秀明向け み教えコレクション(1)

秀明で行っていたことは、み教えからみたらどうなんだろうと考えるコーナーです。こちらで拝読して見つけ出した物を随時掲載していきますが、読者の皆様もなにかを発見したらメールでお知らせください。


まずは有名なやつからです。

処女降誕について

質問

 マリヤは処女受胎してイエスを生んだと申しますが。

御垂示

 之は嘘ですよ。若しあるとしたら世界は破裂しますよ。

(S23/12/28)

チャート!
小山荘吉先生はみ教えをよく知らない。

百篇主義について

拝読は人間のためだけに行うのではない

質問

屋敷内にそうとう年数を経た木が二本と竹藪がありますので、それを整理するために私の息子が先月十九、二十日と整理し、二十一日にお祭りをして、その日から夜八時か九時になると毎晩、脊髄の四、五番目くらいの所が一〇円銅貨大に痛みます。触っても別に感じません。浄霊は頭の上から腰、痛む所をさせていただきますと楽になるのが早いようですが、だいたい一時間ぐらい息が止まるようなことがあります。私が以前に井戸を掘っておりましたことがありますが、そのとき同じ場所が痛んだことがあり、私はそれが動機で入信させていただきました。

御垂示

熱はありませんか。

質問

ございません。

御垂示

霊的です。整理したというそれに関係があるのです。霊が渡ったのです。御神書は読んでますか。

質問

始終拝読しております。

御垂示

御神書をウンと読めばよいです。そうすればそれで治ります。その霊は龍神です。それで神様のことを聞きたいらしいのです。御神書を読んでもらいたいのです。ですから御神書を読むのが一番よいです。ある程度までゆけば良くなります。

いま霊界では救世教のことを知りたがっている霊がたくさんあります。ですから御神書を読んでやるのが一番よいのです。それで読むときには、小さくてもよいから声を出したほうがよいです。なにも異状がないときにはそういう必要はないが、自分が具合が悪い、家族が具合が悪いというときは救世教のことを知りたがって憑っていることがあるから、そう思ったときには声を出したほうがよいです。

(S28/10/15)

チャート!
拝読は人間の頭脳のためだけに行うのではない。縁のある霊に救世教の事を知らせるために行う事もあるのだから、その場合、100篇だけでは霊が満足しないだろう。

神慈秀明会はみ教え百篇主義というらしいです。会主様が100篇しか決めていないので、それ以外のみ教えは読んではいけないという戒律が勝手に作られたようですが、実際には会主様が100篇しか読んではいけないと仰ったわけでもないので、意味不明です。

本サイトを読んでいる人も、聖教書の100篇だけでは満足しないからみ教えを求めてここをのぞいているのでしょう?霊だって同じです。しかし100篇主義ではそういった霊を満足させる事は出来ないでしょう。あなたが満足できないように。


面目が神の邪魔をする

質問

母親一人が熱心な信者で、家族が分からないという所でこういうことがございました。腹痛と熱の御浄化で、チフスとのことにて、御霊紙でもいただき、

御垂示

御霊紙でも、という言葉はいけません。「でも」ということは軽蔑する言葉です。昔からこういうことを言います。 「でもお茶は飲むな」と言います。「お茶でも」と言いますが、そんなお茶は飲まないほうがよいというのです。よく「御神体でも」「御霊紙でも」と言いますが、それはたいへんな無礼をすることになります。

質問

御霊紙をいただき医者の言うとおりにして休みましたが、真夜中ごろ猛烈な下痢などがあり、朝になるとケロリとしてごはんを食べ、支部に御礼にまいりました。ところが医者のほうでは、診察の結果はなんでもないが、手配をしてしまったから隔離病舎のほうに行ってくれというのです。診断が誤っていたと見られるのが都合が悪いためと思われますが。

御垂示

そうです。人間の命より自分の面目のほうが大事なのです。

質問

そういうわけで、頼んでも行ける所ではないからというので五日間行ってまいりました。御守護のほどありがとうございました。

御垂示

とにかくこの面目というのがたいへんなものです。私なども静岡の事件であれだけ苦しんだのは面目のためです。罪人を作らなければ面目にかかわるというので、面目の犠牲だったのです。とにかく役人というのは面目が生命です。だから自分の面目を立てるためには、国家に不利益だろうが、人民が若しもうが、そういうことは第二、第三のことです。だから日本の役人が面目病をなくすれば、人民は実に楽になります。いまのは医者の面目です。

(S28/10/15)

