人だが役に立たないという意味でもある。そうしてみると悪人は食えない奴と相場は決まっているようだが、実は私はその食えない奴よりも一倍も二倍も食えない人間と思っている。それが真の善人であり、これでなくては悪い世の中を善くする事は出来ないのである。という訳で私は世の中の悪人という悪人は、片っ端からひねる方針にしている。これが生きた宗教家の在り方と思うからである。
(昭和二十七年二月二十日)
つくづく現在の世の中を見ると、どうも今の人間は、悪に対する憤激が余りに足りないようだ。例えば悪人に善人が苦しめられている話など聞いても興奮する人は割合少ない。察するに、悪に対し幾ら憤激した処で仕方がない。然も別段自分の利害に関係がないとしたら、そんな余計な事に心を痛めるより、自分の損得に関係のある事だけ心配すれば沢山だ。それでなくてさえ、この世智辛い世の中は心配事や苦しみが多過ぎる。だから見て見ぬ振りをする、それが利口者と思うらしい。然も世間はこういう人を見ると、世相に長けた苦労人として尊敬する位だから、それを見て見習う人も多い訳である。
又政治が悪い。政治家や役人が腐敗している。社会の頭だった人が贈収賄、涜職事件等でよく新聞などに出ており、特に近来非常に犯罪が増え、青少年の不良化等も日本の前途を思えば、この侭では済まされないし、役人の封建性も依然たる有様だし、民主々義の履き違いで、親子、兄弟、師弟の関係なども誠に冷たくなったようだ。税の苛斂誅求も酷過ぎるし、民主々義も名は立派だが、実は官主々義に抑えつけられて、人民は苦しむばかりだ。その他何々等々、数え上げれば限りのない程、種々雑多な厭な問題がある。これ等悉くは勿論、社会的正義感の欠乏が原因であるに違いないが、何といっても前述の如く所謂利口者が多すぎる為であろう。併しよく考えてみればそういう社会になるのも無理はない。何時の時代でもそうであるが、殊に青年層は正義感が旺盛なもので、悪に対する憤激も相当あるにはあるが、先ず学校を出て一度社会人となるや、実際生活に打つかってみると、意外な事が余りに多く、段々経験を積むに従って考え方が変って来る。なまじ不正に興奮したり、正義感など振り回したりすると、思わぬ誤解を受けたり、人から敬遠されたり、上役からは煙たがられたりするので、出世の妨げともなり易いという訳で、いつしか正義感等は心の片隅に押し込めてしまい、実利本位で進むようになる。こうなると兎も角一通りの処世術を会得した人間という事になる。
これ等も勿論悪いとはいえないが、こういう人間が余り増えると、社会機構は緩み勝ちとなり、頽廃気分が瀰漫し、堕落者、犯罪者が殖える結果となる。現在の社会状態がそれをよく物語っているではないか。そうして私の長い間の経験によるも、先ず人間の価値を決める場合、悪に対する憤激の多寡によるのが一番間違いないようである。何となれば、悪に対する憤激の多い人程骨があり、しっかりしている訳だが、併し単なる憤激だけでは困る。ややもすれば危険を伴ない勝ちだからである。事実青年などが兎角血気にハヤリ、人に迷惑を掛けたり、社会の安寧を脅す事などないとは言えないからで、それにはどうしても叡智が必要となってくる。つまり憤激は心の奥深く潜めておき、充分考慮し、無分別な行り方は避けると共に、人の為、社会の為、正なり、善なりと思う事を正々堂々と行うべきである。これについて私の事を少し書いてみるが、私は若い頃から正義感が強く、世の中の不正を憎む事人並以上で、不正を見たり聞いたりすると憤激止み難いので、その心を抑えつけるに随分骨を折ったものである。併しこの我慢は中々苦しいが、これも修業と思えばさ程でなく、又魂が磨かれるのも勿論である。この点今日と雖も変らないが、これも神様の試練と思って忍耐するのである。このような訳で、理想としては不正に対し憤激が起る位の人間でなくては役には立たないが、只それを現わす手段方法が考慮を要するのである。即ち聊かでも常軌を失したり、人に迷惑を掛けたりする事のないように、くれぐれも注意すべきで、どこまでも常識的で愛と親和に欠けないよう、神の心を心として進むべきである。
(昭和二十六年二月二十五日)
凡そ人間の価値を定めようとする場合、一番間違いのないのは、正義感の多少である。この人なら悪い事はしない、この人なら信用が出来る、何を任しても安心だ、という標準を置くのが一番正確である。全くこれ以上に良い方法はないといってよかろう。即ち正義感こそ言わば人間の骨である。正義感のない人は、骨無しの水母みたいなものだから危くて安心出来ない。従って人間は何事に対しても、正邪の判断から先につけるべきで、若し先方が悪であれば、聊かも屈する事なく、正を以て対抗すべきである。この方針で世の中を渡るとしたら、一時は苦しい事もあるが、結局は必ず思い通りになるものであるから心配は要らない。何しろこの頃の世の中と来ては、悪い人間が余りに多すぎるので、ウッカリすると直にこちらを瞞したり、利用したりして酷い目に遭わせるから、実に油断も隙もならない世の中である。だがら気の弱い人は、いつもビクビクしているが、これは全く確固たる正義感がないからである。
何よりの証拠は、私の長い経験によってみてもそうである。それを参考の為書いてみるが、私は宗教家となる以前の実業家であった当時の事だが、随分悪人に瞞されたり、酷い目に遭わされたりしたものである。併し有難い事には、私は生まれつき人並外れて正義感が強いので、どんな目に遭っても、損得を度外しても闘ったものである。飽くまで正義を貫く方針で努力したので、それが為随分不利な事もあったが、それは一時的でいつかしら良くなり、遂に先方は負けてしまい、降参するのである。その結果最初の不利を取返して、尚余りある程の利益となったものである。そんな訳で、いつも三つや四つの裁判事件があり、今以て続いているものもある。或る時等は私が金に困ってピーピーしていた時代、先方は金と地位に任せて、随分私を虐め抜いたものだが、長い間には私の方が有利に展開して、先方は往生したのである。
