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非カルト宗教モデルとしての岡田茂吉思想

なぜ、カルト宗教と呼ばれるものは、その教義も誕生の背景も異なるのに、どれもそっくりな「金取り」「苦行」「戒律と恐怖信仰」の姿を呈するのでしょうか?それは、ビジネスにはビジネスモデルがあるのと同様、宗教の中にも、「カルト宗教モデル」というものがあるからです。ここでは、岡田茂吉思想というものが、「カルト宗教モデル」を喝破し、それらと相反する存在である事を解説しています。

オウム真理教の地下鉄サリン事件を最大の契機として、日本でもカルト宗教の問題が報道などで取りざたされるようになり、多くのカルト宗教はその勢力をそがれる結果となりました。思えば1970〜90年代当時は、1999年のノストラダムス(そもそも、1999年7の月の詩には人類滅亡などとは一言も書いておらず、今だになぜあれが人類滅亡の詩であると解釈されたのか理解出来ていません。)のような人類滅亡の予言などがカルト宗教に受け入れられ、人類が滅ぶくらいなら救済のために何をしてもよいという風潮が生まれ、金銭を搾取し生活の全てを奉仕に充てさせる生活破壊型カルト宗教が日本にも多く生まれてきました。神慈秀明会も、こういったカルトの一種であったかと問われると、当事者である私たちは、そうであったと答えざるを得ません。

しかし、世界救世教教祖、岡田茂吉師は、昭和10年1月1日の大日本観音会の御立教のころ、すでにそういったカルト宗教というものの存在(カルト宗教モデル)を見破り、なぜそのようなカルト宗教が生まれるのかという霊的意義を示され、そして、そういったやり方とはまったく相反する宗教のあり方を世に訴えていたのです。しかし残念ながら当時の信者の中にはそれを会得することが出来ていない者がおり、そういった弟子たちが教団や教会を運営したり、離脱をして独自教団を作ってしまったため、世間を騒がす事件を起こしたり、神慈秀明会のように岡田茂吉思想を唱えながらその実態はカルト宗教という不思議なものも生まれてきてしまったわけです。

ここでは、み教えを元に、岡田茂吉思想というものが如何にカルトからかけ離れていたか、また、その岡田茂吉思想は現在の世界救世教に於いてどの程度具現化できているのかを考えていきたいと思います。

部外者の人へ

神慈秀明会はカルトか?世界救世教はカルトか?そういう情報を求めてこのページにたどり着いた方も多いのではないでしょうか。岡田茂吉(信徒は明主様(めいしゅさま)と呼びます)というのは世界救世教や神慈秀明会の教祖にあたる人物です。

このページは、世界救世教から1970年に離脱独立をし、長年の間、世界救世教を邪悪視してきた神慈秀明会という宗教団体の信者である私が、秀明会では読むことを禁止されていた岡田茂吉の文章を読み、触れることを禁止されていた世界救世教に触れ、その結果、「岡田茂吉の本当の思想は、世に言うカルトとは相反するものだった」「神慈秀明会は、岡田茂吉思想と逆のことをかなりしていた」という理解、気づきを、「カルト宗教モデル」という言葉をキーワードにまとめたものです。

カルト宗教の定義というものは明確ではありません。カルト宗教という言葉は、学問的な定義があいまいなまま一人歩きし、様々な解釈を生み出している言葉であると思います。ここでは「社会に害をなす独善的熱狂的信仰」というニュアンスで紹介しています。

このページは岡田茂吉思想を通じてカルト宗教というものを解説するかのようなページでありますが、内容は、岡田茂吉を知らない部外者の方が読むには難のありそうな、霊的な話やにわかに信じがたい話。怪しい話も多数有ります。「怪しいことをいう宗教はみんなカルトだ」と思っておられる方には、このページは何の参考にもならないことでしょう。ここは世間一般のカルト宗教の調査をしている人に向けて書いたものではなく、神慈秀明会や天聖真美会、真光などの、岡田茂吉をルーツにもつ宗教の信徒に向けて書いたカルト宗教の考察ですので予めご承知おき下さい。

しかし、世界救世教や神慈秀明会の教祖であった人物が、どんな思想を持っていたのかを知るには、このページも少しは役に立つのではないかと思います。そして、岡田茂吉思想を正しく踏襲する団体であるならば、カルトとは正反対の平和的な道を進む宗教団体になるという事だけは、頭の隅に残して置いて頂けたら幸いです。


