会主様より明主様直結の正しい神観、信仰をうえつけて頂いていること。

明主様直結の正しい神観が強いお働きにつながる。

離脱の神意の教義によると、御帰天から離脱当時まで、世界救世教では「明主様」という言葉は一般的に使われていなかったと言います(離脱の神意による主張で、真実ではありません。)。信仰の対象は明主様ではなく「神様」であり、神様のみ光を頂くには間に教主様や聖地があるというのが当時の考え方だということでした。

明主様は神様の教えをお伝えに世に現れた神の使い、「エンジェル」であり、「おしえみおやぬしのかみ」というのはそういう意味でつけられたご神名だそうです。これも二代様の行われた大変革の一環です。世界救世教において明主様の御神格の再認識が教義として行われたのは新生再建運動(教団浄化)以降です。

神慈秀明会が離脱し、昭和45年時点で明主様のメシヤとしてのご神格を解き明かし、明主様と信者の間にはなにも間に立つ者はない、直接つながるのだという信仰を説かれたのは、当時としては画期的なことであったと思うのです。ただしそれは、離脱した教団はみな同様で、どこの離脱教団にも、聖地や教主様などはなく、どうしたって自分と明主様直結にならざるを得ず、そのことが正しい神観の復活につながるわけで、それが幸いして明主様の絶大なお働きにつながったと思います。

神慈秀明会や、それ以外の離脱団体が、離脱をすることで奇跡が俄然増えたというのは、この、明主様直結の神観の復活に起因すると思います。重要なことは、神慈秀明会以外の離脱団体でも、離脱することで明主様のお働きが強くなり、離脱が正しかったという確信につながっていたことです。つまり離脱に奇跡による証を頂けたのは秀明会だけでは無かったのです。例えば救世神教、天聖真美会などでも、奇跡を以て離脱の正当性を再認識していました。

すなわち離脱(秀明だけではない)も新生再建運動(教団浄化)も、明主様の御神格復活のための重要な行程であったということです。

現在は神観の正しさが逆転

現在、世界救世教では明主様の御神格が明確になり、明主様直結の信仰は復活しています。さらに、昭和25年の観音から伊都能売大神への経綸の大転換を含むすべてのみ教えが公開され、それに基づく神観、経綸への理解など、神慈秀明会よりもはるかに進んだ正しい神観、信仰を学び、実行している状況です。また、奇跡も続出しています。

会主様の離脱による昭和45年当時の明主様信仰の復活は、当時としては先進的であり、間違いなく私たち秀明信者の「誇り」であります。しかし時代の進んだ今日、神慈秀明会は明主様直結の正しい神観を失ってしまいました。いまや正しい神観は世界救世教側にあります。

しかしその事実に目をつぶり、明主様のみ教えを封殺しながら、昭和45年の会主様の仰ったことを未来永劫維持し続けるならば、これは間違いなく明主様信仰ではありません。

離脱信仰です。

そして、この離脱信仰では、明主様と私たちの間に何者も介さないはずだったのが、実は会主様を介するという新しい解釈が生まれてしまっています。すでに私たちは、その解釈の中に首まで浸っていて、それに気づかない状態なのです。

こんな例があります。ある方が離脱団体から秀明会に移籍してきたのですが、その方は、元の教団で拝受した明主様御直筆のご書体を所有していました。あるときそのことが所属の先生に発覚してしまい、先生はそのご書体をどうしたかというと、なんとその信者から取り上げ、ご焼却にしたそうです。

これはどういう事でしょうか。

これは、神慈秀明会から拝受した物以外は、たとえ御直筆であっても、明主様のおひかりは出ていないどころか、邪気が出ているから焼却しなくてはいけない、と言っているのです。

これが神慈秀明会の基本的な考え方です。み教えについてもそうですね。神慈秀明会以外から出されたみ教えは読んではいけない。邪気にやられると言っていました。また、2000もある御論文のうち、有意義なのは会主様が選別された100編だけであるというわけです。

