み教え:邪神がいるところにはおおいに行くべし。

神慈秀明会では、世界救世教などの邪神に触れると邪気を受け、一撃でヤラれてしまう、と教えていましたが、実はこの「邪神にヤラレル」という考え方は神慈秀明会から始まった独特の物です。明主様のみ教えでは「他の宗教はどんどん研究したらよい」「邪神の居るところには大いに行ったらよろしい」というものでした。ということは、世界救世教が、邪神であろうと無かろうと、「大いに触れたらよろしい」ということになります。

このページは明主様の御講話を掲載しています。このページ全体を通して一つの(一回の)御講話です。ただし見出し、太字表現等は秀研筆者の手によるものです。


「○○は邪神だ」は一番悪い小乗信仰

最初に一言話したい事があります。これは分りきった話なのですが、どうも一番困るのは、何時も小乗信仰はいけないいけないと言っているのに、どうも小乗信仰の人が多いのです。小乗信仰にもいろいろありますが、一番よくないのは、あの人は邪神だとか、あそこの家には邪神がいるとか言う事ですが、これが一番悪いのです。

ですから私は人を邪神と言う人は、その人が邪神だと言ってありますが、邪神である、邪神でないという事は、決して人間に分るものではありません。神様以外には分るものではありません。それを分ると思うのは、神様の地位を冒している事になります。ただ自分が邪神にならなければよいので、人が邪神であろうがなかろうが、大きなお世話です。

邪神を恐れる事は神様を下げる事

それからもう一つは、邪神を恐れる人があります。あの人は邪神が憑いているから注意しなければならない、とか、あそこの家には邪神がいるから気をつけなければならないと言うが、大変な間違いです。そうすると、神様の方が弱い事になります。

邪神を恐れる、という事は神様を下にみる事になります。本当言えば邪神の方で恐れるのです。それを邪神を恐れるという事は、神様の方が邪神以下という事になります。

この間のレントゲンの光が神様の光を通らないという事は、神様の光の方が上だからです。レントゲンというものは邪神のようなものですから、邪神の方は敵わないのです。

邪神が信者に憑って「邪神に近づくな」と言わせる
 (恐れの心は邪神の心の反映)

ただ今までの他の宗教は、殆んど邪神に負けるのです。しかしメシヤ教の神様は決して負けません。またそのくらいでなければ世界を救う事はできません。ですから邪神のいる所なら大手をふって、自分も行き、人も行かせればよいのです。

私は前から、あの人はいけないから来ないようにしろとか、行かないようにしろという事を言われましたが、私は平気なのです。それはこっちより上のものはないので、みんな以下のものだからです。それを恐れるのは、こっちの力が足りないと思うのです。そうするとメシヤ教の神様に対して大変な御無礼になる、というよりか、むしろ認識不足過ぎます。ですからそういう事は一向に無頓着でよいのです。それは邪神の方がみんな恐れているのです。その点を間違えないようにしなければいけません。

しかも邪神とか邪神でないとかは決して人間に分るものではありません。何となれば、邪神々々と言われている人が大変なよい働きをしています。それよりも、邪神々々と言う人が邪神なのです。

何となれば、自分の方が恐れるのだから邪神に違いありません。その点を間違えないようにしなければなりません。

邪神の方はメシヤ教の神様を大変に恐れているのです。ですから信者に憑かって、やられないように邪神が擁護しているのです。

メシヤ教の神様がそこに行くと邪神の方はひどくやられますから、邪神の部下がその人に憑かってやらせるのです。ですから人間の考えは殆んど逆が多いです。ですから人間の理屈では到底分るものではありません。神様の方は実に深いのです。

邪神は善人を作る砥石。良い悪いは決められない。

たとえば、医者は邪神と思うでしょう。健康な体を薬で弱らせたりして、結局命までとるという事は、とんでもない邪神です。ところがその邪神のためにメシヤ教というものが現れたのであるし発展ししつつあるわけで、若し医者が片端から病人を治してしまえば、メシヤ教は発展しません。メシヤ教がドンドン発展して威張れるという事は、医学という邪神のためなのですから、そうなれば邪神というものは大変なよい働きをしているわけです。