その例を少し書いてみるが、私が小間物問屋をしていた頃、新発明の品物を作り、世界十カ国の専売特許を得、売り出した処大いに当って、三越と特約をしたり、当時の流行品ともなったので、東京の小間物小売商組合から、甚だ自分勝手な要求をして来た。それは二種ある品物のうち一種の方だけ自分の方へ売り、外の一種を三越へ売ってくれというのである。それでは三越を踏みつけにするので、私は応じなかった処、組合は多数の力を頼んで、言う事を利かせようとし、東京全市の小売商が連合してボイコットをして来たが、それでも私は諾かなかったので、一時は大打撃を受けて困ったが、それをジッと我慢していた処、二年後到頭組合の方から我を折って来たので、妥協解決がついた事がある。
今一つ面白かったのは、取引上三越の方に理不尽な事があったので、私の方から取引停止をすべく抗議した処、流石の三越の係も驚いて、恐らく今まで大抵な無理な事をしても、取引先の問屋の方で我慢するのが常になっていたのが、今度の君のような気の強い事を言って来た人は、今までになかったと言うのであるが、結局、私の方の主張が正しかったので、三越の方から折合って来て、解決したのである。
その後宗教家になってからの私は、自観叢書にもある通り、随分波乱重畳の経路を辿って来、その間危かった事も一再ならずであった。何しろその頃は新宗教でさえあれば、当局は弾圧の方針をとっていたし、然もそのご本尊が軍閥と来ているからどうしようもなかったので、実に苦労したものである。処が今日軍閥もアアいう運命になってしまったのだから、ヤハリ正義が勝った訳である。これ等の経験によってみても、今までは悪の幅る世の中であるから、善の方は一時は負けるが、それを辛抱さえすれば、必ず勝つのである。結局人間は正を踏んで恐れず式で、正々堂々と邁進するのが一番気持が良く、それが本当である。そういう人間こそ社会の柱となり、社会悪の堡塞ともなるので、健全な社会が生まれるのである。何となれば神は正なる者には、必ず味方されるからである。
(昭和二十六年十月十日)
今更こんな事を言うのは、余りに当り前すぎるが、実をいうとこの当り前が案外閑却されている今日であるから、書かざるを得ないのである。それは先ず現在世の中の凡ゆる面を観察してみると、誰も彼も正義感などは殆んどないと言ってもいい程で、何事も利害一点張りの考え方である。という訳で偶々正義などを口にする者があると、時勢後れとして相手にされない処か、寧ろ軽蔑される位である。ではそのようにして物事が思うようにゆくかと言うと、意外にも寧ろ反対であって、失敗や災難の方が多く、それを繰返しているに拘わらず、これが浮世の常態として、別段怪しむ事なく、日々を無意識に送っているのが今日の世相である。
処がこれを我々の方から見ると、立派に原因があるのであって、只世人はそれに気がつかないだけの事である。では一体原因とは何かと言うと、これこそ私の言わんとする所謂正義感の欠乏である。というのは、多くの人は絶えず邪念に冒され、魂が曇り、心の盲となっているため見えないのである。これについて私は長い間凡ゆる人間の運不運について注意してみていると、それに間違いない事がよく分る。では正義感の不足の根本は何かというと、それは目には見えないが、霊の世界というものが立派に存在しているのである。そうしてその霊界には神の律法というものがあって、人間の法律とは違い厳正公平、聊かの依怙もなく人間の行為を裁いているのである。処が情ない哉人間にはそれが分らないためと、又聞いても信じられないためとで、不知不識不幸の原因を自ら作っているのである。
そんな訳で世の中の大部分の人は、口では巧い事を言い、上面だけをよく見せようとし、自分を実価以上に買わせようと常に苦心しているが、前記の如く神の眼は光っており、肚の底まで見透され、その人の善悪を計量器にかけた如く運不運は決められるのであるから、どうしようもない。処がこんな分り切った道理さえ、教養の低い一般庶民ならいざ知らず、教養あり、地位、名誉あるお偉方でさえ分らないのは、全く現界の表面のみを見て、肝腎な内面にある霊界を知らないからである。それがため彼等はない智慧を絞って世を偽り、人を瞞す事のみ一生懸命になっており、これが利巧と思っているのであるから哀れなものと言えよう。その証拠には、結果はいつも逆で、巧くゆかない事実に気がつかず、上から下までその考え方になっているため、犯罪者は増え、社会不安は募るばかりである。従って今日の社会で何かやろうとしても、邪魔が入り、失敗し、骨折損の草臥儲けとなる事が多い処か、中には新聞種にされたり、裁判沙汰になる人さえ往々あるのである。
私はこれらの人達を、賢い愚昧族と思い、何とかして目覚めさせたいと骨折っているが、それには神の実在を認識させる外にないのであるが、これが又非常に難しい。というのは、知らるる通り現在指導者階級の人程、無神思想を以て文化人の資格とさえ思っているのだから、本当に分らせるには、どうしても機会を作って奇蹟を見せる事である。という訳で私は神から与えられた力を行使し、現在驚くべき奇蹟を現わしつつあるので、近来漸く社会に知れて来たようで喜んでいる次第である。そうして以上の理を一層徹底すれば、こういう事になる。即ち正義そのものが神であり、邪悪そのものが悪魔であり、神即正義、邪悪即悪魔であると共に、神は幸福を好み、悪魔は不幸を好むのが本来であるから、幸不幸は人間の考え方次第であるから、この真理を肚の底から分るのが根本である。