チャート!
とにかく百篇しかだめだとか、救世教は邪神だとか言うのは離脱によって生まれた神慈秀明会の「面目」を守るためだが、その面目というものは、明主様を苦しめた静岡事件(法難事件)の根本と同じであり、現在においては明主様を求める秀明会信者は、秀明会幹部の「面目の犠牲者」になっている。

「でも茶は飲むな」の御垂示は古い秀明紙(164号 昭和58年11月)に掲載されていましたが、それも改変されていた事が分かりました(御霊紙→御浄霊)。


神様を相手にする

秀明紙13号(昭和46年4月)に掲載された「神様を相手にする」の前後のみ教えです。


命をもらってもなんにもならない

よく、やたらに命をあげるとか、命を捧げるとか言うが、はなはだ迷惑なんです。命をもらってもなんにもならない。命より金のほうがよほど役に立ちます。命があってこそ御用ができるんだからね、だから、命を捧げることだけは止めてもらいたい。命を捧げないでやってもらいたいですね。命を捧げるというのは、軍国主義の遣物ですよ。軍隊で「命を捧げよ」という一つの道徳を作ったのです。

お礼も極端はいけない  ちょうど良いくらいがいい

それから金ですが、余裕ができて、そのうちの出せる可能性のあるものだけ出すということも合ってます。それで良いですよ。それだけじゃ、自分は気がすまない。これだけのお蔭をいただいて、命まであげたいと思うことはかまわない。教団に、少しでもお金の御用させていただきたいと、これも良いです。他のものを倹約してあげる。これも本当です。どっちも間違っちゃいない。その人の思う通りで良いです。

これが間違っている。これが本当だ。と決めることが間違いで、その人の信仰の浅い深い……その程度によって考え方が違うから、それで良いです。家が物質に因らないで、良い状態を人に見せるということは、たいへん結構ですよ。ただ、どっちも考え方は良いんですが、極端に行くといけない。そこが伊都能売で行かなければいけない。お金を御奉仕したいというのに、家がピーピーしているのにあげると、世間の人が見て、あんなにピーピーして、とてもメシヤ教には行けないと、そうまでしてはいけない。しかしまた、余ったら一つ御用をしようという……それだけになると、たいへんお蔭をいただくことに対して、適当しないことになりますね。

お金をあげるということは、神様に御礼をすることですからね。本当から言えば、ない命をいただいたとすれば、たくさん……全部あげても良いですよ。較べてご覧なさい、「お前、財産が良いか、命 が良いか」と言えば、命が良いと言うに決まってますからね。命がなくて財産ばかりあっても、しようがないからね。それも理屈に合ってます。そうかというと、お金をあげることが、親戚から見て「いくら命をもらっても、あれじゃしようがない」と、誤解を受けるようでも良くないからね。だから、程々ですよ。ちょうど良いくらいですよ。

それから、みんな罪の重荷をいっぱい背負ってますからね。病人を助けるのも結構だし、金の御用をして、早く地上天国を造るというのも結構ですし、そこがちょうど良いところですね。なかなか難しいですが、その人なりに、自分はこのくらいが良い、こうすべきだ。という程度にやれば良いんです。それで、そういった信仰の関係や理屈は、御神書を読んで、教師は私の話を、質問したり聞いたりすること、それからふだん、先輩の先生……資格者から聞いたり、質問したりして、だんだん磨いていくんです。

本当の誠、高い信仰

一番いけないのは、あの人はああやっちゃいけない。あの人は間違っている。と言うことがいけないんですよ。人の良いとか、悪いとかいうことは、人間には解らないんだからね。神様以外には解らないんだからね。あの人は邪神だとか、邪神が憑いているとか言うことは、神様の為さるべきことを冒しているので、たいへんなことです。だから、 人を見ないで自分を見るんです。自分は間違っているか、いないかと見るんです。それが本当の誠です。人の悪いことを諌める……注意するのが良いことと思っているが、それがたいへんな間違いです。一般社会ならそれで良いですが、この教団の信者になった以上はいけないんです。もしその人が間違っていれば、神様が捻っちゃいますよ。なんでもないです。もしそうでないなら、人間が神様の力より上になっちゃうことになりますよ。それで、今度書きましたから、新聞に出します。そういう点において、世の中とよほど違いますからね。それが信仰の妙諦なんですよ。

結局、なんでも決めるのがいけない。決めると間違う。決められないこともあるんだからね。だから、だいたい決めてはいけないということにして、それから決めなければならないことは決める。それは事と次第によって、いろいろあるんだから……決めないと決めるようにするのもいけない。そこが千変万化、幽玄微妙の境地なんです。だか ら、それに少しでも近寄って行けば、その人は本当に身魂が磨けているんです。これはいままでの信仰にはないんで す。これは高い信仰なんです。そういう人の信仰は間違いないんです。それが真理なんだからね。そういう頭で、ものを考えると、とにかくおもしろいですよ。

