第三次戦争は免れる事が出来る

今最も世界人類が脅威の的とされているのは何といっても第三次世界戦争であろう事は、今更言うまでもない。現に日本は固より、全世界の識者という識者は、それぞれの立場からこれを防止すべく、全智能を絞って筆に口に論議しつつあるのは、人皆知る通りである。処がどうした訳か、独り宗教家に至っては、それに対し何等の発言をする者のないのは、実に心もとない限りである。

そこで先ず考えてみて貰いたい事は、一体宗教の目的は何であるかという事である。言うまでもなく、戦争のない平和世界を実現するにあるのは分り切った話である。としたら現在の如き、第三次戦争誘発の危機に直面していながら、手も足も出ないのか、全然沈黙しているという状態は不可解の外はあるまい。成程宗教家たる以上、政府の命令のない限りと、又年齢的にも武器をとる事は出来ないとしたら、宗教家は宗教家なりに、相応した平和的手段を以て戦争防止の為一役買うべきではなかろうか。この意味において私は、戦争発生の原因と戦争防止、否人類から戦争を絶無にする事の可能であることと、その原理を書いてみようと思うのである。

それに就いて、最も分り易くする為、病気と健康に就いての事を書いてみるが、いつもいう通り、病気とは人間の霊に曇りが溜り、その排除作用が肉体に映って生ずる苦痛であるから、人間の如何なる苦痛といえども、原因はことごとく霊の曇り、即ち肉体的に言えば汚濁の排除作用であるから、その苦痛を免れたいとしたら、汚濁を溜めないようにすると共に、既に溜っているそれを排除する以外、解決する事の出来ないのは当然である。

この理によって、集団的苦痛、すなわち風水害、火災、地震、社会的暴動等も、ことごとく病気以外の浄化作用である。としたら、これの大きくなったものが勿論戦争である。従って、戦争を起らないようにするには、人間個人々々の霊の曇りを無くす以外方法のない事は余りにも明らかである。

万一第三次戦争が起るとすれば、それは全く霊の曇った人間が増え切って、どうにもならない状態となったからで、恐らく世界のほとんどは、現在汚濁人間で充満していると言っても過言ではあるまい。としたら何故このように汚濁人間が増えたかというと、それこそ悪による罪が堆積したからであって、その根本原因こそ神の実在を無視する教育を受けてきたためであって、これが唯物教育であるから、この観念を是正する事によってのみ解決されるのである。では何故そうであったかというと、つまり唯物教育によって、人間の魂を極度に曇らせ、盲目同様にしたからで、むしろ当然な結果である。

そうしてここで知らねばならない事は、万有の法則は汚濁の溜る処、必ず自然浄化作用が発生する。例えば伝染病が流行するという事は、病菌発生が直接原因であるとしたら、その原因は何かというと、それは浄化の必要ある人間が出来たからで、相応の理による自然発生である。処がこの理は何物にも共通する。すなわち地上にあるあらゆる物質、例えば如何なる大都市でも建造物でも、おおよそ物質と名のつくものはことごとくといいたい程、現在のそれは悪によって作られたるものである以上、言わば罪の塊りであるから、いつかは清算されなければならない運命におかれているのである。

としたら人間も物質も、地上にありとあらゆる汚濁分子が一挙に浄化される。それが大戦争であって、これが宇宙の鉄則であるから、どうしようもないのである。この意味において第三次戦争を免れんとするには、この大浄化作用発生の必要のないまでに、人間始め地上一切のものが清浄化されなければならないのは分り切った話である。ではそのように一切を清浄化すべき方法はありやというに、私はありと答える。それが我が救世教の使命であって、この事の為に我が救世教が生まれたのである。

ここで別の説き方ではあるが、世界とは個人の集団であるから、個人々々が浄化の必要のないまでに立派な人間になりさえすればいいのである。

(昭和二十六年十月十七日)

悲劇を滅する

この世の中に於て人間が最も厭うのは悲劇であろう。悲劇を全然なくする事は不可能であるが、或る程度軽減する事は敢えて難事ではない。それに就いては先ず悲劇なるものの正体を検討してみよう。

事実、悲劇なるもののその原因の殆んどが病患からである事は厳然たる事実である。成程病気以外、恋愛問題、物質欲等から生まれる不正行為等もあるが、これ等もよく検討する時、精神的病患からである事を知るのである。健全なる精神は健全なる肉体に宿るといわれているが、全く真理である。私が長年の研究の成果からみれば、恋愛も不道徳も不正者も短気も大酒癖も怠惰も不良少年も、必ずと言いたい程肉体的に必ず病的欠陥のある事を発見するのである。とはいうものの現代までの医学やその他の方法によって病患を全治し、霊肉共に健康体になすべき確実なる方法は見当らないのである。たとえその原因は発見し得た処で真に解決すべき方法がなかった。今日迄病原の発見、治療法の確立を完成し得たと誇称するものも現われるには現われたが、実は一時的効果を挙げるに過ぎず、何時しか消えてしまう事は、余りにも多かったのである。全く黄昏れて径遠しの感なくんば非ずである。本紙のおかげ話中、幾多の実例にある如く難症重症が解決され、その喜びと感謝に溢るる心情は涙なくしては読まれない程のものである。

以上の如き病患や不幸の解決は所謂見えざる力の発現によるのであって、神霊の力の如何に偉大であるかは体験者でなくては知り得ない処である。一切万事、現実とそうして実証的でなければ納得も得られない現代人であるとすれば、如何に巧妙なる理論を説き、教えの道を勧めるといえども、現実的効果を見ない限り、結局は空念仏に過ぎない事になり、普く人類を救い、社会の福祉を増進する事は夢でしかないであろう。

見えざる力が見ゆるものを動かすその力こそ、真の信仰の本質である。本教によって現に行われつつある処のものはこれであって、この意味に於て私は力の宗教というのが本当ではないかと思う。そうして既成宗教の殆んどはその名の如く教えが根本であるから、外部から内面の魂へ向って覚醒を促そうとするのである。然るに本教団によって行う処の浄霊法はイキナリ内面の魂に霊光を放射し、一挙に魂を覚醒させるのである。所謂無為にして化する訳で、説教の如きは第二義的のものとするのである。釈尊は即心即仏といい、覚者たれば菩薩であるといったが、まことにその通りである。本教団に於ける入信者は頗る短期間で等覚を得、正覚に達し、自己の悲劇を顧慮する必要がないばかりか、進んで他人の悲劇を滅消すべき有資格者となるのである。

(昭和二十四年六月十一日)

恐怖を除く

我々の目標とする処は、常に言う如く人類救済にあるのである。としたら、人類救済という事は一言にして言えば、人類社会から一切の恐怖を除く事である。勿論その最大なる恐怖としては病気であり、貧困であり、闘争である。

