悪に勝つ

由来、昔から宗教なるものは、絶対無抵抗主義を基本として発達して来たものであって、かの世界的大宗教の開祖キリストさえ「右の頬を打たれれば、左の頬を打たせよ」と言われたことや、またキリスト自身がゴルゴダの丘において、十字架に懸けられた際、隣の柱に縛られていた一人の泥棒があったが、彼はキリストに曰った「オイ、イエスよ、お前は先程からなにか口の中で唱えながら、悲しそうな面をしているが多分お前を罪人にした奴が憎いので、呪っていたのであろう」。するとキリストは「イヤ、そうじゃない、俺は俺をざん言した人間の罪を、赦されたいと父なる神に祈っていたんだ」と言ったので、泥棒は唖然としたという有名な話があるが、これらをみても、キリストはいかに大きな、愛の権化であったかが判るのである。

また、釈尊にしても、提婆(だいば)の執拗なあらゆる妨害に対して、仏道修業と解釈したのであろう。何ら抵抗的態度に出なかったようである。右のごとく二大聖者でさえ、そのようであったから、その流れを汲んだ幾多の聖者や開祖も、そうであったのはまことに明らかである。ただ一人日蓮のみは反対であって、彼の燃ゆるがごとき闘争心は、行き過ぎとさえ思われるほどであった。かの有名な、念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊なるスローガンにみても、その排他的信念のいかに旺盛であったかは、吾らといえども、賛成し兼ねるところである。

以上のごとき例によってみるも、確かに神の愛、仏の慈悲は、人々の心を捉え、それが敬仰の原となっているのは、いうまでもないが、その結果を批判してみると、一概にはその是非を決めかねる。

というのは、釈尊やキリスト没後、二千有余年も経た今日、なお邪悪は依然として減らないどころか、むしろ殖える傾向さえ見らるることである。善人が悪人に苦しめられ、正直者は馬鹿をみるというような事実は、昔からいまに至るまでさらに衰えることなく、文化の進歩と、この事とは全然無関係であるとさえ思えるのである。ただ文化の進歩によって、悪の手段が巧妙になったまでで、その本質に至っては、いささかも違うところはない。現在としては法の制裁の場合、わずかに暴力が伴わなくなったのみである。しかしそれだけ事柄によっては、深刻性が増したともいえるのである。

それはともかくとして、なぜ邪悪は根絶しないかということを、よく考えてみなくてはならない。いうまでもなくその根本は、善が悪に負けるからである。それがため悪人はいいことにして、善人を絶えず苦しめようとする。なによりも彼ら悪人は、善人を非常に甘くみる。想うに彼らの、心情は、善人なんて者は至極愚かで、意気地なしに決っているとして軽蔑しきっている。また善人の方でも、悪人にはとうてい勝てない、なまじ抵抗などすると、思いがけない迷惑を蒙ったり、危害を加えられたりする。だから温和しく我慢して済ましてしまうに限る。その方がいくら得だか判らない、というように諦めてしまう。そんなわけで悪人はますますつけ上がり、毒牙を磨き法に引っ掛らない限りの、悪を逞しくするという、これが目下の社会状態である。

右に述べたところは、個人に関したものであるが、一層怖るべきは、官憲やジャーナリスト達の悪である。先頃私が経験した事件によってみてもそうであって、これは法難手記に詳しく書いてあるから、読んだ人は判っているであろうが、官憲が法律という武器を思うまま振り回して、武器を持たない人民を苦しめることである。なにしろ法の濫用によって、人民は罪なくして被告にされるのは堪らないから、彼らの感情に訴え、少しでも軽くしてもらいたいと希うのである。

そのようなわけで弁護人にしても、検察官の感情を害しないよう、心証をよくするようにと、吾々に対してもよく注意するのである。また上申書を書く場合といえども、その文章の中に、哀訴嘆願的言葉を混えなければならないのである。これらによってみても、吾々が普段考えていたところの、司法官は法を重んじ公平なる裁きをするものと、想像していたことの、いかに思い違いであったことを知ったのである。少し言い過ぎかも知れないが調官のやり方を見ると、法以外自己の面目や感情などが、割合微妙に働いていることを知ったのである。

