「正直者は馬鹿を見る」とは嘘だ


   この標題の如き言葉は大分前から聞ぐのであるが、この言葉を深く考え る時、甚だ面白くない響きを社会人心に与えやしないかと思う。しかし事 実その通りであるなら致し方ないとしても、私の経験上、この言葉のよう な事実は絶対にない事を保証する。これに開し、以下論じてみよう。

   世の中をつくづくみる時、人事百般にわたって、二種類の見方がある。 耶ち、一は一時的見方であり、一は永遠的見方である。ところが一般人は、 一時的の結果によって善悪の判断を下したがる。例えば、一時的うまく人 をだましたり、ものを誤魔化したりする不正直者の成功をみて眩惑され、 「正直者が馬鹿を見る」と決めるのであるが、これらを今少し長い目で見な くてはならない。そうすると必ずぼろを出し、恥をかき、破綻者となる事 は決定的といってもよいくらい確実である。これに引き替え正直者は、たと え一時は誤解を受け、損をしたり、不利な立場に置かれても、時たち日を 経るに従い、必ずその真相が明らかになるもので、これまた決定的といっ てもよいくらいである。

   まず私の体験から書いてみるが、私というものは、若い頃から、自分で 言ってはおかしいが実に正直である。どうしても嘘がつけない。若い頃「君 のような正直者は成功は覚束ないから、心を入れ替えできるだけうまく嘘 をつかなければ、世渡りも成功も難しい」と、よく言われたものである。 私もなるほどと思って、一時は一生懸命嘘をついてみるが、どうもいけな い。苦しくて堪らない。人生が暗くなり、不愉快な日ばかり送るのである。 そんなわけだから、勿論結果のいいはずがない。その頃私は商人であった から、なおさら駈引や嘘が良いはずであるが、どうも良くないので、遂に 患を決して、私本来の性格である正直主義で通してみる事に決意した。と ころが面白い事には、それから予想外に結果が良く、第一、業界の信用を 増し、とんとん拍子に成功し、一時は相当の資産を作ったのである。その ため調子づいて、あんまり手を伸ばし過ぎたところへ経済界のパニックに 遭い、再び起つ能わざるまでに転落した結果、宗教生活にはいったのであ る。

   けれども一旦決意した正直主義は、あくまで通して今も変わらない。勿論 結果は良い。もっとも長い間には、誤解を受けたり、非難を浴びたり、迫 害を豪ったり、波乱重畳茨の道を越えては来たが、信用は些かも落ちなか った事は、正直のおかげであると今も痛切に思っている。このようなわけ で、現代人はどうもものの見方が一時的で、一時的結果に眩惑されがちで ある。故に人間は、何事を観察する場合でも、永遠的の目で見なければな らないのである。

   この事はあらゆる事に当てはまる。例えば政治家にしても、一時的に政 権を獲得しようとして無理をする。ちょうど熟柿の落ちるのを待ち切れな いで、青いうちにもぎ取り、渋くて失敗するようなものである。こういう 諺もある。大政治家は百年後を思い、中政治家は十年後を思い、小政治家 は一年後を思うというのであるが、全くその通りである。ところが今日は、 この小政治家が一番多いように思われるのは、困ったものである。また私 の唱える自然栽培にしても、今までの農業は、金肥や人肥を施すと一時は 成績が良いが、土を殺すから土はだんだん痩せてくる。それに気が付かな いで、肥料の一時的効果に眩惑され、遂に肥料中毒に人も土も罹ってしま うのである。この理は現代医学にも当てはまる。薬剤や機械的療法は一時 は効果を奏するが、時が経つと逆作用が起こり悪化するが、最初の一時的 効果に眩惑されてあくまで同一方法をとる。その結果ますます増悪すると いう事になるのである。

   最初に述べた、一時的と永遠的とのものの見方について、注意を促した のである。

昭和24年(1949年)4月20日
「地上天国」3号     『岡田茂吉全集』著述篇第七巻 p.82
『聖教書』 p.287


戻る