以上の理によって、正義感を基本としなければ幸福を掴まえる事は絶対出来ない。という訳で、悪程損なものはないのである。私は「愚かなる者よ、汝の名は悪人なり」と常に言っている位で、この理が分りさえすれば、今からでも忽ち幸運街道驀進者となるのである。但しこれには一つの条件がある。それは単に正義と言っても二通りある。一つは個人の利益を本位とする小正義と、社会国家を主とする中正義と、そうして世界人類を主とする大正義とである。処が小と中は真の正義ではなく偽正義であり、大正義こそ真の正義である。例えば親に孝、君に忠は、煎じ詰めれば利己本位である以上偽正義である。この間の戦争にしても、日本が負けたのは日本だけの利益を主とした偽正義であったからで、どうしても世界全体の利益を目的とする大正義でなければ、永遠の栄えを齎す事は出来ない。これが真理である。勿論宗教にしても同様な事が言える。
処が我が救世教に至っては、信者も知る如く、病貧争絶無の地上天国をモットーとしている以上、人類全体の利益が本位であるから、真の大正義の実行者である。
(昭和二十八年十二月二十三日)
現在世界のどの民族もそうだが、戦争と病気の不安、思想問題、経済難等、何や彼やで苦しみ抜いているのは、誰も知る通りであるが、ここでは先ず日本の一々に就いて書いてみよう。その中での大きな悩みである経済難から書いてみるが、政府は固より、民間に於ての経済的行詰りは事新しく言う迄もないが、この原因に就いては、殆んど誰も気がつかない処にある。それは言わずと知れた悪の影響である。
先ず政府事業であるが、これは官吏の悪の観念が大いに災いしている。若し官吏諸君が出来るだけ悪を避けるとしたらどうであろう。一切の支出は国民の血と汗で納めた税金である事を考えるから、無駄な金など使う気になれないし、又執務時間の浪費も慎むから大いに能率も上り、役人の数も今日の半分位で充分間に合うだろう。然も誠意を以て事に当る以上、万事スムースにゆき、国民の気受もよく、今日のように役人を恐れたり、軽蔑したりするような風潮はなくなるであろうし、親しみ深く、尊敬も受けるようになるのは勿論である。
その上御馳走等の暗い面などもなくなるから、汚職問題なども起らず、安心して任せられる。としたら、調査監督の必要もなく、裁判問題も起らないから、国家経済上どの位プラスになるか分らない程であろう。又個人的にも御馳走酒の飲み過ぎや、無意味な不衛生もないから、健康も増し、生活も豊かに、家庭円満となるのは勿論である。その他政府事業に附物の裏面運動もなくなるから、総てが非常に安価となり、この点の利益も予想外なものがあろう。以上並べた事だけでも実現が出来たとしたら、政府の予算は今の半分でも余る位で、税金も大減額となるから、国民はどんなに喜ぶかしれない。
次に民間の事業会社にしてもそうである。従業員全部が悪の精神から脱却出来れば、どうなるであろう。何事も誠意を以て仕事に当る以上、対外的にはコンミッションや御馳走政略、運動費等の支出もなく、駈引や誤魔化し等も極く稀になろうし、取引は円滑となり、余計な暇もかからず、気持よく商売が出来ると共に、生産も増すから、コストも低くなるので、大いに捌け、殊に輸出方面は世界無敵となるであろう。然も最も喜ぶべきは今日の如き労使の軋轢は影を没し、円満協調、和気藹々として、楽しみ乍ら生産に当る以上、能率は素晴しくよくなり、その結果収入も大いに増し、生活の心配など消し飛んでしまうだろう。そのような社会となったら、金庫番も要らず、帳簿にしても、今のように二重三重などの面倒もなくなるし、五人も六人もの税務官吏と、毎日のように、不快な交渉の必要もなく、一人か二人で、二、三時間話合えば事済みとなろうから、双方の利益も大きなものであろう。
そんなわけで万事能率がよくなり、勤務時間も今より半分位で済むばかりか、儲けも多いから、慰安設備なども充分に出来、生活の楽しみは今とは比べものにならないであろう。又重役や幹部にしても、社員の面従腹背などの不愉快は消えてしまうから、気持よく明朗となり、事業の繁栄は請合である。
次に政治の面を見てみると、これは又如何に巧妙な悪が行われているかは、誰も知る通りで、心から国家本位、人民本位など考えている役人も党員も、寥々たるものであろう。成程国家人民の利益も考えない事もあるまいが、利己的観念が強く、何事も自己本位、自党本位であるのは事実がよく示している。そうして反対党の意見となると、是が非でも必ず反対する。全く反対せんが為の反対で、その見苦しさはお話にならないが、今日は当然のようになっている。又議場での反対党に対する弥次、暴言、喧噪等も浅ま
しいばかりか、果ては腕力沙汰に迄の醜態で、丸でナラズ者の喧嘩を見るようである。処で総選挙も一カ月後に決定したが、これに就いても聊か書いてみよう。今日迄大部分の議員は、公明選挙ではなく、金銭や情実の為が殆んどであろうから、前記のような逆選良が多いのである。従って民主日本となった今度こそ、恥ずかしからぬ人物を出したいものである。尤も、今度は公明選挙などと言って大分自覚したようだから、今迄よりはよくなるであろうと思う。政治面はこの位にしておいて、次は一般社会を見てみよう。
