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非カルト宗教モデルとしての岡田茂吉思想(2)

(前ページはこちら→[非カルト宗教モデルとしての岡田茂吉思想(1)] )

カルトの基準と岡田茂吉思想

カルト宗教の基準を判断する例として、ここではキリスト教の牧師である長田栄一氏のHPに記されたものを参考にしたいと思います。(誰その人?て感じですが、適当に検索したら出てきた人です。)

参考:長田牧師のホームページ「カルトセミナー」

牧師の基準によると、カルトの基準は以下の15項目であり、 この項目の多くに該当するなら「カルト宗教」である危険性が高いとしています。

@ 真理はその組織に占有されており,その組織を通してのみ知ることができると主張する。
A 組織を通して与えられた情報や考え方に対しては,疑ってはならない。
B 自分の頭で考えることをしないように指導する。
C 世界を組織と外部とに二分する世界観を持っている。
D 白黒を常にはっきりさせる傾向がある。
E 外部情報に強い警戒感を与え,信者の情報経路にさまざまな制限を加える。
F 信者に対して偏った情報,偽りの情報を提供することがしばしばある。
G 組織から離脱した人間からの情報に接することを禁じている。
H 家庭や社会との関わりで多くのトラブルを生じている。
I 社会からの迫害意識を持ち,それをかえってバネにする。
J 外部に対して正体を隠す傾向がある。
K 生活が細部にわたって規定されている。
L 組織が信者の生活のすべてになっている。
M 組織内部でのみ通用する言葉を多く持っている。
N 組織からの離脱について極度の恐怖心を与える。

これに基づき、岡田茂吉思想を並べて考えていきたいと思います。


懐疑を推奨する

A 組織を通して与えられた情報や考え方に対しては,疑ってはならない。

B 自分の頭で考えることをしないように指導する。

   懐疑

 懐疑とは一寸聞くと、どうも面白くない響きがするが、実をいうとこれ程尊いものはない。全く懐疑とは文明の母と言ってもよかろう。新しい哲学も、論理も、科学も、これから生まれると言っても間違いはあるまい。支那の碩学朱子の言われた「疑いは信の初めなり」との言葉は、実に千古の名言である。

(中略)

 しかし懐疑そのものだけでは何等意味をなさないが、これによって誰でもこの謎を解こうとする意欲が起るであろう。それが尊いのである。何となればこれによって真理を掴み、智識は進み向上されるからである。従って懐疑の起る人ほど進歩的で、将来性ある人と言わねばならない。処が運の悪い人は懐疑が起きても真理を教える処か見つからないので、一生涯迷路を辿り、懐疑は懐疑を生んだままで終ってしまうので、そういう者が殆んどである。中には本教が説く真理を鼻の先で笑って、雲煙過眼してしまう人もあろうが、こういう人はよくよく不幸な人である。

 現在、本教に入信し救われ歓喜に浸っている人も、嘗ての懐疑者であったことを思えば、懐疑ほど結構なものはないであろう。

 従って、人間は懐疑を起す位の人でなくては駄目だと共に、一歩進んで懐疑を暴くという勇気も必要である意味も分ったであろう。嗚呼、懐疑なる哉懐疑なる哉である。

 (昭和二十六年三月二十一日)

岡田茂吉思想では、懐疑の重要性を説き、それを解決しようとする働きこそが人間の進歩性であると説いています。ですから、信者が教えられたことに懐疑をもち、自分で考え、独自的な結論を出すことを、戒めているどころか推奨しているくらいのものでした。そういえば秀明会でも「自分の頭で考えるな」なんてことを言っていたと思います。誰の頭で考えろと言うのでしょう?