右の三大恐怖のうちその主座を占めているものは何といっても病気である。病気の恐怖ほど常に人間を脅かすものはない。何人と雖も一生を通じてこの不安から全く免れるものは一人もないといってもよかろう。次に、第二の恐怖としては貧乏であるが、その原因の大方は病気からであるのは勿論で、この病気の恐怖こそは如何に文化が進歩しても減らないのみか、寧ろ増しつつあるとさえ見らるる事実である。処で、今日病の原因は殆んど黴菌としているから、黴菌の恐怖に至っては昔人には見られない程である。それが為、健康診断、各種の予防注射、レントゲン写真等凡ゆる手段を講じつつあり、それが為保健所や療養所、官私の病院や国立療養所、町医等々病患を防止する為の凡ゆる施設は至れり尽せりと言ってもいい程で、これ等に要する莫大な費用と労力は計算の出来ない程で、民衆の負担も蓋し容易ならぬものがあろう。

次に貧困の恐怖であるが、この原因の最大なものは前述の如く病気であろう。これが為個人としての療病費の多額や、罹病中の職業の放擲等による損害は固より、特に患者が主人である場合、不幸の結果は遺族の生活難は免れ得ない処である。終戦後犯罪激増の大半はこれ等の原因も大いにあろう。勿論抑々の原因が戦争の為もあるが、戦争の被害は一時的で、病気の方は永久的であるにみて最も深刻性がある。

次に戦争の恐怖も如何に大きな悩みであるかは、今現に世界人類が嘗めつつある事実によっても明らかである。というのは米ソ間の深刻な摩擦で戦争が何時勃発するか分らない情勢にまで切迫している事である。然も原子爆弾という空前な恐るべき武器が現われた今日としては、もし第三次戦争が始まったとしたら、人類の破滅は必至であるとさえ言う学者がある位だから想像に難からずで、今日人類にとってこれ程の恐怖はあるまい。

以上の三大恐怖の解決こそ人類に与えられたる一大課題である。実に今日迄の人類はあまりにも苦悩の絶え間ない世界であった。この世に確かに神がありとしたら、神の大愛はこのような世界をそう長く許容し給う筈はない。

必ずやこのような苦悩の時代は打切りとなって、善美なる地上天国が生まれなければならない筈である。何よりもこの事を絶対確信している我等は、不動の信念を以て邁進しつつあるのである。キリストの天国は近づけりと予言された意味もこの事でなくて何であろう。

以上の意味によって右の三大恐怖の解決こそ、宗教の真の使命である事を痛感するのである。

(昭和二十五年一月七日)

平和の英雄

今日英雄という言葉を聞いただけでも、何かしら崇拝の念が起るのは誰しもそうだろうが、その半面どうも割切れないものを感ずるのも私ばかりではあるまい。というのは、一抹の哀愁の湧くことである。考えるまでもなく、英雄というものの史実に現われた事蹟をみても分る通り、彼等が歴史の舞台の上に華やかに躍ったその裏には、自己の利欲のためその時代の大衆を犠牲にし、恐るべき惨害を与えたその罪過は打消すことは出来ないからである。といっても、一面また我々にとって感謝してもいい面もある。それは今日文学、劇、映画等に見る、彼等が創作したシナリオの、如何に我々を楽しませてくれるかである。

それはそれとして、どうも世の中では英雄と偉人とを混同しているようである。というのは、彼のキリスト、釈迦、マホメットの三大聖者にしても、成程偉人には違いないが英雄ではない。これは一寸考えても分る通り、彼等の業績である。彼等が聖者として精神的にあくまで人類を救おうとしたのは、いまさら言うまでもないが、これを科学と対照してみるとき、今日の如き絢爛たる文化を創造されたのは無論科学の業績ではあるが、これは表面に現われたものであって、別の面における宗教家の活動も見逃してはならないのである。とはいうものの、この方は目に見えないためかあまり関心を持たれなかった。それどころか、どちらも相反するものと誤られたことであって、このためどのくらい人類不幸の原因を作ったか知れない。ところが事実は物質と精神、表と裏、陽と陰といったように、両々相俟って現在の如く文明は進歩発達して来たのであって、勿論これは主神の経綸であったのである。そうして人的からいえば、物質面は英雄と学者の功績であり、精神面は宗教的聖者の功績であったのである。

しかし以上の如くにして文明はこれまで発展はして来たものの、これ以上の期待は最早かけられないのであって、それは文明の行詰りである。事実人類の不幸不安は増すばかりであるに見て分る通り、このままでは人類の理想たる平和幸福の世界は、いつになったら実現するや見当もつかないのである。従ってどうしても現在文明の一大飛躍によって、一層高度の文明を築き上げねばならないのは言うまでもない。ところが幸いなる哉その時は来たのである。すなわち私という者に神はその根本を明確に知らされ給うと共に、大いなる力をも与えられたのであって、今やその実行に取掛ったのである。というと、あまりにも大言壮語的なので驚くであろうし、自画自讃と思うかも知れないが、真実であるからどうにもならないので、何よりも今後の世界の推移と、これに伴なう私の仕事を刮目すれば、右の言の偽りないことが分るであろう。

話は前へ戻るが、科学と宗教についていま少し言いたいことは、今日までの宗教は根本が小乗的であることである。すなわちどの開祖の言説もそれほど深くはなかった。何よりも、迷いが多く真の安心立命は得られなかったにみて分るであろう。これも時期の関係上止むを得ないが、私は最高神から無限絶対の根本まで知らされたのである。しかしこれはいま説くことは許されないから、ある程度まで書くのである。それについて凡ゆる既成宗教を見ても分る通り、その救いの方法としては、文字による聖典と言葉による説教との大体この二つであろう。その他としては山岳や土地の開発などを主なるものとし、建造物、宗教、芸術品等が遺産として残されているのであって、深く検討してみるとき、今後の世界をリードするほどの力はあり得ないと思うのである。

ここで私のことを書かねばならないが、私は知らるる如く、現在小規模ながら日本における箱根、熱海、京都三カ所の風光明媚なる所を選んで聖地とし、地上天国の模型を造っている。その構想は内外の特長を調和したパラダイス、山水の美を取入れた大庭園、美術の殿堂、宗教的型破りの建築物等の外、医学、農業の革命的啓発に専念しており、また驚異的無数の奇蹟によって、神の実在を万人に認識させる等、前人未踏の方法によって教線を拡げつつあるのである。これこそ真善美完き世界の重要なる基礎的経綸であるのである。