知っての通り、何処も彼処も悪ならざるはなしの現状で、どこの家庭を覗いても大抵は、夫婦は固より、親子兄弟の争い、朋輩同志の啀合などお定りで、円満な家庭は洵に少ない現状である。その他親戚知人などとの仲違い、裁判沙汰等もよく聞く話であるが、近来流行の親身の殺傷沙汰に至っては、情ないのを通り越して、恐ろしい気がする。その他空巣、掻払い、強窃盗、詐欺、横領、万引、掏摸、タカリなども毎日の新聞を賑わしている。ザッと書いただけでこの位であるから、世の中の悪ときたら底なしの泥沼のようなものであろう。要するに今の世の中は、お釈迦さんの唱えた通りの苦の娑婆には違いないが、その苦を生む因は悉く悪であるから、現代は悪による被害者ばかりの社会と言っても過言ではなかろう。全く、一日と雖も安心して生活出来る人は、万人に一人もあるまい。その中で不安の一番大きなものは、何と言っても病気である。いくら泥棒が怖いと言っても、戸締さえ厳重にすれば先ず防げるし、貧乏も健康で働きさえすれば解決出来るし、処世上充分注意をしていれば、裁判沙汰なども先ず起さずに済むが、只病気と戦争だけは今の処絶対不可抗力である。併しこれも深く検討してみると、悪から発生したものである以上、帰する処一切の災いは悪が因である以上、これを除くのは宗教より外にない事は余りに明らかである。処が世の識者たる者、これが分っているのか分っていないのか、我等には判断がつき兼ねるが、どんなものであろう。
(昭和二十七年九月十七日)
悪とは何ぞや。言う迄もなく自己の利益の為に他人を脅かし、苦しめ、社会を毒する行いをいうのである。この悪の為に、個人は固より社会全般に損害を与える事は、蓋し大なるものがあろう。人事百般大なり小なり悪による被害者たらざる者は一人もあるまい。例えてみれば盗賊を防ぐ為に空気の流通悪しきまでに窓を小さくし、厳重なる戸締をなし、暑熱の候と雖も入口や窓を閉め切りにし、外出をする際も留守に番人を置かねばならず、又うまい話を持込んでくれば詐欺ではないかと警戒し、何事も疑いの眼を以てみなければならず、近所に於ての強窃盗の噂、新聞紙の記事等を見ては夜も枕を高くして寝る能わず、暗夜の一人歩き、特に婦女子の場合等は危険この上もない。汽車電車に乗れば掏摸に注意せねばならず、又使用人の中にも狡い奴があり、商店なれば万引の警戒に眼を放せない。これ等数え上げれば殆んど狡い奴に取囲まれているようなもので、到底安心して生活出来得ないのが社会の現状である。まだそれ処ではない、伜や娘が年頃になれば誘惑の危険や、妻女にしてみれば主人の遊興や二号などの心配、又主人にしてみれば妻女の貞操の不安、事業上予期しない悪の被害等もあり、警察裁判所等の防犯機関に要する国費の少なからざる事、商店会社等に於ける店員や社員に対する防悪手段として堅牢なる土蔵を造り、金庫を設置し、必要以上の帳簿、伝票、受取等を作り、一々の捺印等、それ等に要する多数の人員や、工場に於ける原料窃取の警戒、製品の蔵出しの際や金銭の払出等に対する不正の防止、製品の不合格、怠業や悪質ストの防止、又資本家の度を越えたる利潤獲得等々も、悪が原因になっていないものはないのである。
又役人の「五セル」も今日は殆んど公然と行われているという事である。学校に入学するにも金銭の高によって成功不成功があるように聞いている。官庁の許可も裏面工作をしなければ何時になっても下りて来ないとの話である。その他各方面に渉って公正が行われる事は頗る寥々たる有様で、世を挙げて闇、ヤミ、暗によらなければ生存さえ不可能と思う程の実情は誰も知る処であろう。
このように見てくるとこの世の中を善と悪とに立別ける時、善より悪の方が何倍多いか分らないであろう。故に悪の為の被害や損害、不安等、数え上げれば個人及び社会が蒙る損失は如何に莫大であるか計算は出来得ない程であろう。故に文化の進歩も、新日本の建設も悪の多寡によって決定さるべき事は勿論である。ここに於て私は思う。総ゆる問題も、成功不成功も善悪の量に因る事で、この意味に於て為政者も、教育者も、知識人も、世を挙げて悪を減滅する事に専念すべきで、それ以外に良法のない事を私は断言して憚らないのである。然らばその良法とは何ぞや、言う迄もなく正しき信仰である。
(昭和二十三年九月五日)
周知の如く昨今次から次へと、芋蔓式に出てくる汚職事件には、誰しもウンザリするであろう。恐らくこんなに汚職問題が一度に重なり合った事は、未だ嘗て例がないように思う。勿論司直の厳正な裁きによって、何れは白黒判明するであろうが、それだけで済まされない処にこの問題の重要性がある。というのは今回のそれは別としても、昔から年中行事のようになっているこのスキャンダルは、現われただけを裁いても、根本的解決とはならない以上、どうしても徹底的根絶をしなければならないのである。丁度ゴミ溜に蛆が湧くようなものであるから、そのゴミ溜の清掃であって、これ以外根本的解決はないと共に、国民も大いに要望しているに違いあるまい。只困る事には、その原因である急所が分っていない事である。
ではその急所とは何であるかというと、それこそインテリ族の最も嫌いな有神思想であって、実は汚職問題と雖もその発生の母体は、有神思想とは反対の無神思想であるから始末が悪いのである。言う迄もなく無神思想とはズルイ事をしても、人の眼にさえ触れなければ済むとする怪しからん考え方であって、然も人智の進む程それが益々巧妙になると共に、出世の第一条件とさえ思われている今日である。これを実際に当嵌めてみると、そうはいかないのが不思議である。何故かというと、成程一時は巧くいったようでも、早晩必ず化の皮が剥がれるのは、今度の事件をみてもよく分る。併し乍ら彼等と雖も或る程度は分っているであろうが、根本的観念がこの世に神は無いと固く信じている以上、心の底から分らない為、たとえ今度のような結果になっても、真に悔い改める事の出来る人は果して何人あるであろうか、疑わしいもので、大部分の人々は“こうなったのは行り方が拙かったからだ、智慧が足りなかった為だ。だからこの次の機会には、一層巧く行って、絶対引っ掛からないようにしてみよう”と思うであろうが、これが無神族としての当然な考え方であろう。従ってこの根性骨を徹底的に叩き直すには、どうしても宗教によって有神観念を培う事で、それより外に効果ある方法は絶対ない。
