浄霊とプラシーボ効果 (おまけ編)

(2004/02/14)

浄霊とプラシーボ効果 本編を書くに当たり、分かったことや気づいたことがいろいろあったのですが、本編に入れると話の枝分かれが多くなり、冗長になりすぎるため入れられませんでした。これらをまとめて、おまけ編として書いておきます。もちろんおまけ編もすべて、岡イン筆者の私見であり妄想ですのでご了承下さい。

プラシーボ効果が西洋医学で研究されない他の理由

プラシーボ効果が西洋医学であまり研究されない理由として、本編では「人間の心の問題は学問的な裏付けがとれないとか、それは心理学の分野だから知ったことではないとか」と書きましたが、他にこういうことも考えてみました。

それは、医者がプラシーボ効果を意図的に発揮させるということは、患者に対し嘘をつくことになるという事です。もしプラシーボ効果を積極的に活用しようとして、「これは素晴らしい薬だ」といって、無害なものを飲ませたり、どうってことのない薬を飲ませるようなことは、医者が患者を騙していることになり、一種の人権侵害になるかもしれません。アメリカの訴訟社会ではちょっとやばいことになるでしょう。プラシーボ効果を一生懸命研究しても、法律的に危ない橋を渡らないと使えない、そんなプラシーボ効果を善用のために研究しようとする西洋医学者が現れにくいのも道理かと思いました。

人権、という言葉が出ましたが、患者の人権を尊重し、患者が自分の治療法を西洋医学にするか、気功にするか、漢方にするか、浄霊にするかを選択出来る自由は大いにあるべきだと思います。しかし、それでも「お医者さん、私をプラシーボ効果で治して下さい」ということはないのです(笑)「私を、偽薬を本物といって騙して下さい」といっている時点で、すでにプラシーボ効果は働くはずがないからです。

以上の理由により、プラシーボ効果が本当でも、西洋医学の中でそれをうまく「一つの治療技術」としてまとめ上げることは難しいと想像出来ます。これでは真剣に研究しようという西洋医学者はなかなか出てこないでしょうね。そんなことより新薬の研究でもしたほうがまし、となるでしょう。

2004/03/14 追記
「心の潜在力 プラシーボ効果」(広瀬弘忠 著 朝日新聞社)という本に、「アメリカや西ヨーロッパ医学界では、単純に患者を騙すタイプのプラシーボ効果は使えなくなってきている(P33)」とし、患者に「これはプラシーボである」と説明しても、患者が医者を信用するならば効果があることが分かってきたということを解説しています。やはりプラシーボ効果と医療倫理との矛盾は、岡イン筆者の想像通り現場の医師の悩みになっており、研究も進んでいるようです。
この本により、プラシーボ効果の実験が思ったより沢山行われていることがわかりました。逆に、患者が医者への信頼感を喪失したり、飲んだ薬を後で不信に思った場合、それまでのプラシーボ効果による改善が突然悪化した例も何点か掲載されています。プラシーボ効果の発現のきっかけがいかに「信頼」という一点につきるかということがわかります。また、プラシーボ効果の不安定性についてもよくわかりました。
基本的にこの本の内容は本ページにおける岡イン筆者のプラシーボ効果に対する考察が、まあおおよそ正しいかなという裏付けになりました。ただしこれほどまでの研究事例があるということは知りませんでしたので、勉強になりました。
「患者が医者を信用したときに限り発現するプラシーボ効果」と「施術者と被施術者の信頼度や理解度とは無関係に効く浄霊」では、初めから大前提が異なっていることを本ページで主張してきたのですが、同著は「患者が医者に対し心底からの信頼感を示す場合」という大前提を本文内で再三再四繰り返し、その大前提の元に限り「プラシーボ効果というものが発現している」ということを多数の研究例を提示し解説している書物です。つまり浄霊の研究範囲とは大前提からして全く異なるわけですが、統合医療の立場からは面白い内容であり、私も非常に参考になりました。興味のある方はご一読をお勧めします。

