浄霊とプラシーボ効果 (本編)

(2004/02/14)

今回、浄霊とプラシーボ効果という題名でページを書いてみようと思いたちました。

プラシーボ効果といいますと、私が秀明会で駅前布教などをしていたときに使っていた言葉を思い出します。神慈秀明会が旧体制の時、私達が未信者に浄霊の奇跡をデモンストレーションすると、「それはプラシーボ効果にすぎない!」などとよく言われたものです。そんなとき私は、こう言う事に決めていました。

「そうですねえ。でも、もしプラシーボ効果で、この浄霊のように短期間で癌が消滅するようなことがあったとしたなら、それはそれでノーベル賞レベルの大変な発見になると思うんですよ。」

当時としては、これはちょっとした言葉遊びだったのですが、つまり「浄霊は奇蹟ではなくてプラシーボ効果だ」と言う人に対し、「たかがプラシーボ効果ごときでこれほどの治病力を発揮するなら、それが奇蹟だ」と言いたかったわけです。

このページでは、「プラシーボ効果」というものを題材に、筆者の考える浄霊と医学との関係について書いてみたいと思います。「医学と浄霊の関係」とは、なんという壮大なテーマでしょう!。そんな事が書ける岡イン筆者は、よほど医学知識に長けた人に違いない、などと思っているそこのあなた。それはとんでもない間違いです。私には医学知識など全くありません(威張)。浄霊というものをたしなむ以上、少しばかり医学や治療っぽい話に触れる機会が多かっただけの者です。

まあこれは、ある末端信者の2004年時点の妄想だと思って読んで下さい。あくまで「2004年初頭時点での筆者の私見。メモや日記の一種」であり、考え方の提案です。ただ、私も病気になれば普通に医学を選ぶか、浄霊を選ぶか、またはそれ以外の治療を検討するか、判断しなくてはいけない立場の一人として、現在の医学や浄霊に対して私見、意見をそれなりに持ち合わせている者であり、その私見をここで書いてるわけです。今後自分の認識が間違っていたら正し、新しい考え方に切り替えていくということも起こりうるわけですが、そういった心境の変化もこのサイトで報告していけば面白いんじゃないかと考えています。

なお、この本ページで「浄霊」という言葉が羅列されますが、現時点ではこれは「世界救世教の浄霊」を指します。では神慈秀明会の浄霊はどうなのかといいますと、こちらは宗教行為であるため医学者による扱いが難しいという問題がある上、み教えの医学大系と無関係な効能(治る道理が実施者自体にも不明)であり、そもそも体験的にあまり効かないので、代替医療にはなりえないと思い、ここでは対象外です。神慈秀明会の浄霊も、医療として有効な物と認められる日がくれば良いのですが・・・

いわゆるプラシーボ効果に関するみ教え

以下のみ教えは、観念で病気が治るということ、いわゆるプラシーボ効果に関係することを説かれた記述として天国の礎にあるものの一部です。明主様はご立教の昭和10年当時(プラシーボ効果などという言葉もない頃)から、観念の力が病気を治す可能性があることについてよく了解しておられ、浄霊はそういった暗示的治療とは異なるということについて、いくつかのみ教えや、観念の入り込む余地のない治病の実例なども示されて繰り返しお説きになっておられました。

医療と観念

天国の礎 浄霊編 下巻 P86 「明日の医術」 S11/05/15

現在、療病について、非常に誤られている、重大事がある。それは、信仰を土台とする療法や、医者でない医者、すなわち、民間療法で病気が治るということは、観念と精神力が、大いに手伝うからである、というのである。しかもそれは、医家の方面から発する言葉である。

私は、これは、むしろ反対であると思うのである。なぜなれば、一般人は、病気は医療によって治るべきものと、絶対信じていることである。医療信仰の徹底は実に驚くべきほどであって、吾々は日常幾多の事実に、触れて感心しているのである。その証左として、医療以外の療法で治癒さるる場合、奇蹟というにみても瞭かである。故に患者が、治療を受ける場合医療の方ならば、必ず治癒されるという、絶対観念を持って臨むことである。にもかかわらず、治癒されないとすれば、科学力と観念力百パーセントであるべき医術、そのものの効果が顕れないのであるから、まことに不可解である。

その反対の例を挙げてみよう。吾々に来る患者は、最初は例外なく疑いを持って来るのである。それら多くの患者の想念は、治ると思って来るよりも、医療その他、あらゆる方法でも治癒されない結果、たまたま、奨められるまま、行く所がないからと言うて、藁を掴む心理で来るのである。いわば、一種の僥倖を期待する程度で、投機的心理のようなものである。

一例として、こういうことが、少なからずある。それは自分はいままで、あらゆる療法を試みたがどれも治らない。したがって、どんなに治る話を聞いても、信じられないから、料金は治ってからにしてもらいたいと、こういうのである。この一事によって察ても、患者の心理状態は想像され得るのである。故に、必ず治るべきもの、との観念は医療を受ける場合の方が、どれほど強烈であるかはいうまでもないのである。

前述のごとく、方法も観念も絶対有利であるべき医療で治癒されないで、最も不利であるべき地位に置かれてある、吾々の方に、治病実績が上るとすれば大いに考えざるを得ないであろう。