大乗伝授は覚りでいく

世の中のことをそういう考えで見ると、非常に良く判る。それが大乗と言うんですよ。大乗道は芯になるんです。ところが、小乗人間に大乗を説くと、往々間違いがあるんでね。大乗はやたらに説けない。だから、覚りでいくんですがね。覚りでいって、その人が会得すればたいしたものです。仮に共産主義はいけない。ソ連は怪しからんと言っているが、いま日本は、ソ連のために助かっている。朝鮮問題を起したために、日本の経済が萎靡していたのが、とにかく、息を吹き返したんですからね。そのために、日本はアメリカから優遇されてます。こんな結構な、いままで例のない講和というのはないですよ。それはソ連のためなんです。日本がソ連のほうに引き込まれちゃたいへんだからと、アメリカは日本を助けている。といって、ソ連はどうかというと、怪しからん。他の国を侵略する。そうでしょう。朝鮮にはたいへんな悪魔だが、日本にはたいへんな良いことをしている。そうすると、どっちに決めて良いか分からない。これが大乗道です。教団の中にも、間違った人や、いろいろな人がいますが、本当にいけなければ、私が注意を与えますがね。注意も、為すべからずとか、それを止めろとか……そういうことは言いませんがね。

もし人が間違っても、この人は間違ったことをして、そのために覚るということもあるんだから、やはり頭をぶつけさせます。すると、ああ俺は間違っていたと覚ることもある。御神書を読んでも分からない人は、自分で苦しむんですよ。それで覚りを開くということもある。間違ったことをさせておけば良いんですよ。「あの人はこういうことをしているが、あれは注意しなければいけない」と言うが、私は、「あの人はいまに頭をぶつけるから、それから言ったほうが良い」と、その通り頭をぶっつけさせます。また人によっては、そういう苦しみをしなくても覚り得る人もある。そこで、人間はその人の行為によって善悪は決められない。それが大乗ですからね。そこまで心得て、そこまで信仰が深くなると、私はいろいろ言います。

神様を相手とする

 私が……昔ですが、「私のことをこういう悪口言っている」とか 「こういうこと言っている」と言うと、私は大笑いをするんですよ。おかしくてしょうがないんでね。自分で不思議になる。私は悪口を言われると、おかしくなる。 自分で、悔しがりそうなものですが、悔しがらない。相手がかわいそうになりますがね。おかしくてしょうがない。

 それから、私が笑っていると、相手は張り合いがなくなるんです。人によっては人を威かしたりして、一つの興味を覚えるのがある。しかし私に言っても、私は笑っちゃうからね。相手にならないのです。人から悪く言われるということを、ちょっとでも気にするようじゃ、まだ信仰が浅い。なぜならば、われわれは人を相手にしているんではない、神様を相手にしているんです。神様にお気に入られれば良い。人間というのは、本当のことが解りっこないんだからね。一生懸命にして、人が見てくれないというのは、人間社会での通例のこととし、そんなことは気にしないで、神様にお気に入られることです。

教団からつまみ出す指導者

神様にお気に入られるということは、どういうことかと言うと、人を助ける………一人でも病人を助ける。健康にする。一人でもそうだから、一〇人一〇〇人となると、お気に入られるから、それをやっていれば良い。ややこしく考えればややこしいが、簡単に考えれば簡単なんですよ。それで信者も多いし、いまにだんだん増えてきますがね。中には間違った人もあるし、とんでもない人も来ますよ。多い中にはね。けれども神様はそれを大勢寄せて……それは因縁のある人ですがね。因縁についても話しますがね。それから選り別けるんですよ。

 選り別けた結果、どうしても役に立たない……こういう人間はいないほうが良い。住む資格がない者だというのが幾人かありますね。そうすると、その人間を教団から、つまみ出さなければならない。教団のほうで出すと、先方が怨む……怨むと、その想念が邪魔するから、怨まないように神様は一つの間違ったことを造るんです。これが因縁なんです。そうすると、そのつまみ出されようとする人が、みんな信ずるんです。だから、神様がちょうど良いようにする。あの人は教団から離れる、惜しい。と気を揉むが、神様はそういう必要があって……教団からつまみ出す指導者を作るんです。

(S27/04/25)