然も今日、以上のような無神族が上に立っている限り、官界も事業界も古池と同様、腐れ水に溝泥や塵芥が堆積しているようなもので、何処を突ついても鼻持ならぬメタン瓦斯がブクブク浮いてくるように、今度の事件の経路をみてもそう思われる。故に今迄分っただけでも、或いは氷山の一角かも知れないが、これが国家に及ぼす損害や国民の迷惑は少々ではあるまい。それ処か国民思想に及ぼす影響も亦軽視出来ないものがあろう。言う迄もなく上層階級の人々は、陰ではあんな悪い事をして贅沢三昧に耽り、政党や政治家などが湯水のようにバラ撒く金も、みんな国民の血や汗の税金から生み出すとしたら、真面目に働くのは嫌になってしまうであろう。従ってお偉方が口でどんなに立派な事をいっても、もう瞞されて堪るものかという気になり、今迄の尊敬は軽蔑と変り、国家観念は薄くなり、社会機構も緩む事になるから、これが国運に及ぼすマイナスは予想外であると思う。
以上によってみても、この問題の根本は最初に書いた如く無神思想の為であるから、何よりもこの思想絶滅こそ解決の鍵である。それには何といっても宗教家の活動によって、神の実在を認識させる事であって、たとえ人の眼は誤魔化し得ても、神の眼は誤魔化し得ないとする固い信念を植つける事である。そうなれば汚職事件など薬にしたくも起りようがあるまい。そうして今度の事件の立役者は、高等教育を受けた錚々たる人ばかりで、地位、名望、智慧など申分ないであろうが、何故あんな事をしたかという疑問である。これこそ無神思想の為であるとしたら、この点教育、学問と道義感とは別である事が分る。そうしてこのような立派な人達が精一杯巧妙に企らんでやった事だから、知れる訳はなさそうなものだが、蟻の一穴で一寸した隙から、それからそれへと拡がって大問題となったのであるから、どうみても神の裁きとしか思えないのである。
ここで今一つ重要な事は、日本は法治国といって誇っているが、よく考えてみるとこれは飛んでもない間違いである。何となれば法のみで取締るとしたら、法さえ巧く潜れば罪を免れ得て、悪い奴程得になる訳である。というように法という檻で抑える訳だから、人間も獣扱いであり、万物の霊長様も哀れ形無しである。これが文化国家としたら文化は泣くであろう。私は常に『現代は半文明半野蛮時代』と曰っているが、これを否定出来る人は恐らく一人もあるまい。又これに就いての一例であるが、今仮に目の前に財布が落ちているとする。誰も見ていないとしたら、普通の人なら懐へ入れるであろうが、断じて入れない人こそ神の実在を信じているからである。処がこういう人を作る役目が宗教であるが、これに対して当局もジャーナリストも甚だ冷淡で、宗教を以て無用の長物視しているかのように、兎もすればインチキ迷信扱いで、民衆を近寄らせないようにする態度は実に不可解である。これでは無神思想の味方となり、汚職問題発生の有力な原因でもあろう。
如上の意味に於て、為政者はこの際豁然として心眼を開き善処されん事である。でなければこの忌わしい問題は、いつになっても根絶する筈もなく、これが国家の進運を阻害する事の如何に甚だしいかは言う迄もあるまい。処でこれを読んでも例の通り馬耳東風見過ごすとしたら、何れは臍を噛む時の来ないと誰か言い得るであろう。そうして今日国家が教育その他の機関を盛んにして、人智の開発、人心の改善に努力しているが、肝腎な無神思想を根絶しない限り笊水式で、折角得た智識も善より悪の方に役立たせるのは当然であるから、その愚及ぶべからずである。何よりも文化の進むに従い、智能犯が増えるという傾向が、それをよく物語っている。敢えて世の識者に警告する所以である。
(昭和二十九年三月三日)
今日本の最も悩みである社会悪について論じてみよう。その前に為政者や有識者がとっている手段を検討する必要がある。為政者は、法規を厳重の上にも厳重にし取締っているが、これ等は勿論根本には触れないから、悪人は法規を如何に巧妙に潜るかに専念している。それは法網の隙を狙いつめ、隙あらば破ろうとする。当局は破らせまいと益々法網を密にし、破る隙を与えないよう努力している。全く善悪の智慧比べである。
処が、前述のような法網を潜る人間は、前科者、ボス、不良等を連想され易いが、事実は決してそんな劣等者ばかりではない。上は大臣から政治家、代議士、官吏、実業界の有名人に至るまで、罪を犯さないものは殆んどないと言ってもいい位である。只今日犯罪者として表面に浮かび出した者は、その中の一部に過ぎないとさえ言われるほどで、世間は、被検挙者は不運であるからとよく言うが、それ程表面に現われない多数の犯罪が蔵されている。そうしてこれ等犯罪者を深く検討する時、こういう事が言える。彼等は、罪を恐れない。国家に損害を与えたり、社会に害毒を流したり、他人を苦しめたりしても、良心に恥ずる事を知らない。人を咎める事は知っていても、自分を咎める事は知らない。現在国民が納税に苦しんでいる際、宴会などに馬鹿騒ぎをしているのは役人が多い--とういう事は屡々聞く処である。
人間は自身の不正行為に気が咎めなかったり、不純な行為に恥じる心がなかったり、人を苦しめて哀憐の情が起らなかったりするとしたら、それ等は最早人間としての価値を失っている。何程口に高邁な理論を説き、学識を誇ると雖も、それだけでは人間の価値はない、魂のない物質人間である。かような人間が今日あまりに多過ぎる為、社会悪が瀰漫し、地獄的世相を顕出しているのである。一言にして言えば、日本全体が重症患者となっているとも言える。