※ 本題とずれますが、「医学界の常識で治らない物が医学以外の方法で治った場合、それを医学界では奇蹟という」というお考えが面白いですね。浄霊者は病気が治る理屈を持っており、その理屈通りの現象が起こっているのだから病気が治ってもそれは奇蹟ではなく、伝統的西洋医学の立場ではそれが奇蹟に見えるだけだということです。つまり「これは奇蹟だ!」というのは浄霊者が言う言葉ではなく医者が言う言葉だということです。確かに世界救世教の二世三世信者は、浄霊で病気が治るのは当たり前という常識になっています。

医学と浄霊

天国の礎 浄霊 下巻 P148 S27/02/06

本教が在来の宗教とは、根本的に違うことを常に私は筆で書き、口で解説しているので、信者としてもその意味を、絶えず世間へ宣伝しているであろうが、なにしろ世の中は広いから一般に知れ渡るのは容易なことではない。しかも智識人に至っては、殊に信じようとしない。彼らは宗教とさえいえば、十把一からげに見る癖があり、本教を目する場合も、右の観念が邪魔をして、真相など分かるはずはないのである。

ではどの点が異なっているかというと、世間でも知っている通り、本教が最も力を入れているのが病気治しである。これに対し一般はどういう解釈をしているかというと、こうであろう。どうせ信仰的に治すのだから、まず病人に向かって暗示を与える。貴方の病気は医者や薬では治らない。神様にお願いすればきっと治る。元々病気は罪穢れのためであるから、私は貴方に代わって神様にお詫びをしてあげるから大丈夫ですと言われるので、迷える仔羊は丸呑みにして有り難がり信じてしまう。という精神作用の働きによって治るのだから、ある種の病気に限る。例えば精神的疾患である神経衰弱とか、または外部的疾患である神経痛、リュウマチのごときものや、首肩の凝り等、ちょうどマッサージか按摩療法的に思っている。

だから肺、心臓、胃腸病のごとき、内臓の病気は駄目だから、こういう本格的病気は、進歩した現代医学に頼るよりほかないとしている。まずこれが一般人の考え方であろう。

ところが吾々からみると、これが大変な誤りでむしろ反対である。それを詳しく書いてみるが、本教の治病方法は勿論浄霊であるが、これは患者の身体には全然触れず、数尺離れてただ掌を窮すだけなので、これを見たら誰もは、こんなことで病気が治って堪るものか、人を馬鹿にするにも程がある。まったく迷信に違いないと決めてしまうのである。ところがこれで重難病がドシドシ治るのだから、実に摩訶不思議だ。事実治病効果は医学の一に対し、浄霊の方は百といっても過言ではあるまい。しかも医学の方はヤレ外科とか、内科、脳神経科、婦人科、小児科等々、それぞれ専門に分かれているに反し、吾々の方は精神的疾患でも、機質的疾患でも、病気と名のつく病気はことごとく浄霊一本で治してしまう。

そうして今日一般の人は、病気に罹るや信者は別だが、初めから吾々の方へ来る者は一人もあるまい。まずお医者に行くのが常識である。ところが少し拗れるとなかなか思うように治らないので、、医者を取り替えたり、博士や大病院へ行ったりする。それでも治らない結果、迷いに迷って民間療法や在来の神信心と来るのがご定法である。それでも治らないばかりか、だんだん悪くなる一方なので、どうしていいか分からなくなり、文字通り進退きわまってしまう。

その結果藁でも掴みたい心境になったとき、たまたま本教の話を聞くが、いままでいろいろな信仰に懲りているし、おまけに新聞雑誌などのデマやインチキ宗教に引っ掛かるな、などの注意が頭にコビリついているので、一時は躊躇するが、熱心な勧めと堪えられぬ病苦とで意を決し、ともかく試してみようと思い、疑い疑い来る人がほとんどである。

そこでいよいよ来て見ると、これはこれはなるほど看板は、世界メシヤ教何々支部、何々分所などと大きな名前が出ているが、家はとみれば精々サラリーマン程度の、ちょっとした住宅なのでガッカリする。といってせっかく訪ねて来て帰るのも残念だと、思い切って小さな門から格子戸を潜ると、これはまた二度ガッカリ、精々二間か三間くらいの古ぼけた部屋で、先生はと見れば玄関子兼帯と来ている。

そこでお指図通り煎餅蒲団へ座り、ここでヤット先生のお顔を拝見に及ぶとこれまた風采の上がらぬこと霧しい。なにしろサラリーマン、小商人、農民や工員上がりなどの人が多いので、その言葉も智識人らしからず、その上いままで聴いたこともないような突飛なことをいう。薬は毒だ、医者が病気を作るなどのご託宣と来るので、唖然としてしまい、何が何だか分からなくなる。そこでいよいよご浄霊となると、先生は機械らしいものは何にも用いず、ただ空間に手を窮すだけである。

これを見た患者はなにしろ子供のときから、病気は薬と機械で治すものと教育されており、空間は空気だけで、何もないと思っているから、空中へ掌が浮かんだだけで、相手の難病が治るなどとはあまりに超科学で、まるで狐に撮まれたようだ、というわけで精神的影響など薬にしたくもない。むしろ逆に疑いが増すばかりである。