「大光明世界の建設」に学ぶ

明主様が昭和10年の御立教時点で発表されました、「大光明世界の建設」という冊子(立教のご講話を収録したもの)から、非カルト宗教モデル性に関わってくる部分を抜粋して解説したいと思います。

(仏教で言う)大乗も小乗も間違いである

注:部外者の方へ:岡田茂吉思想では「大乗」「小乗」という言葉を使いますが、この「間違いである」の項で書かれている大乗小乗は、仏教に基づく観念であり、岡田茂吉思想で言われている大乗、小乗とは異なります。しかしこのページ以外の秀研の各ページでは、岡田茂吉思想による大乗、小乗が多数出てきますので、混乱しやすいかもしれません。
仏教 救世教
小乗

岡田茂吉の言う、仏教の小乗
(自分だけの幸せ)

岡田茂吉の言う小乗

大乗

岡田茂吉の言う、仏教の大乗
(自分以外の幸せ)

岡田茂吉の言う大乗

(*)昭和10年から時代も変わっておりますので、現代のお坊さんに仏教の小乗、大乗の解釈を質問しても、この表どおりの回答が来るとは限りません。

それで、今日までの宗教を観察してみると、どれも完全な教えはなかった。例えてみますと仏教でいう大乗と小乗であります。小乗とは利己的信仰で、大乗は利他の信仰のように解釈しておりますけれど、この解釈はまだ本当じゃないのですが、仮りにそういうものと仮定しても実は小乗も大乗も間違っているのであります。

今日の小乗的信仰とは個人の利益、つまり自分が安楽に暮らせばいい、自分の家族一族が倖せに暮せればいい、社会とか国家とか人類とか、そういうものには一切関心をもたぬ、世によくある家内安全、無病息災、商売繁昌などと拝む有難信仰がありますが、これが即ち個人本位の信仰であります。

次に大乗的信仰と称するのは全然これと反対で、社会とか、国家とか、世界人類とか、そういう大きいことを対象として、自分のことを無視するのであります。兄弟親子と別れ、家庭を犠牲にしても世のためにつくすというのであります。

これは一応甚だ立派なように見えます。なるほど大きい救いのために、自己を犠牲にしてやるということは、大変悲壮であって、立派であるが、やはりこれも真理から言って間違っているのであります。ただ特殊の場合止むを得ぬ事情に際会した時を除く外、平常滅多にあるものではないのです。

それで小乗でもだめ、大乗でもだめだということは明らかであります。しからば一体どうすることが本当なのかと言えば、それは小乗にもあらず大乗にもあらず、また小乗であって大乗であるということであります。それはある場合には小乗で行き、ある場合には大乗で行く、その時と場合、また人によっていろいろに変化することであります。例えば暑い時は単衣物を着、少し涼しくなるとセルを着、袷衣を着、寒くなれば綿入れを着るというようなわけで、対象、環境によって、即ち時所位に応じて変化すること、それが本当なのであります。

それですから、小乗的信仰、利己的信仰では到底人類は救われないはずで、利己が衝突して争いとなり、それが大きくなれば戦争となるのであります。と言って、大乗的信仰の一身を犠牲にしても、世界人類のためにつくすということは、ちょっとも間違っていないように見えますが、こういう信仰や、こういうやり方で、各時代に多勢の人がさんざんやってきたのでありますが、今日まで理想世界が実現しなかったということは、だめだということを明らかに証明しております。

その理由を言うよりは、結果を見たら一番判ることと思うのであります。現在でもそういう型の宗教を見た時、実に悲しむべく悲惨な感じがします。

世界人類のため、すべてを犠牲にするのは結構だが、自分自身が行き詰ってしまうから、ついには親子兄弟親戚にも迷惑をかけ、家庭は不和になり、周囲の人達からは排斥されて、「孤独に陥りつつも」なお、これも神様のためだ、皆神の試練だと言って、そうなればなるほど、ほとんど意地づくにさえなってきて、やっていく。そうすればするほど、なおなお周囲から誤解され排斥されて、二進も三進も行かなくなり、こちらが救うというよりは、かえって人から救われなければ、食ってゆけないようになって来る。こういう型があらゆる宗教にみえるのであります。

これでは天国ができるものではありません。世界が天国になることは、先ず世界を構成している単位を考えれば判るのであります。それは結局人間であります。世界は人間の集合体で国ができ、国は市町村からなり、市町村は家からなり、家は個人からなっています。ですから単位である個人が救われねば、世界は救われるはずはないのであります。したがって、個人の利益のみ主とする小乗的信仰も間違っておれば、個人を犠牲にする大乗的信仰も間違っているんであります。つまり両方ともよくなり、全体が救われなければならないのであります。

