自己浄霊をしよう!

なぜか神慈秀明会で禁止とされている自己浄霊ですが、気にすることはありません。特に体調のわるい人などはどんどんやりましょう。明主様は、「自己浄霊はおおいにするべし」と仰っていました。

ただしここで言う自己浄霊とは、額と脳天に5分行うことではなく、身体の急所に浄霊を行うことです。

自己浄霊を試すことは、世界救世教に触れることなく、秀研の言っていることの実証をすぐに得られる最も手っ取り早い方法だと思います。また、体験的には自己浄霊を繰り返すことで浄霊力が強くなっていきます。

自己浄霊のみ教え

自分は浄霊の力を頂いているのであるから、自分の病気でも自分が治すのが本当である。考えてもみるがいい、人の病気を治す力を与えられている以上、自分の病気でも治らぬ筈はないので、この信念こそ肝心である。

(昭和28年8月19日)

 これからは浄化を緩めるということは段々できなくなりますから、今度は逆にできるだけ浄化を促進させて、積極的にきれいにするという方がよいです。それでさっきいったように肩を主にしてやるとともに、毎日浄霊してもよいのです。それから入信しているものは、自分でも肩の浄霊をやるとよいです。できるだけそういうようにさせるようにした方がよいです。それで肩というのは非常に固いものですから、こっちで浄霊してやるよりか、本人が暇があれば始終やっている方が効果があります。そういうようにしてやった方がよいです。

(昭和28年6月17日)

自分で始終やると良いんです。やっているんでしょうね。……霊力が弱いというのは、力を入れるからで、全然力を入れなければ非常に強くなる。そうなればどんどん溶ける。

(昭和26年10月25日)

痔でも尿道でも、自分で浄霊すると良いですよ。また、入信して間もないが、そういうようにして根良くやってごらんなさい。自然に出るようになります。そうすると、楽しみになって、……非常に希望が出ますよ……。

(昭和26年11月8日)

押してみて、痛い所があったら──グリグリがあったら──そこを浄霊すれば良い。私も始終やってますが、五十年くらい前に肋膜をやって、今もやってますが、大分溶けてきて、非常に具合が良くなっている。 

(昭和26年11月5日)

すべて、痛むのは治りが良いんですからね。浄化が強いんだからね。むしろ、安心して──楽しみにして良い。自分でやって……。できるだけ力を抜くんです。力が入ろうとするから、抜き抜きやる。ただ抜くだけではいけない。奥に──通るようにする。……力を抜いてする。一つの練習ですね。

(昭和26年12月1日)

私は……薬毒を知るまでは、ほとんど薬づけといったような具合だからね。……それで始終自分自身で浄霊しているために、年々それが減っていくので健康を増していくんですね。

(昭和26年12月23日)

私は……薬の毒を知ってから今年で三十六年ですが、一滴も薬というものを飲まない。それでもまだ薬毒はありますから始終自分で浄霊してます。 

(昭和27年8月25日)

とにかく精神病は、人ばかりではないので、自分でもおかしいところがあると思ったら、自分で浄霊するのです。

(昭和28年4月5日)

いろんな病気にしても、肩が非常に固いですから、それで自分で浄霊すると再浄化でも軽く済みます。 

(昭和28年6月16日)

私は始終腰を浄霊してますから、腰が非常に軽いのです。……腰の真ん中の所を自分で浄霊すると良いです。

(昭和28年7月15日)

薬毒、血膿というものは非常に多いのです。それは実に想像もつかないくらいなものです。まずその人の一生涯でそれがすっかり除れる人はないでしょう。私でさえ、今もって毎日自分で自分を浄霊してますが、歯の悪いのは今年で三十七年目です。

(昭和28年12月15日)

会主様も自己浄霊

旧楽苑8号(昭和51年)。奇跡の水特集より。会主様のお言葉。

『・・・全身の体重が左手首だけにかかったので、手の痛むのは当り前だと思いはしたものの左手を下へさげることはできず、しばらく自己浄霊を頂き、右手で抱えるようにしてご用をすませ会長宅へ帰りました。』

