明主様と二代様(5)

岩松部長講座から学ぶ

「今となっては遅いんですよ」

そして幹部の方々は二代様に「どうぞ、二代様無事竣成祭も終わりました、どうぞしばらく静養して下さい.お願いをします」。その幹部の方に対して二代様は「一年前なら間に合ったでしょうけど、もう今となっては静養しても遅いんですよ」。静かに仰った。一年前というのは上棟祭を目前にしていよいよこれから建設の本番にかかる時です。いよいよ内装工事にかかっていく。その建設の本番に自分が休んでしまえば、建設が遅れてしまう。建設が遅れれば神様の本来の力が発揮されるのも遅れてしまう。

人類救済をするためには、一瞬の停滞も許されない。これから一歩踏み込めば自分の体はもう駄目になるということを充分承知の上、二代様は無理に無理を重ねて神殿建設をしていかれたんですよ。「静養してももう遅いんです」。静かに仰ったそのお言葉の奥には、これで良かったんだという満足感に満ちています。しかし、みんなを安心させるために、「そうですか。それでは私はしばらく静養させていただきます」。そう仰って、11月23日の青年参拝、12月1日の月次祭はお休みになります。

昭和37年1月24日

しかし、12月23日、これは明主様の御生誕祭です。重要な祭典ですからと言って、無理を押して祭典に出られます。そしてその無理がたたって1月1日の新年祭にはお出ましになれませんでした。二代様は自分のお言葉を、時の管長、藤枝先生にお願いをされて、碧雲荘の御寝所でお休みになっています。刻々と開式の時間が近づいてくる。その10時を目前にして二代様は側近奉仕の方に、「今から私はこの碧雲荘の御神前でお参りをしたいから正装に着替えさせて下さい」。そう仰って正装に着替えられて、そしてお一人、その御神前に入っていかれます。

ふすまを閉じられたその御神前からはコトリとも物音がしない、そのふすまの外にあって奉仕者は二代様は大丈夫だろうか、倒れてはいないだろうか。もう心配で心配でしょうがない、今にもふすまを開けて中に入ろうかと思った矢先、中から二代様がふすまを開け、這うようにして出てこられて、その奉仕者の顔を見られて、「今会館の方を御浄霊してきたわよ。今日お参りに来られている人はみんなお光を頂いて帰ります」。安心したような顔で仰って、そして又着替えられてお休みになりました。

人を救う姿、自分のことよりも人を思う姿、その姿がこの二代様のお姿に凝縮されているんじゃないでしょうか。そして1月23日、二代様はご家族の方々と和やかに夕食をされて、御寝所に引き上げられましたが、夜11時、容態が急変されます。御親族の方々に電報が打たれます。御親族の方々が駆けつけられます。明けて昭和37年1月24日午前2時過ぎ、二代様はパチリと目を開けられて、「喉が渇いたわ」。このように仰いました。叔母様が二代様のお口に水をひたしますと、「ああおいしいわ」そのお言葉を最後に二代様は、息を引き取られます。

明主様と二代様

二代様のお顔は刻々と美しく、若くなっていかれます。明主様から託された教団をより盤石なものとして次代に引き継ぐことができた、そういう満足感からまさに安らかで神々しいお顔です。最後を看取った二代様の叔母様は、若い頃のよしの顔になった」。このように仰います。二代様のお若い頃のお写真見たことがありますか?本当にお美しい。明主様が惚れたはずですね。明主様が結婚申し込みをされたんですが、十五離れてるんですよ、明主様と二代様ね。明主様は再婚、二代様は初婚ですよ。仲人通してね、何度も何度も申し込みがあった。二代様の方はお断りをするんですけれども、しつこく、しつこく、明主様が、申し込まれて、二代様は結婚をされたんです。本当にお美しい、輝くような理知に溢れたそのような方でした。まさにそのお姿がお亡くなりになった時のお姿だったんです。

神界に行けば、浄まった人なら、女性は18、9才、男性ならば働き盛りの30才くらいになると、明主様仰ってまずけれども、まさに、二代様はお亡くなりになった瞬間にそのような天人のお姿になったんだと思いますね。最後を看取ったお医者さんは、「二代様のお体はとてもお亡くなりになるようなお体ではない、よほどの無理をなされたんでしょう」と仰った。二代様はこの時、御年65才ですよ、まだまだお若いですよ。今、女性は80何才ですよね、平均寿命。それから言えば、まだまだお若いです。その二代様が、無理に無理を重ねたからこその神界への御復帰だったんです。

二代様は大正8年、明主様と結婚されます。そして大正8年、明主様が大本信仰されるのと一緒に大本信仰をされます。そして昭和10年立教されるとともに、明主様の背後にあって奥様業に徹し、お稽古ごとをされます。そのお好きであったお稽古ごとも明主様が御浄化に入られるや、全てやめられ、そして御昇天後は本筋の信仰に立て直す為に、全身全霊を込めて打ち込まれて来られた訳です。明主様は人類に対して、真理の教えを説かれました。二代様はその高い真理の教えに道と順序をつけて強い信念と広く豊かな心を持って、自ら実践し私達に信仰の在り方を示してくれました。その姿は一信仰者の、一布教者としての率先垂範の姿であった訳です。

忘れじの君

この昭和37年、信仰信条は「率先垂範の年、この一年根限り」ということでありました。1月28日。二代様の御昇天祭が行われました。二代様のご遺体は茶毘に付されます。3月14日、50日祭が終わった後、箱根において二代様の御遺骨が明主様の奥津城の横に造られた、一回り小さい奥津城に鎮められます。三代様が一握の土を献じます。次々と一握の土が献じられます。その姿を二代様は神界にあって明主様とニコニコと御覧になっていたと思います。

「明主様、私を誉めてくれますか?私は明主様から託された教団をここまでしましたよ、潰すことなく、盤石なものとして次代に渡すことができました。あなた、私を誉めてくれますか」。多分そのように仰ってニコニコと御覧なっていたと思います。明主様の三年祭の時に『忘れじの君にまみえんその日まで固めおかましこれの御園(みその)を』このようなお歌を二代様は詠んでらっしゃいます。まさにこのお歌のように、教団を盤石なものとして次代にバトンをタッチします。

そしてこの年、昭和37年暮れ、信徒数は二十万五千人になっていました。昭和32年四万を切ろうとしていた信徒数が二十万五千人になっていました。

(終)

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写真は、昭和十年秋、玉川郷の内庭の泰山木を背景に

昭和十年 玉川郷で