次に言いたいことは、今後における本教の建設的諸般の事業であるが、これも最後までの設計は私の頭の中に出来上っており、時を待つばかりになっている。といっても、時の進むに従い漸次具体化するのは言うまでもないが、それは想像もつかないほどの大規模なものであって、言わば新文明世界の創造であるから、これにみても本教は宗教ではないので、適当な命名さえ出来ないのである。しかも今日まで神示通り運んで来たので、その正確さに私自身も驚いている位である。何よりも本教の歴史を見ても分る通り、本教が宗教として発足したのが去る昭和二十二年八月であるから、僅々六カ年にして今日見るが如き素晴しい発展振りであって、その間と雖も官憲の圧迫、ジャーナリストの無理解、種々の妨害に遭いながらも以上の如くであるとしたら、到底人間業とは思われないのである。勿論今後と雖も神定のプログラム通りに進むに違いないと共に、何れは世界を舞台としての大神劇の幕が切って落されるであろうから、このことを考えただけでも興味津々たるものがあり、然も驚歎すべき奇蹟も続出するであろうし、血湧き肉躍るような場面も展開されるであろうから、刮目して待たれたいのである。つまり私という者は、平和の英雄であると思っているのである。      

 (昭和二十八年三月十一日)

日本再建の指針

私は今、日本今後の国策を論じてみようと思うが、その前に先ず日本という国の使命を語らなくてはならない。抑々この世界に於て数多くの国があるが、何れの国といえども神が世界経綸の必要上、それぞれ本来の使命を与えてある。固より日本と雖もそれに漏るる筈はなく、特殊の使命のある事も当然である。然るにその使命が今日迄判然としていなかった為、人間の勝手な解釈の下に甚だしい間違いを行い、その結果現在見る如き惨澹たる国家となった事は今更言うまでもない。日本歴史を繙いてみれば明らかなる如く、昔から英雄や豪傑が輩出し、その殆んどは戦争という暴力を振って権力を掌握し、人民を塗炭の苦しみに遭わせ、国土を荒廃に帰せしめた罪悪は随所に見らるるのである。これを一言にして言えば、日本歴史は権力者の権力奪い合いの記録でしかなかったと言ってもいい。そうしてその最後の大詰が今次の太平洋戦争であった事は、疑う余地のない事実である。それが為、建国以来人民は権力争奪の為に、如何に大なる犠牲を払わせられたであろう。全く日本には、人民の歴史というものが無かったにみても明らかである。

しかし右の如き長い期間中に間歇的に平和時代もあった。飛鳥、白鳳、天平、平安、足利、鎌倉、桃山、元禄、享保、文化、文政、明治等で、その間短い乍らも平和文化の発達があり、その遺産として今日僅かに残っているものもあるが、それはその時代を語る絵画、彫刻、美術工芸品等であるが、この僅かな平和期間にして、尚且つ今日見るが如き素晴しい美術品が製作されたという事は、日本人が如何に卓越せる美的要素を有しているかが知らるるのである。

次に日本の風土である。日本位風光明媚なる国は外にないという事は、外客の絶讃おかない処である。又草木、花卉類の種類の多い事も世界に冠たるものがあり、四季の変化も他国にその比を見ないそうである。それが山川草木の変化に現われ、春の花、夏の青葉、秋の紅葉、冬枯れ等それぞれの季節美を発揮している。又建築に於ての木材その他の、自然美を活用する技術も特有のものであり、美術及び美術工芸品に於ての、淡白と気品に富んだ香り高い日本画や、独特の蒔絵、陶磁器等に至る迄、外人の垂涎措く能わざる処のものである。戦争中、京都・奈良の美を保存すべく、彼のウォーナー博士の努力によって空襲を免れたという事も、外人としての日本美術の理解による為であった事は勿論である。その他食物に於ても魚介、野菜の種類の多い事と、調理法のその一つ一つが、自然の味を生かす技術も独特の文化であろう。

以上によって考える時、日本本来の使命が那辺にあるかを窺い知らるるのである。それはいうまでもなく、自然と人工の美を以て、世界人類の情操を養い、慰安を与え、平和を楽しむ思想を豊かならしむべき大使命のある事である。これを具体的にいえば、日本全土を挙げて世界の公園たらしめ、凡ゆる美の源泉地たらしむ事である。

然るに何ぞや。本来の使命と凡そ反対である処の軍国主義をモットーとし、長い間それに没頭他を顧みなかった事で、以上の意味に目覚めて深く考える時、如何に誤っていたかを知るであろう。見よ、敗戦の結果軍備撤廃という空前の事態も、全く日本の真の使命を悟らしむべき神の意図でなくて何であろう。そうして軍備廃止に就いて、日本人中無防備国家として憂慮する向きも相当あるであろうが、それは杞憂に過ぎないと思うのである。何となれば、日本が世界の公園として、善美を尽くし、地上楽園の形体を備える事になるとすれば、万一戦争の場合、敵も味方もこれを破壊する勇気は恐らくあるまいと思うからである。

本教団に於ても、ここに見る処あり、已に着手し又は準備中のものに箱根・熱海の風光明媚なる地点を選み、庭園美、建築美の粋を尽くした小規模乍ら将来に於ける地上天国の模型を建造製作し、それに附随して美術及び美術工芸品の海外紹介所ともいうべきものを設置しつつある。これに就いて特に言いたい事は、日本の多くの輸出品中最も特色ある繊維品は、或る限度を越える事は困難であり、機械類、造船、汽車、電車、自動車、自転車や雑貨等も、高度の文化国へは大衆向の普通品に限られ、民度の低い国の需要を漸く満たす位である。高級機械類、雑貨、文化資材等に至っては、米国始め他の先進国に追つく事は前途遼遠であろう。

以上の意味によって、今後日本のとるべき国策としては、観光事業と美術及び美術工芸品、花卉類の輸出をおいて、将来性のあるものは殆んど無いと言っても過言ではなかろう。

併し乍ら最も関心事であるものとして、日本人の健康問題がある。如何に観光施設が完備し、外客憧憬の的となったとしても、伝染病や結核が瀰漫していては、折角招待しようとしても、美邸の門を閉しているようなものであろう。又今一つは日本産の野菜である。日本古来の人肥の如き寄生虫伝播の恐れあるものを使用する一事は、外客誘致上少なからぬ障害となろうから、本教の主唱する自然栽培法を実施すべきで、この点実に理想的である。これによって、右何れもの障害は除去され得るのである。

大体以上の説明によって、略々認識されたと思うが、日本の国土に、これ等計画や施設が完成された暁、我等が唱える地上天国は如実に出現さるるのであって、如何なる国といえども、この事を歓迎しない筈はあるまいと思うのである。

(昭和二十四年五月三十日)

