救世主


   抑々、救世主とは何か。いうまでもなく、文字通り世を救うべき大使命 を負って生まれたる大聖者であって、事実は歴史有って以来未だ顕現した る事のないのは勿論である。これについて私自身の偽らざる告白を赤裸々 に露呈し、現在私が行ないつつある聖業について書いてみようと思うので ある。

   私というものが今行ないつつある救世的活動は、人類全体からみれば何 万分の一の小範囲かも知れない。しかしながら日に月に救われる人が増え つつある現状からみて、将来は如何に大規模に救われるであろうかも想像 され得るのである。

   私は見えざる力を盛んに行使している――というと唯物教育を受けた現代 人はそんな馬鹿な事があるかと、山師的とみるかも知れない。何となれば、 見えざる力などとは余りに非現実的であるからである。それも無理もない が、もし真に現実であり、実証的であるとしたらどうなるであろう。実に 空前の一大センセーションを巻き起こさずにはおれないであろう。

   私が信徒を介して行なう間接的力によって、絶望と決した難病が治り、 決定的死の運命が復活され、健康人間として活動されるようになった実例 は、実に今日まで何万何十万を数えるか分らないほどである。この実相を 把握し、信じ得る人の歓喜は如何ばかりであろうか、恐らく形容の言葉も ないであろう。しかしこの事実を人の言葉や本教刊行物によって知ったと しても、直ちに受け入れられない事は致し方あるまい。ある者は迷信とし、 ある者は大山師とみるのもまた当然であろう。

   しかしながら精神病者以外、如何なる人間と雖も幸福を希わぬ者は一人 もあるまい。あらゆる幸福条件が具備されたとしても、ひとり健康を得な いとしたら、その幸福は零以外の何ものでもない。キリストは言った「人、 全世界を贏くとも、己が生命を損せば何の益あらん。またその生命の代 に何を与えんや」とは宜なる哉である。実に健康ほど貴重なものはあるま い。人生幸福の全部は、健康の二字に尽きるといってもよかろう。

   私が今行ないつつある救いの業は、養成された幾万の弟子にやらせてい るが、彼らは日々数え切れないほどの奇跡を顕わしている。その結果とし ての教線の拡張進展は世間の問題とされるほどに見ても明らかであろう。

   人類史上、古来大宗教家も大聖者も幾人か現われた事は、文献によっても、 現存せる事跡によっても知らるるところであるが、今私が行なっているそ れとは比較にならないほどの違いさがある。そうしてかのキリストの再臨も、 救世主の降臨も、弥勒下生も、転輪菩薩の出現も、上行菩薩の出生も、時 の問題であろう。何となれば実現性のない荒唐無稽の予言を、数百数千年 以前からされ給うはずはないからである。

   元来、私は大聖者たろうとも救世主になろうとも望んだ事は些かもない。 何となればそれほどの自分とは思っていなかったからである。ただ若い頃 から人類愛に燃える余り、宗教人となって大いに世を救いたいと思ってい たばかりである。ところが宗教界にはいりある程度の修業が終わった頃、私 は神霊の啓示を受けると共に、時の推移するまま不思議な事が次々に起こ る。然も途方もない運命の転換は私をして驚嘆させずにはおかなかった。実 に奇跡から奇跡へと進んでゆく。これを例えて言えば、私が何かを希うと、 必ずそれが実現する。私が墨で紙へ文字をかくとその文字が生きて躍動す る。その紙をたたんで“おひかり”として懐へ入れると、その刹那から気 持が明るくなり、奇跡が起こり始める。人の病気を治し得る力も発現する。 不幸の境遇の人も漸次好転する。また私がかいた文字を床へ掛けたり、額 にかけたりするとその文字から光を発し、肉眼で見る人もよくある。勿論 家庭も明るくなり、漸次天国化するという実例は、多くの信者達が常に異 口同音に唱えるところである。

   以上述べたように、不思議な神業を行なわせられる私としては、救世の 大使命を遂行させんがため神の代行者としての神護を与えられていると思 っている。従って今後の本教の活動を充分見られん事で、それをもって批 判の的とされたい事である。

昭和25年(1950年)11月20日
「世界救世教早わかり」     『岡田茂吉全集』著述篇第八巻 p.246
『聖教書』 p.22


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