それに引き換え医学の方はどうであろうかを書いてみるが、なにしろ先進文明国始め、日本においても国家的に医学を援助奨励し、大学教育までが医学を重要視しており、全世界の科学者は何百年も前から専心、研究に研究を尽くしている結果、ますます微に入り細に渉って進歩し、発達して来たのであるから、人間は病気は医者と薬よりほか治るものはないと信じ切っている。としたら精神的にいっても、百パーセント医学の方が有利であり、しかも大病院などの、アノ大ビルかホテルのごとき豪壮建築、内部の完備せる施設、専門専門の有名な博士の名を連ねた看板、これが待合室の壁にご神体のごとく輝いており、白衣の天使は忙しそうに、街路のごとき長廊下を右往左往している。これを見ただけでどんな人でも度胆を抜かれ、なるほど医学は進歩したもんだ、これではどんな病気でも治らないことはないと、腹の底から感嘆し、信じてしまうのである。

以上は医学のすばらしさと、吾々の方の貧弱さを比べてみたのである。ところがどうだ、その治病効果たるや、最初にも書いた通り全然逆であるのは、医学で見離した病人がドシドシ治ってゆく、まったく二十世紀の奇蹟と言うよりほか言葉はない。としたらここで考えなくてはならないことは、もし医学で病気が真に治るとしたら、それで済んでしまうから、科学性もない不安な民間療法や信仰療法などに、大切な生命を委せる馬鹿はないはずである。にもかかわらず事実は医学以外の療法が相変わらず繁昌している。とくに本教のごときは浄霊の効果と、すべてが正確なので、心底から信じて安心し、医薬から離れてしまう人は、日に月に激増しつつあるのである。としたら医師諸君も、大いに考えざるを得ないであろう。そうしてこの文の要点である信仰療法は精神的影響などは、全然ないという一事を知らせたいのである。

プラシーボ効果は、むしろ伝統的西洋医学においてこそ働いているという主旨です。

当時、戦前戦後において医学的に不治の病であった結核を浄霊で治していた時代と違い、現在は医学1に対して浄霊100という状況でもないでしょうが、少なくとも浄霊の基本理論ではプラシーボ効果というものの存在ははっきり認識されており、浄霊はそうではないという意識は伝授する側もされる側も保有していたということです。少なくとも浄霊は、精神的演出に依る治療技術として伝承していこうとする意図の技術ではない事を察して頂けるかと思います。

現在の浄霊の実績においても、プラシーボ効果が無関係である実験や体験の情報は求めれば得ることが出来るでしょう。

明主様御在世当時の体験談

これは明主様の思い出集「景仰」に掲載されている思い出話のうち、「浄霊はプラシーボ効果に関係ない」という話題に関係ありそうな内容です。

「術」ではなかった

昭和二十三年の五月でした。観山亭の上の流れの工事をやっていた時、「おひかり」の紐がきれてしまったので、「おひかり」をかけずにおりました。そんなある日、畑に陽が当たらないので、自宅の庭の杉の大木の枝切りをしていました。鋸(のこぎり)を腰に差して、登って行ったのです。ところが、手でつかまっていた枝が折れて、私は十何メートルも下に落ちたのです。そして腰を強く、下の根っこにぶっつけて、動けなくなりました。

助けを呼ぼうにも声が出ません。数回呼んで、やっと家内が飛んで来ました。すぐに信者の接骨医が来て治療してくれたけれど、鋸の柄が、腰にめり込んでしまったくらい強く腰を打ったので、動くことが出来ません。咳をしても痛くてたまらず、毎日、金太郎飴ばかりしゃぶって寝ていました。

その時、明主様からお見舞金をいただきましたが、治っても仕事は到底出来ないと思い、辞職する考えでいました。十五日目に、ようやくすわれるようになり、十六日目に、杖にすがってお礼に伺いました。十七日目に、神山荘の橋のところで明主様をお待ちしていて、ちょうど、そこへ出て来られ、明主様に浄霊をお願いしたのです。

明主様は『よし、おまえの腰が曲がるようにしてやろう』とおっしゃり、浄霊はニメートルぐらい離れて一分ぐらいでした。そして、『どうだ曲がるだろう。曲げてみなさい』と言われるのです。私はこわごわ曲げてみました。不思議に曲がるんです。明主様は『まだ曲がる』とおっしゃいます。私は、もう少し曲げてみます。よく曲がるじゃありませんか。

その日、私は家へ帰って、"これは何かの術にちがいない"と思いました。術が切れれば、また腰は曲がらなくなるだろうと思いました。夜、目があきました。便所に行きたくなって、ふとんの上に立ってみました。腰を曲げてみました。まだ曲がります。"おかしいな、バカによく続いているな"ーそう思いました。ところが、翌日、顔を洗うのに、腰を曲げて洗うことが出来るのです。ちゃんと両手で、顔を洗えました。その時、つくづく、「これは術なんてものじゃない、明主様のお力だ」と悟りました。初めて、えらい方だと心から頭が下がりました。

明主様は『信仰はむやみに信用するだけではだめだ。浄霊で治って、初めてなるほどと悟る。その体験がおまえに信仰を教えてくれるのだ』と言われました。

(造営奉仕者)