個人が救われ、完成しなければならないのであります。一軒の家が世界の型とすれば、一家が天国になって、救われて世界は救われるわけであります。

今までに、そういう説はあるにはありましたが、到底実現はせないものと、あきらめられていたのであります。それは、その開祖なり、その宗教なりに力が足りなかったためであります。今後、いよいよ観音力によって、それが必ず完成することになったのであります。それで、これを最も判りやすく言えば、病と貧と争いのない世界、病貧争のない家庭ができることであります。病貧争は、小三災たる飢病戦と同じことでありますが、病貧争と言ったほうが何だかピッタリすると思います。これが絶滅するんであります。果してそれができるか、必ずできるんであります。観音様を信仰すれば、絶対にできるんであります。

多くのカルト宗教は、生活の全てを捧げさせ、個人の生活を否定します。旧体制の秀明会も「自己放棄」と称して、個人の生活を捨て、明主様に年単位で時間と労力を捧げるのをよしとしてきました。また、本部神苑建設こそが地上天国建設の要であり、それが世界に反映し、世界が天国になるのだから、それを実現させるために自分の幸せは忘れようという方式でした。しかし明主様は、救いというものは「個人」-「家族」-「地域」-「社会」の順に広がっていくことを立教時のお言葉としてお説きになりました。立教当時のお言葉、これが明主様信仰の核心でなくていったいなんでしょう。秀明のように「自己放棄」で家族も仕事も捨てて、信仰一本の地獄的な生活になってしまったら、またはサラ金献金で生活を破綻させてしまったら、明主様は信者一人一人が世界の型であると仰っていたわけで、それでは岡田茂吉思想の中では救済の役を果たせない訳なのです。

真の救いとしての現当利益

 真の救い

真の救いとは、永遠に、魂を救う事である。又、一生を通じての抜苦与楽である。それが出来なければ、宗教としての価値はないのである。

病気を治さないで、慰安をして与る事よりも、病気を治して、健康体にしてやるのが、真の救いである。貧乏を我慢しつつ、安心立命せよと言うよりも、金に困らないようにしてやるのが真の救いである。此世は厭離横土であり、火宅であり苦の娑婆であるから諦めよ、我慢せよ、悟れよ、と言うよりも、斯ういう苦悩の娑婆をして、天国楽土たらしむべく、積極的に活動するのが真の救いである。

その救いの効果的現はれに由ってその宗教の価値が定まるのである。然し、それ等の事は、私が言う迄もなく世の宗教家達は、みんな知り抜いている筈である。然し、いくら知りぬいて、努力はしてもどうにもならないから、是非なく苦のまま諦めろと言い苦のまま安心立命せよと説くのは、余儀ない事である。一種の遁道である。そんな諦めの鼓吹ではいくら笛を吹いても集まらない。

是に於て、社会から宗教は無用の存在として非難を享ける。それが苦しいのだ。苦しいから何かを行らなければならない。その防弾チョッキとしての、宗団の社会事業経営なのである。むしろ同情すべきではあるが、どうか一日も早く宗教本来の使命に覚醒して、真の救いに精進して貰いたいのである。

最後に言う、人間の智慧でやる。宗教の最後は社会事業となって了う。神の力と、神の智慧で行く宗教は、奇蹟から奇蹟で、本当に世を救ってゆく。

 現当利益

此現当利益という事を、低級信仰として解釈する多くの人があるが、それは大いに誤っている。その点を述べてみよう。

世に現当利益が、心から嫌いだという人は、実は一人もあるまい。如し、有るとしたら其人は狂人である。病気が治るのは嫌いだという人はあるまい。金が欲しくないと拒絶する人も、一人もあるまい。俺は不幸が好きで、幸福は真平だと逃げる人は、恐らくこの娑婆には絶対にない事を保証する。

宗教界に於て、綜々たる人達が口を開けば現当利益は低級である。須らく病気や不幸に超越して、心の安心立命を得るのが真の信仰であると言うのである。私は言う。病気で悩み、不幸災厄に囲まれ乍ら、尚安心立命の出来る人が世に有るとしたら恐らく六千万人中十人とはあるまい。そんな理論だけの信仰で以て大衆を救える筈は断じてない。大衆は救えない。一部少数の人より、救えない宗教であるならば、それは無用の存在でしかない。