次に言いたいのはジャーナリスト諸君である。彼らは独善的判断のもとに、ほとんど傍若無人的に書き立てる。その場合真実と違うが違うまいがお構いなしで、ただ興味本位を中心に、人に迷惑が掛かろうが、損害を与えようが一向無関心である。誰かが言った新聞は二十世紀の暴君とは、まんざら間違ってはいないように思われる。常に口には民主主義を唱えながら、事実は言論の暴力者である。というその原因はまったく言論に対しては、厳しい制裁がないからであろう。

右のようなわけだから、先年本教が新聞のデマ記事でたびたび攻撃を受けた場合「物識りというような人々は、どんなことを書かれても、反抗するのは損だから、マァー我慢して泣き寝入りにした方が得ですよ。特に大新聞などに逆らうと、どんな目に遭わされるか判らないから温和しくするに限りますよ」とよく注意を受けたものである。

以上、私は個人の場合と、官憲と新聞との三つを書いたが、このどれもが悪が善に勝つという見本である。そんなわけで常に被害者は、我慢、泣き寝入り、損をしたくない等の利害を先にして、無抵抗に終わるのであるから、彼ら邪悪者はますます跋扈し、止どまるところを知らない有り様である。これではせっかくの法があっても、法としての威力は大いに減殺され、人民はいつも被害者となるのであるから、困った社会である。としたら、いつになったら、善人が安心して住める世の中になるか、実に心細い限りである。

ここにおいてたとえ宗教家たるわれらといえども、常に唱えているごとく、善が悪に負けてはならない。悪に負ける善は真の善ではなく、意気地なし以外の何物でもないと、警告するのである。特に、彼らが宗教家に対する場合、どうも普通人と区別して観る。宗教家は無抵抗主義であるから、どんなに虐めても大したことはないと、頭から嘗めてかかる。ここに宗教の弱さがある、というよりも弱いものと決められていることである。

したがってどうしてもこの彼らの、サタン的観念を払拭しなければならないのは勿論で、この意味において大いに悪と戦わねばならない。なによりも以前大新聞が本教を旺んに攻撃したときも、本教は決して恐るることなく、あくまで本教機関紙によって、彼らの邪悪と戦ったが、諸君も知っているであろう。このようなわけであるから、吾らはいかに大なる力を持って押し潰そうとしても、敢然として先方が反省するまで戦うのである。これが真の神の御意志でなくて何であろう。

したがって、悪はとうてい善には敵わないから、悪を捨て善に改める方が得策であると覚らすことで、これが生きた宗教のあり方であろう。これを大きく考えてみるとなおよく判る。かの米国が武力侵略国に対し、悪では成功しないということを覚り、諦めさせなければ、世界平和は出現しないとして、今日国力を傾けて諸国家を援助しているのと、理屈は同じである。

私はこの主義をもって、今日まで一貫して来たので、決して不正には負けない信念である。一例を挙げてみると、私が被告になって、以前から続いている土地問題の係争事件があるが、驚く勿れ今年でちょうど十四年目になるが、まだ片がつかない。なにしろ書類を積み重ねた高さが一尺以上あるので、裁判官が代わるごとに、それを最初から読まなければならないから、裁判官も辟易してしまい極力示談を勧めているが、私は元々不正に対して戦うのだから、利害は第二として、先方が自己の非を覚り、正しい条件を持って来れば直ぐにも応ずるが、そうでなければ決して和解をしないのである。

以上長々と述べたが、ここで結論を言えば、宗教本来の目的は、善を勧め悪を懲らすにあるのであるから、決して悪には負けてはならないのである。何となれば善が勝っただけは悪が減るのであるから、それだけ社会はよくなるというわけで、かくして地上天国は生まれるのである。