この人は、いちおう信者でしたが、明主様の浄霊を「なにかの術で、そのうち解けて痛み出すだろう」などと考えていた人ですから、こういう人に「信頼に基づくプラシーボ効果」は働かないでしょう。ましてや「プラシーボ効果」で「怪我の痛み」が「一分の浄霊」で消えるなら、・・・ノーベル賞(笑)ですね。

「初めから強く信じている人」が→「術を受けて」→「治った」ならプラシーボ効果かもしれませんが、「あまり信じていない人」が→「浄霊を受けて」→「治り」→「びっくりして」→「だから信じる度合いが多くなる」ということが浄霊ではよく起こります。これはプラシーボ効果とは違うのではないでしょうか?

そもそもプラシーボ効果は医学で認められているのか?

プラシーボ効果とは

まずプラシーボとはどういう意味でしょうか。もともとプラシーボとは「喜ばせるもの」という意味のラテン語でした。そして医学界では昔から、患者の病気そのものを治すよりも、患者を満足させるために使われる薬を使っており、それに「喜ばせるもの=プラシーボ」と名付けたそうです。そのため現在ではプラシーボという言葉は「偽薬(にせぐすり)」の意味で使われています。患者が「気休めでも良いから薬がほしい」と願ったとき、患者を満足させるためにあたえられる、本物の薬とそっくりで薬学上何の効果もない、例えば小麦粉や糖類のようなものをプラシーボというそうです。

そんなプラシーボ(気休めの偽薬)に、「効果」とつけたプラシーボ効果とはいったいなんでしょうか。それは、本来効果のないはずのプラシーボ(気休めの偽薬)を服用した患者の症状が軽快してしまうという不思議な現象に対し、医学界では「プラシーボ効果」と名付けているにすぎません。

プラシーボ効果の研究を初めて論文にした人は誰だろうと調べましたら、その人はアメリカのヘンリー・ビーチャー博士で、1959年に『主観的反応の測定』という論文で発表しているそうです。ビーチャー博士は、鎮痛剤のプラシーボ効果を科学的に研究し、プラシーボでもモルヒネの50%近い鎮痛効果があるとの結論を導き出しました。

なるほど、プラシーボ効果とは西洋医学上では明主様(〜1955)御在世以降に明確になった概念であるようです。なお、上記の実験では決してプラシーボ効果がモルヒネの薬効を超えているのではないことに注目して下さい。

「プラシーボ効果に気をつけろ!」

では、この「プラシーボ効果とも言うべき現象が存在する事実」は、現在の医学界においてどのように活用されているのでしょうか。本を読んだりwebを検索したりして再確認し、間違いないと思うのですが、私の認識では以下の通りです。

一般に新薬を開発するときには、その新薬と、無効果な偽薬とどちらも患者に投与して効果をテストし、新薬投与に効果がみられ、偽薬に効果がみられないときにその新薬は有効であると判断されるわけです。つまり新薬開発時に、「プラシーボ効果に気をつけろ!。偽薬のほうが効いてしまったら新薬の効果が認められなくなるぞ!」と注意する、このときに使われる考え方なのだそうです。そして、プラシーボ効果を徹底的に排除した実験を経ることで、その医薬品は医薬としての働きが間違いなくあるということがはっきり立証されたものとして世に出てくるのです。すなわち、「新薬開発時において排除すべき物」がプラシーボ効果というわけで、どうもここ以外にプラシーボ効果が伝統的な西洋医学において出てくるところが無いようなのです。(余談ですが、日本の製薬会社が新薬を開発するためには数十億円もかけるそうです。開発にそれだけかけても儲かるということです。そりゃプラシーボ効果ぐらい排除しますわ。)

なお、プラシーボ効果の有無を検証しているのは医薬に関してのみらしいです。ある手術を行ってそれが効を奏したとき、それがプラシーボ効果による効果にすぎないのか、本当に手術が効果があったのか、いずれかが怪しい例があるらしく、そういった例の検証は行われていないようです。つまり西洋医学界においても、プラシーボ効果の排除はその治療の有効性を証明する絶対条件というわけではない、ということです(なんせプラシーボは「ニセ薬」の意味なので、薬剤だけに適用しているのでしょう。)。

(この私の認識が誤りであるならばメールなどでお知らせ下さい。以下はこの認識が正しいとして話を続けています)

プラシーボ効果は研究対象外

伝統的な西洋医学界では、プラシーボ効果の存在は認めつつも、それを治療のために積極的に使おうとかおおいに研究しようという風潮は無いようです。一言で言うと研究対象外、または(新薬開発時の)邪魔者ということです。研究しないのは、人間の心の問題は学問的な裏付けがとれないとか、それは心理学の分野だから知ったことではないとか、そういった論理が働いているからなのでしょう。もちろん現場の医者や看護婦などにはプラシーボ効果の存在を意識し、患者への言動に気をつける人もいるでしょうが、医学者はそういうことに無頓着なようです。実際私は、ある医学者が私の知人の病患者に対し、プラシーボ効果どころではない非常に無神経な許し難い発言をした話を聞いたことがあります。その話を聞いて、もしかしたら医学者というものはプラシーボ効果なんて信じていないんじゃないのか?と疑問を持ったのが、私がこのページを書き始めたきっかけでした。