しかしなにも態々(わざわざ)こっちでそういうように計画的にやるわけではないので、そういうようになっているのですから、それを良いとか悪いとか批判する事はできませんが、そういうようなものです。

だから何時も言うとおり、今まで教団でも、邪神のために随分助かったり、随分よい功績があります。だから、良い悪いは言ってかまいませんが、決めるのがいけません。

何となれば神様というのは、やっばり悪い方を利用するのです。

それで自分の身魂を磨くとか、偉くなるとか、そういう磨きはみんな邪神がやるのです。邪神がその人を苦しめて、それでその人は磨けるのです。だから邪神というのは善人を作る砥石みたいなものです。

邪神には勝たなくても負けなければよい

正邪の戦いという事も、全然善人ばかりだったら、戦いも何もないからおしまいです。ただ邪神に負けてはいけないのです。負ければ悪の世になるから勝たなければならないのです。ただ今までは邪神の方が強かったために、かえって神様の方が一時的でも負けるのです。それで不幸や災があるのです。今度は神様の方が邪神より勝ってゆけばよいのです。

だから、ミロクの世になっても、全然悪が無くなるわけではないので、やはりあるのです。ただ神様の方に負けるのです。

しかし邪神というのはしつこいもので、負けても諦めるというのではなく、何処までもやります。またそれが邪神としての役目なのです。そこでそういう事を考える必要もないくらいなものです。

ただ邪神に負けなければよいのです。負けなければよいと言っても、ただ勝とうと思っても、それは智慧によって負けた方がよい場合もあるのですから、そういう場合は負けなければならないのです。

だから今までは邪神に負けても、最後に神様の方が勝つという、みんな知っているとおり「邪は正に勝たず」で、結局は正が勝ちますが、今までは邪神の方が力があったから、負けている間が長かったのです。

それがだんだんあベこベになってゆくのです。そしてあベこベになった時がミロクの世です。

結論において邪神を恐れない事と、あの人は邪神だとか、あれはどうだと決める事が大変な間違いであるという事で、それはつまり神様の領分を冒す事になります。

他の宗教に触れてよい。良ければ移籍してもよい。

今までの小乗信仰では、他の宗教にちっとでも触れてはいけないと言います。これはキリスト教、真宗などは特にそういう事が非常に喧ましいのですが、それは弱いからなのです。自分の方が力が薄くて危ないからして、触れるなと言うのです。

ところがメシヤ教はそういう事は全然言いません。むしろ他の宗教に触れてみた方がよいです。

メシヤ教より以上のものがあれば、その宗教に行けばよいし、全然無ければメシヤ教一点張りにやればよいので、それが本当なのです。ですから既成宗教とはまるっきり違う点を心得えておかなければなりません。

きれいな人、正しい人だけの団体では意味がない

そうして、つまり邪神を改心させて正神にするというのが仕事なのですから、邪神を避けたらその邪神を良くする事はできません。

私は前にキリスト教の牧師と議論した事がありますが、それは東京の教会で、少しでも間違った人は教会の会員にしない、そうしてどこまでも教会の正浄を保つのだと言うのです。それで私は、そういう正浄な人だったら教会の必要はない、穢れた人がいるから教会の必要があるので、穢れた人を入れて正浄にするのが教会でしょう、と言うと、『それは仰言るとおりですが、私の方の教会はそういうようになっているので、そうしなければならないので、そうやっているのだ』と、甚だ頼りない返事でしたが、しかしそういうのはキリスト教の中には沢山あります。

丁度ユネスコみたいなものです。何時か田付さんがフランス人を連れて来た事(外務省、田付タツ子氏が、パリ、チェルニスキー博物館の副館長、マードレッド・ダヴィッド女史を連れてきたこと。)がありますが、その時にユネスコの話が出て、誰かがユネスコの会員になった方がよいと言うので、私がひやかした事があります。結局ソ連がユネスコにはいったら私もはいると言ったのです。ソ連の鉄のカーテン以外がみんな平和的になってもしようがありません。肝腎な事を放ったらかしているのです。