信仰自由主義

@ 真理はその組織に占有されており,その組織を通してのみ知ることができると主張する。

E 外部情報に強い警戒感を与え,信者の情報経路にさまざまな制限を加える。

G 組織から離脱した人間からの情報に接することを禁じている。

N 組織からの離脱について極度の恐怖心を与える。

  自由なる信仰

私は宗教に就いての自由を言いたいのである。それは、信者の意志を制約して教団の都合を図ることで、これこそ以ての外である。然もその手段として用いるのが言葉の脅迫であるから、ここに至っては最早赦すべからざる信仰的脅迫である。その一例として私はこういうことを聞かされたことがある。自分は随分長い間熱心に信仰して来たが、年中病人は絶えず、貧乏の苦しみからも脱けられないので、段々信仰が嫌になったので、脱けようとすると、その布教師は恐ろしいことを言うので、どうしていいか判らないで迷っているといって相談をかけられたので、私はそういう宗教は無論邪教だから、一日も早く止めなさいと言ってやった。しかしこういう宗教も世間中々多いようである。

(中略)

 ところで一番困るのは、自分の信じている宗教が最高のものと思い込んで、熱烈な信仰を捧げている人の多いことである。しかしこれは本当にそう思っているのだから、精神では救われているから、御本人だけは満足しているが、それは本当ではない。何故ならば物質面も救われ、霊体揃えて天国的生活者にならなければ、真の幸福ではないからである。ところがそのことを知らない盲信者が多いとみえて、一生懸命信仰をしながら、不幸から解放されない人も随分多いようである。右に就いて今一つ注意したいことがある。それは他の宗教に触るるのを恐れる理由は、その宗教より以上の宗教があるかも知れないとの懸念の為であろう。というのは、その宗教に弱点があるからで、大いに注意すべきである。

 そうして自画自賛で言い辛いが、我が救世教に限ってその点実に自由である。これは信者はよく知っているが、他のどんな宗教にでも大いに触れるべしといっている。勿論研究も結構で、それだけ見聞が拡まるからである。その結果もし救世教以上のものがあったとしたら、いつ転向しても差支えない。決して罪とはならないからで、本当の神様ならその人が救われ、幸福になりさえすればそれでいいのである。

                          (昭和二十七年十月八日)

  転向者の悩みに応う

本教においては他信仰に触れることはいささかも尤めない。絶対自由である。例えば本教信者であって他の宗教を研究しても何ら差し支えないのみならず、万一本教よりも優れたる宗教があれば、それに転向することも自由である。とともに、いったん他宗教に転向した者が、再び本教に戻ることあるも、これまた差し支えないのである。

元来信仰というものは、人間の魂の底からおのずから湧き出で、止むに止まれず信仰する態度こそ本当のものである。しかるに転向そのものを罪悪のごとく教えられ、それに従わねばならぬことは、まったく一種の脅迫によって信仰を持続させようとするのであるから、自由意識を圧迫し、自己欺隔(ぎまん)である。このような信仰こそ神の御旨に適うはずはないのである。真の信仰とは、あくまで自湧的で、何ら拘束のないことを忘れてはならないので本教が大乗を主とする所以もここにあるのである

(昭和二十四年十月二十日)

戒律については後述しますが、明主様は他宗教に触れることを禁じるのは自分の宗教の力が弱いこと、自分の宗教の力に自信が無いからであると喝破しています。秀明会では、世界救世教や真光の浄霊を受けたり、信者に浄霊をしたりするとおひかりがお詫びになると言っていましたが、今思うとこれも相当「弱い」部類に入っています。

明主様が他宗教に触れることを禁止するどころか推奨していたのは、他に触れることで結局明主様のお道の優秀性を再認識できるから、という自信の現れであったということでもありました。よき信仰とは奇跡が起こり偉大な救いが展開されているということと、信者が生き生きと自由に生活を楽しみ、幸福を謳歌しているかということ、両方を満たす必要があります。もちろんここでいう幸福とは、「変態的信仰者」が好む「変態的幸福」ではなく、世間一般の人が思い描く常識的な幸福感のことです。

参考:み教え:邪神がいるところには。


社会との和合

C 世界を組織と外部とに二分する世界観を持っている。

D 白黒を常にはっきりさせる傾向がある。

H 家庭や社会との関わりで多くのトラブルを生じている。

  常識

   抑々、真の信仰とは言語行動が常識に外れない事を主眼としなければならない。世間よくある神懸り式や、奇怪な言説、奇矯なる行動等を標榜する信仰はまず警戒を要すべきである。ところが多くの人はそういう信仰を却って有難く思う傾向があるが、これらは霊的知識のないためで無理もないが、心すべきである。また自己の団体以外の人々と親しめないというような独善的信仰も不可である。真の信仰とは世界人類を救うのが宗教の使命と信じ、自己の集団のみにこだわらず、排他的行動をとらないようにするのが本当である。ちょうど一国の利益のみを考え他国の利益を無視する結果、惨憺たる敗戦の苦杯を嘗める事になった終戦前の日本を鑑みれば分るであろう。