以上のような憂うべき現象は何が故であろうか。それは全く、我々が常に言う処の唯物主義教育の為である事は、一点の疑いを挿むべき余地はあるまい。この故に、社会悪絶滅の方法は別に困難ではない。ただ唯物主義思想を打破する事--それだけである。然らばその方法は何か、言うまでもなく唯心主義教育である。即ち神を認める事である。霊を、霊界の存在を信ずる事である。
それが宗教本来の貴重なる使命である。と言っても、徒らに宗教理論を唱えたり、説教やお念仏だけでは神や霊を認識させる事は不可能である。どうしても如実に奇蹟を現わす事であり、顕著な現当利益を与える事であって、それ以外に唯物思想を打破する方法は絶対にないのである。
(昭和二十四年五月十四日)
今日、当局の談によれば「犯罪者が殖えて困る、これはどうすればよいか」とよく聞かれるが、これに就いて些か所見を述べてみよう。
忌憚なくいえば、現代人は未だ真の人間として完成してはいないのである。というのは獣的分子が未だ多分にある。言わば半獣半人である。随分酷い事を言うと思うであろうが、事実であるから致し方がない。その理由を書いてみるが、読む人は成程と承知するであろう。
今日犯罪防止の方法としては、警察、裁判所、監獄等の施設と、それを運営する多数の吏員、何百何千の法文があって、殆んど犯罪の隙のない程外形は完備している。丁度人間に危害を加える動物に対し、幾重にも厳重な檻を作って被害を防ぐというのと何等択ぶ処はない。人間は古い時代から智慧を絞って、何度檻を作っても動物共は直に破るので、段々巧妙に細かく網の目を張るようになったのが、現在の防犯状況である。見よ年々法規は殖えるが、それは網の目を細かくする事である。かように扱わなければならないのは、動物人間は檻を破ろうとして爪を磨き牙を鳴らしている。これが社会不安の因である。事実外形は人間であっても内容は獣類である。
もし真の人間でありとすれば、檻など必要としない社会が生まれるべきだ。どんな所へ放り出しても決して悪い事はしないという人間こそ、人間としての資格者だ。文化が何程進歩しても、道義の頽廃が依然たる事実は、檻を破る手段が防ぐ手段に勝っているからである。
我等がいつも言う処の、今日の文化は唯物主義のみ発達した跛行的文化という所以である。
以上の意味によって法律もない、防犯施設もない世界こそ人間の世界であって、我等が現在努力しつつある目標こそは、只人間の世界を造るにある、といえよう。
(昭和二十四年九月三日)
昔から「恒産あれば恒心あり」と言い、人間が物資に不自由しなくなれば言行も良くなるというのである。そうして、今日の世相は実に社会悪に満たされているが、その原因は物資欠乏のためと解釈している識者の少なからずある事である。成程それも一部の真理には違いないが、決して根本的のものではない。もしそれが真原因とすれば、物質裕かな者は正しい人間であるはずであるが、事実はそうはゆかない。衣食足りていながら不正行為をするものの数も夥しいものがある。時によると貧困者よりも世を紊し、害毒を与える方が大きい場合もある。それは金銭の力によって、住宅難の今日多くの邸宅を占有し、殆んど空家同様にしている事や、金銭の力で多くの婦女子を玩弄物視し、道義を乱したり、社会の下積になっている弱小者を、金力で自由を奪い、ウダツが上らないようにし、政界を腐敗さし、子女の入学の際教育者を堕落さしたり、その他数え上げれば枚挙に暇ない程である。
以上の事実によってみても、社会悪増加の原因は物資不足のみではない事は明らかである。
これ等によってみても、社会悪の根源は我等が常に唱える如く信仰心の欠乏からで、そこに真の原因があるのである。故にその原因を解決せざる限り社会悪の根絶は思いもよらない事で、それにはどうしても力ある宗教の出現こそ絶対解決の基本である。
次に、今日の文化人の考え方の非常に間違っている点を指摘してみよう。それは何であるかと言うと、凡ての罪を他に転嫁する癖がある。尤もこの考え方の中心をなすものは、彼のマルクス思想の影響であろう。彼の社会主義理論が、人間不幸の原因を凡て社会の組織機構が悪い為としている事である。成程社会の組織も機構も、より良く改革するのは必要であるが、さらばと言って人間の不幸の原因が、それだけに決めてしまう事は大なる誤謬である。如何に理想的組織機構が作られたとしても、個々人の考え方や行動が誤っていれば、組織機構の運営がスムースにゆくはずがない。必ず破綻を生ずる。故にどうしても個々人の心性を善くする事こそ本当の解決法で、いわば人間が主で、社会組織は従と見るべきである。
以上の如き誤った考え方は、全く唯物思想から発生した事は勿論で、唯物主義に於ては人間の霊性を認めない。物質理論のみで解決しようとする。そこに大きな誤因がある。その結果として、何でも彼んでも自己の言動を正当づけ、罪を他に転嫁しようとする。処が事実は、罪の殆んどは自己自身にある事で、その事がしっかり認識さえ出来れば、謙譲の徳も博愛精神も自ら現われるから、平和な幸福社会が実現するのである。これこそ宗教信仰によるより外方法は決してない。
社会革命の理念とする他動的罪悪感は、社会組織を破壊せんが為の目的から、罪を自己に帰せずして、社会組織に振向けるという理論によって民衆を躍らせるのであるから、人間はこの意味をよく認識し、従来の過誤を清算し、新たなる出発をなすべきである。
(昭和二十四年五月二十五日)