現当利益を不可とする宗教は、実は現当利益を与えるだけの、力即ち奇蹟が無い為の論弁である。夫はその宗教に最早生命がなくなっている証拠である。そういう宗教に限って、社会事業に依って漸くその存在を理由づけている有様である。

(中略)

又現世に於ての悩みは免れ得られないが、未来は天国浄土に救はれると言うのが、彼等の説き方である。之も可笑しな話である。現在を救えないものが、何で未来を救う事が出来ようか。未来というものは、死んでから先の、幽界であるから、万一天国浄土へ行けなかったとしても、幽冥所を異にしては、苦情も持って来られないから、洵に説く方にとっては安全至極の説き方である。

未来利益の考え方は、カルト宗教がよく使う手法です。未来の利益(死後の崇高な転生や未来の天国世界に残るということ)のみを心のよりどころにし、現在の不幸を顧みさせず、常識以上の奉仕をさせるのがカルト宗教です。また、未来利益に注目して活動する宗教の信者は、未来恐怖にも注目せざるを得ず、恐怖信仰に陥りやすいきらいがあります。明主様は現在そこにある苦難を救うことに基準を置かれました。つまり、いま不幸な信者がいま幸福になるか、抱えている苦難が救われるかどうかが重要であるということでした。後述しますが、もし幸福を得られないなら、辞めたり、他宗教に移るのもよしということです。この考え方は非常にフェアであり、わかりやすい話です。逆に、宗教を主催する側としては厳しい話ではあります。

まず救いがあるということ

 幸福の家

これまでの宗教は、高価すぎた、犠牲が大きすぎた。罪障消滅に金と時が、あまりにもかかり過ぎたのである

我観音信仰に於いては、僅かな時と、僅かな金で、絶大な御神徳を恵まれるということは、実に驚くべき事である。

明主様は、その信仰上の活動に於いて、金銭の搾取を大変嫌いました。基本的には御利益があってから、それにふさわしい分相応の感謝のお礼をして欲しいということでした。しかしそれを理解できない弟子たちが、夜の世界の古い宗教のやり方を踏襲し、御利益が欲しければ金を出せという式に搾取をしたという事実もあったようです(噂によると救世教に於いても、いまもわずかにそういう風潮が残っているそうです。私は、いまもお世話信者にそのようなことを言う救世教信者が残っているとしたら、それは決して悪意ではないと信じますが、しかしそれは夜の世界の古いやり方であり、本筋ではありません。)。明主様は、奇跡で多くの信者を幸福にし、命すら救い、不幸を助けた場合、その救済の大きいほど感謝のご奉仕も絶大になるので、それで多額のお金が無理なく集まり、それを資金として大規模な地上天国のひな型をつくり、さらなる救済をされようとなさいました。つまり全て道理で物事を運ぼうとされたのです。

カルト宗教の生まれる霊的理由

明主様はカルト宗教の生まれる霊的理由についても解説しておられますが、これを記したみ教えは、特定の宗教や民族に言及する内容であるため、現代の風潮に合わず、こちらには転載できません。従って概要のみ解説します。

明主様は、「新しい宗教、思想、運動が生まれると、敏感にそれを察知し、たちまちそれを占拠し、自分の思い通りに操ろうとする、ある霊的存在が居る」と仰っております。実はその存在は、長年に渡り世界の経済の流れをつかみ、悪用していた者たちで、「それに取り込まれると、教祖がどんなに良いことを言っていても、その宗教はだんだん変化し、結局は金銭搾取の団体になり、最終的にお金が彼ら(ある霊的存在たち)にとって有利な方に流れていくようになる。」と仰いました。

また、同様に「苦行をよしとする霊的存在」もおり、これに取り込まれるとその団体は信者会員を苦しませ、苦しめば苦しむほど向上し良いものであると考えさせるものになってしまうと仰いました。

これが、多くの宗教がみんな「金取り」になり、「活動が負担な団体」になってしまう霊的理由とされています。世間を騒がせるアノ宗教も、コノ宗教も、教えや主催神、立教の歴史などが全く違っているのに、実態はどこもそっくりで、結局苦行と生活放棄と金取り(カルト宗教モデル)になってしまっている理由はこういうところにあるということです。

このみ教えを知り、神慈秀明会のあり方を省みると、やはり結局、その何者かに負けていたのかな、と考えざるを得ません。

変態的信仰

 神様が発展の調節

(中略)