(昭和23年9月5日)

 「文明の創造」善と悪発生とキリスト教

 次に私は前から言っている事だが、観音力の働きもそれであって、即ち経にも非ず緯にも非ずといって経でもあり緯でもあり何れにも偏らず、応変自在であるから千変万化・自由無碍というのも此意味である。此理によって、人間の心のあり方もそうなくてはならない。即ち心は常に原則として経緯結びの中心に置くべきで、之を一言にしていえば常識である。本教が特に常識を重んずるのはそういう譯なのである。處が世間常識人は洵に平凡に見らるるもので、反って偏る人の方が偉く見えるものであるから此点大いに注意すべきである。事実此偏在精神の持主が偉く見ゆるのは大抵一時的であって大成は出来ない。何時かは必ず失敗する事は歴史がよく示している。

大乗たれ

 今一つ言いたい事は、小乗信仰の人に限って、他人の善悪を決めたがる。これも私は常にいう事だが、人の善悪を云々するのは飛んでもない間違いで、人間の善悪は神様以外分るものではないのだから、人間の分際で善とか悪とかいうのは僣上の沙汰で、如何に神様を冒涜する事になるか分らないので、これ程大きなご無礼はない訳である。何よりもこういう人に限って独善的で鼻が高く、人徳がないから発展しないばかりか、時には碌でもない問題を起し勝ちである。

(中略)

 別言すれば、愛にも神の愛と人間の愛とがある。即ち神の愛は大乗愛であるから、無限に全人類を愛するが、人間愛は小乗愛であるから、自己愛や自分の仲間、自己の民族だけを愛するという限定的であるから結論は悪になる。この意味が分ったとしたら信者たるものは何事に対しても、大乗でゆかなければならない訳で、即ち神の愛をしっかり胸に畳んでお取次する事で必ず好結果を齎すに決っている。故にどこまでも神の御心を心とし、無差別的愛で臨む以上誰しも快く接する事が出来、喜んで人が集まって来るのは当然であり、発展するのは間違いない事を、最近感じたままここに書いた次第である。

                       (昭和26年11月25日)

明主様は、「本教は経緯を結ぶ働きをし、その経緯結んだ働き(伊都能売)を具現化したものが常識である」と仰いました。この理論は、非常に様々な展開をすることが出来るのですが、ここではカルト宗教の話題に特化すると、カルト宗教というのは必ず物事を善悪に振り分け、決めたがります。そしてその善悪論に基づき全てをマニュアル化したがるのです。このマニュアルというものがカルト宗教の独善的な基準に基づくものであり、常識も結果も見ておらず、信者に常軌を逸脱させます。

しかし岡田茂吉思想では、常識を基準とし、結果を重視します。大乗であり自由無碍を旨としますので過剰なマニュアル化はありません。常識を重んじるので社会との対立を望まず、むしろ他との和合協力をしようと考えます。

明主様の美術品収集は、日本の貴重な美術品が戦後の財閥の経済破綻で海外に流出するのをくい止める役目も果たした、と仰いました。現在東方之光が行っている瑞泉郷構想も、地域に憩いと癒しの場を提供しようとする試みで、これが地域に受け入れられ、地元の未信者や地方自治体などから建設の協力も得ることが出来ているという事実があります。

和合ということについて。世界救世教は大量の分派を生み出しましたが、その分派の多くが、現在に於いて、本流である世界救世教と少しずつ和合し、協力体制を結ぼうとする方向にあることも、岡田茂吉思想の根底に他との和合の精神があるからだと思います。(神慈秀明会や天聖真美会は除く)


戒律は不要

A 組織を通して与えられた情報や考え方に対しては,疑ってはならない。
G 組織から離脱した人間からの情報に接することを禁じている。
K 生活が細部にわたって規定されている。
L 組織が信者の生活のすべてになっている。