これは明らかに、明主様と信者の間には、必ず会主様が介在する。それ以外の明主様のお文字などは、会主様が介在していないからお働きにならない。むしろ邪気が出ると、言葉では言っていませんが態度で示している姿なのです。これが「明主様と信者の間には必ず会主様が介在」している離脱信仰の実態です。

ところで、飛天には次のように書かれています。

次に信者さんは明主様に直結しているのだということです。わかりやすく言えば皆様がお祈りやお詫び、また浄霊のお取り次ぎをされる場合、いつでも信者と明主様の間に何者も介在しないのです。

熱海のようにその間に教主がいるのだ、聖地があるとか、何がなければならないなど、そういう考え方は間違っているのです。

会主様は、「今までの考えでいけば、私をその間の取り次ぎ者とみるかも知れない。しかしこれはたいへんな誤りです。何者も介しないのです」と厳然と襟を正して教えられました。その正しい神観をくらましてしまった団体に十五年間もいたことが、取り返しのつかない傷跡になっています。

飛天のこの言葉は、現在は生きていません。現在は明主様と信者の間には神慈秀明会だけがあり、会主様会長先生がおられ、各支部の先生方がおられ、世話人がいます。順序と称して神観が狂ってしまっている状況です。

飛天の中で、世界救世教に向けて三栄子先生が言っておられたことは、今はまるで神慈秀明会に向けて言っておられるかのようです。

正しい神観に還ろう

離脱当時は、世界救世教の他教会の浄霊よりも秀明教会の浄霊の方が強力であったと、離脱の神意の講義で聞いていますが、実際には現在、世界救世教や他教団の浄霊に神慈秀明会の浄霊が見劣りしているのが実情です。

そういう実体に気づいている人も多く、神慈秀明会の浄霊をいくらうけても病気が治らない人に、他教団の浄霊を受けるようにすすめている、神慈秀明会の先生もいるくらいです。

私は、浄霊力というのは、常に正しい神観の有無に左右されるのだと思います。最強の浄霊力は明主様直結の信仰から生まれるのです。現在の秀明会は離脱信仰に基づく会主様を介在する信仰であり、神慈秀明会全体が明主様直結の信仰を見失っています。そのことが浄霊力を弱めている原因であると思うのです。

みなさんはもう一度白紙になって、自分が明主様直結の信仰か、会主様を介在している信仰かを問い直してみてください。

み教えに基づいたちょうどいい神観と信仰

「神慈秀明会は明主様直結の正しい信仰だ」と離脱の神意では説くのですが、実際に神慈秀明会で読むのを禁止しているみ教えを拝読してみると、神慈秀明会で教えて頂いたことと、明主様のみ教えにはずいぶん違うところがあることに気づきます。

秀明は明主様の仰っていた基準よりもはるかに厳しすぎるところ、やりすぎるところに基準を置き、それほどの厳しさはかえって害になるというお言葉があるのに、それを無視していたことがわかるのです。

秀明が説いたのは「極端に厳しいことが出来るほど高い信仰である」ということでした。

しかし明主様はそういうことは仰っておられないどころか、自ら極端な世界に身を置き苦しむことを良しとする信仰を「変態的信仰」と呼んで否定し、重要な教義である「伊都能売思想」においては、「ちょうどよい塩梅の所にこそ真理があり、問題解決の鍵があり、最強の力がある」ということを説かれました。

神慈秀明会では、自分に厳しくすることで、いい加減に見えていた当時の世界救世教(実は伊都能売思想の実践)を批判する根拠にもしていたのでしょう。ちなみに、いい加減=加減の良いこと、適当=適して当たることであるということです。

神慈秀明会が「伊都能売思想」の存在を信者に隠した理由のひとつは、離脱の神意で「世界救世教はいい加減で適当な教団で、信仰がないのだ。それにくらべて厳しい神慈秀明会は、高い信仰を持った教団なのだ。」と言いたかったからかもしれません。