プラシーボ効果も医学的に否定された事がある

このページを書くにあたり、調べた中で出てきたことなのですが、2001年、アメリカの医学専門誌「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスン」に、デンマークの医学者が「プラシーボ効果は無力か?」という題名で、プラシーボによる治病効果がほとんど確認出来なかった実験結果を発表したそうです。(参考、当時の新聞記事)この発表は当時いろいろと物議を醸したそうですが、少なくともデンマーク人の学者の実験においてはプラシーボ効果が働かなかったというのは事実だったようです。

つまりプラシーボ効果が西洋医学者によって存在を否定された形になるわけですが、西洋医学にとってすべての代替療法はプラシーボ効果という事で説明を完結したいわけであり、そういう営業戦略的な意味でプラシーボ効果というものが「無い」となるとさぞ「困る」ことでしょう。今回の実験結果により、西洋医学界がプラシーボ効果で代替医療を説明し続けるならば、改めてプラシーボ効果の存在を「証明し直す義務」が出来たと言えるのかもしれません。

だが今回の実験如何に関わらず、一般人の多くは、体験的にプラシーボ効果は存在している、と思っていると思います。私も、プラシーボ効果は浄霊の効果と同様、間違いなく存在すると思います。ですからこの実験結果を見ても、「ああプラシーボ効果は無いんだ」と思う気にはなれません。しかしデンマークの学者による実験で、プラシーボ効果の医学的再現に失敗してしまったのは事実です。これは何を意味するのでしょう?

私は、プラシーボ効果という心理効果を働かせるためには、プラシーボ効果が起こせるためのある程度厳しい条件、精密な状況を作り出さないと難しいのだと思います。デンマークの学者の実験でプラシーボ効果が働かなかったのは、「プラシーボ効果を意識的に働かせるのはけっこう難しいこと」だという証明になったと理解しています。(デンマークの医学者の人格に問題があり、患者を信用させられなかったのカモ)

そして浄霊とは、そんな緻密な精神的演出をして行う物ではありません。そのへんのあんちゃんがおおざっぱに手をかざしてもちゃんと効果があるのですが、そんな演出的には雑な浄霊で相手の心にプラシーボ効果が生まれ、そのお陰で病気が治ったりするようなことは、万が一には偶然が働いて起こるかも知れませんが、基本的にはほとんどめったに起こらない事だと思います。

また、プラシーボ効果に影響されやすい人は、その逆の心理効果の影響も同様に受け易いはずです。ちょっと不安感が生まれたらみるみる病状が悪くなっていくのではないでしょうか。

このような、いつ起こるか、だれに起こるか分からない、そしてちょっと悪い情報が入ればあっと言うまにマイナスの働きにもなりかねない、そんな不安定なプラシーボ効果という要素だけで神慈秀明会のように40万人も信徒が集まり(笑)、150億円の神殿が建ったり(笑)という事は常識で考えてもないでしょう。

宗教関係者であり医学関係者ではない私がこれを断言するのは心苦しいのですが、どうしても言いたいのでここで声を大にし、文字を小にして言ってしまうと、プラシーボ効果を奇蹟といってそれだけで宗教を運営するなんて、絶対不可能だーと私は思っています。不安定なプラシーボ効果にはそこまでの威力はありません。そんなことを主張する人は宗教の現場をまるで知らない人でしょう。

浄霊でNK細胞が活性化する

海外における浄霊の研究で、癌細胞を退治する免疫細胞であるNK細胞(ナチュラルキラー細胞)の働きが、浄霊によって著しく活性化するという研究をした方がいます。NK細胞研究の第一人者であるマンドーゴーナム博士です。この研究の成果は世界救世教の中で資料として閲覧することが出来ます。救世教信者の中にも、浄霊を集中的に受けて、NK細胞の活性度を計測し、それが大幅に増えたのをみて悦に浸って遊んでいた人がいたという話を聞いたことがあります。本編で「免疫力の数値化」という話をしましたが、この「血液中のNK細胞の活性度」も、癌に対する免疫力を数値化したようなものと言えますね。