チャート!
神様を相手にする、の前後のみ教えは、秀明にとってとても意義あるみ教えだった。

小乗人間に大乗を説くと、往々間違いがあるんでね。大乗はやたらに説けない。だから、覚りでいく」小乗信仰を徹底的にたたき込まれている秀明信者の、み教え独学による大乗習得は、注意が必要である。

これはまさに秀明の事ではないか?と言われている「教団からつまみ出す指導者」のお言葉の前に、秀明紙で有名な「神様を相手とする」があったとは、まったく驚きです。


御奉仕の霊と体

質問

「御奉仕のやり方想念によってひっかかるのがあるのではないかと思われますが」

御垂示

御蔭ですか。前に私が大本教に居た時に、或る人が献金を頼んだ「私の献金を代わりに届けてくれ」とある人に頼んでお金を預けた、の意のです。するとその人は綾部に行く途中で芸者買いをして使ってしまったのです。そうすると無駄なようですが、ところが決してそうではないのです。その想念は直ぐ神様に通ずるものです。それは霊は行っているので、体だけが使われているのだから何でもない、上げるというのを持って行って途中で使っても同じだというので、私はなるほどと思いました。上げたいという想念です。それが一番分るのは、死んで間もない霊が咽喉が腫れてしょうがないと言うので、"遺族が水を上げたでしょう"と言うと、"そうではあるが、その想念が悪いから飲めない"と言うのです。"上げたい"という心で上げると飲めるが、女中に任せたり、お役でやっていると、その想念が間違っているから、飲んでもうまくないし、又飲めないというのです。霊的の事は想念が肝腎です。霊主体従で霊が主なのですから、"これだけお上げする"という気持で上げると、途中で無くしても、そんな事は関係ありません。

(S28/07/01)


チャート!
明主様の御用にお使い頂きたいと真剣に思う誠心が肝心。

人によっては、「秀明会でのご献金や御用は、結局無駄だったのではないか」と思っている方がいるかもしれません。しかし、本当に純粋な気持ちで真剣に行った御用であったならば、それが全く無駄になった、という考えは持たなくても良いのであろうと思います。


退会時の拝受物

質問

 信者が何かの理由で御道から離れた場合や、信者が死亡して家族に信仰心のない場合等には、御写真、御神体、御書体等はどの様にさせて頂いたら宜しいでしょうか。

御垂示

 これは本人とか遺族とかの意志に任せればいいんですよ。

質問

 譲って頂いても宜しいでしょうか?

御垂示

 結構ですね。

S24.11〜12

チャート!
退会時におひかりやご神体を返せとは、明主様は仰っていない

浄霊と幸福

質問

 人以外の生物や無生物に御浄霊しても素晴らしい効果がありますのはどういう訳でしょうか。例えば農作物は増収で品質がよくなり、味噌醤油は味がよくなり、密柑は甘くなり、鉈はよく切れる様になるのはどういう訳なのでしょうか。

御垂示

 浄霊するとね、すべての曇りが取れて浄化するんです。浄化するとね、何でもすべていい働きをする様になるんです。人間以外の生物、動物でも病気するのはやはり曇りがあるからなんで浄霊すると曇りが除かれるから治るんです。つまり、森羅万象一切のものは曇りがとれると「力」が出て、その物本来のいい働きをするんです。

 農作物がよく育たないっていうのはそこの霊界が曇ってるからなんです。悪い曇りって言うのは、つまり水素で冷たいんですから、そこの霊界が冷たいんですよ。所が、この浄霊は火素を放射するんですから霊界が暖かくなるんです。だから、光明如来様を御祀りするとそこの田地はずっとよく出来る様になるんですが、これは、光明如来様から光が放射されてその人の範囲だけ明るくなるんです、光は火素が多いんですから、光が沢山行くとあたたまるから、そこでよく出来るんです。それから虫とか黴菌なんかも火素にあうと、いろんな作物を災いする力が弱るんです。だからよく出来る、とそういう意味なんです。食物の味がよくなるとか、鉈がよく切れるとかいうのも同じ理屈なんです。すべてね。浄霊すればあらゆるものが、悪いものは減り、いいものは多くなる。で、その用途がよくなるんです。だから、浄霊すると、すべて人間の幸福を増すべき働きをする様になるんですよ。

(S25/04/23)

チャート!
あらゆるものに浄霊をしよう!