明主様が「厳しすぎる信仰を否定しておられた」などとは、口が裂けても言えなかったのでしょう。しかし、あらゆるみ教えが自由に手に入る現在、み教えに反する極端で苦しい変態的信仰は捨て、み教えに基づく正しい(ちょうどいい)信仰の存在、伊都能売思想とはなんなのかを、神慈秀明会の信者も再認識しなくてはいけません。

以下、御光話録より。

S25.4.13

質問

 雪国では屋根の雪を降ろす場合とか草屋根修理の場合等に度々屋根に登りますが、光明如来様を御祀り申し上げてある家では一旦おはずし致すべきでしょうか。

御垂示

 こんなのは構いませんよ。屋根を修理する為なんだから御無礼にはなりませんよ。雨漏りなんかでも神様は御許しになりますよ。あのね、神様って御方はよく判っておられますからね、だから物事によって適当にすればいいんですよ。

 よく高い所に住んだ方がいいって言いますがね、これもその周囲に応じていい加減の所でいいんです。低い所じゃいけませんがね。若し高い所ってのを本当に守るとすれば富士山の上に家を建てねばならない。(笑声) 私はこういう事は或程度だけ守る事にしてるんです。箱根の神山荘の中の「鳥の家」ってのはそういう意味で名前をつけたんですよ。あれは私の家より上でしょ、だから人間ではいけない、けど鳥なら構いませんからね。(笑声) 神社だって鳥なら屋根に上がっても罰は当たりませんからね。その時の事情によって言霊でやり直すってもいいんですよ。

 屋根の修理の時も一応御断りしておけば尚いいですね。行き届きますからね。ただ、普段御神体を下に祀ってて二階に人間が寝たりするのは極く悪いですがね。

※MOA美術館は救世会館よりも高い場所にあり、それを批判する人もいますが、MOA美術館の場所は「鳳凰台」と名付けられており、上記の「言霊によってやり直す」方法がとられています。

S24.7.3

質問

 三十五才の女、神経衰弱と言われ四年前に教修を頂き、初めは左程でもなかったのですが昨年頃より段々悪くなり、殆ど喋らず頭を軽く上下に振り口を動かし何時も口に手を当ててうつむいて居ります。良い時は御光をかけ普通の仕事を致しますが、悪くなると御光を外し右の様になり、御浄霊を非常に嫌って逃げ廻ります。一度以前に稲荷を信仰した事があるそうですが、之も矢張り狐霊の為でしょうか。

御垂示

 之は稲荷ですね。狐が憑いてるんですよ。逃げ廻ったりする時は御浄霊もよした方がいいですよ。で、祝詞を上げてやるんですね、天津祝詞を。それから善言讃詞や御讃歌も始終聞かせてやるんですよ。そうすると段々よくなりますよ、狐が萎縮しますからね。御浄霊するよりも却ってそういうものを聞かせた方がいい位ですよ。眠れますか、この人は?

質問

 はい、眠ります。

御垂示

 じゃ、軽いんですよ。四年も前に教修を受けたんですか?これは早過ぎたんだな。教修で治すってのは嘘ですよ。病気が治って有り難いと思って教修を受けるのが本当なんです。教修が早過ぎると本当に治り切らない事があるんですよ。生命に関係ある病気の場合は殊にそうです。第一、治ってから御守りを頂くのが順序ですよ。成る程治ると判り、有り難いと思って受ける方が腹から受けられますからね、それが本当ですよ。そして、心から有り難いと思うと、自然に手を合わせる気持ちになるもんですよ。 そこで、光明如来様を御祀りして拝みたいという気持ちになるんです。だからそういう風にやってゆかなけりゃいけませんよ。