主の字

私は常に、順序を正しくせよと言うが、この順序をタッタ一字で表わしたのが「主」の字である。今この主の字を解剖してみよう。

上中下の横棒三本は天・地・人、日・月・地、五・六・七、神・幽・現という意味で、それを経の棒が貫き、一番上にヽが乗っている。これが正しい順序で、政治でも、経済でも、教育、宗教でも、一切万事この形でゆかなければうまく行く筈がないのである。処が今日まで、凡ゆるものは大抵経緯が別々になっていた。その最も大きなものは経の東洋思想と緯の西洋思想とで、それが離れ離れであった。処が愈々時節到来、十字に結ぶ事になったのである。即ち主の字の真中が十の字であり、上下の横棒は天と地である。つまり人間界は天地の間であるから、人間界が十字に結ばるという訳である。これが地上天国の実相で、即ち神の世界である。神という言葉もその意味である。カとは火、ミとは水で、火は経に燃え、水は緯に流れる。これが結んでカミという意味になるので、高皇産霊、神皇産霊というが、神のお働きは結びである。又仏はホトケであり、ホドケルであるという言霊であるから、ホドケている世界を、神が結ぶというのが、今や来らんとする神世界である。キリスト教徒が胸に描く十字架もそれの暗示であり、仏教の卍も同様の意味で、ただ仏教の卍は十の字の一つ一つが曲っている。これは十の字に結ばると共に回転が始まるという訳である。以上の意味によって、政治も三段階でなければうまくゆかない。上下を真中の十でしっかり結んで上下の棒を支えている。という事は中産階級が上層と下層との階級を調和させる役という意味にもなる。そうして一番上に、大統領又は総理大臣が坐って支配するという意味であるから、主の形にすれば何事も破綻なくうまくゆくのである。会社経営でも団体運営でも理窟は同じで、我等が常に唱うるミロクの世の姿である。

(昭和二十四年九月三日)

新しい愛国心

この愛国心という言葉ほど、世界共通のものはあるまい。どんな国でもこれを金科玉条としていない国は恐らくないであろう。日本に於ても終戦前までは、他国に見られない程の旺盛な愛国心が国民全般に漲っていた。その原因は勿論天皇制の為もあり、天皇を以て国民のシンボルとし、現人神として崇め奉っていたのは、我々の記憶にも明らかな処であるが、それというのも、万世一系の天皇としての尊信が、国民感情をそうさせたのは勿論であると共に、一派の野心家や権力者輩も、教育に宣伝に極力煽って、自己の都合のいいように仕組んだのは誰も知る処であろう。その結果外国にも見られない程の特殊的国家が出来上り、自称神国としてひとりよがりになってしまい、それ程の金持でもないくせに我儘坊ちゃんのようになっていたのである。

その上、御用学者などという連中も、歴史的論理的に巧みに自尊心を昂めたのだから堪らない。忠君愛国思想は否が上にも全国を風靡し、国民は何事も国の為、陛下の為として生命を犠牲にする事など何とも思わないようになってしまい、これが最高道徳とされていたのである。それが彼の敗戦によって見事自惚根性は吹っ飛び、反って劣等感さえ生まれたのである。然もその際天皇の御言葉にもある通り“私は神ではない、人間である”との宣言もあって国民は驚くと共に、新憲法も生まれ、政治の主権は人民にあるという、日本にとっては破天荒ともいうべき、民主主義国家となったのであるから、全く開闢以来の一大異変であった。そこへ天皇の神位よりの御退位も加わり、識者は別としても、的を失った国民大衆の前途は暗澹となり、その帰趨に迷わざるを得なくなったのは誰も知る通りで、現在もそれが続いているのである。

それに就いて面白い事があった。終戦直後の事、私に会う人達は誰も彼も“到頭神風は吹きませんでしたね”と言い、残念そうな顔つきなので、私はこういってやった。『冗談じゃない、正に神風は吹いたじゃないか。君等は神風を間違えていたんだ。本来善を助け悪を懲らすのが神様の御心なのだから、日本の方が悪である以上、負けたのは当然である。だから、寧ろ有難い位で、お祝いしてもいいんだが、そうもゆかないから黙っているだけの事で、何れは分る時が来るだろう』。これを聞いて彼等は“よく分りました”と言い、晴々として帰ったものである。

これによってみても、それまでの日本人は国家の事になると善悪などは二の次にして、只利益本位にのみ物を考えていたので、八紘一宇などという飛んでもない御題目まで唱えはじめ、自分の国さえよくなれば、他の国などどうなってもいいというようになり、これが忠君愛国とされて、馬車馬的に進んだのであるから、全く恐るべく禍根は、この時から已に胚胎していたのである。

以上によって考える時、愛国心といってもその時代々々に適合すると共に、善悪正邪の観念を根本としたものでなければ、国家百年の大計は立てられないのである。そこで私は、今後の時代に即した愛国心とはどういうものかを書いてみるが、最も分り易く言えば、それまでの日本は小乗的考え方であったのを大乗的に切替える事で、これが根本である。一口に言えば国際愛であり、人類愛である。つまり日本を愛するが故に世界を愛するのである。それというのも、今日は一切万事国際的になっており、孤立や超然は最早昔の夢となったからである。従って今後の愛国心を具体的に言えばこうである。我々同胞九千万人の生命の安全を第一とするのは勿論、道義的正義の国家として、世界の尊敬を受ける事である。それに就いても、今盛んに論議されている再軍備問題であるが、これに対しては余程前から賛否両論相対立し、中々解決がつかないのは、困ったものであるが、私からいえばさ程難かしい問題ではない。何となれば実際問題として考えれば直ぐ分る。それは『日本に対し侵略する国が絶対にないという保証がつけば、再軍備は止めるべしだが、そうでないとしたら、国力に応じた防衛は必要である』。只この一言で分るであろう。

(昭和二十七年十二月三日)

日本は文明か野蛮か

この標題を見た人は、私の頭脳を疑うかも知れない。何故ならば、日本は戦には負けたが依然として文明国の仲間に入っていることは確かだからである。そうして先ず野蛮国といえば彼のアフリカを始め、地球上には色々の国があるが、よく考えてみると、これ等は単なる野蛮国ではなく、野蛮未開国というのが本当であろう。只日本は未開の二字だけは確かに取れたが、野蛮の二字は依然としてその儘残っているのが事実である。

何よりも、私は近頃の世相をみてつくづくそう思われるのは、余りにも野蛮的なことが多すぎるからである。何かというと、集団的暴力を奮って社会を騒がしたり、人々を脅かし、殴り合い、兇器の奪い合い等々、怪我をしたり、させたりしているというように、実に不安極まる社会である。然も将来文明の指導者たるべき、最高学府の学徒までがその仲間になって騒ぐのだから、全く情けない話である。そうかと思うと市井の巷などでも、運チャンの首締め、殴打で人事不省にして僅かな金を奪ったり、又一寸したことで人を殺したり、中には親子兄弟の殺傷沙汰さえ往々あるのだから、全く野蛮極まる世相で、日々の新聞に一つや二つ出ていないことはない位である。

その他強窃盗、強姦、掏摸や放火、喧嘩、殺傷沙汰等、数えあげればキリがない程で、これが文明世界であるかと疑いたくなる。私はむしろ獣に近い社会と言った方がよいとさえ思うのである。という訳で、実際現代人はまだ文明の何たるかを知らないようである。成程近代文明は機械の発達によって非常に便利になり、社会組織や機構などが科学的に巧妙に仕組まれるようになったので、単に見た目には驚異的進歩であるので、これが文明というもののあり方と思ってしまい、随喜の涙を零しているのが大部分であろう。ところが何ぞ知らん、我々からみればこれは文明の表面だけで、裏面は文明処か野蛮がまだ大いに残っていると思わざるを得ないのである。