私のこの考えを裏付けるかのように、アメリカにおいて統合医療という考え方の提唱者であり、ホリスティック医学(全体医療)の第一人者と言われているアンドルー・ワイル博士という方は、その有名な著書「人はなぜ治るのか」の中で、伝統的西洋医学がプラシーボ効果を認識しつつも排除しようとする狭い視野を批判しています。

「プラシーボによって生じる現象をなんとか排除しようとする努力は、心得ちがいも甚だしいといわなければならない。そうすることは理論的に不可能であるばかりか、実際的にも愚かしい」
「なぜなら、治療にたいする純粋な反応としてのプラシーボ反応こそ、医療のもっとも重要な果肉だからである。医師はプラシーボ反応の排除にではなく、包容にこそこころをくだき、安全で効果的な手段によって、より多くそれを生じさせる努力をするべきなのだ」

では、医学界でプラシーボ効果といえば、新薬開発の時に発生する実験に邪魔な心理現象程度の意味しかないものだとしたら、「浄霊が効いて病気が治ったって?そんなのはプラシーボ効果だよ」という、ちょっと聞くと一見いかにも医学的見地っぽい発言には、いったいどれほどの学問的価値があるのでしょう?この意見は浄霊という未知の治病効果を医学の研究対象外事項で説明し、お茶を濁しているにすぎず、実は医学的立場とは言えない、あまり学問的価値のない発言になると思うのです。はたして医学ではプラシーボ効果だけでどれくらい病気が治っているのでしょう?プラシーボ効果って薬よりも効果が高いのですか?どんな研究成果があるのですか?それと浄霊の治病実績とをくらべたらどうなのでしょう?

あ、もしかしたら、プラシーボ効果だけで何でも治るという教義の宗教がこの世のどこかにあるのかもしれませんね(笑)。浄霊の効果をプラシーボ効果だと言って何の検証もせずそれで終わりにしようとする人は、実は知らず知らずのうちにそういう宗教に入っているということになるのでしょう。まあどんな宗教を信じてもその方の自由ですが、せいぜいカルト化しないように注意して下さい。

以上、プラシーボ効果教の人にちょっと嫌みを言ってすっきりしたところで、この先は真面目にプラシーボ効果や自然治癒力について考えていきたいと思います。

代替医療、免疫力、プラシーボ効果

病気を体内の科学現象ととらえ、それを薬品という化学変化を起こす物質を体内に入れて解決しようとしたり、臓器を切除して問題箇所を排除したりつなぎ変えたりしたりする思想である伝統的西洋医学に対し、人間の身体の仕組みや精神の働き、適切な生活等、大きくは自然の仕組みを全体的にとらえて病気を解決しようとする「全体医療=ホリスティック医学」という新しい考え方が、近年(1970ごろ)西洋医学界の中で提唱されてきました。

もともと東洋医学にはこのホリスティック医学と同じような思想が根底にあったので、日本人や中国人にはこういった考え方は受け入れられやすいようですが、西洋人にとっては目新しい考え方だったようです。ホリスティック医学の実行者たちが東洋医学に興味を持っているのはそういうことなのでしょう。また、前述の、統合医療の提唱者でありホリスティック医学の第一人者といわれるアンドルー・ワイル博士はよき浄霊の理解者であり、ご自身もおひかりを拝受して浄霊を試す立場です。世界救世教の中では博士自身が浄霊を行っている記事や写真を多くみることが出来ますが、こういった事も浄霊という治療技術が博士の提唱した統合医療の思想にマッチしているからでしょう。

また、先に、「伝統的な西洋医学の立場ではプラシーボ効果はあまり価値ある物として評価されていないのでは」と書きましたが、逆に統合医療のような立場の下ではプラシーボ効果は非常に重要な要素となっています。「浄霊なんか効いていない。それはプラシーボ効果にすぎない」と、プラシーボ効果に対し「信仰的」なまでの信頼を持つ人は、そういう発想がそもそも伝統的(科学的)西洋医学によるものではなく、ホリスティック医学のような柔軟で新しい医学思想の影響であることを知らねばなりません。「プラシーボ効果は医学で認められている!医学的見地に基づき沢山の検証実験だって行われている!」と言っても、そこでいう医学とはあくまでホリスティック医学のような新しい医学思想であり、伝統的西洋医学ではプラシーボ効果はあくまで「存在を確認しただけ」であり「研究の主流にはなりえない物」なのです。

そしてプラシーボ効果を有効と認めるホリスティック医学のような新興医学の立場では、浄霊を含む代替医療は大いに研究する対象なのです。

全体医療、代替医療、統合医療

全体医療(ホリスティック医学)、代替医療(オルタナティブ医療)、統合医療という言葉が混在して混乱気味なので、岡インなりにまとめてみたいと思います。なお、繰り返しますが岡イン筆者は別に医学者でも何でもございません。ここでは岡イン筆者が理解していることを説明しているだけです。間違っていたらご指摘下さい。直しますので(^^;