 信仰ってのは、押しつけられたり、一時的だったりしたんでは駄目ですよ。やっぱり本当に有り難いという気持ちになり、心から巳むに巳まれぬ気持ちでなくちゃいけないんです。勿論、時と場合によってはそうはゆかない事もあるから、そういう時は臨機応変にやったらいいんです。それから又、先方が御守りを頂いてこの道を研究したいといって入信を希望する時には、御守りを受けさせていいですよ。そういう時には大いにいろいろと知らせたらいい。或いは、悩みのある人には光明如来様を御祀りして御願いする様に話して上げるのは結構ですね。

S25.4.23

質問

 私は昭和二十三年七月入信、十二月御神体を頂きましたが何れも妻の諒解を得ずに致しました。約十月程遅れて妻も入信致しましたが翌日御守を外し、間もなく私が本部に泊めて頂いた事に腹を立て翌日御守りに御無礼致しました。私は驚いて、大先生様の御寫真、御神体に御詫び申し上げました。之は私の罪でございます。どうぞ御許し下さいませ。

(中略)

御垂示

 で、奥さんが教修受けてからですね?

質問

 はい、前の晩主人が外に泊ったので嫉妬もあった様でございます。どうもその細君には狐霊がついている様でした。

御垂示

 その御亭主は前に何か信仰してたんですか?

質問

 何か稲荷を信仰して居った様でした。

御垂示

 ま、神懸りじゃ仕方ない。然し、改心しなけりゃいけませんね。けど、こういうのは細君がよく判らない中に無理に教修を受けさせたんじゃないですか?

質問

 そうらしうございます。

御垂示

 そうでしょう、それがいけない。破いて丸めるのは当り前だ、むしろ丸める方が本当ですよ。決して無理に教修を受けさせちゃいけない、命令的に信仰させるのは絶対いけない。いくら妻でも子供でも押しつけるのは絶対にいけません。信仰ってものはその人自身の心に湧き起こったものであるべきなんです。どうしても教修を受けたい、巳むに巳まれず御光を頂きたいっていうんでなけりゃ、受けさせてはいけません。御義理や命令で教修を受けるのは、神様に対して大変な御無礼ですよ。そういう人が御守りをかけると御守りが穢れますよ。そんなのは御守りを非常に安ッポク扱ってるんです。神様を安ッポクしてますよ。御無礼も甚だしい。そういう者に御守りを興えるなんて飛んでもない事です。

 まあ、これはこのままにしといて、この細君が大変悪い事をしたと心から覚って、どうしても信仰に入れて頂きたいと気がつく迄はそのままにしといていいです。これは重大な事ですからね、一寸した考え方で非常に違って来ますから、ここんとこによく気をつけなくちゃいけません 間違った考え方と言えば、この間も或る人が火事に向かって浄霊したら、風向きが変わって大難が小難で済んでしまった。所がその人は「これは焼くべきものを焼かずに済ましてまうんだから悪いんじゃないか」って言ってましたが、そうじゃない、非常にいい事なんです。つまり、それが神の慈悲なんですよ。悪人も助けなくちゃいけないんです。火事が起こったっていうのは、そこが穢れているからそれを浄化するために焼かれるんですが、浄霊すれば曇りが消えて難を小さくして頂けるんです。不仕合わせはこの浄霊によって消滅するんです。何事でも、人間の苦しみを減らす事は神の慈悲なんですから、余計な事は何も考えないで、無意識に、ただ可哀想だからやってやる、それでいい。無意識でいいんです。それが巳むに巳まれぬ慈悲なんですよ。そして、そうする事が又、神様の御旨に適うんですよ。

S25.3.28

質問

 私は昭和二十三年入信した者ですが、主人と長男が御道に反対し特に長男は御写真や御神体に御無礼迄働き私を気狂いだと申します。余りの妨害に私は家を出まして一生懸命に御縋りして居ります。最近主人は早く帰れと申しますがどうしても帰る気になりません。主人は身持ちが悪く私は四人目の妻でございます。私の五人の子供を罪滅ぼしに御道に御奉仕させ度う存じますが如何でしょうか。