人体の重要ポイント

秀明の信者の場合は、まず明主様が人体のどこを重要視していたかを知る必要があります。霊的な意義として重要な箇所は、心臓、肺臓、胃と聖教書には解説されておりましたが、健康という意味では、頭以外は、「肩、首、延髄」と「腎臓」でした。肩の重要性は聖教書にもありますので、ここでは、明主様が「本療法(浄霊)は一言にして言えば、腎臓医術と言ってもいいのである。」と仰ったほど重要な腎臓について解説します。

腎臓に関するみ教え

あらゆる病原は然毒、尿毒、薬毒の三毒に因る。先ず然毒とは何ぞや、之は薬毒の遺伝ともいうべきものであって、薬毒が何代かの人体を経てついに変化し一種の毒素となったものである。次に尿毒とは、腎臓の機能的活動の鈍化に因る余剰尿を言うのである。

昭和22年2月5日

陰性天然痘毒素が神経集注個所へ溜結し易いという事は、度々述べた通りであるが、人間の作業上腰部に力を入れる関係上、腎臓部に溜結するのである。之はゴルフ愛好者に特に多いのにみても瞭かである。此溜結が腎臓を圧迫する為に、腎臓が萎縮するのである。したがって、その萎縮の程度によって、例えば完全腎臓は十の尿を処置し得らるるのが、萎縮腎臓は、その萎縮の程度、例えば、九の尿を処置するとすれば、一の尿は体内に滞溜するという訳で、その余剰尿が即ち尿毒である。此尿毒も二元毒素と同じく、神経集注個所へ溜結するが、此毒素は特に位置の関係上、腎臓部、腹部、股間淋巴腺、腹膜、肩部(肩の凝り)、頸部等へ集溜し勝ちである。但し、左右何れか萎縮する方が、尿毒の滞溜が多いのである。但だ此尿毒は、天然痘毒素には限りあり、薬毒も使用するだけのものなるが、尿毒に於ては、二六時中間断なく製出するものなる故、此点特に始末が悪いのである。此尿毒と併せて、大体三毒が凡ての病原となるのである。

昭和14年

今日の日本人で、この腎臓部に毒素溜結のない者は一人もないといってもいいのである。そうしてこの毒素は有痛と無痛とあるが、無痛が多いのである。そうして最も重要なる個所としては、脊柱と末端の肋骨との中間すなわち三角形を描けば、その中心点にあたるところ及その下方である。その部が柔軟で手指で圧して凹む位ならば良いのであるが、そういう人は恐らくないのであって、大抵の人は広範囲に固結しており、はなはだしきは反対に隆起している人さえあるのである。それはもちろん、余剰尿の固結であるが、それが上方に向って脊柱の両側に移行しており、特に肩胛骨(けんこうこつ)と脊柱との間に多量の固結があるものである。

この固結は、胃に関係があるので、特に溶解すれば胃の活動をうながし、食欲は増進するのである。したがって、胃癌の患者に対しては、この固結溶解によって好結果があるのである。また、腎臓部より下方に向って腰骨部まで毒結は移行しており、特に腰骨に接触して毒結のある場合、多くは脚部に異状があるもので、これを溶解すれば、よく治癒するのである。

右のごとくであるから、先づ腎臓部の治療を第一とし、肩胛骨部を第二とし、その他は第三の順位にすれば良いのである。また一般に、右側腎臓部の毒結が多いのであるが、左側のそれも重要である。但し、盲腸炎の原因は右側の萎縮腎である。

そうして、腎臓部の毒結を溶解するにおいて溶解毒素は腎臓内に浸潤し、尿と共に排泄されるのである。蛋白とはこの溶解毒素であるから、この際尿中には、多少の蛋白がある事はもちろんである。したがって、腎臓部の毒素溶解するだけは、体内のあらゆる病患は、平均的自家浄化作用の発生によって、よく治癒するのである。また、腎臓部の毒素溶解は、他の局部の毒結溶解が容易となる事は驚くべきほどである。また、腎臓の完全なる活動は、全身的浄化力がすこぶる旺盛となる事である。

ゆえに私は、人間は腎臓さえ健康になれば、あらゆる疾患は治癒すると共に、心身共に健全となり、幸福と長寿を得るのであるから、実に不可能とさえ想われたる人類の理想が、ここに現実化したのである。ゆえに、この腎臓医術の発見こそ、人類史上、空前の大発見であると、私は想うのである。

(昭和17年9月28日)