このNK細胞の活性度の検査に関連することとして、イギリスで面白い研究が行われました。この実験はロンドン大学の学生48人を3グループに分け、自己催眠トレーニング、ジョウレイ、偽の脳波バイオフィードバックによりリラクセーションを4週間かけて実験し、その効果を比較しました。この結果は催眠療法学会の学会誌に論文として掲載されたそうですが、プラシーボ効果という点から非常に面白い結果が出ています。詳細はこちらをご参照下さい。

ロンドン大学インペリアルカレッジの医学部で行われたジョウレイ実験

自然治癒力と自然良能力

ホリスティック医学では自然治癒力と言いますが、東洋医学やみ教えでは自然良能(力)と言います。この二つはほとんど同じ意味なのですが、自然治癒力という言葉ですと、病気や怪我が起こってから初めて発揮される能力であり、病気や怪我を治すためだけの能力であるように読めてしまいます。自然良能力のほうは、そういう力は病気や怪我があるかないかにかかわらず常に働いている「健康を維持しようとする力」という意味合いがあるそうです。み教えの浄化作用も自然治癒力というより自然良能力の一種として理解する方が近いでしょう。

投稿 バイオ技術からみた二十一世紀の医学

岡インの記事は、公開する前に岡インの仲間たちに先行して公開し、意見などを求めています。本ページを先行公開したとき、以下のようなコメントを頂きました。遺伝子工学に基づく治療の分野といえば現代西洋医学の雄であるわけですが、それに対して非常に興味深い意見であったので、ご本人の許可を頂きこちらに掲載しました。

21世紀の医学に関して、バイオ技術の視点からコメントさせて頂きます。

最近、多くの企業や研究機関がバイオの技術を研究・開発し、新商品を出してきています。DNAとか遺伝子を扱う技術が主流です。初めてバイオ関連の展示会に行った時に驚いたのですが、医療系のバイオ製品を扱っている企業がまず何を言うかというと、「薬は70%以上効かないものなので、遺伝子レベルで各個人にカスタマイズした治療が必要である」ということです。70%というのは実は控えめに言っていて、実際は90%以上効かないという専門家も多いです。製薬関係に携わる企業の人がそういうことを言っていいものかと思いましたが、遺伝子治療の開発をしている企業はそれを枕詞として言わないと話が続かないので、気にせずそう言います。

次に、今、バイオの分野でどんどん製品として出ているものは、検査系の装置です。遺伝子レベルでいろんなことがわかるので、今まで体にいいと思われていたもの(健康食品なんかが代表的ですが)が実は体に悪かった、ということが、遺伝子のレベルでわかってきています。一方、最近は、日本の伝統食品が非常に見直されていて、日本の伝統食品に入っている微小栄養素のようなものを特許化すべく活動している企業が出てきています。長期間に亘って生き残ってきた食品は、長期間残るだけの価値があったということですね。また、ストレスやネガティブな想念が体に影響を与えることもわかってきており、想念の重要性がクローズアップされつつあります。

元々のバイオ技術の開発の最終目的は、これらの検査でわかったことを更にバイオの技術で解決しよう、ということなのですが、遺伝子治療薬を世に出すには、10年、20年かかります。また、医療費の破綻が世界的に起こってきており、薬や治療に金を使えなくなってきています。そうなるとどうなるでしょう。何が体に悪いかが明確になる一方、体的な解決手段はない、ということが起こります。そう考えると、今後21世紀の医学というものがどういう方向に向いていくのか明らかなような気がします。具体的に何がどうなっていくのか1つ1つ考えていくとそれはそれでおもしろいと思います。