御垂示

 そうですねぇ。これじゃ一寸、ま、具合が悪いな。ただね、こういう事は気をつけなけりゃいけない。家を出るのはいいですけどね、それを一つの材料にして「メシヤ教ってのは家庭破壊の信仰だ」という風に悪く宣伝されると、やはりこの御道の障りになりますからね、そういう事のない様にやれば、家に居ても家を出ても差し支えありませんよ。宗教によっては、信仰に入った為に家庭の平和が破壊され何かと問題を起こすのがよくありますがね、こんな事から誤解を受けると障りになりますから注意しなくちゃいけません。

 こんな場合に、どういう風にしたら一番いいかって言うと、この人が肚の中だけで信仰して、家庭では信仰の話をしないでね、そして神様に御任せしておけばいいんです。この人は自力でやろう、自分で判らせようとしてるんですが、自分だけ益々信仰を深めて時期を待つって言うやり方が一番効果的なんですよ。

 世間には極端な宗教がありますからね。以前やっぱりこの人みたいな立場の人があってそれは○○教でしたがね、先生に聞いてみた所、その先生が「あんたは神様と御亭主とどっちが大切なんですか?御亭主を捨てて家を出なさい」って言われたんでね、その通りしたそうですよ。その人はその後こっちへ入信しましたが、主人がある様な、ない様な変な具合なんでね、よく聞いてみたらそういう訳だったんですよ。その頃主人は満州に行って留守だったからまだよかったんですが、内地に居たら大分面倒だったでしょうね。

S24.7.30

質問

 畏れ多い事乍ら、夏など俄雨、夕立等で、御光を濡らす事がございますが、こんな場合いかに致したら宜しいでしょうか。又濡れたりしますと、御光の御力に違いがあるものでしょうか。

御垂示

 若し濡れた時には開けてみていいですよ。開けて見て文字の紙にしみがついてなかったらそのままでいいです。こんな人は油紙だとか、パラフィン紙だとか水の滲みない紙や布があったらそれで包むといいですね。こうする事は差支えありませんからね。又若し、字の書いてある紙にしみがついてたらいけません。その理由を話して又受けるといいですね。○○教では喧しくて、一生に絶対一つしか渡さないって言いますが、然し、それじゃ受けた人が恐れ戦いて一種の恐怖症になりますからね、一つの罪ですよ。

S24.5.23

質問

 誤って御軸(当時はご神体のことをこう言った)又は小観音様を汚しました場合、如何致したら宜しいでしょうか。

御垂示

 汚したって、どういう風に汚したんですか?

質問

 例えば、百合の花の花粉がついたり致しました場合

御垂示

 それはね、経師屋に頼んでとって貰えばいいですよ。その時には御詫びしてね、こういう訳で綺麗に致しますから、その間御許し願いたいって御断りしてやればいいです。

S23.4.18

質問

 薪を燃やすため御軸(当時はご神体のことをこう言った)が汚れた場合は

御垂示

 そのままで宜しい。大したことはありません。煤(すす)が下がったらハタキではたいたらいい。

S28.5.15

質問

田舎でございますが、ハエが多くて御神体にたかりますので申し訳ないと思いますが、セロファンかなにかで覆いをいたしますのはいかがでございましょうか。

御垂示

そういうことは必要ありません。ハエのクソでも、鳥でも、人間以外のものは御無礼にはなりません。そういうことを言うと、神社の屋根に鳥がクソをかけるからと、瓦になにかしなければならないことになります。

秀明会は、明主様がしてはいけないとは仰っていないこと(屋根に上がること。ご神体にはたきをかけること)ばかり目くじらを立て、してはいけないと何度もご注意下さったこと(むりやり入信させおひかりをかけさせること。信仰を押しつけること)を容認していたわけですから、「正しい信仰」を会主様からうえつけて頂いている、とはとても言えない状況でした。

前へ|次へ

[戻る]