我が国に於ける犯罪者の激増は、今迄に見られない程であって、百人以上の集団強窃盗事件で、被害高四億円などという大袈裟なものや、集団暴行事件なども出たり、青少年犯罪の益々増えるなど、到底この侭で済まされない世相である。それなら中流以上はどうかというと、これが又問題である。ヤレ何々公団の涜職、何々事業に絡まる贈収賄等々、忌わしい問題は殆んど尽くる処を知らないといってもいい。だがこれ等は偶々表面に現われただけの、言わば氷山の一角でしかないとしたら、現在日本の社会悪は底知れずの感がある。丁度一杯溜ったゴミの山のようなもので、足の踏み場もないという有様である。としたら、如何にすればこれを清潔に出来るか、というその事が当面の大問題である。勿論これ等多くの難問題に対し政府も有識者も憂慮し、解決に懸命になっているのは了とするも、容易に曙光すら認め得られないというのは、一体どうした訳であろうか。
それに就いて我等の見地から検討して見るとすると、当事者は実は飛んでもない見当違いをしているのである。それは全然目のつけ処が違っている。考えても見るがいい、第一犯罪のよって来る処は、どこに原因があるかという事である。この事がハッキリしなければ適切なる対策は立て得られる筈はないのは、判りきった話である。言う迄もなく犯罪の根本は人間の魂の問題で、これ以外には何にもない。即ち魂の白か黒かで、善人ともなり悪人ともなるのである。従って黒の魂の持主を白に変える事こそ問題解決の焦点であって、それに気がつかないのが、今日の為政者及び有識者である。彼等は只外部に表われたる枝葉末節の面のみを対象として各種の方策を立て、防犯施設に大童になっているのであるから、言わば穴の開いている桶へ水を汲んでいるようなもので、何年掛っても犯罪撲滅など思いもよらないのである。誰かの言葉に「犯罪を徹底的に無くすには、一人の人民に一人の警官がつかなければ駄目だ」と言ったが穿ち得て妙である。従って如何に司法制度を改善しても、警察や裁判所が懸命になっても、予期の効果を挙げ得られないのは当然である。
では真に効果ある名案はないかと言うに、実は大いにある。今それを詳しく書いてみよう。前述の如く凡ての人間の魂を白に向わせるには只一つの方法しかない。それは言う迄もなく宗教である。これ以外にない事は太鼓判を捺しても間違いはない。といって単に宗教でさえあればいいかと言うに、これが又大いに考慮の余地がある。御承知の如く宗教といっても八宗九宗色々ある。先ず新しい宗教から採り上げてみるが、遺憾乍らこれはと思う安心の出来るものは暁の星の如くである。としたら古い宗教はどうかというと、これも前述の如き黒を白にする程の力あるものはありそうにも思えないのは、誰もが同感であろう。としたら先ず活眼を開いて、凡ゆる宗教を検討してみる事である。その中から兎も角これならという宗教幾つかを選抜し、それを援助しないまでも、好意的に扱われる事であって、この方法以外良策はあり得ないと言えよう。
処が、どうした訳か、当事者は如何に社会悪を憂慮しながらも、宗教に依存しようなどの考えは更に起さない。飽迄、前述の如く唯物的方法に齧りついて離れようとしないのが現状である。としたら国民こそ不幸なものである。従ってこの盲点を啓き、真の宗教の本質を認識させる事が最緊要事であろう。言う迄もなく犯罪者の観念は、見えざるものは信ずべからずという唯物観が基本である以上、人の目さえ誤魔化せばよいとし、それのみに智能を絞り、社会悪醸成を事としているのであるから、この観念を除去しない限り、他の如何なる手段を以てしても、一時的膏薬張以外の何物でもあるまい。従って、何としても唯心観念を根幹とし、神の実在を認識させなければならない。神の御目は不断に人間一人一人の行為を照覧し給うている事を信じさせ、悪因悪果、善因善果の道理を判らせるとしたら、犯罪の根を断つ事は易々たるものである。
併し乍らこの文を見た識者等はいうであろう。“成程御説の通りに違いあるまいが、それだけで神を認めしむるなどは出来ない相談である”とするだろう。処がそれは識者等自身の観念がその通りになっているからで、在りもしない神の実在など押つけるとは、ヤッパリ迷信邪教の御託宣位にしか思わないであろう。というのは彼等は単に宗教といえば、従来の宗教を標準として見るからで、これも無理はないが、ここで一歩退いて深く考えてみて貰いたいのは、科学文化である。これは実に駸々乎として進歩し、次々発明発見が現われ、百年前と比べてみれば、その当時夢としていた事も、今日は現実となっている。処がひとり宗教のみは、何百何千年前の立教当時と些かも変っていない事実で、この矛盾は何故であろうか、という疑問が起らない訳にはゆかないであろう。
故に、今日識者が宗教を見る場合、旧時代の遺物位にしか思わない。丁度骨董品的見方である。従って我々が社会悪の解決は、宗教によらなければならないといっても、彼等は全然耳を藉そうとはしない。ここに問題がある。前述の如く科学文化の進歩発展が、劃期的時代を作りつつあると同様、宗教と雖もそれと同様なものが生まれなければならない。否、科学の水準よりも一層前進したものが現われたとしても、敢えて不思議はないであろう。としたらその新生宗教こそ、科学で解決し得ないものを解決し得る力を有する事も、これ又不思議はないのである。この意味が納得出来たとしたら、本教の実体を把握されない筈はあるまい。忌憚なく言えば本教が如何に偉大なる力を有しているかであって、一度本教に入るや何人と雖も容易に認め得るのである。考えても見るがいい、如何に立派なものでも、近寄らなければ見る事は出来ない。いくら美味の食物でも口へ入れなければ味は分らない。黄金の宝が土に埋っていても、掘らなければ掴めないと同様、只遠くで想像しているだけでは絵に画いた餅である。人の噂や新聞のデマなどに迷わされて、例の迷信邪教の一種位にしか思わないとしたら、自分から幸福を拒否するのである。先ず何よりも進んで触れてみる事である。「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」とは千古の金言であろう。
