怒る勿れ


   昔からある有名な格言に「なる堪忍は誰もする、ならぬ堪忍するが堪 忍」と言い、また「堪忍の袋を常に首にかけ、破れたら縫え破れたら縫 え」という事があるが、全くその通りである。私はよく人にきかれる事 がある。「先生が今日あるは如何なる修行をされたのであるか。山へは いって滝を浴びたか断食をされたか、種々の難行苦行をされたのではな いか」と。ところが私は「そんな修行はした事がない。私の修行は――借 金の苦しみと怒りを我慢する――というこの二つが主なるものであった」 と答えるので、聞いた人は唖然とするのである。しかし事実そうであるか ら致し方がない。私は私を磨くべく神様がそうされたのだと信じている。 特にこれでもかこれでもかというように怒る材料が次々にぶつかってくる。 元来私の性格としては怒るのは嫌いな方であるが、不思議なほど怒らせら れる。一度などは非常な誤解を受け、大多数の人に顔向けのできないよう な恥辱を与えられた。私は忿懣遣る方なく、どうしても我慢ができない。 するとその時拠ろない所から招ばれ、断れない事情があったのでその家に 赴いた。頭がぽんやりして精神が集中しない。どうにも致し方ないから紛 らすため酒を一杯所望し、酒を飲んだのである。その頃私は一滴の酒も嗜 まないから、よくよくの事である。そんなわけで二、三日経って漸く平静 を取り戻したというような事もあった。ところが後になってその事のため にある大きな災難を免れ得たのであった。もしその時の怒りがなかったら 致命的打撃を受けるところだったので、全く怒りによって助かったわけで、 神様の深い恩恵に感激を禁じ得なかったのである。右のように神様は重要 なる使命のある者に村しては種々の身魂磨きをされ給うので、その方法の 中で怒りを抑える事が最も大きい試煉と思うのである。従って、怒る事の 多い人ほど重大使命を与えられている事を思うべきで、この意味において 如何なる怒りにも心を動ずる事なく平然たり得るようになれば、まず修行 の一課程を経たわけで、これについて面白い話がある。

   それは明治時代の話で、その当時商業会議所の会頭中野武営という人が あったが、武営氏が如何なる事があっても怒らないので、ある人がそのわ けをきいた。ところが中野氏曰く「私は生まれつき非常に怒りっぽい性で あった。ある日やはり当時有名な実業家渋沢栄一氏を訪問した際、次の間 で栄一氏が妻女と何か口争いをしていたが、来訪を知って唐紙を開け着座 したが、その時の顔は争いの後とは少しも思えないほどの平常通りの温和 しさなので、不思議に思うと共にある事を感じた。それは怒りを抑える力 である。渋沢氏が実業界の大御所と言わるるまでに成功したのはこのため であろう。よし自分も怒りを容易に抑えをようにならなければいけないと 思い、その心掛けをするようになってから、すべてが順調となり、今日の 地位を得た」 という話である。

   まず、諸子が怒ろうとする場合、神様が自分を磨いて下さると思うべき で、それが信仰者としての心構えである。

   私は借金の事を書くのを忘れたが、私の経験によれば借金の原因は焦る ためであって、焦るから無理をする事になる。何事も無理は一番いけない。 無理をしてやった事は、一時は成功しても、いつかは必ず無理が祟って思わ ぬ障碍に遭うものである。それがためものが早く運んだようでも、結局は 後戻り、やり直しという事になる。日本の敗戦の原因などもよく検討する と一切が無理だらけであった。第一焦ったり無理をしたりすると心に余裕 がなくなるから、良い考えが浮かばない。また良い考えの浮かばない時に 無理に何かをしようとする事がさらにいけない。良い考え即ちこれなら間違 いないという計画が浮かんでから着手すべきで、所謂文字通り熟慮断行で ある。

   故に研究に研究を冬し、これなら絶対間違いないという時は借金する事 も止むを得ないが、借金をしたら一日も早く返還すべきで、決して長引い てはいけない。元来借金なるものはなかなか返せないもので、長くなると 利子が溜り、精神的苦痛はなかなか大きいものであるから、心に余裕がな くなり、良い考えも知恵も出なくなるので、仕事もうまく行くはずがない。 借金にも積極的と消極的とがある。事業発展のためにするのは積極的であ り、損をした穴埋にするのは消極的である。積極的借金はやむを得ないと するも、消極的借金は決してなすべきではない。損をした場合、虚勢を張 る事をやめ、一旦縮小して時機到来を待つべきである。

   今一つ注意したい事がある。それは欲張らない事である。昔から大欲は 無欲という諺がある通り、損の原因は十中八九まで欲張り過ぎるためで ある。よく人が牡丹餅で頬辺を叩くようなうまい話をもって来るが、世の 中には決してうまい事はあるものではない。故にうまい話は警戒すべきで、 ばっとしない話の方に却って将来性があるものである。これらについて私 の経験を話してみるが、借金を早く返したいと思い、また積極的に宗教上 の経営をやらなくてはならないと思い、金が欲しい欲しいと思っている時 にはさっぱり金がはいってこない。しまいには諦めて神様にお任せし、金 銭の事を忘れるようになってから予想外に金がはいるようになったので、 実に世の中の事は理屈では分らないと思った事がある。

昭和23年(1948年)9月5日
「信仰雑話」     『岡田茂吉全集』著述篇第六巻 p.27
『聖教書』 p.305


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