  信仰と戒律

 政治にも封建的と自由主義的とあるが、宗教も同様である。今日までの既成宗教は封建的が大部分を占めていた。その現われとして、何をすべからずとか、何をすべしとかいう戒律が多かった。これらは何れも封建的であって、小乗的である。それに引替え本教には殆んど戒律がない。実に自由主義的である。

 宗教における戒律は社会における法規と同様であって、人間は法規の力で不正を支えているということは本当ではない。本当に立派な人間になれば、どんな所に放り出しておいても取締法規がなくとも、悪は行えないというのが真の人間である。

 この理によって、戒律とは所謂宗教の法規である。したがって戒律によらなければ正しい信仰的行いが出来ないということは、本当の信仰ではないということになる。とはいうものの人類が野蛮未開の時代は人間の智能が低いので、宗教を真に理解し得ないので、どうしても戒律によって悪を制御しなければならないからである。

 以上によってみても明らかなるが如く、高度の文化時代の宗教は、真に神意を理解し得らるる人間にまで進歩したとしたら、戒律という刑罰は必要がないので、そういう宗教こそ恒久平和の地上天国を造り得る資格ありというべきである。

(昭和24年12月17日)

神慈秀明会には明文化された戒律はありませんでしたが(秀勉を戒律と呼んでいたことはあった)、してはいけないこと、しなくてはいけないことが多く、心が縛られていました。これは戒律以外の何者でもありません。戒律が無かったのではなく、そういう物を戒律と呼んでいなかっただけです。そう考えると、神慈秀明会には実に沢山の戒律がありました。

明主様は、戒律は不要であり、現代的ではないと仰いました。また、○○をしなくてはいけない。××に行くとヤラレル。これは心の枷であり、結果、恐怖が生まれ、心に地獄を作るものでもあります。神慈秀明会の信者をみていて、もっともかわいそうに思うのが、この、知らず知らずはめられている心の枷のため、常に心の中に恐怖、心配、焦りなどを持っていることです。私は、心に地獄を作ってはいけないというみ教えを頂き、それらをすべて捨て、自由主義に徹することでずいぶんと気が楽になりました。間違いを恐れてなにも出来ない不自由な自分でいるより、まず何をしても良い自由な自分であるという大前提を元に、間違っている部分に気づいたら順番に直せるところから一つづつ直していくようにすれば実に気楽に生きられます。戒律がないから心に地獄を作らずに済む。この点は味わうべき所でしょう。


正直主義

F 信者に対して偏った情報,偽りの情報を提供することがしばしばある。

J 外部に対して正体を隠す傾向がある。

  正直と嘘

 正直にする方がいいか嘘をつく方がいいかといえば、正直にする方がいいということは余りにも明らかである。併しながら世の中のことはそう単純ではないから、正直でなければならない場合もあり、嘘をつかねばならない場合もある。この区別の判り得る人が偉いとか利巧とかいう訳になるのである。然らばその判断はどうすればよいかというと、私はこう思うのである。先ず原則としては出来るだけ正直にするということであるが、併しどうしても正直に出来得ない場合、例えていえば病人に接したとき“あなたは影が薄いから、そう長くはあるまい”などと思っても、それは反対に嘘をつく方がよいので、否嘘をつかない訳にはゆかないであろう。処が世間には苦労人などと言われる人で、案外嘘をつきたがる人がある。そうしてつくづく世の中のことを見ると、嘘で失敗する場合は非常に多いが、正直で失敗するということは滅多にないものである。

(昭和二十四年八月三十日)

岡田茂吉思想の基本は正直主義ですので、ほとんどの場合は正直にものごとを運びます。しかし上記のように、正直にしたら大変なことになる場合は嘘をつくのがよい場合がまれにあるという事も説かれます。ここにも「決めないこと」「結果を見る」「常識」という考え方が発現されています。

 神は正なり

私が常にいう通り、正しい信仰とは大乗的で、自由主義的であるから、信仰の持続も離脱も自由であると共に、天国的で明朗快活である。処が反対に秋霜烈日の如き厳しい戒律信仰は邪教であり、信仰地獄である。特に注意すべきは、これは人に言ってはいけないなどというような、聊かでも秘密があれば邪神と思っていい。正しい信仰は何等秘密がなく明朗そのものである。

(昭和二十五年三月十八日)

また、ここで、正しい宗教は秘密を持たないと明言してしまっていますので、教団が秘密主義になることは出来ません。「大乗」「自由主義」「戒律無し」「正直主義」は、全て「天国的」「明朗快活」というものの具現化であるということです。


その他

I 社会からの迫害意識を持ち,それをかえってバネにする。

M 組織内部でのみ通用する言葉を多く持っている。

これはよく分かりません。宗教というのはいわば考え方の提案ですので、その考え方に名前を付けた物は必然的に組織内部でのみ通用する言葉となるのは当然ですし、迫害があった場合沈み込むよりはもっとがんばろうと考えるほうがポジティブだと思います。たぶんこの二つは、牧師が本当に言いたいことを説明し尽くせていないのではないかと思います。

なお救世教では、考え方の提案=組織内でのみ通用している言葉(浄霊、自然農法。ひいては薬毒、夜昼転換論。伊都能売思想)をできるだけ世に出そうとしておりますし、迫害意識というものがどういうものか不明ですが、岡田茂吉思想では「世の中の間違いを正す宗教なので当然迫害があるが、時と共に夜昼転換が進み迫害が減る」ということになっており、確かに昔に比べて現代は、薬が毒であるという考え方がヒステリックに迫害される時代ではないと思います。


まとめ

ここまでで、岡田茂吉思想を正しく踏襲するならカルト宗教になりえないという主張をある程度列記してきましたが、とても全てを記すことなど出来るものではありません。そもそも私ごときが、岡田茂吉思想を適切に紹介できているかどうかが心配です。また、今回はカルト問題に関係有る部分のみを理想論的に抜粋していますが、実際の現場ではいつも理想的(というか予想通り)に行くとは限らず、いろいろなことが有るはずです。

み教えについて、もしこれ以上の内容に興味がある方は、世界救世教から、み教え集である「天国の礎」を入手して読まれることをおすすめします。「天国の礎」は、いづのめ教団と東方之光と両方から発行されており、題名は同じですが別の物です。いづのめ教団版の方は6冊組であり、東方版よりもみ教えの量がずっと多くなっています。東方之光版は1冊で、携帯しやすい大きさです。なお、東方之光版の「天国の礎」の全文は、以下のリンクでも公開されています。

参考リンク

東方之光版 「天国の礎」

もきちねっと:神慈秀明会、旧体制への疑問

世界救世教の岡田茂吉思想具現度

さて、岡田茂吉思想を正しく具現化すれば、カルト宗教などには縁遠いものになるという主張は理解していただけたかと思いますが、では現在の世界救世教では、これがどれほど具現化されているか、という問題があります。

これも全くの私見ですが、私の感じとしては、だいたい7割くらいの具現化であると思います。

まず奇跡という面について。岡田茂吉思想の大前提は、絶対的な神力の発現があり、偉大な救済力の存在が必要条件になっています。世界救世教の浄霊による奇跡は実になかなかのものがあり、奇跡が多いとされた秀明の信者の目から見ても驚くほどなのですが、それでも残念ながら、全ての人に癒しと救いを与えているか、明主様が仰ったほどの浄霊の奇跡が発現されているかと考えますと、まだ少し足りないと思います。私はこの原因を、いづのめ教団と東方之光、主之光教団とで別れているため、智慧と力が分散されているからであると思っています(宗教的な浄霊のみをする団体は治療的な浄霊を行わず、治療的な浄霊をする団体は、宗教的な浄霊を行わないため、問題解決に得意不得意が出ている)。

近い将来、救世教三団体が和合し、一つの団体として活動できるようになったとき、明主様が御論文に書かれた絶対的救いが今度こそ実現するのだろうと期待しています。

もう一つ、信者が夜の世界の宗教観を逸脱し、昼の世界の宗教観を体得しているかということ。これについては、そういうものを体得している方も多いと思うのですが、そうでない方もおられるようです。たとえば他の宗教から浄霊の奇跡に魅力を感じて移ってきた人などで、み教えの拝読が足りない人に、「私は他の宗教をやっていたのだから、宗教なんてのはだいたいこんな感じだと分かるんだ」と思い込んでいる人など、み教えが理解できず、夜の宗教のやり方を今だに踏襲している方がおられるようです。