聖観音の御魂

質問

私の親友、故N・M(釈意啓信女)は、昭和二三年一一月一日に二一歳にて死亡いたしました。肺病のため感染するのを恐れてか、死亡いたしましたことをいっさい私たちに知らせてくださいませんでしたが、一日午前三時に夢にて私が神社の鳥居を潜ろうとした折に魂にぶつかりました。振り返ってみますと、その魂はNさんの後ろ姿でして、夢を見終わって気がつきますと枕元が涙で濡れておりましたが、そのときはまだ変だなと思っただけでしたが、その翌日より毎晩一六日の朝まで 「Aさん寂しいから来てほしいのに、今日も来てくれない、今日も来てくれない」と夢をみせますので、一六日0町のお宅へ伺いましたところ、夢の通り一日に亡くなっておりました。このことによって私は霊の存在を知りました。その後一カ月くらいして午後九時ごろ床に入りますと、すぐ枕元左側に薄黒く「ボーッ」としたものが立ちました。私はNさんであることがすぐ分かりました。

N「生前Aさんに逢いたくてたまらなかったが、逢えずに別れてしまいこんな寂しいことはない」と申しますので、私は良く言いきかせましたところ、喜んで帰りました(このころ『天国の福音』を拝読いたしておりました)。あまり良い所へ行ってないのだと思っておりましたところ、昭和二三年一二月末の午後九時に床についてすぐ、左側に歴然と聖観音の御姿を拝しました。御姿は七分くらいにて天井にとどくくらいの大きさにてベールを冠っておられました。私の顔を見てだまって笑っておられました。私はびっくりするとともに、なんとも言えない陶酔感に打たれ、しばらくして良く見ますと観音様はNさんなのです。そして観音様は 「なにをそのように悲しむのか。悲しむことはない、必ずあなたの望み通り一週間後実現します」と申されて消えました。その後はなんとも言えない良い気持ちでした。

このころ私はお友達と洋裁店を開こうと思いまして、母親に相談いたしましたところ、反対されましたのであきらめておりました。それが霊の通り実現いたしました。このとき側に寝ております妹二人は床の中へ入ったばかりでしたので話をしておりました。それより三カ月くらいしてまた同じ時刻に現われました。このときは第一回より御姿からはいっそう強いお光りが拝見いたされました。そしてそのときの言葉通り一週間後に私の有利なことが実現いたしました。また私は好きで古流のお花も習っておりました。そのとき観音様は「お花をやるのもある時期まで許す」と申され「その時期は「カイトウ」を取るまでである」とのお言葉でした。私は「カイトウ」とはなんのことか分かりませんでした。それから四カ月くらいしてまた同時刻に現われました。その折は第二回よりさらにお光りが強く拝されました。このときもいろいろ教えてくださいました。

昭和二四年一〇月のある晩、午前二時に目が覚め階下のお手洗へ行こうと起き上がりましたが、なんとなくシンとしていて急にこわいような気がいたしましたので、床の上に坐り掛け蒲団を肩にかけておりましたところ(一〇分くらい)、欄間の所より、なにかヒラヒラ落ちてまいりました(ちょうど昼間明るい所で空間のゴミが見えるように)。まわりはみな板戸を閉めて電灯は消してありますので見えるはずがないのに、と思った瞬間、そのゴミのごときものは黄金色もまばゆい聖観音で、御身体より黄金の光りを長く引いてゆるやかに降りてまいりまして、私の眼前で止まりました(大きさは一寸八分くらい)。観音様「奇なる縁によりて汝の身体を私の永遠ののど安住の地と定める。よろしく肝に銘じよ」と申されまして、私の咽喉に鎮座いたしました。私「入られたのはたいへん嬉しいが、咽喉の所に観音様の御姿が見えるのでは世間の人に笑われ、見世物にされてしまうので困る」と申しますと、観音様「汝に見えても、他の者は霊限開けぬゆえ見えぬから安心せよ」と申されると、私の目が開き御姿は見えませんでした。気がつきますと、まだ床の上におりました(私の感じました点は、各回とも御姿拝見までは目を開いておりますが、会話中は目を閉じているらしく、お話が終わりますとバッと目が開きます)。

私は二二年九月よりUさん(ただいまは信仰をやめております)に毎日かかさず御浄霊をいただいておりましたが、御守り様は拝受いたしておりませんでした。Nさんに最後に逢った折(死ぬ一月前)、お道のお話をいたしましたところたいへん喜んで「ぜひ一日も早く御守り様をいただいて多くの人を救ってはしい」と言われましたが、もしほんとうに病気がなおせなかったら困るなど考え、約束はしたものの一周忌を迎えてもまだ御守り様をいただかずにおりましたが、もはや、神の存在を否定することはできなくなりましたので、二四年一一月二八日御守り様を拝受いたしました(これまでは神仏を拝んだことなどありませんでした)。

