(2002/01/26)
![]() (お写真は二代様) |
私たち秀明信者は二代様のことを全く知りません。離脱の神意でご神体と観音様を封じたという事くらいを教わっており、また、二代様は大本教の信者であるので明主様信仰はなかったということを聞かされているのみです。 この項では、二代様の御事、そして会主様と二代様の特別な関係について、Q&A方式で解説していきたいと思います。 |
もともと、秀明教会というのは、明主様御在世当時はさほど発展しておらず、拠点も二つしかない中教会レベルでありました。しかしこれが二代教主様の代になって、大きく発展を遂げたそうです。明主様ご帰天に伴い大幅に減少した信者数を、大変な努力で持ち直したのは二代様の偉大な功績でありましたが、秀明教会は、その発展の上昇気流に乗り人数を増やしたそうです。また、会主様は二代教主様の影響を多大に受け、そのご指導方針や信仰の考え方などを追従され、また、優秀な側近として二代様に密着し、徹底的に奉仕されました。当時を知るある先生は、「小山先生は二代教主様が全てであった」と仰いました。 これは、会主様のキリスト教精神と、二代様の大本教方式の信仰に通じ合うものがあったのでしょう。すなわち、どちらも夜の宗教における敬虔な信仰心というところに共通点があられたのだと思います。 いま、神慈秀明会は、二代教主様が作られた(それはみ教えの逆であるとして批判されている)あり方を、もっとも忠実に踏襲している教団であると言われています。「大本教式のご神前」「ご法難から神人合一の神秘の隠蔽、医学論文の隠蔽、み教えの隠蔽」「御神名『おしえみおやぬしのかみ』の奉称」「青年重視」、また、「利他愛」「一人が一人のお導き」「信仰の三つの基本(参拝、浄霊、奉仕)」「倍加(梅花)」などの二代教主様提唱の用語の使用といったところにその片鱗が伺えます。 二代様の御講話集「たまのいずみ」全五巻を読まれると、二代様の信仰が分かるとともに、会主様が二代様の影響を非常に受けておられることが感じられると思います。
御明集P83に掲載されている御讃歌 如何ならむ 事も忍びて 道のため 尽すは神の しもべなりけり 御明集P88に掲載されている御讃歌 世を愛し 人を扶くるものならば いづち行くとも 神は守らす これらの御歌は、実は明主様の御歌ではなく、二代教主様の御歌です。 本来明主様の御歌しか入ってはいけない御明集にこの御歌が入っていたのは、会主様が二代様のお心をどれほど頂いていたかが偲ばれます。 とくに前者の御歌は、いかにも夜の宗教の信仰をお持ちの二代様らしい御歌であり、同様の信仰をお持ちの会主様が好みそうな内容です。しかし明主様は、「自己を犠牲にして(信仰を)やるということは、大変悲壮であって、立派であるが、やはりこれも真理から言って間違っているのであります。ただ特殊の場合止むを得ぬ事情に際会した時を除く外、平常滅多にあるものではないのです。」と仰っています。このみ教えを知らずしてこの御歌だけ知っているというのは明主様信仰を見誤る可能性があります。
この質問は、「明主様は本当は会主様を二代に推戴するご意志があった」という秀明の中の噂、伝説からくるのでしょう。もちろんそのような非常識な話が真実であるはずがありません。 まず、教主制度というものについて。秀明では、明確にそういう言葉を使ってはいませんが、明主様信仰には教主は不要であるという教主不要論を展開しています。明主様と信者の間に介在する者は、教主を含め、無いと説くわけです。(実際には、秀明では間に会主様が絶対的に介在していることは、飛天の再研究、「会主様より明主様直結の正しい神観、信仰をうえつけて頂いていること。」にも書きました。) しかし、この教主制度というのは、なにも二代様の代にあわてて作られた制度などではなく、実は明主様のご意志でありました。明主様は昭和25年、世界メシヤ教の「初代教主」として立たれたのです。初代がおられるということは当然二代三代四代がおられるわけです。また、明主様は御浄化の病床で、二代として奥様を指名されたということが、明主様の伝記「東方之光」、下巻P707には書かれています(下記参照)。 2 遺託に応える よ志は教主を継承するにあたり、敬虔な祈りを込め、神前においてつぎのような誓いの言葉を述べた。「明主様がご昇天前に仰せられておられましたご趣意通り、ご昇天遊ばされました今日、ただちに役員会において、満場一致をもって、私を二代教主として推戴と決定しましたので、その申し出を受けさせていただきました。よって、明主様地上天国建設のご構想をお引き継ぎ申し上げ、現界のご用に励みますので、なにとