信仰の種類


   単に信仰といってもいろいろ種類がある。ざっと書いてみるが、(一)お かげ信心。(二)景場信心。(三)有難信心。(四)利用信心。(五)神懸り信心。 (六)身欲信心。(七)たがる信心。(八)ご無沙汰信心。(九)浮気信心。(十) 気紛れ信心。(十一)鰹節信心。(十二)贋信心。――等々ある。

   これらを一つ一つ解説してみるが――

(一)おかげ信心は――
   ただおかげさえ貰えばいい。神様のためとか世の中のためとか、そうい う事は第二義的で、自分さえよければ良いという利己的信心で、これらは 多く中流以上の人に多い。信仰を利用する事は知っても、神に感謝し報恩 する事を知らないのである。そうして信仰を利用するという事は人間が上 で神が下になる。神を崇め奉仕する事こそ神から恵みを受けるのであるか ら、このおかげ信心は却っておかげを無くするわけで、長続きしないもの である。

(二)景場信心は――
   その宗教が世の中に埋っている間は甚だ不熱心であるが、一度世の中へ 知れ渡り、世間から何やかや言われるようになると、急に思い出したよう に神様に接近し働きたがる。

(三)有難信心は――
   これはただ有難い有難いで、客観的にはまことに立派な信仰者のように 見えるが、神様の大目的たる人類救済というような大きな考えはない。極 めて小乗的だから、さっぱり働きがないから、枯木も山の賑やかし程度で ある。

(四)利用信心は――
   その宗教を利用して一儲けしようとしたり、なんらかの野心を包蔵して いるなかなかずるい信仰である。こういう人は利用不可能と知るやさっさ と逃げてゆく。

(五)神憑り信心は――
   やたらに神憑りが好きで、神憑りを扱うのをよいとし霊界の事を知りた がるのである。これはさほど悪くもないが本筋ではない。何故なれば心霊 研究会のやる仕事で、低級霊のご託宣を信じ易く、外れるようなくだらな い予言を有難がるので、まず邪道である。

(六)身欲信心は――
   欲一方で信心する。世間によくある○○様や○○稲荷等へ月まいりした り、金銭や供物を上げてご利益目当てに信仰し、社会や人間の不幸などは てんで思った事もないという、まず最もありふれた種類のものである。

(七)たがる信心は――
   威張りたがる、貰いたがる、人からよく思われたがる、よく言われたが る、褒められたがるというように、自己愛から離れ切れない誠に浅はかな 信仰で、これらもまず低級信仰の部類である。

(八)ご無沙汰信心は――
   忘れた時分にやってくる。あまりご無沙汰だから、信仰をやめたのかと 思うとそうでもない。何を思い出したのか、亡霊のようにふらふらやって 来る。これらは寧ろ信仰をやめた方がよいと思う。

(九)浮気信心は――
   一つの信仰を守れない、種々の信仰をやってみたがる、今日は向こうの岸 に咲く浮草式。だから本当のご利益などは決して頂けない。といって何か 信仰がなければ寂しい、迷いが多過ぎる、人からちょっと話を聞くと直ぐ その気になる。これは寧ろ不幸な人である。

(十)気紛れ信心は――
   甚だ気紛れで、浮気信心と同様、一つの信仰へ熱中する事はできない。 次々変える。つまり宗教遍歴者である。この種の人は割合インテリに多い 傾向がある。

(十一)鰹節信心は――
   神様や信仰をだしにして自分の欲を満たそうとする。身欲信心と同じで 宗教団体にはよくある型で、指導者、学者等のえら方に多い。

(十二)贋信心は――
   表面信仰者らしく見せかけて肚の底は全然神を認めない。そしてこの種 の信者に限って非常に口がうまいから最初はたいてい騙される。しかし長 くは神様が許さないから、遂に尻尾がばれて逃げだしてしまう。

   右のうちどれにも該当しない信仰でありとすれば、それは正しい信仰で ある。

昭和24年(1949年)8月30日
「地上天国」7号     『岡田茂吉全集』著述篇第七巻 p.361
昭和25年(1950年)1月30日
「自観叢書第十二篇 自観説話集」     『岡田茂吉全集』著述篇第八巻 p.50
『聖教書』 p.122


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