代替医療

代替医療とは現代西洋医学以外の医療で、医療機関で通常行われる治療以外のものを指します。東洋医学(鍼灸、整体、漢方、気功など)、インド式医療(ヨガ、アーユルヴェーダ)、催眠療法、前世療法、生き甲斐療法、など、ありとあらゆる「西洋医療以外の療法」がこれにあたります。 もちろん浄霊法も代替医療です。アメリカでは代替医療(alternative medicine),ヨーロッパでは補完医療(complementary medicine)という言葉を使っているそうです。

代替医療として分類出来る医療の中には、紀元前からの歴史を誇るものもあります。実は現代の「科学を前面に押し出した」西洋医学というものはせいぜい19世紀から100年程度しか経っていない新興医学なのです。

統合医療

統合医療とは、西洋医療と代替医療を総合した医療と言うことが出来ると思います。西洋医療にさまざまな代替医療を、個々のケースに最適な形で融合し、提供する医療です。西洋医学の限界を感じ、統合医療の思想が出てきたと言います。西洋医療の限界とは、

などです。従来の西洋医学的なアプローチが部分的に限界に達し、新たな側面からのアプローチを求めた結果、統合医療の考えが生まれたと言えるでしょう。

ホリスティック(全体、全人的)医学

病気や人の身体の働きを、部分部分でとらえていた西洋医学に対し、人間というものを部分には分割できない全体的なシステムとしてとらえ、健康はそのシステムが調和して動いている状態、病気は不調和な状態であると考える医学思想です。ホリスティック医学では治癒の本質を自然治癒力におき、治療の目的は自然治癒力へのサポートであると考えるそうです。前述の、プラシーボ効果を治病に積極的に生かすべきというワイル博士の言葉も、このホリスティック医学の思想に基づく考えといえます。

なお、ホリスティックという言葉は、ギリシャ語の「holos」(全体)が語源で、「全体的」「全的」「全体論的」「関連」「つながり」「バランス」などと訳されているそうです。「バランス医学」ってみ教え的にもいいですね。

岡インの考える「統合医療とホリスティック医学の関係」

上図は医学知識など何もない岡イン筆者の理解を図にした物です。岡イン筆者は、ホリスティック医学と統合医療をそれぞれ、ホリスティック医学は医学思想の一つであり、統合医療は医学思想ではなく治療の方針であると理解しています。統合医療という治療方針を採用する人の中にも、ホリスティック医学のような新しい思想に基づき統合医療を採用する人(右側)と、あくまで西洋医学の思想に基づき、補佐的に代替医療を採用している人(左側)がいるのではないでしょうか。

統合医療では病気を解決することが主眼

あらゆる医学は病気の解決が主眼であるはずなのですが、いつしか西洋医学は「西洋医学以外の病気解決に有効な手法を排除し、西洋医学の学問体系の中のみでの病気解決以外認めない閉鎖的独占的傾向」が追加されてしまったようです。新薬開発時にプラシーボ効果という病気に良い結構な効果があることを認識しつつ、それを黙殺し、満足な研究を行わないというのも、その傾向の表れではないでしょうか。

統合医療では、病気の解決が最優先ですので、治療法の選択において西洋医学よりも柔軟な姿勢があるでしょう。浄霊法は、アメリカ等において統合医療の立場を採る学者によって、様々な東洋医学と並行的に研究されています。また、統合医療やホリスティック医学の立場においてはプラシーボ効果は排除すべきどころか促進すべきものと考えられています。

「浄霊」が統合医療の中で興味を持たれ、研究されている。そして統合医療では自然治癒力やプラシーボ効果は重要視されている。この二者を合わせて考えると、つまり浄霊法とプラシーボ効果は、統合医療の方針の下、お互い排斥し合う関係ではなく、共存して病気の解決により高い相乗効果を出し合うべき関係なのだと言えるでしょう。

ところで二十一世紀の医学とは?

ここで突然話はころっと変わってしまいますが、私達が神慈秀明会で布教をしていたときよく言っていたのが、「浄霊は二十一世紀の科学」だということでした。「浄霊は現代の科学では解明出来ない。二十一世紀の科学で解明出来る」などと、まことしやかに言っていたのです。まあこれは、二十一世紀の科学という物がいったいどんなものかは当時さっぱり分からず、ただ教えられたままの言葉を言っていただけでした。

み教えに出てくる「二十一世紀の科学」

御光話録  第七号  S24/04/04

 だからね、御浄霊で病気が治るってのは、実に素晴らしい文化ですよ。で、私は、之は二十一世紀か二十二世紀の文化だって言うんですよ。それ位先に進んだ文化だから、二十世紀の人間にはあんまり程度が高すぎて迷信だとか邪教だとか言われるんですよ。あの解剖や手術なんかは残虐なもんですよ。少しでも人間性のある者には見られませんよ。その結果、生体解剖なんかが起こる様な事になってしまうんです。

御光話録  第十三号 S24/07/13

科学はまだまだです。私の方のは二十一世紀の科学だから現代人には説明出来ない。今迄だって時代より進みすぎてる時には、その時代に容れられなかった事も歴史上にあるじゃないですか。

じゃあ二十一世紀の医学とは?