諸説紛々

本ページの先行公開にあたり頂いた情報ですが、浄霊施術者の中には、「浄霊をすると免疫力は下がるはずだ」という説を唱える人もいるらしいのです。免疫力が下がるから身体が細菌などを受け入れ、浄化作用を起こし、毒素排出し、健康体になる、という説です。なるほど理屈は分かりますし、確かに浄霊をすると病気がいったん増え、その後減ることも当然あるわけです。そして、これが実験結果として常に計測されているのだとすると、話は複雑になってしまい浄霊の代替医療としての地位確立に支障をきたすかもしれません。しかし現時点では浄霊で免疫力(と判断出来る各種数値。NK細胞の活性度など)は、増えたという実験結果は確認されていますが、減ったという実験結果の話はまだ聞いたことがありません。

この説については、説の存在を紹介するのみにとどめたいと思います。個人的には、浄霊を受けると「医学で測定出来る免疫力は全く変化がないのに」「病気はしっかり治った」という実験結果が出れば面白い展開になるんじゃないかな、などと思っています。

独り言  愛のあるなしの話

お医者さんなら愛がある?宗教の先生だから愛がある?医学者だから愛がない?カルト宗教の信者には愛がない?

愛の有無というのは職業や立場で決まるものでは無いと思います。薬品だってその当時の人の愛の心から生まれたに違いなく、あらゆる宗教だって教祖の愛から生まれています。医学者だって自分の立場で世の中に貢献したいと思っているわけだしカルト宗教の信者だって、そうすることで世の中が良くなると思うから始めたんです。

患者に暴言を吐き、強烈な副作用を起こす薬を作り出す医学者だって、世話している信者から大金を取ろうとし、辞めようとすると恐怖を煽ろうとするカルト宗教の信者だって、もともとから愛が無かったんじゃないんです。初めは愛の心でそのシステムに参加したんです。だから今やっていることだって、愛の心の発現であると信じているんです。

しかし時代に合わないシステム(考え方)の下で働いていると、時代とのズレから生まれる、そのシステム(考え方)独特の制限のため自分の行動や発想も制限を受け、愛を発揮することが出来なくなり、やがてそれに麻痺してしまうのです。要は時代とシステム(考え方)が合っているかどうかの問題なのです。本当に時代にあったシステムなら、そこに所属する人は愛を持って生き甲斐を発揮して明るく楽しく頑張れるはずなんです。また、愛を受ける側も、その愛を普通に愛として感じることが出来るはずです。

システム(考え方)が時代遅れになると、前の時代のシステムを否定して新しい時代のシステムが生まれるのは世の常です。でもその時代その時代に於いて、そのシステム(考え方)の中で一生懸命やっていた人がいるんです。

別に新しい時代の物に携わっている人が古い時代の物に携わっていた人より偉いのでも何でもありません。それは単なる時代の変化なのです。お医者だって、浄霊者だって、薬を研究している人だって、カルト宗教に入ってしまった妻や彼氏だって、自分の立場で精一杯頑張っているんです。だから、新しいシステム(考え方)に乗っている人たちは、古いシステム(考え方)を否定するときに、それに携わっていた人の愛の心までを否定することはしないように注意していきたいと思います。(決してカルト宗教を容認すると言っているのではありません。)

そして、古いシステムに乗っている人たちは、・・・自分たちが、システムの都合のために愛を発揮出来ない、自由がない、嘘をつかなければならない、生き甲斐を感じない、と感じたならば・・・。

・・・自分にとって、そのシステム内で受けるものが、愛ややさしさという感じではなく「恐怖」であったり「強制」であったり「搾取」であったり「退屈や寂しさ」であったりと感じるならば・・・。