変態的信仰者とまでは言いませんが、そういう方の姿を見て、岡田茂吉思想といってもこの程度の物だ。所詮他の宗教と同じだ、と思われてしまう話を時々聞くことがあり、それはとても残念なことです。

故に吾等が今現に行いつつある仕事は、実を言えば宗教とは言えない。何となれば宗教と言えば、兎角既成宗教を連想し勝ちであるからで、本教の実態を把握しようとする場合、むしろ邪魔にさえなる。即ち本当を言えば、前例のない大なる救いの業である。世界の大転換期に当たって、此の大きな救いが出なければ人類の危機を免れることは困難であるからである。

(事実は雄弁なり)

明主様が「本教は超宗教である」とおっしゃったのは、単に奇跡の威力を指したのではなく、昼の宗教観と既成宗教との違いさについて仰ったのだということです。つまり夜の宗教観から逸脱できていない人は、信者と雖も、岡田茂吉思想のどこが超宗教なのかを理解する事が出来ないということです。

昼の宗教観を体得し、自然に行えるようになるのはなかなか難しいと思うのですが、最低限、岡田茂吉思想による昼の宗教観と、それと正反対の夜の宗教観の存在だけは認識し、自分がどちらであるかを常に意識しておくようにしましょう。

そして神慈秀明会の場合

まず、上記15項目の多くは、旧体制の神慈秀明会に当てはまっていると思います。

明主様のみ教えを学び、思ったことは、神慈秀明会での学びは残念ながら全て夜の世界の宗教観に基づくものであり、み教えと正反対だったということです。飛天で、会主様は若い頃にキリスト教の精神を学ばれ、学生時代に、「オヤハコノタメニシネ(*)」でおなじみの高倉徳太郎氏から聖書の講義を受けられたと書いてあります。会主様の基本はキリスト教に基づく夜の宗教観であり、それは明主様のみ弟子となられても変わることが出来なかったのだと思います。

(*)注:高倉氏が東大在学中、キリスト教に目覚め、学業を放棄して神学校に入る決意をし、それを故郷の両親に訴えたところ、両親は驚いてとうとう「オヤヲコロスカ」と電報を打った。『然し高倉氏の信仰は泣き落としや脅迫に負けなかったのです(飛天P108 上段)』すぐに返電を打った。「オヤハコノタメニシネ(親はこの為に死ね、または、親は子のために死ね)」 『何という素晴らしい信仰への情熱でしょう(飛天P108 下段)』 秀明会信者はみな、これを読んで、オヤハコノタメニシネと言うのが素晴らしい信仰だと思い込んだ。飛天には『この言葉の出てくる魂の問題をおろそかにして、言葉だけを振り回さないことです』と一応フォローしているが、実際には言葉だけが先走った。

私たち秀明信者が、旧体制時代(カルト時代)の信仰を思い返し、あれだけの被害者を出し、あれほどひどい目にあったのに、それをどこか悪く思えない理由の一つは、あの会主様のたぎりたつ神様への思い、その薫陶を受けて立ち上がった多くの同士の人救いへの熱情があるからで、旧体制を否定することは、これらの純粋な情熱も否定してしまうことであるからなのでしょう。

神様を慕い、奇跡で人が救える浄霊に情熱を燃やすことは善の心以外の何者でもありません。あのときの情熱には曇り一つ無く、それは純真な正義感と信仰心、神様との恋愛そのものであったと思います。しかし、その表現の仕方が悪く、夜の世界の宗教観に基づくものである上、極端であったため、秀明会は誤った道(=カルト宗教モデル)を歩んだのでしょう。

今回書いたとおり、明主様は、昼の世界においては情熱の表現の仕方は夜の世界の時代とは全く異なっているのだということを、昭和10年からみ教え下さっていたというわけです。21世紀を迎えた今日。私たちが頂いた会主様の薫陶を、昼の時代にふさわしい、どのような形で表現していくべきかを、み教えをひもとき、考えてみては如何でしょうか。

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