明主様と二代様(3)

岩松部長講座から学ぶ

ご決意

明主様がやってこられた水上に鉱山がありました。有望な鉱石が出ていましたが、その水上鉱山も売らざるをえない、又、梅園の上に瑞泉郷という、明主様が素晴らしいと絶賛されていたその瑞泉郷も売らざるをえない。そうでなければ、救世教として成り立つことが出来ない。そのような苦しい苦しい状況だった訳です。だからとても建設に着手出来なかった。それでも二代様はその31年秋季大祭に信者さん方に神殿を建設しましょう。建設しますと力強く仰いました。

そしてその為にまず信仰目標が明確にされます。布教意欲を盛り立てる為に、信仰目標が明確にされます。そして32年の1月に信仰信条が発表されました。「一人が一人を、霊主体従の法則を生活に、霊主体従の生活を」という信仰信条、が発表され、そしてその後昭和44年まで信仰信条は一貫して発表されていきます。しかし、32年中の完成どころか、着工の目途もつきません。やっと33年1月になって神殿建設小委員会が出来ました。しかし、33年の着工も出来ない、やっと33年の秋季大祭の時に神殿の設計図が発表されたという状況でした。

いっこうに進まない現状に対して、二代様は「御神殿建設は皆様の和と祈りに徹すれば必ず出来ます。成らざるは成さざるからなのです.造れないのは造ろうとしないからなのです」。このように一言ごとに血の吐くような思いで仰って、そして、救世信仰の筋金を入れる為に又、神殿建設の重要性を訴える為に、昭和30年から巡教されていましたが、さらに一層巡教に力を入れていきます。

御巡教

講話時間は2時間にも及びます。2時間も話をすれば、何か一つでも二つでもつかんでくれるだろうという思いで、滔々(とうとう)と話をされます。そしてスケジュールぎりぎりまでその場でいろいろな人達の悩みに相談に応じ、そして浄化している人がいれば浄霊をする。そして、スケジュールに追われるように、次の所へ行かれる。そして、その日の宿泊所に帰ると翌日の原稿に食事の間でも目を通され、気に入らない所があると夜中の2時3時までもかかって原稿に手を入れられる。そして、又次の会場で話をされる。そしてお見送りに、お出迎えにきている信者さん方の中に、浄化している人がいれば気安く浄霊をされる。そして又、「二代様、握手をして下さい」とそういう方があれば、握手をし、その方に「私から頂いた光をあなただけのものにしないで、その光を他の人にもあげて下さい」と仰る。

そして、二代様は御巡教に行かれる時に森永の20粒入りのキャラメルを持って行かれるんです。そこに光を込めて持っていって、お出迎えの、お見送りの方々にそれをあげるんですね。1箱買えば20人の方にそれを上げることが出来る。そして至る所で二代様の温かい人柄に触れて、もう一度二代様にお会いをしたいという人達が増えてくるんです。

都合14回、一都二府三十二県に渡って二代様は御巡教されます。その至る所で人々は二代様の人柄に魅了され、もう一度二代様にお会いをしたいということで、熱海に箱根に参拝に来る信者さんたちが増え、それに伴って教線が活力を帯びてきます。そして「無理と思えることでも祈って取り組めば必ず御守護があり、道は開かれます」。という風に仰る、二代様の熱烈な言葉が、信者さんの心を揺さぶって神殿建設の道が開かれて行きます。

御巡教の二代様

(写真は昭和36年、光の道教会でのご巡教の様子)

建設

昭和34年2月4日、待望の地鎮祭が行われ、そして35年11月10日、上棟祭が行われます。神殿の所にやぐらが組まれ、そして紅白の布を巻いたやぐらの上から、二代様が、宗家の方が、幹部が、そこから紅白のお餅の紙包みを投げます。信者さん達は空から降ってくる紅白のお餅の紙包みを嬉々として受け取り、そして瑞雲郷を降りる時に、竣成祭には一人でも多くの人達をご案内しようと、そういう思いを胸にして現場に帰って行かれました。二代様のこの揺るぎない信仰情熱によってご神業に対する消極的な考え方は次第に消えて、神殿建設が具体化するにつれ、信仰意欲が、建設意欲が高まり、そして教練も伸びていきます。この昭和35年上棟祭の時には信徒数は八万人に増えていました。昭和32年、四万を切ろうとしていた信徒数が、わずか3年で八万人になっていたんですね。「救世教にとって、建設は命です」。三代様が御巡教の中で仰った、そのお言葉というのは、この二代様の姿をみているからこそ出てくるんです。建設をすることによって、世界救世教は光を帯びてくるんです。教線に活力がでてくるんですよ。

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