これを分り易くするため歴史的順序を書いてみるが、抑々人類は原始時代から未開野蛮時代を経、それから宗教や学問の発達によって文明が生まれたには違いない。と共に、野蛮の方も減りそうなものだが、事実は減る処ではない。という訳で、変な言葉だが、今日は文化的野蛮時代と言った方が適切であろう。従って真の文明時代とはこれから出来る世界であって、この時代こそ全人類の待望する平和、幸福な世界である。だが喜ぶべし、その時代は既に目前に迫ったのである。それはその時代を造る役目として生まれたのが我が救世教であるから、本教の今行っている事業を見ればよく分る。その第一着手としては、文明の裏に潜んでいる幾多の誤謬を指摘し暴露すると共に、真の文明というものを教えているのである。故にそれを信じさせる為の手段として、神は盛んに私に奇蹟を行わせ、神の実在を信じさせているのである。こうみてくると本教は既成観念で考えるような、ありきたりの宗教ではなく、全く新しい文明世界の創造者であり、世界歴史大転換期に於ける神の一大経綸の担当者であることが分るであろう。

(昭和二十七年六月四日)

日本人の依存性

現在の日本人をみる時、その依存性のあまりに強い事である。これを大にしては日本政府の貿易、その他に就いての外国への依存である。又民間に於てもヤレ政府の補助金とか、ヤレ日銀の経済援助とかは固より、中・小業者は中・小業者で、銀行の貸出がなければ窒息するなどといい、一般個人にあっても親戚知人から金を借りないとやってゆけないと言うかと思えば、子は親の力を借りなければ学校の勉強が出来ないなどという。その他失業者や未亡人等にしろ、当局の援助や社会事業、団体の救済を当てにしている等々、何処を見ても他の援助なくしては、どうにもならないようで、これ等をみる時、日本人の依存性に驚かざるを得ないのである。

然らば、この根本原因は何が為かというと、全く根強い封建思想の未だ抜け切れない為としか思われない。それというのは、昔は国民の大多数を占めている階級としては、武士、役人を主なるものとし、一般町人階級である。前者は殿様から支給される扶持によって生活し、後者は少数の旦那衆は別とし、傭用人階級は何年間又は何十年間、薄給ながらも生活を保証されている。そうして彼等が独立の場合暖簾や得意を別けてもらう習慣になっている。又労働者は今日の如く団体権等はなかったから、大名のお出入りや、町家の旦那方の引立によって生活しているという訳で、殆んどは独立対等的ではなく、強力者の恩恵によって生活していたので、生存権などは勿論なかった。この状態が何世紀も続いて来た以上、依存心の容易に抜け切れないのも無理はないと言えよう。

又女性は女性で、年頃になっても今日のような職業婦人はないから、親に依存せざるを得ないと共に、嫁しては夫の家を一生の墳墓として絶対服従であると共に、夫及び姑の命に背く事は婦道に反するとさえ思われて来たのであるから堪らない。丁度蔓科植物のようなもので、しっかりした物にしがみついていなけば生きてゆかれないという状態であった。

処が右に引換え、彼の米国などを見ると余りに違うのである。同国建国の歴史を見ても分るが、彼の英国の清教徒数百人が十七世紀の初め、徒手空拳アメリカへ渡航し、無人の山野を開拓し、努力奮闘僅か二百余年にして、今日の如き絢爛たる文化的大国家を建設したのであるから、日本人の思想との違いさは止むを得ないものである。同国人が初めから依存したくも相手がない、如何なる困難にブッつかっても自己の力以外に援助者はない、即ち自己依存である。自力も以て無から有を生ずるより外に方法がなかった。このような訳であるから、今アメリカ国民を見る時、実に羨ましい限りである。

従って、日本国民がこれほどブチのめされた結果、この国を再建するとしたら、何よりも米国民の開拓者精神を学ぶべきで、寧ろこの思想の導入こそ資本導入よりも効果絶大なる事を断言するのである。そうして精神が物質を支配するという真理からみても、それが根本的方法である。処が、日本の指導者中これに気のつくものは殆んどないと言ってもいい位で、言論機関に於ても、その説く処は反って依存心の鼓吹である。極端な言い方かは知れないが、依存心とは意気地なし的乞食根性で、人から同情心を買い、憐れみを乞う訳である。然も予期した要求が通らない時は愚痴を言い、不平を並べ、はては多数の力を借りて、反抗的にまで出て相手を倒そうとする。その結果、自分も倒れるという事に気がつかないようで、その愚や及ぶべからざるものがある。これでは日本再建どころか、現状維持さえ心許ないというべきである。

そうしてややもすれば、労資間の問題を解決する唯一の手段としてストに出るが、これも一面やむを得ない手段ではあろうが、深く考える時、こういう事になろう。ストに出れば出る程、その事業は衰退するから、結果は収入減となり、自分達の給与も減るに決っている。これでは自分の首を自分で締めるようなものである。

言う迄もなく、労資双方とも目的は幸福である。とすれば、一方が不幸で、一方が幸福という論理は成立たない。どうしても相互関係に立っている以上、相手を儲けさせなければ自分も多くの支給を受ける事は出来ない訳で、これ程判り切った話はあるまい。従って、資本家が不当の利益を収得するのも間違っていると共に、労務者が自己の利益のみを考える事も亦誤まりである。然も、今日の事業界を公平に検討する時、勿論戦争前は資本家は確かに儲け過ぎていたし、又国家経済も今日とは較べものにならぬ程の余裕があったが、現在はどうであろう。事実事業家らしい事業家も、資本家らしい資本家も、殆んど全滅したと言ってもいいではないか。大財閥は解体し、金持階級は殆んど没落してしまった。故に以前のように共産主義者の敵とした地主も資本家も消滅してしまったので、拳骨のやり場に困るであろう。この現状によって考える時、今日の急務は大資本家は危険の存在としても、中資本家が相当出来なければ事業の繁栄は到底望めまい。昨年米国は、資本の蓄積方針を日本に慫慂したのもこれが為であろう。彼のソ連に於てさえスターリン氏が、最初資本家を打倒し過ぎた為、事業の運営が旨くゆかないので、中資本家育成の道を開く政策をとったにみても明らかである。

以上の如くであるから、日本の現在としては労資協調処ではなく、労資の固い握手である。これによってのみ労働者の福利増進は望み得る事は断言し得るのである。然るに何もかも闘争によらなければ解決しないように思うのは、恐るべき錯覚でしかあるまい。これに気づかないとしたら、労資双方とも自滅するより外ないであろう。