さて年表はすっかり二十一世紀になりました。もうそろそろ二十一世紀の科学とやらの片鱗くらい見えていてもおかしくはありません。さて、はたして二十一世紀の科学の魁ともいえるような物は現れてきているでしょうか?

ここは医学に関する話題ですので、二十一世紀の「医学」ってどんなものかを考えてみたいと思います。浄霊医術は二十一世紀の医学であり、二十一世紀の医学によって解明されるものである、と言えるわけです。

私が10年以上前、神慈秀明会の布教で「二十一世紀の科学」と言っていたとき、私の頭の中にあったイメージは、二十一世紀になるとなにか突拍子もない物質かなにかの発見があり、そのため科学の価値観がすっかり変わってしまい、科学者の頭の構造も変わり、霊界や未知の世界を認めるようになり、浄霊の力を科学的に検査出来る機械なんかも出来る、そんなSFチックなイメージでした。

しかし、二十一世紀になっても、そんな大発明の気配もないし、だいたい科学者の頭がそう簡単に入れ替わるとも思えません。医学ということでも、「二十一世紀の医学」の片鱗も見えないのもおかしい事です。

ただ、上記のSFチックなイメージは秀明会のみ教えや体験だけしか無かった時代の私の考えで、今の私は少し違うことを考えています。というのは、二十一世紀の医学といっても、突拍子もない新発見の結果行われる急激な改革ではなく、別に革新的に技術が発達するのでもなく、いわゆる「ちょっとした発想の転換」が起こるだけなのではないか?と、そう考えているのです。

例えば、現在までの伝統的な医学が、医学以外の要因、経済的に立ちゆかなくなるとか、環境汚染で批判を浴びるようになったとか、基本的に病気を恐怖ととらえる思想が時代に合わなくなり治病法として西洋医学を選択する人が少なくなったとか、いろんな要因で「ちょっと発想の変わった新しい医学思想」が流行し始め、その「ちょっと新しい発想の医学」が、旧医学の数々の問題を解決し、最後にはその思想が医学の主流をとる。そんなことではないか?と想像しています。そんな「ちょっと新しい発想の医学」なら、すでに現れはじめているのかも知れません。

もう私が何を言っているかおわかりだと思います。いまの時点では医学の新興的思想であるホリスティック医学。これらは医学における「ちょっとした発想の転換」だけであり、こういった思想がもう少し医学の中で主流を得たとしたら、技術的にはたいして進展したわけではないですが、それだけでも十分それは二十一世紀の医学に変わったと言えると思うのです。そして、その「二十一世紀の医学」において、浄霊医術が初めて医学的に評価されるようになるというのも、あり得ることだと思いませんか?

岡イン筆者の妄想:もしホリスティック医学が二十一世紀の医学の主流になったら

この項は、もう完全に岡イン筆者の妄想(暴走)です。ポエム(^^;か何かだと思って気軽に読んで下さい。























ホリスティック医学が主流になると、健康の基準が変わるんじゃないですかね。ホリスティック医学では自然治癒力を大事にします。いまでも「自己治癒力」とか「免疫力」とかいう言葉だけはあり、がんなどの特定の病気に限っては基準らしき物がありますが、総合的に「あなたの免疫力は何パーセント?」のように数値化する規格はないんじゃないでしょうか。

二十世紀の健康診断で「健康」であっても、わずか数ヶ月で気づいたら癌の末期になってしまうこともあるのが現在の健康事情です(これは昔、岡イン筆者の身近で実際に起こった事件です。)。健康診断が、その人の「健康」を正しく「診断」出来ていない状況といえます。

ホリスティック医学が主流になり、自然治癒力が重要視されてくると、様々な数値を検査し、それらを合わせて総合的に免疫力を計る規格、が生まれてくることになるでしょう。「免疫力」や「自然治癒力」というものが数値で表せるようになると、おそらくその人の本当の健康度がわかるようになるのではないでしょうか。そうなると、この免疫力の数値を計測する健康診断が一般的になり、免疫力の数値が高いと健康で、低いと危険だという新しい価値観が生まれるかも知れません。

さて岡イン筆者の妄想はますます広がります。明主様は薬は毒だと仰ったが二十世紀の医学ではとうとうそれは理解されませんでした。しかし、二十一世紀の医学(ホリスティック医学など)において、もしある病気を治すために薬を投与した場合、投与したとたん前述の「免疫力の数値」が著しく下がったり、薬の投与によっていったん下がった免疫力の数値は自然にはなかなかあがらない、などということがわかったとします。免疫力が低い状態は非常に危険だというのが、たぶん(^^;二十一世紀の医学の価値観です。この価値観の元で、このような現象が確認されたとき、初めて一般人は医学を通じて「薬は毒のような物だ」と理解するのではないでしょうか。それを飲むことでその人の健康(免疫力の数値)を落とす物質、これを毒と言わずして何と言うのでしょう。その結果二十一世紀の医学では、薬品や手術は最後の手段になり、それよりも免疫力の数値を上げること、免疫力を下げない日常生活のあり方のほうが重要視されるようになると思われます。

浄霊はみ教えによると、薬毒を消し、「自然良能力」を向上するとあります。「自然良能力」とは自然治癒力、免疫力の事を指しますが、薬が「免疫力の数値」を下げ、浄霊が薬によって下がった「免疫力の数値」を上げたとしたら、「薬は毒であり、浄霊は薬毒を消す物」というみ教えは、二十一世紀の医学によってあっけなく証明される。と、こうなるわけです。やったあ!医学革命ってカンタン!