教修後は地獄の霊が救ってほしいと二〇名くらいまいりました。また救われて霊界にてお光りをいただき、働いている霊が四名まいりました。その他狐霊なども来て邪魔をしたりするので悲観しておりましたところ、Nさんのお母さん(生霊)がまいりまして「このたびMが床の間の上に行かれるようになった。家でもお祀りしてあるが、ぜひAさんとEさん(御光り拝受した友達)に祀ってもらいたい」といって位牌を床の間に置き、「お宅にありがたいお軸があるからぜびそれを床の間に掛けてその脇に位牌を置いてほしい」と言って帰りました。そういうものは家にはありません。両親が理解ありませんので、七月一三日に御屏風観音様はお祀りさせていただきましたが、御神体はまだお祀りいたしてございません。その後すぐNさんが現われました。御姿はベールをぬいだ観音様でした。

N「床の間に大光明如来様をお祀りしてお道のためもっと協力してください。そうすれば私はあなたのことを一生守護します」と申されました。それから二カ月くらいして『地上天国』の御神書を拝見いたしまして驚きました。表紙のメシヤ観音とまったく同じ御姿でした。その他大型トラックに二度ひかれるところを目前に御姿現われ、私をさえぎりましたので、すれすれのところを助かりました。このときもメシヤ観音の御姿でした。

二七年八月一七日初めて箱根に御参拝の折、御神前を見てびっくりいたしました。それは去年、あと五年後には私の家がこうなるからと知らされました、私の家の御神前と同じだったからです(そのときは身魂が磨かれれば、もっと先のことを知らせるとのことでした)。ただ右側にありました立像が夢の中では、メシヤ観音様でありまして、純金でできておりました(その観音様がNさん)。さっそくお参りをすませ、さらにびっくりいたしましたことは、その立像の観音様が非常に喜ばれ、お笑いになったと見るや私に霊波が感じられました。「Aさん私は長い間あなたの来るのを待っていました。今日こうして逢えたことは実に嬉しい。ぜひいっさいを捨ててお道のために協力してください」と涙を流さんばかりに喜ばれました。この日は御明主様より御浄霊をいただきました際、御光りを良く拝見させていただきました。

また三年前に観音様が申されました通り、一〇月一日に古流家元より華務会頭(カイトウ)に任ぜられました。そして最近もたびたびメシヤ観音様がお出ましになられまして「一年も二年も考えている場合ではない。時期が切迫しておるから早くすべてを投げ打って御神業に入りなさい」と申されました。すると今度は狐霊、狸、龍神などの邪神が無数に押し寄せてまいり「御神業に入れば取り殺してやる。最後まで邪魔してやる」と申します。

右に閲しまして他の救われた霊などは人間と同じ姿ですが、Nさんのみはどうして観音様の御姿なのでございましょうか。天国にお救いいただきますと、観音様のような御姿になれるのでございましょうか。それとも狐霊のいたずらでございましょうか。なにか観音様と御関係があるのでございましょうか。謹んでお伺い申し上げます。

御垂示

Nさんは、元々聖観音の御魂であり、人間となって救いをされようとしたところ、誤れる医学のために生命を失くしたので、あなたに自分の代わりとなって、救世の業をしてもらいたいので、いろいろ不思議を見せたのだから1日も早く熱心な信者になって働きなさい。

(S27/12/25)

チャート!
聖観音の御魂も、さほど珍しくないようだ。

病気の原因探知 霊的か体的かの判別

質問

病気の霊的原因探知法、霊媒によって知ることの可否をお教えください。

御垂示

  病気の原因が霊的か体的かの判別は難しい。これは長い経験によって漸次判るようになる。しかし精神病、癲癇、真症小児麻痺はぜんぜん霊的である。よく教導師などが思うように治らないと霊的だと言いたがるが、これは謹しむべきで、嘘を言ってはいけない。判らなければ判らないと言うべきである。昔から「私にはあなたの病気は判らない」と言う医者は名医であると言うが、これは嘘をつかない人格者だからである。

(「光」 四号 S24/04/08)

チャート!
当時の会主様は正直だった。

少しケチくさい信仰

質問

 他の教会に負けずに発展する様に祈願致す事は如何でしょうか。

御垂示

 これは少しケチくさいですね。この道は世界を救うんだから、他の教会も発展し、自分の方も発展する様に祈る事が本当ですよ。負けずに発展しようってのはいい意味での競争だけど、然し未だ小さいですね、小乗ですよ。だからそれよりかも、この教団全部が発展して人類全部が救われる様に祈願すべきですよ、他の教会なんか目に入らない位になるのが本当ですね。どうも日本人の悪い癖としてケチな根性があるんですね。例えば、どうか日本がよくなります様にってのは悪くはないけど、やっぱり小さいでしょ。日本だけよくなればって気持ちから今度の大戦が起きたんですからね。もっと大きく世界人類を救おうと念願すべきですね。