これによってこれを考える時、労資問題と雖もストという手段は依存心の表われでしかあるまい。というのは資本家に賃銀値上を要求するのは資本家依存であるからである。もし自主独立心を発揮し仕事をするとすれば成績が向上し、資本家の方が労働者に依存しなければならない事になろう。従って先ず資本家に儲けさせておいて、公正なる分配を要求する事こそ本当であるから、資本家も否やは言えず応ずるのは勿論で、この方針を以て進めば、労資の問題の解決などさ程難事ではないと思うのである。然るに現在は逆の考え方で、事業不振を解決しようとしないで、賃銀のみ値上しようとするのであるから、無理を通そうとするとしか思われないであろう。

これを要するに、この際国民一般から依存心を思いきって除く以外、最善の方法はあるまい事を警告したいのである。

(昭和二十五年三月二十五日)

日本人は欲がない

日本人位、無欲な民族はないと言ったら、読者は定めし驚くであろう。ところが、立派な事実であるから仕方がない。只多くの人は気がつかないだけである。それを今書いてみよう。

実例を挙げてみれば、今日の日本人は、信用ということに余り関心をおかない。例えば、いつかは必ずバレルようなことや、分り切った嘘を平気で吐く。ひどいのになると、直に尻からバレルような嘘を吐く。何よりも、時間を約束しておき乍ら実行しない人が多い。これなども立派な嘘を吐いたのであるが、これしきのことは日常の茶飯事として、誰も当り前のように思っている。又一寸物を買うにしても、売手も買手も嘘の吐き合いだ。尤も、売手の方が余り正直では儲からないことになるから、或る程度は止むを得ないとするも、余り嘘がヒド過ぎる。結局信用を落すばかりか、第一取引上時間の浪費と繁雑な手数がかかって、やりきれない。売る方が掛値をするから、買う方は値切ることになる。買う方が値切るから、売る方が掛値をするという、鼬鼠ゴッコだ。少し大きな取引となると、半日も一日も押問答をしなければならない。中には数日、数十日、数カ月もかかることさえある。このようなわけで、双方の無駄と浪費は大変なものであろう。

私の例を挙げるのは、少しうしろめたいが、私は買物する場合、殆んど値切らない方針である。只目に余る程高いとか、附込まれるとかいう場合は、止むを得ず値切ることもあるが、そういうことは滅多にない。私はどうしてそうするかというと、値切ると、その次から先方は掛値をするに決っている。そこで又値切るというわけで、これも鼬鼠ゴッコになるから、手数がかかったり、不快な思いをするだけである。

以上は売買の例であるが、官吏や会社員などの場合もそれと同じようだ。この種の人達は、早く出世をしたい為、自分の手柄を見せたがったり、吹聴したり、恩に着せたりする。こうするのが利口なつもりでいるが、実は上役は目が高いから、それを見透してしまう。彼奴は上面ばかりよく見せようとする、どうせそういう奴は、心から忠実ではあるまいと思われ、信用されないことになるというわけである。

又企業家などは、金がないくせにありそうに見せたがったり、大きな背景があるように思わせようとしたり、非常に有利な事業のように吹聴したりするが、こういう策略も一時はうまく行っても、決して成功するものではない。

又世間よく、仲人口と言って、結婚の相手を世話する場合、実質以上に賞めそやすことが当然のようになっているが、これ等も巧く成立しても、早いのはその以前、遅いのは以後、結局破綻になって、当事者同志が迷惑するばかりか、橋渡しや仲人も信用を失うことになる。又、売薬、化粧品など、ジャンジャン広告を出して、一時は大いに売れるが、効能は広告程でないから、やがて売れなくなる--ということがよくある。

右のような例を挙げればキリがないが、要するに何事でも信用第一だ。信用がなくてはお仕舞だ。外の事はいくらうまくやっても何にもならない。ザルに水汲むようなものだ。ところがそこへ気のつく人は案外少ないようである。このようなわけで、結局大いに欲張って巧くやったつもりでも、事実は信用がなくなり、骨折損の草臥儲けということになる。こういう人は、つまり欲のないわけである。従って嘘を吐かず真面目にやれば、彼の人の言うことなら間違いない。彼の人なら絶対信用が出来る、という人になる。そうなれば金も儲かるし、出世もし、人から敬愛されるのは当り前だ。従って、こういう人こそ本当の欲の深い人である。

だから私はいつも言うが、人間は大いに欲張れ、但し一時的ではなく、永久的欲張りになれと言うのである。

(昭和二十五年十一月一日)

道治国

今更言うまでもないが、我が日本は法治国である。尤も世界中文明国と名のつくものは悉く法治国で、一つの例外もないが、実をいうと、法治国即ち憲法で治めるというやり方は理想的とは言えない。何よりも事実がよく証明している。見よ、法律の力のみでは犯罪を無くすことの如何に困難であるかは、歴史がよく示している。勿論、人間から全く悪を取去ることは不可能であってみれば、右の事実も止むを得ないであろう。

これ等の点に鑑み、勿論宗教によらなければ真の解決は出来ないが、しかし宗教のみでは急の間に合わない。としたら、その他の方法として、先ず何よりも道を知らせることである。即ち道とは道理であり合理である。尤もこれも古くからある東洋道徳的であるが、今私が唱えようとするのは、より進歩的の新しい道徳である。

我々がこのようなことを言い出すのは、近来社会的道義観念の頽廃が余りに酷いからである。青少年の不良化は勿論、各種犯罪の激増等は目に余るものがある。最近、識者間に於ても漸くこれに気がつき、修身を復活せよとか、教育勅語に代るべきものを作れとか、種々の議論が出ているのは、この方面に気がつき始めたことで、喜ぶべき現象である。そうしてこのことのよって来る処は、言うまでもなく終戦後国民一般が拠り処を失い、帰趨に迷った結果、遂に今日の如き無軌道的人間が多くなったのであろう。終戦までは各学校に於ても、修身教育や教育勅語を基本とし、それに古来からの忠孝等の思想も心の底に植附けられていた為もあって、今日からみれば当時の社会は、余程真面目であったことは否み得ない。と言って、今更右のような旧道徳を復活する訳にもゆかない。としたら、何とかして新しい時代精神を作らなければなるまい。只終戦後我が国民に与えられたものとして民主主義があるが、これによって如何に封建思想の束縛から解放されたかで、大いに多とするに足るが、遺憾ながらその行過ぎが現在の如き社会混乱の温床となったことも否めないであろう。