以上が、岡イン筆者の妄想(暴走)です。実際には、ホリスティック医学のような思想が医学の主流に変われるかどうか分かりませんし、なったとしても免疫力を数値で表せるようになるかわかりません。でも、もしかしたらそうなるかも知れないし、まあ言ったもの勝ちということでちょっと書いてみました。

二十一世紀型医学に基づく浄霊のひろめかた

医学は変化中

本当にホリスティック医学のような思想が医学の主流をとるかどうかは分かりませんが、医学という物が、明主様御在世当時のものから徐々に変化しているのは間違いないと思います。

ですから、浄霊施術者はこの医学の変化を慎重に見据えていく必要があるでしょう。上記の妄想のように、うまくいけば二十一世紀型の医学は浄霊を証明してくれるかもしれないからです。み教えで明主様がひるまず徹底的に戦っていた相手は二十世紀型の「薬は神」の医学でした。だからといって現在の私達が「教祖にならえ」と言い、現在変化途中の医学に対してまでも御在世当時の先走った信者たちと同じように盲目的条件反射的に敵意を燃やしていては、「浄霊を証明してくれるかも知れない二十一世紀型の医学」にまで敵対してしまう結果になりかねません。

また、医学の二十一世紀化の過渡期において、統合医療が発展し、さまざまな代替療法が頭角を現してくるでしょうが、そんな時代を迎えつつある現代においても「浄霊こそが真の医学なのだ。他の療法(西洋医療+他の代替医療)などは愚にも付かない物なのだ。」という姿勢を崩さない人が居ます。これはまさに西洋医学が長年他の療法に対して示してきた「他の病気解決に有効な手法を排除し、自分の医術の学問体系の中のみでの病気解決以外認めない閉鎖的独占的傾向」と同じであります。こういう姿勢は医学そのものの発展の邪魔になるものであり、二十一世紀的姿勢とは言えないでしょう。

「医薬と手術の医学だけが正しいのだ」「いや、医薬は人類に災いするものだ。医療は浄霊だけが正しいのだ」・・・もうすっかり聞き飽きた言い合いですが、こういったことは霊的精神的に未熟だった二十世紀の時代の遺物として葬り去りたいですね。

浄霊も西洋医学も選べる時代

二十一世紀は昼の世界なのですから、良い物は自然に広まり、悪い物は自然に消えていく時代です。浄霊は二十一世紀の文化なので、浄霊施術者も二十一世紀的姿勢にならなくてはいけません。他の療法が、み教えからみて理解不能であっても、少しぐらいみ教えに反していても、広い心で受け入れたほうがいいでしょう。その療法が世間から正当な評価を受けることに対し邪魔しないようにすれば、消えるべき物は消え、残るべきものは残る。それだけのことです。それが「明主様の仰った昼の世界の到来を信じる」という意味になると思うんです。私達は「西洋医学に敵意を燃やすから薬を飲まず浄霊しか受けない」のではなく、「統合医療ということで自由に選択出来る様々な医療の中から、自分が最も安心し、信頼出来る療法を選択した」結果としての浄霊法の選択ならば、常識的態度といえるでしょう。二十一世紀は、浄霊も西洋医学もその他の代替医療も平等に「選ばれる対象」となるのではないでしょうか。

昼の世界が進むにつれ、医学もきっと徐々に二十一世紀型に変わって行きます。その流れを見抜き、うまく乗れば浄霊は無理をせずとも自然に評価されていくでしょう。(こういうことはここであえて書かなくても、世界救世教ではわりとうまくやっていました。)浄霊施術者が西洋医学に対して闘争心をむき出さなくても、二十一世紀型の医学が自然に薬や手術を医療の主流から下ろしてくれると私は思います。

まとめ

以下はすべて岡インの私見です。

医学知識もなにもない、一浄霊者が、今の治病事情や浄霊を取り巻く状況を眺め、現時点で思ったことを書いてみました。この文章が何かの役に立てば(面白いと思って頂ければ)幸いです。

今後ですが、これからも少しずつ医学と浄霊に関して情報を集め、勉強をし、このページの記述をベースとして自分の考え方が変わっていく要素などありましたらその旨を本サイトに追記していきたいと思います。「岡イン筆者、これおかしいぞ」というご意見や、浄霊医術の最新事情などありましたらメールでお知らせ下さい。

また、浄霊と医学との関係に興味をもたれた方は、まずはぜひ統合医療/代替医療/ホリスティック医学に関する書物をご購読なさることをお薦めします。特に浄霊修得者でもあるアンドルーワイル博士の著書は、医学者が浄霊に興味を持つに至る考え方を知る上で大いに参考になるでしょう(決して、ワイル博士の著書に「浄霊」という言葉が書かれているという意味ではありません。書かれていないのですが、こういう考え方の医者が、浄霊に興味を持つのかということです。)。岡インでも今後、ワイル博士関係の記事や浄霊がどのように研究されているのかの情報を掲載していきたいと考えています。

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