離脱談話 十三支部の離脱を止めた男

(2002/04/01)

世界救世教のH先生から、離脱当時の思い出話を伺いましたので紹介します。

H先生は世界救世教いづのめ教団において、かつて教学部長をしておられ、岡田茂吉全集の編集責任者でもあられました。明主様の直接の弟子として有名な、女性のH先生のご子息です。

会主様との出会い

H先生と会主様が知り合ったのは昭和31年ごろからです。それまではとてもきれいだが厳しい先生がいると言うことを噂に聞き及んでいたそうでした。実はH先生は会主様に、ご結婚相手として現在の奥様を紹介して頂き、仲人もして頂かれたそうです。その奥様という方は、離脱の時に別れた大阪十三支部の支部長、あの、離脱劇の悪役、S先生の娘さんでした。この親戚関係のため、H先生の御名前は離脱の神意の話においても、時々悪役として出てきます。

会主様との思い出話としてこのようなことを教えて頂きました。H先生によりますと、浄霊による治療には、現実問題として「得手不得手」があるそうで、会主様は、「私は肺結核が苦手なのよ」と、H先生や、先生のお母さんに仰っていたそうです。そのため、命様が肺結核になったときも、浄霊で治癒させることがあまりうまくいかなかったとのことでした。ちなみに、H家は肺結核の家系であったためか、H家の御用は肺結核の治病成績が高かったそうです。

現在は、救世教において教学の第一人者であるH先生としてのご意見によると、会主様が秀明教会で非常に厳しい信仰を説かれたのは、昭和25年以降の、経綸のため明主様が非常にお厳しいときにお身近くで御用をなさるようになったからではないか、と仰っていました。H先生のお母様は古くからの直接の弟子であったため、お優しい頃の明主様をご存じで、そのときのお姿に神習って、和と親切心と下座を旨とした生活をされていたそうです。

昭和44年4月1日

昭和44年頃、秀明教会は何千部という大量の「景仰」、次に「天国の礎」を本部からトラックで買い付けしたことがありました。この時は本部側が「おかしい」ということで、二回目に購入した「天国の礎」を取り返したそうです(この話は、H先生以外の方からも聞きました。いまでも、「景仰」の大量在庫が、秀明会の倉庫のどこかにあると言われています。これらの証言は、神慈秀明会の離脱が、昭和45年の衝動的な判断ではなく、1年前からあらかじめ計画されていた可能性があることを意味します。その可能性を示す証言は他にもあるのですが、ここでは省略します。)。

H先生は、会主様を、立派な先生であると思いつつも、どうも理解出来ないところもあるということで、小山先生や、秀明教会の動向をつねに気にしていたそうです。そんな中、「会主様が教団の責任役員という要職に就くと、上納金が劇的に上がり、2年ほどで会主様が役職を降りられると、上納金が劇的に下がる」という現象などが観察出来たそうです。H先生は、この現象を非常に怪しんでいたとのことでした。(たしかに、いまの会主様信仰の神慈秀明会ならともかく、当時の秀明教会の信者たちが、会主様の役職に応じ、献金の額を劇的に増減するとは考えられません。これは、秀明教会が普段から上納金を絞り込んでおり、就任中だけは戦略的に多額を上納していたのであろうと思います。

その当時の会主様は、「常にトップでありたい」「ライバルに負けたくない」という強い意識があられたようで、そういう意識が他人から見てもあからさまに分かるような方だったそうです。昭和44年4月1日、神慈秀明会の「離脱の神意」でも教えられているとおり、当時のK管長が春季大祭当日に失踪するという事件が発生しました。このとき会主様は、4月2日の春季大祭で「管長代理」として玉串奉てんをされましたが、H先生はそれをみて、「神様は型で見せるというが、ついにこの人は念願のトップにまで上り詰めたか」、と思われたそうです。

昭和45年3月1日

昭和45年3月1日、H先生は十三教会のS先生のご子息であり、秀明教会で青年部の要職をしていたM氏に電話をしたところ、「今日、秀明教会に行ったら『被包括関係を解く』という張り紙があった」という話を聞きました。その以前から、M氏より、「資格者会で会主様が、『本部はK合やM本といった邪神に支配されてしまった』と言っていた」などの情報を受けていたH先生は、「ついに来たか」と思い、早速、ご自分の教会があった中国地方の地から、大阪の十三まで、一晩かけて車を飛ばしました。(離脱の神意では、会主様は、救世教幹部の悪口はいっさい言わなかったとありますが、そうでもないようです。言われてみれば確かに、会主様だけが悪口をいっさい言わなかったのに、その弟子である岡田三栄子先生以下の人が全員、救世教の悪口をいいまくるというのも、考えにくい事だといえるでしょう。弟子とは、師匠の言動を真似るものだからです。)

そこには、「私は会主様に地獄の底までついて行く!」という決心を固めているS先生と、その横で、「もうわしは信仰なんかやらん!」とこたつでひっくり返っている息子のM氏がいました。

H先生は、まずS先生にこのように言いました。「先生は小山先生についてご自分が地獄の底まで行くとおっしゃっているが、それはご自分だけの問題ならかまわないけど、先生には3000人の信者がおり、その信者さんの先祖となると、数万、数十万人いるかわからない。先生はその人たちも地獄に連れて行くのか?」と聞くと、S先生は「わしゃもうなにがなんだかわからんわ!」と、混乱状態になったそうです。

H先生はS先生を一旦置いておいて、息子のM氏と話をしました。「秀明の資格者会では、本部が邪神にやられていると言ったということだが、明主様は『相手を邪神とは決していってはいけない。それは神意を冒すことだ』と仰っていた」という話をされました。そのとき御垂示禄をもって読ませたとのことですので、「邪神がいるところには」のようなみ教えを示されたのだろうと思います。

結果、3月5日までに、H先生がM氏を説得し、M氏が母親のS先生を説得し、S家は、そして十三支部は、離脱についていくことをやめたそうです。

すなわち離脱の神意で聞いている、資格者会でのS先生が「あんたたち!しっかりしいや!これは大変なことやで!」「私は会主様にどこまでもついて行きます」と一番先に叫ばれたことを、秀明ではまるで計画された大芝居であったかのように教え、その後、金をもらい地位を約束され、私利私欲に負けて救世教に残ったかのように言っていましたが、実はあれはS先生の本心からの叫びであり、しかしその後、み教えなどから離脱を信仰的にとらえ直し、残ることに思い直されたということだったのでした。

最後に

離脱というものを、み教えにてらして見直さなければいけないのは、なにも、当時のS先生だけではありません。現在の私達も同様なのです。

そして、「神慈秀明会を邪神というのは、み教えに反している」という人が時々いるのですが、それは本末転倒です。なぜなら、神慈秀明会は、上記の通り、世界救世教を邪神と言って生まれた宗教なのですから。

世界救世教を邪神と言うのは正しく、神慈秀明会を邪神というのは間違っている、というのは、一般社会では通用しません。それをおかしいと判断するのが常識的な感覚であり、道理と言えます。

私達は、神慈秀明会によって培われ、いつの間にか植え付けられている、秀明会独特の価値観を捨て去り、常識的な感覚を取り戻して、白紙となってみ教えから明主様の御思想を初めから理解しなおし、その上で神慈秀明会や、離脱の神意というものを改めて見直す必要があります。

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