そのシステムがもう時代に合っていないのか、あなたが変化し、そのシステムに合わなくなったのかも知れません。

治る道理の話

二十一世紀の医学に変化する過渡期として「統合医療」が台頭してくるとなると、いままでの医学のありかたと、ひとつ大前提が変わることになります。それは、今までの医学では、西洋医学だけが病気の原因と治す方法を唯一独占的に保持していると考えていたのに対し、統合医療では「なぜその人が病気になったのか。どうやってその人を治すのか?」という考え方、ノウハウ、すなわち治る道理が、同時並列的に複数存在し、それぞれが共存することになるのです。

それだけではありません。様々な代替医療は、自然治癒力というものに注目していることは共通ですが、その治療哲学はまったく異なっています。ホメオパシー、カイロプラクティック、気功、鍼灸、漢方、そして浄霊法などは、それぞれ完全に異なった医療体系であり、診断も治療法も違います。そうすると、今後統合医療というものが進んで行くと、「ある療法の専門家は、他の療法で病気がなぜ治るのか、見えないまま共存せざるを得ない」という状態になるのです。

西洋医学一辺倒の時代は、たった一つの治療法だけが絶対で、他の治療法は徹底的に非難していれば良かったのですが、統合医療の世界では、ある代替医療が他の代替医療の治る道理を否定していては、共存して同時に存在する事が出来ません。統合医療の時代を迎えるに当たり、浄霊者も西洋医学者も他のあらゆる代替療法者も、他の医療を理解出来なくとも認めつつ調和していく必要があります。

この「お互いの理論を理解出来ないまま調和を保つ」上で共通の基準となる大事なことは、「とにかく治る事実があるのか?」という一事だと思うのです。まさにみ教えの「方法論と結果論」です。まずは治病実績の集計が行われ、その結果どの治療がどの程度まで有効なのかで治療の有効性を判断していくようになるでしょう。もし治病実績があり有効と認められるなら、方法論の検証は後回し、または省略という考え方が出てくると思います。その結果、「複数の治療法が同時に存在し、その中で、治る治療ほどよい治療」という、あたりまえで健全な状態になるわけです。

ですから、浄霊者も、他の治療法の治る道理を「み教えと違う」と否定しては統合医療の世界で他の療法と調和することが出来ません。他の代替医療の治る道理を、私もいま少しずつ勉強中ですが、み教えとはまた全然違う理論があり、それが効果をあげているのですから、びっくりしています。

仲の直る道理の話

私は、伝統的西洋医学というものが、一般社会に対して、今まで、「自分だけが正しい」「他の考え方は取るに足りない、または危険なので関わってはいけないものである」という、権威主義的で閉鎖的、かつ傲慢な考え方の一つの見本になっていたと思います。だから、社会生活や各家庭内のいざこざまで、一般の人はその考え方に倣ってしまい、理解出来ない考え方や個性を持つ者を認めることが出来ず、相手を排斥したり、けんかになったり、強制的に考え方を変えさせようとする行動をとることが多かったのではないでしょうか。

だが、「治る道理の話」で書いた通り、社会人心に多大な影響を与えていると思われる、西洋医療を含めた医療というものが、自ら率先して「他の療法と、お互いの道理は理解出来ないが共存して協力し、同じ目的である「病気の解決」に当たる」ことが出来たとしたらどうなるでしょう?そうなると一般人もそれを見本とし、相手の個性を尊重しつつ調和して平和を作っていくことが出来るようになるかもしれません。

私には統合医療が台頭することが、文化的品性の向上につながり、平和への貢献になるように思えるのです。

(もちろん、平和への貢献を医学の変化だけに任せていては宗教の名折れではあります。宗教同士でけんかしている場合ではありません。)

なぜ日本では浄霊が研究されないか

なぜ日本では浄霊が研究されないか。それは当然、出自が日本の宗教団体であり、現代日本人はあまり日本の新宗教とは関わりたくないと思うから、というのが最大でしょうが、ここではそれ以外の理由を考えてみたいと思います。