腎臓が完全なる活動状態となるにおいて、まず全身が軽くなり挙措敏捷となる。頭脳は明晰となるから能率は増進する。仕事に当たって倦むことを知らず、かつ困苦に堪え、万事楽観的となり、常に爽快感を保つから怒ることを厭い協調的となる故、人から愛敬され、成功者となるわけである。

私は、人類の腎臓を完全たらしむるにおいて病者の絶滅、出産の増加はもちろん、戦争の絶滅をも期し得らるることを信ずるのである。何となれば完全なる腎臓は完全なる健康体となり、完全なる精神を持ち得、完全なる精神の持ち主は闘争を厭い、平和を好み怠惰を厭い、利己愛を捨て、すべて常識的に事を処理するというようになるからである。

(昭和22年2月5日)

自己浄霊のポイント

上記のように腎臓が非常に大事なポイントになるので、腎臓の自己浄霊を行いましょう。人間は仰向けになって寝るため、毒素は背中にたまります。救世教に背中からの浄霊がある理由はこれです。腎臓の浄霊も背中から行いましょう。

浄霊のポイントは手のひらの指を開かず、かつ力を入れないことですが、その状態を保ちつつ手を後ろに回して背中から浄霊するのは至難です。本当は同士を募り腎臓の交換浄霊をすればもっとも良いのですが、私にはそういう相手もおりませんでしたので、心で明主様にお断りして、身体を横にし、手をぶら下げるようにしたり、肘に枕をあてがって腕を楽な状態に保ったり、いろいろ工夫してうまく手の力を抜きながら腎臓に当たるように浄霊しています。

額、肩、腎臓に浄霊を行い、あとは自分の身体で痛いところ、熱があるところ、健康診断でひっかかった所に手をかざしましょう。肩に手をかざしていると、肩こりがだいぶ楽になります。肩と腎臓の自己浄霊で、やっと健康に向かいだした秀明信者が何人も居ます。

平均浄化について

平均浄化という言葉は秀明では聞きませんが、これは腎臓などある部分の毒素が浄霊で軽減されると、他の部分の有毒箇所が、バランスをとるために自然浄化してくるというものです。私も肩と腎臓を浄めているうちに、腹膜部分に激痛が伴う高熱が発生し、これが終わることでずいぶん体調が良くなりました。それまではなかなか「風邪をひけない身体」でした。自己浄霊を行っているとおそらく発生してくる浄化ですので予め注意しておいてください。。

浄化作用については「浄化発生している分だけの毒素が解消されるので一旦は快くなるが、業務に就き仕事にかかるや、この時は相当活力も出てきたので、活発な浄化作用が発生する。つまり浄化によって健康になり、健康になるから浄化が起こるわけで、それを繰り返しつつ健康は漸次回復するのである。」というお言葉があります。この理を知り、浄霊を続けていると感冒などの浄化作用は有り難く楽しみなものになってくると思います。また、実体験として、浄化の後は良くなっていくという理論が実感できます。

自己浄霊は自己愛の型か?

浄霊は人の幸せを祈る祈りであると教える秀明が、自己浄霊を良く思わないのは、まるで自己愛の型であるかのように見えてしまうことが理由なのかも知れません。明主様が自己浄霊を勧めているという事実があるので、このような意見は議論の余地もないナンセンスな話ですが、ここでは秀明向け解説として私の意見を書いてみます。私は、浄霊というものは浄霊という行為そのものが尊いのではなく、浄霊によって不健康な人が健康になり、復活し活動ができるようになり、その人の働きが世のため人のためになる。そこが尊いのだと思います。

もし手から出ている光が人間の光であり、人間の愛であるならば、自己浄霊は確かに自己愛の型と言えますが、浄霊の光は神の光であり、神の愛と言えます。浄霊の行為は神の愛を取り次ぐ行為であり、その愛の向く対象となりうるものは当然「全ての人間」であります。。つまり浄霊の手のひらの向いている先が自分以外の他人であっても、自分自身であっても、神の目からは同じ人間であることには変わりないわけで、大事なことは浄霊でその人間が健康を取り戻し、神の愛を知り、人助けだってできるようになるということです。つまり頂いた健康をどう使うかということが重要なことで、手のひらが相手に向いているか自分に向いているかというみてくれの問題は大した事ではないと思うのです。

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