 以前、大本時代に「どうか自分は天国に救われ度い」って言う人がありましたがね。その人に対して私は「自分は一寸も天国に救われ度いとは想わない。むしろ一人でも多くの人を天国に救って上げられます様にと願ってる。その為には、たとえ私は地獄へおちてもいい」って言った事がありましたがね。人間はどうしても自分を主にし、自分の事にとらわれてしまうんです。勿論全然とらはれないって事は出来ないけど、自分にとらはれてはいけないんだって事を知ってれば目先がきき腹が大きくなるんです。そして腹の大きい人の方がどうしたつて大きく発展しますね。小さい人はやっぱり駄目ですよ。

(御光話録  第十九号 S25/04/03)

チャート!
離脱の神意で秀明会だけが正しいとするのは、少しケチくさい考え方だったと言える。救世教も発展し、秀明会も発展する事を願うべきだったのだろう。

物質の霊化、霊の物質化

質問

 野兎が箱に鍵をかけ出られない様にして置きましても、月夜に月光が少しでも入れば何時か居なくなるのは如何なる訳で御座いましょうか。但し野兎だけで飼兎は変化ないそうで御座います。

御垂示

 不可能です。 蛇は伸縮自在の働きが出来ますから脱ける事が出来ます。蛇、狐は物質の霊化、霊の物質化が出来ます。

(S24/05/05)

質問

 和歌山県の或る信者が熱海へ御詣りに参って居る留守中、家族が仏前に御飯を三つ御供え致しました処、その留守中三日間共、右の端の一つが消えて無くなりました、何か霊的に意味が御座居ましょうか。

御垂示

 霊化したのでしょう。祖霊はそうする力がありますし、又狐霊に頼んでさせる場合もあります。祖霊の戒告でしょう。

(S24/02/25)

チャート!
弧霊や蛇霊には、無から有を生じ、有から無を生じさせる力がある。

金粉など、有が無になり、無が有になるという奇跡は、神様が弧霊を使ってさせている場合もあるでしょうし、そもそも弧霊自体の得意技でもあったようです。つまり有が無になり無が有になったという奇跡が起ったという事だけでは、正神か邪神かの判別は不可能なのです。ではどうやって正邪を判別するのでしょうか?明主様は「奇跡とは現当利益の事である」と仰いました。つまり金粉出現でも何でも良いのですが、その奇跡の結果、幸福を生んだか不幸を生んだかに注目する必要があるのでしょう。

ところで、神慈秀明会において大量に出現した金粉やダイヤモンドは、霊界において莫大な財物が存在しており、それが物質化されたものなのかもしれませんね。


広義の病気と真の健康体

ある客との対談

貴教団のすべてのやり方はまことに我意を得ているが、ただ一つどうかと思うのは、あまりに病気治療に専念し過ぎはしないかと思うが、この点御高見を伺いたい。

貴君のそう思うのも無理はない。既成宗教のやり方が常識となっている現代人としてそう見るのは無理はないが、本当のことを言えば私のやっていることは宗教とは言えないかもしれない。ではなんであるかというと救いの業と言うべきであろう。救いの業とは一言にして言えば病気を治すことだけで、ほかにはなにもないのである。と言うとちょっと変に聞こえるであろうが、実はこうである。みんな病気を狭義に解釈している。病気と言えば人間だけと思っている。ところが私は広義に解釈する。すなわち病気とはひとり人間のみではない、社会も国家も世界も、現在はことごとく病体である。例えば日本だけにみても、支配階級の苦悩は頭痛であり、上層階級の転落は脳溢血であり、悪思想の蔓延は肺結核で、心臓の悪いのは社会一般の不安恐怖である。金詰まりは血行が悪く貧血であり、勤労階級の苦悩は手足の苦痛というように、国全体が病体であり半身不随で苦しんでいる。世界も勿論同様であろう。とすればこれをいかにして健康体になすべきやというのが、人類に課せられたる、少なくとも文化人に課せられたる大問題である。