本編で書いたとおり、統合医療の立場を取る医学者がアメリカで増えており、彼らは浄霊を含めたあらゆる代替療法に興味を持ち研究しています。その中で浄霊の効果が他の療法に比べ優れている部分を発見し、他の療法をさしおいて浄霊に集中して研究している学者もよくいる、と救世教内では聞くのですが、こういうことは話半分として聞いておき、そういった情報が真実かどうかは別途調査し、いつか別の機会に報告出来ればと思っています。ただ浄霊が海外で研究対象になっており、興味を持たれているのは事実です。

しかし日本の医学界は、権威主義的であり、閉鎖的内向的な性格を持つということですので、たとえ海外で少しばかり研究者が出たとしても、自分から積極的に浄霊を研究するということは恐らくしないでしょう。アメリカの医学の主流が二十一世紀型に切り替わり、さらに浄霊が有効な代替医療としてだれか権威ある人に保障されたなら、日本の医学界もようやくやっとそれに追従する、という姿勢を取るのではないでしょうか。浄霊が日本で研究されるとしたらその後でしょう。ずいぶん未来の話です。もしそうなったら、これはまさにみ教えにある「アメリカから日本への救いの逆輸入」の形だと思います。

もう一つ言いたいのは、現代日本人のあきらめの早さについてです。日本人って、政治家が汚職しても「まあ政治なんてこんなものさ」とあきらめて改革の意志もなく政治に無関心になり投票率も下がる一方だし、満員電車に毎日乗せられても「まあこんなもんさ」とあきらめて適応してしまうし(アメリカ人ならこんな電車に乗せられたら暴動を起こすぞ、という冗談を聞いたことがあります)、とにかく「変化を疎い」「早くあきらめて」「無関心になり」「適応してしまう」民族だと思います。

海外では病気の恐怖からの解放を大いに望み、安心で幸福な生活を取り戻したいからこそ、より満足出来る医療のあり方を求め、ホリスティック医学などの新しい思想が出てきたわけですが、日本人は、西洋医学で駄目なら仕方がないと「早くあきらめて」俺たち素人がどうしたって意味がないと「無関心になり」まあ生きられるまで適当に生きるさと「適応してしまう」という事が、健康問題についても起こっているのではないでしょうか。

日本人のこの性格(権威者は権威主義、民衆はあきらめが早く適応も早い)は、日本の封建制による歴史が非常に長かったことと関係しているように思います。

日本医学界の「権威主義性」と、日本人自体の「現状にあきらめの早い」国民性が、浄霊を含めた新しい医療を積極的に研究しようとする意欲を海外に比べて劣えさせていると言うことが出来るのではないでしょうか。

浄霊施術/体験者はプラシーボ効果排除実験に興味がない

「浄霊の効果を示したいのならプラシーボ効果の可能性を排除した実験結果を見せろ!」とよく言われるのですが、この物言いがそもそも医学的見地としてどうなの?という意見は本編で述べました。

ここでは、たとえ「浄霊による治病効果を科学的に検査し、世に告知すべきだ」と考える浄霊施術者であっても、プラシーボ効果の排除実験が重要であるとは考えていないだろうという話をしたいと思います。

なぜなら、浄霊者は体験的に浄霊に大きな効果があることを認識しており、「浄霊は効果があるんだよ。まずそれを体験してみてくれ。あなたが浄霊を理解する上で一番手っ取り早いのは、浄霊を受けたり、アンドルーワイル博士やマンドーゴーナム博士のように自分で浄霊をして実験してみることだよ。」と言いたいだけだからなのです。つまり、浄霊は「まず体験してみる」ということが一番先にあるのです。別に浄霊施術者は新薬を開発しているわけではないので、西洋医学の新薬検証ルールであるプラシーボ効果排除実験に浄霊を乗せることに興味がないのです。そんなことしなくても体験すれば一目瞭然と思っています。「浄霊を科学する」といっても、自分たちの改善体験をなんとか科学者にもなじみやすく興味を持ちやすいようになんとか数値化したいと試みているわけです。本来は科学者にも「まずは試してみてほしい」と言いたいのです。