(昭和二十六年一月二十五日)
今日、凡ゆる新聞雑誌をみる時、周知の如く悪に属する記事が余りに多すぎる。曰く、強盗、殺人、窃盗、詐欺、闇取引、横流し、隠匿、密輸や、自殺、心中、姦通等々、殆んど数え切れない程である。もし、日本以外の国にいて、これだけ見たとしたら、日本位恐ろしい国はないと思うかもしれない。しかしいくら日本でも幾分かは賞めていい事、誇るに足る事もあるには違いあるまい。しかし良い事は兎角隠れがちで表われにくいものである。昔から悪事千里といって、どうも悪の方が早くも知れ、拡がりもするのである。新聞記事なども、善い記事は読者の興味を引かない。悪い記事程人の目を引く。殊に稀に見るような、悪ドイ記事などは興味百パーセントであるから、デカデカと書く。何よりの証拠は、新聞の特ダネといえば、先ず悪い記事に決っているといってもいい。
偶には、先頃の湯川博士のような善い記事もないではないが、これ等は百分中の一にも足りない程であろう。以上のような事実によってみても判る如く、これ等悪に満ちた日々の新聞を見る読者は、不知不識感化を受ける。という訳で、その表われが悪に対する刺戟が薄らぎ、普通の精神状態からみれば恐ろしいような事でも、案外平気になるのは、人間の通有性である。本来新聞が暗い面のみを書く目的は、それによって社会に警告を与え、よりよくしようとするのではあるが、事実は反って逆効果となるという皮肉であるが、肝腎な記者の方でも麻痺状態となり、犯罪事実を誇張して書くのが、当り前となってしまったのであろう。
以上の如き、ジャーナリストの悪に対する麻痺傾向に対し、我等は看過し得ない以上、反対の方針をとるの止むを得ない事になるのである。従って本紙の編集ぶりを見ればよく判る。決して犯罪や暗い面を興味的には扱わない。かくすれば、それによって戒告を与え、極力悪の排斥を強調するのである。尤も宗教新聞として当然かも知れないが、世間この種の刊行物が、単なる御説教式で蝋を噛むような記事では、面白くないから読まれない事になる。とすれば何にもならないから、本紙は見らるる如く、たとえ論評の如きも、読者の肺腑に沁みるような、然も今迄あまり説かないような新しい説を書く。そこに魅力を引かるるのである。又寸鉄の如き一読爆笑を禁じ得ない警句の中に、物事の急所をつかみ得るようにするのである。特に、本紙独特の記事としてのおかげばなしの如きは、生々しい奇蹟や、貴い生命を救われた破天荒ともいうべき事実談であるから、これは読まずにはおれないもので、これを読んで感銘し、泣かないものは恐らくないであろう。
以上によってみても、本紙の如き悪を排撃し、強力に善を鼓吹するものは、現在殆んど見当らないであろう。とすれば、小なりと雖も、本紙が社会人心を善化する明礬的存在は、万緑叢中紅一点とも言い得るであろう。
(昭和二十五年二月十八日)
これは甚だ奇妙な標題であるが、ちょっと人の気のつかないことだから書いてみるのである。
抑々、今日まで洋の東西を問わず、人類の耳をそばだてるような大きな事業から、小さいながらも一角成功した人達を検討してみると、少数の例外を除いてはその当事者は善人型は殆んどなく、全部と言いたいほど悪人型である。ということは、実際上善人ではどうも成功し難い、悪人に負けるからである。事実他人の迷惑も、社会に害毒を流すことなど心にかけるどころか、巧みに法網をくぐって成功する輩が大多数であり、彼等はそれ以外手段はないと思っているらしい。従って、成功者を見た場合誰しも浮かぶことは、彼奴は酢でも蒟蒻でも食えない奴に違いない、成功の蔭にはどうせ碌なことはしていまいという先入観が先に立つ。しかしそれで間違いがないのだから致し方ないわけである。故に成功者たらんとする野心家は、それを見習って目的のためには手段を選ばず式が利巧なやり方のように思い込んで、その通り実行するのだから堪らない。これが今日の社会悪の原因である。
以上の如き見方が現代人の頭にコビリついている結果、我々をみる場合もそうである。
本教が三、四年の間に信徒三十万というのであるから、先ず成功者の部へ入れられる。そして前述の如き観念の色眼鏡を通してみるのだから、たとえ宗教等といっても、どうせ蔭では碌なことはしていまい、それだから成功したのだ。今の世の中に、善のみで成功する筈はないと決めてしまう。勿論一般人ばかりではない。当局さえも大なり小なり右の傾向があるのは、我等の邪推ばかりではあるまい。そこへ本教発展のため影響を蒙った者や、新宗教は虫が好かない唯物主義者や、断られたユスリの犬糞的手段の投書密告や、悪質新聞のデマ等が重なり合って、当局の頭脳を困惑させ、責任上眼を光らすこともあるのである。
以上は、本教が世間から兎や角言われる真相であるが、これは全く善の行いによる成功者があまりにないからで、それをよく物語っている。従って、この世の中は悪でなくては成功しないという誤れる観念を一掃し、正であり善であるこそ大成功者たり得るという模範を示さなくてはならないので、我々もこの意味からも奮励努力しつつあるのである。この生きた事実を社会に認識させるとしたら、如何に社会人心に善い感化を与えるかは勿論で、このことも、宗教本来の使命を達する所以と思うのでもある。
(昭和二十五年三月十八日)