 ところが、キリスト教は別とし、今日までの宗教、道徳、法律などでは一時的苦痛緩和のカンフル注射くらいの効き目はあるが、全治させることは不可能であることは、現実が証明している。この意味によってどうしても絶対的強力なる療法が生まれなくては、人類の不幸はますますはなはだしくなるばかりだ。本数が生まれたのもまったく生まるべくして生まれたのである。勿論広い世界といえども二〇億の個人の集団である。とすれば、まず個々人の病気から解決してゆかなければならない。それよりほかに有効な方法はあるまいからである。最初に私が言った、本教は宗教ではない救いの業というゆえんで、本教が最も治病に力を注ぐということも理解されたであろう。

なるほど、判りました。

 と言って帰った。

(『光』二五号、S24/09/03)

チャート!
広義の病気は宗教が治す。

広義の病気治しにもきっと急所の浄霊が存在するに違いありません。


ある客との対談

最近対談した客は、警察方面の重要な仕事を大規模にしている人である。

 いま日本は防共に最も関心を持っている。そのため警察力をもっと強化しなければならないが、警察官を増加することはちょっと困難な理由があるので、このままで現在の国警機能をもっと強化させなければならない。万一の場合、最も迅速な連携的行動が必要である。そのためもっか努力中である。

 なるほど、それも結構である。当面の急を救うとしては、それ以外に手がないことはわれらも賛成である。しかしそれだけでは一時的で、根本的恒久的ではない。とすればどうしても物質的方法以外、精神的の対象が必要である。それには勿論信仰である。既成宗教では勿論力はない。それは現実が示している。どうしてもいままでにないような新しい強力な宗教でなくては駄目だ。判りやすく言えばこうである。今日の医学である。医学の行なっている方法は、病原はなんでも黴菌としている。それがため黴菌を恐れることはなはだしく、朝野(ちょうや)とも黴菌恐怖症に躍っていると言ってもいい。と言うのは黴菌が体内に侵入すると発病するという危険があるからで、これも現在としてはやむを得ない手段である。ところがいかに黴菌が侵入しても発病しないという健康体になれば、それで問題は解決だということと理屈は同じことである。つまり共産主義にしろ何々主義にしろ、良いものなら採り入れる、悪いものは排撃するというように、その判別の力を民衆がもてばよいのである。その判別の力こそ、黴菌に犯されない健康体と同様で、言わば思想の健康体である。それには力ある宗教によるよりほかはない。故に警察強化と宗教強化と相まって進むことこそ理想的である。

 よく判りました。貴教も大いにやってもらいたい。

と言って帰った。

(『光』二七号、S24/09/17)

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力ある宗教は、黴菌にふれても悪霊が近づいても邪神に触れても悪思想に触れても発病しない健康体をもつ人間を作り出す。また、それが本教の目的である。

明主様の「病気」「健康」のお考えがかいま見えるお言葉だと思います。明主様の仰る病気や健康、病気直し、とは、肉体面のみならず、民族、思想、政治など、多岐にわたっているということです。これは聖教書にも書いてあった事なのですが、急所の浄霊の見直しでこの点が曖昧になっているのではと思い、改めて示してみました。

明主様の仰る病気の解決とは、人を無菌室の中に閉じこめ病原菌をシャットアウトするような事ではありません。病原に負けない健康を作り出す事です。その考え方が個人の肉体のみならず、個人の思想、民族、国家、政治にも同じように当てはまるのです。

神慈秀明会のみなさんも、ご浄霊(とくに自己浄霊)や百篇以外のみ教えで霊肉ともに健康を頂き、無菌室を飛び出してどこへも自由に行き、たとえ世界救世教に触れても発病しない(笑)真の健康人になれるよう目指して下さい。

(S24/06/15)


宗教と科学

質問

宗教と科学の関係、および両者とも必要でしょうか、どちらか不要になる時が来るでしょうか、御教えを賜りとうございます。

御垂示

これはどちらも不要なものでなく、どこまでも進歩発達すべきものである。少なくとも宗教がなかったら人類の罪穢は溜まるのみで、それによって生ずる毒素の堆積は人類を破滅することになる。それは浄化のため大天災が続くからで、また科学がなかったら人類文化は進歩しない。

宗教と科学は同じものであることはすでに『信仰雑話』で説いた。従って科学で説明のできない宗教は本当のものではなく、同時に宗教で説明できない科学も本当のものではない。

宗教を度外視した科学の発明は恐ろしいことはいうまでもない。科学の進歩が人類の幸福と伴わないのはそのためである。いままでは宗教を閑却しむしろ否定したが、科学の進歩に宗教も伴い一緒に発達して行かなくてはならぬ。

S24/01/31

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祈りの浄霊は浄霊の宗教的活用、急所の浄霊は浄霊の科学的活用と言える。それが一つになる時代が近づいている。

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