そもそも「浄霊に効果がある」ということを認識しなければ、浄霊からプラシーボ効果の可能性を排除する実験を行うことに意味はありません。プラシーボ効果でもなんでもよいので、まず浄霊には本当に治病効果があるのかどうかを体験することの方が先決です。そして、「なぜこんな効果が生まれるのか」「この効果の正体はなんなのか」を、興味のある人がそれぞれの立場で研究していけばよいのです。アンドルーワイル博士やマンドーゴーナム博士だって、自分の専門分野の興味範囲しか実験していないはずです。まず効果を体験的に認識してから、肯定的な人は肯定的な実験を、否定的な人は否定的な実験を進めていけばよく、様々な立場の人が様々な実験や体験を重ねることで真実が少しずつ明らかになっていけばよいのです。

浄霊施術者は体験的に、「浄霊には効果があること」と同時に「浄霊はプラシーボ効果とは関係ない」ことを確信しています。そもそも浄霊は、赤ん坊にも気絶している人にも鳥にも無生物にも効くからです。また、浄霊施術者は「もし浄霊施術中にプラシーボ効果が働いたら、さらに効果アップで結構ではないか」ぐらいにしか思っていません。だから浄霊からプラシーボ効果の可能性を排除する実験にあまり興味をもちませんし価値を感じません。

また、ホリスティック医学の立場にあり、代替療法を研究している人も、プラシーボ効果は排除すべき物ではなく大いに働かせて病気解決の助力にすべき物であると考えていると思います。だから「どうすれば代替療法に、さらにプラシーボ効果をプラスし、さらなる副次的効果を生む事が出来るか」という実験には興味があるでしょうが、「どうやってプラシーボ効果を代替療法から排除して、代替療法そのものの威力がどの程度にすぎないかを計れるのか」という実験に興味は持たないでしょう。浄霊者もホリスティック医学者も、「どうすれば今の医学で克服出来ない病気を克服出来るようになるのか。どうすれば病気という物を解決出来るのか」ということが最重要課題だからです。

ですので、現在の「浄霊を科学する」活動から、「プラシーボ効果の完全排除実験」は、永く待っていればいつかは現れるかも知れませんが、さほど高い優先順位ではないでしょうということです。

まあ、浄霊がプラシーボ効果そのものかどうかは、それに興味を持っている、いわゆる批判者たち自身が

(1) まず、浄霊には効果があることを体験的に認識する

(2) その後、その効果はプラシーボ効果にすぎないと主張するため、プラシーボ効果を排除実験し、浄霊がプラシーボ効果を超える物ではないことを科学的に証明する

とすれば良いのです。(1)の効果すらないならば、検証の価値も批判の価値もないので、(2)の実験は必要ありません。(1)の効果を認め、その上で(2)も提示するならば、その実験は浄霊施術者にとっても興味深い内容となるでしょう。(2)の実験は、実現にはそうとう難しい(恐らく不可能)と思うので、浄霊施術者にその任を期待されても、その実験に興味がなく価値も感じないので、苦労を買ってまで行うことはないでしょう。浄霊施術者の興味はあくまで、「浄霊でどこまで病気が治るのか?」です。しかし、(2)の実証に興味がある批判者の人々ならば、そういう苦労も楽しみに転じるでしょうから、もしかしたらやり遂げることが出来るかもしれません。

まあ、(1)を認め(2)を実証出来る程の、「科学的かつ論理的な批判の出来る批判者」が現れるくらい、浄霊が興味を持たれれば、それは素晴らしいことだと思います。ましてや「浄霊のような代替医療からプラシーボ効果の可能性を排除出来る実験方法」を確立出来たら、きっと医学の発展に多大な寄与をすることでしょう。浄霊批判者の批判に伴う努力や研究が医学自体の進歩に貢献するのなら、たとえ浄霊批判者の活動であってもその活躍を大いに期待したいと思います。

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