本教は地上天国を造るのであるから、なによりもまず自分一家が天国にならなければならない。それにはまず自分自身の心が天国になることで、心の天国とは心に苦悩のない状態である。というわけで焦るのも苦悩なら、思うようにならないと煩悶する悩みも地獄であるから、少なくとも苦悩から脱却することである。それには感謝によって苦悩を打ち消すのが一番いい方法で、つまり心の中に地獄を作らないことである。

それについて心得るべきことは従来のあらゆる宗教は信仰の苦しみをよいとしている。中にはわざわざ苦しみを求める信仰さえあるくらいで、世界的大宗教であるキリスト教ですら、歴史をみれば、ほとんど苦難で開いている。そういうことが一般人の頭にあるので、本教信者になってもそれがつき纏って離れ切らない。右はまったくいままでの世の中は、夜の世界すなわち地獄世界であったから、たとえ立派な信仰者となっても、地獄の苦しみから脱却できなかったのである。ところがいよいよ夜は終わりを告げ、ここに昼の世界とならんとしているいまであって、しかも本教が指導者となって天国を造るのであるから前述のごとくどこまでも地獄を造らないよう、天国を心の中に築くことである。

天国的宗教と地獄的宗教

(中略)

以上あらゆる宗教を総括してみても、今日までそのことごとくは地獄的であって、苦難をもって宗教の本来と心得、魂を磨く手段とされて来たのであって、ついには苦しみを楽しみとする一種の変態的人間とさえなってしまったのである。これを忌憚なく言えば、その宗教の力が弱かったため、自力を加えねばならなかったのである。

このような地獄的信仰の世界に、忽然として現れたのがわが救世教である。なにしろ本教のすべてはいままでの宗教とは根本的に違うどころか、むしろ反対でさえあり、地獄的苦行を最も排斥し、天国的生活をもって真の信仰であるとしているので、その説くところは心も行も、既成宗教とは雲泥の相違である。しかも本教輪廓の大なることは、宗教も、哲学も、科学も、芸術もことごとく包含されており、特に人類救いの根本である健康の解決、農業の革命等、驚異に価するものばかりでそのことごとくは地獄をして天国化する条件のすべてであると言ってもいいので、これこそ真の神の愛であり、仏の慈悲でなくて何であろう。

この意味において難行苦行は邪道であり、歓喜溢るる天国的生活こそ真に救われたのである。これが世界全体に拡充するとしたら、ここに地上天国は如実に出現するのであって、以上のごとく本教のモットーである天国世界の第一歩はまず家庭からであり、そのような家庭が日に月に増えるとしたら、やがては世界全体が天国化するのは知れたことである。

以上の真相が分かったとしたら、いかなる人でも本教を証歌し、絶讃し、直ちに入信しなければならないはずだが、何といってもある種の小乗宗教や無神思想の観念に煩わされているので、かえって疑念を起こしたり誤解したりするので、それだけ幸福を延ばしているわけである。しかしながら本教の真相が必ず分かる日の来るのは間違いないから、私はその時を待つとともに、いまは神命のまま日夜奮励努力しているのである。

カルト宗教とは、明主様が仰る「変態的人間」が、その「変態的信仰」を信者に押しつけるところから始まるものとも考えられます。

このような変態的信仰に、金銭搾取が絡み、家族や会社を犠牲にさせるものがカルト宗教であるといえます。また、そういう極限的な信仰にこそ喜びを感じる変態的人間の素質を持った者が世間に多く存在しており、そういう者たちがカルト宗教と波長が合ったというのも事実といえるでしょう。こうなるのは、国家社会が人々に普通の幸福感や将来への安心感を全く与えられていなかったところにも原因があるように思います。

世間一般で言う「カルト宗教が行うマインドコントロール」とは、そういう「変態的人間の種」たちに、

『「変態的信仰」に基づく「変態的幸福」こそが真の幸福であり、世間一般で言う幸福などは愚にもつかないものなのだ。また、その真の幸福(実はただの変態的幸福)はこの宗教でしか得られず、世間の人には体験できないものなのだ。』

といつの間にか思いこませることを指していると思います。多くのカルト宗教は通常の幸福観を否定し、独自的な幸福観を植え付けようとします。つまり幸福観のすり替えです。しかし明主様は、あくまで世間一般で言う幸福観を基礎として思想をお説きになっておられました。

このように岡田茂吉思想では、世間的幸福観を基本に論理を展開しており、その思想を忠実に具現化していれば、宗教活動がカルト化(変態化)するはずなどないものでありました。

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