とすれば、新旧の時代思潮から悪を捨て、善の面だけ取上げて、時代に則した新しい道義観念、即ち英国の紳士道の如き新しい大和魂を作るこそ何より必要であろう。それが前述の如き、道という基本的観念であって、これを教育上にも社会上にも大いに鼓吹するのである。かくして社会悪を幾分でも減少出来たとしたら、大いに喜ぶべきであろう。処で道即ち道理を分り易く言ってみれば、道とは一切に通ずるもので、言わば人間処世上の絶対指針である。何となれば、人間、道に従えば災いも失敗もなく、総ては順調にゆく。信用は高まり、人からは敬愛せられ、平和円満な境遇となるのは勿論である。こういう個人や家庭が殖えるに従い、その感化によって社会悪漸減に役立つことは言うまでもない。

この意味に於て、今日の如く法のみに頼るとしたら、法に引掛らなければいいという、所謂利口者が増え、不逞の徒が横行するのである。私は常に言うのであるが、神とは言い変えれば道理である。即ち神を拝むということは、道理を拝むことである。故に道理に従い、道理に支配される人間こそ、真の文明人である。この文を世の識者に提言するのである。

(昭和二十六年二月七日)

道理に従う

信仰の妙諦は、一言にして言えば道理に従うことである。道理とは、道という字と理という字である。特に道という字ほど意義深いものはない。これを言霊学から言えば、ミは水であり体であり、チは血であり霊である。またミは女であり、チは男である。即ち陰と陽である。そうして文字から言えば首に辶(しんにょう)をかけている。首とは人体に譬えれば、一番肝腎な道具である。手や足は斬られても生きているが、首を斬られたら生命はない。サラリーマンが職を失うのを馘を切られると言うのも面白い言葉である。そのような肝腎な文字に辶(しんにょう)をかけるのだから、これ程意義深い文字はあるまい。

また道とは一切に通じることである。凡ゆる交通機関も、電波も、光線も、人間同志の往来も、道によらぬものはない。日月星辰の運行と雖も一定の軌道即ち道がある。このように道とは一切の根本である。とすれば道に外れるということは、如何に間違っているかが分るであろう。

次に、理とは言霊上ラ行であって、ラ行は螺旋という意味で、形で現わせば渦巻である。渦巻には中心があり、その中心によって伸縮自在の活動を起す。即ち左進右退なれば求心的となり、右進左退なれば遠心的となる。例えば本教の中心は箱根強羅であるが、強は五であり、火である。羅は渦巻であるから、火のポチが遠心的に拡がるという意味になる。昔からある巴の形は左進が右進になる意味で実に神秘である。またラリルレロの言霊は龍神の働きであって、龍はリウである。動かない時は渦巻の形をする。何よりも面白いことは、名前にラリルレロの入った人には龍神型が多いから、試してみると判る。こんな説明をするときりがないから、これだけにしておくが、次に理の文字を解釈すると、王偏は天、中、地、火、水、土を経の棒で貫いている。ソナエは里という字である。里とは田に土を書く。田は丸に十であり、土は十一即ち統一である。とすれば理の意味は万有の基本的働きであり、完全という意味になる。天理教も良い名前である。よく理法という言葉があるが、序だから法の字も解釈してみよう。法の言霊は、ホは火であり、オは水であるが、言霊学上オはホに含まれてしまう。これはオの水によって火が燃え続ける意味である。また文字は水を去ると書くが、これは水は緯へ流れるから乱れる憂いがある。従って水の働きを去れば経となり、厳然たる不動の意味となる。法は犯すべからずという訳である。

以上の意味を総合すれば、道理の意味は分るであろう。このように大きくして意義深い文字であるから、人間はこれに従わなければならないのである。故に道理は神であると言ってもいい。道理に従うということは神に従うことである。人たるもの如何なることがあっても、道理を重んじ、道理に従い、道理に外れてはならないのである。

(昭和二十五年十一月二十日)

宗教・教育・政治

今の世の中は誰が見ても実に社会悪が充満していると言えよう。彼方此方に忌わしいことが次々起り、人心不安はその極に達している。一体こんなになった世相は、その原因はどこにあるかということを深く考えてみなくてはなるまい。そうしてその責任は一体どこにあるであろうかということであるが、いうまでもなく宗教・教育・政治の三者が負うべきではなかろうか。とすれば、この三者の何処かに一大誤謬が伏在しているかを知ることである。その誤謬をはっきり知ることこそ問題解決の鍵であらねばならない。今それ等を俎上にのせてみよう。

先ず宗教であるが、キリスト教は別とし、他の既成宗教は時代に掛離れ過ぎている。仏教にしても、二千六百年以前印度の民衆を対象として生まれたものである以上、如何に釈尊が偉人であっても、その説く処が深遠であっても、最早今日の時代に間に合う筈がない。勿論、現代日本の社会に於てをやである。その時代の印度人が、真覚を得る為、何万巻という経文に浸り、日々、森林の冥想などに耽るということは、生活のため身動きも出来ない現代人として無理である。既成宗教が、今日墓守以外手も足も出ないという現状は、全く当然の結果と言えよう。彼等が法燈を維持するだけに汲々たる有様は、只気の毒というより外に言葉はない。彼等が、社会事業によって、存在の唯一の手段とするに至っては、最早宗教の枠から逸脱していると言っても否定は出来まい。

次に教育であるが、これがまた軌道から外れていることは夥しい。教育の真目的は、立派な人間を作ることである。勿論、立派な人間とは正義を信条とし、社会の福祉を増進するに努め、文化向上に貢献する人間を作ることこそ、真の教育であるに拘わらず、最高学府を出たものさえ犯罪を犯し、社会に害毒を流したりする現状であってみれば、何とかせざるを得ないであろう。しからば、この教育の過誤は何処にあるかといえば、全く唯物主義偏重にあることは、我等が常に口を酸っぱくしている処で、どうしても唯心主義と相共に進まなくては、教育の真目的を達成することは思いもよらないであろう。

とはいうものの、長い間の誤謬である以上、今直ぐに改革することは大なる困難が伴なうのは我等もよく知っている。唯心主義とは霊を認めさせることで、それは神を認めさせるということであって、これなくして唯心主義は成立つ訳がない。勿論、今日迄もそれに対し、宗教を以てしているが、見るべき効果はない。というのは、力ある宗教がなかったからである。そこへ本教が現われたのであって、本教こそは唯心主義を認識させ、科学と宗教を並行させ得るので、それによってこそ、恒久的平和世界が生まれ、ここに人類は天国的生活に入ることが可能となるのである。如何程文化が進歩しても、幸福がそれに伴なわないとすれば、唯物文化にのみ幻惑されていたその罪によるので、一日も早く人類はここに気づかなければならないのである。

次に政治であるが、これはまたあまりにひどすぎる。ここでは日本のみを対象として論じてみるが、占領治下とは言いながらあまりに貧困である。政治の方も唯物的政治であるから、内容は更にない。その日暮し的で前途の見通しなどつく政治家は殆んどないと言ってもよかろう。これらの原因こそ、魂が曇っているからで、政治家と雖も信仰を基礎としなければ、到底良い政治は出来る筈はないのである。といっても、既成宗教ではそれだけの力はないから、どうしても、新しいそうして力ある新宗教の出るより外に解決の道はないであろう。