それと同じようで、きれいな人や正しい人の団体を幾ら作っても何にもなりません。むしろ害になります。何時か栄光かに書いた事がありますが、鉄のカーテン以外がみんな平和的になったら、ソ連は大手をふって侵略するだろうと言った事があります。

人を邪神と言う人は批判力が無くなる

ですから邪神の入口だったら、なるだけ行った方がよいのです。

喧嘩をしなくてもよいが、行けばよいのです。そうすれば光がいきますから萎縮します。それに又、あいつは悪い悪いと一一言いながら、何か取得があります。ただその取得があるという事の発見ができないのです。

あいつは邪神だという人は、頭が決まってますから批判力がないのです。そういう事に全然とらわれないと頭が働きますから、悪い奴にも取得があるという事を発見します。それであいつはいけないとか、あれは悪いとか言った事が、時がたつと案外それがために助けられる事があります。

それは実に微妙なもので、人間の表面で見たくらいではなかなか、特に御神業は深いのですから、決して分るものではありません。

何か問題があったりした時に、人を批判する場合には、両方を批判してゆくとよいです。悪いと決めないで、悪い点は悪い点で認識する必要はありますが、しかし悪い結果をよい方の頭で考えたら、結果から言うとどうだろう、という事を考えてみるのです。そうすると案外よい事を発見するものです。

戦争のおかげ

一番大きな例としては、日本が戦争に負けないで、天皇制が続いて行って軍部が威張っているとすれば、メシヤ教というものは今もって小さくなってビクビクして、何時なんどきやっけられるか分らないというようでいなければならないのです。ところが負けたために国家の組織が違ってしまって、信仰の自由という事になって、いろいろと思ったとおりの事をやれるようになったために、僅かの間にこれだけになったのですから、敗戦という事は、一時的には非常にガッカリもし、歎きもするが、少し時がたてばとんでもない結果になります。そうしてメシヤ教がだんだん日本を救うとすれば、日本人だってどれだけ幸福になるか分らないのですから、そうすれば敗戦というものは敗戦様々です。

それから敗戦後ソ連が朝鮮侵略などをしたために、アメリカが『日本をあんまりひどくやっつける事はいけない、日本も相等助けなければならない』という気持になったのも、ソ連のためです。ソ連が大人しくしていたら、アメリカは日本を窮屈に圧迫したに違いありません。

ところが朝鮮戦争でああしてアメリカがあれほどに苦労させたために、日本を援助しなければいけない、援助しないと、中共或いはソ連の方に傾いたら大変だというので、日本を非常に大切にする緩和政策をとったという事は、これはスターリンのお陰です。

そうすると歯ぎしりしたり興奮したりした事は逆になったわけです。敗戦の時の日本人の悔しがり方というのは大変なもので、神仏もあるものかというようでしたが、私はそれが分っているから、敗戦の明くる日に極く親しい人にだけは、大いに祝うべき事だと言ったのです。

仲違いをして発展する例

これは大きな事ですが、小さな事でも同じです。以前にある教会で、そこの信者で有力な人と会長とが仲達いをして離れてしまったのです。そうするとその離れた人、いわゆる弟子の人は、自分が会長と仲が悪くなって離れたという事は神様に大変申訳ないような気がするが、そう考えてよいのでしようかと相談に来たので、結構ではないか、あなたが喧嘩したために一つの教会が二つに増えたではないか、若し仲がよかったら、何時までも一つの教会ではないかと言ったのです。

その別れた人は非常な発展をして立派な教会になりました。そうして元の会長の人はボヤボヤになってしまって、行方が分りません。

そういう事もあるのですから。敢えて、しっくりゆく事がよい時もあるし、そういう仲たがいをして結果がよい時もあるのです。

そうなると人間の判断で決める事はできません。神様の方では、その教会を増やそうとする場合にわざとそういうような芝居をする事がよくあります。

とに角実に深いもので、とても分るものではありません。人間的の判断をするのが一番危ないのです。

昭和27年8月1日 ご垂示録23号掲載

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