(昭和二十四年八月二十七日)

宗教と政治

政治と宗教とは大いに関係があるに拘わらず、今日迄余り関心を払われなかったのは不思議である。寧ろ宗教が政治に関与するを好まないばかりか、反って政治から圧迫されて来たというのが、終戦以前までの実情であった。これは古往今来各方面に見らるる現象で、宗教によっては迫害の強い結果、一時は法燈の将に消えなんとした例も乏しくはなかった。併し乍ら、宗教の目的である理想的世界を造り、人類の幸福に増進せんとしても、政治が良くなくてはその目的は達し得られない道理である。この意味に於て、良き政治には良き政治家が必要となって来るが、良き政治家たるには、どうしても宗教心がなくてはならない。今後の時代をして理想社会を実現せんとするには、先ず宗教を政治に織込む事であると、私は思うのである。

政治家の最も陥り易い欠点は、外国は知らないが、日本に於ては涜職問題であろう。然るに、この原因は宗教心のない唯物的政治家だからである--と言えよう。何としても、今後は宗教的政治家の輩出こそ我等が要望する処のもので、それによってのみ将来の国運の進展を期待し得られるであろう。

私は、新日本建設に当っては、何よりも政治家に宗教心を培い、宗教精神を根柢とした政治が行われるようにならなければならいと思う。今人々は口を開けば、政治の腐敗、選挙の不正、役人の涜職、人民の脱税、教育家の堕落等を挙げるが、全くその通りで、この泥沼同様の社会を浄化せんとして、為政者を始めそれぞれの当事者、人民大衆が苦慮しており、その防犯手段として法の力のみを頼りにしているが、これは全然根本を逸している。何となれば、犯罪の根拠は人間の内面にある魂そのものであるからである。この魂を浄化する事こそ真に効果ある方法で、それは正しい信仰以外、他にない事を私は信ずるのである。

(昭和二十三年九月五日)

法律と人間の野蛮性

現代の世界では、文明と言われる国程法的制度が進んでおり、法律条文も年々増えつつあるのは周知の通りであって、全く現代は法律万能時代と言ってもよかろう。従って法規の多い事は、その局にある司法官や、弁護士なども、全部を覚えるには一生涯かかっても難かしいであろう。事実自分に関係のある部分のみが漸くという位であるとしたら、その効果は相当目に見える筈であるに拘わらず、肝腎な犯罪は減らない処か、寧ろ年毎に増えつつあるのはどうした事か、実に不可解千万ではなかろうか。全く文化の進歩とは凡そ矛盾しているのである。そこで私は、その原因に就いてここに検討してみようと思うのである。

抑々、法の主なる目的は、社会から犯罪を減らし、遂には犯罪者なき世界を作るにある事は今更言う迄もないが、事実は前述の如くその逆であって、年々国会に於ては、法規の条文増やしが議事の大半を占めている。もし文化が予期通り進歩するとすれば、犯罪者は順次減少して、法規の条文中不必要なものが出来るに違いないから、国会に於ての議事も、法規の一部廃止法案が討議されるようになるべき筈ではなかろうか。処がその反対であるという事は不思議であるに対し、怪しむ程の者もない。というのは、何人の考えも、“今更どうしようもない”として諦めている為であろう。これによってみても、犯罪を無くすのは、法律だけでは到底駄目だという事がよく分るのである。そうかと言って、今のところ法がないとしたら、これは又大変である。そうなったら最後、悪人の天下となり、良民はとても枕を高くして寝る事は出来ないから、やはり法は法として今の儘にして置き、他の有力な方法を合せ行えばいいと思うのである。併し外のものと言っても、先ず教育と宗教のこの二つよりないが、これも余り期待はかけられ得まい。何となれば、何世紀、何十世紀それを続けて来た今日と雖も、現在の如き人間世界の有様であるからである。

これに就いて以前も書いた事があるが、大体法律というものは獣を収容する檻と同様の意味で、つまり檻がないと人畜に害を及ぼす危険があるから、厳重に太い格子や、網を張って、漸く取締っているにすぎないので、彼等は隙があると破って出ようとするから、段々と細かく、隙のないようにしているだけである。その手段として、年々法を密にし、取締を厳にするのであるから、寧ろ、人間の恥辱と言ってもよかろう。そのようなわけで今日の人間は、獣と同様の扱いを受けているとしたら、余り威張った口は利けたものではあるまい。従ってこれ等の点をよく考えたら、一日も早く目覚めるべきで、昔からよく言われる「人間の形をした獣」とは、現代人にも当嵌らない事もあるまい。これを一言にして言えば、まだ半文明半野蛮の域を脱していないのである。

とは言うものの、それにも厚薄がある。即ち、人間扱いをされていい人と、獣扱いをされなければならない人とがあるのは止むを得ないので、国にしても軍国主義と平和主義とがある如く、前者は野蛮国であり、後者は真の文明国である。

次に教育であるが、これも今日は、既に試験済となっているから、敢えて書く程の事もないが、知らるる如くこれも幾世紀に渉って、大勢の学者、教育家等が努力して来たので、或る程度の功績は認められるが、それ以上の力はなかった。尤も野蛮時代からみれば人智は進み、政治にしろ、社会機構にしろ、凡ゆる方面に渉って驚くべき進歩発達を遂げたのであるから、全く教育のお蔭も疎かには出来ないが、そうかと言って精神面即ち魂の改善には力が足りなかった事は、争えない処である。何よりも法律という檻を不要にする事が、今以て出来ないからである。教育の問題はこの位にしておいて、次の宗教であるが、これも昔から、偉い聖者や、卓越せる偉人が幾人も現われ、然もその弟子や信徒迄が生命を賭し、血の滲むような苦心努力を続けて来たに拘わらず、或る程度の精神的救いは無論認められるが、法を不必要とする迄には至っていなかったのである。としたら、既成宗教にも多くの期待は持てないわけである。

そこで人間から真に獣性を抜き、檻を必要としない社会を作るには、どうすればいいかという問題であるが、これこそ凡ゆる既成文化を超越した破天荒的な力が現われなくてはならないのは言う迄もあるまい。処が喜ぶべし、その力こそ、主の神としてのエホバから我等に与えられ、今、現に発揮しつつある事実で、これが本教の真髄であるから、本教は全く超宗教的大いなる存在であって、やがて来るべき光明世界の先覚者として、第一番に人類の迷妄を醒ますべき警鐘がこの文と思って貰いたいのである。

(昭和二十六年八月二十二日)

廃法府と立法府

議会は立法府だという。成程、年々新しい法規を打樹てるからである。処がこれは自慢にはならない。実は社会悪が殖えるからで、もし善人が殖えれば法規の必要がなくな

るから、立法の必要がない。故に、国会が廃法府となるこそ、本当の文化の進歩である。

(昭和二十四年八月六日)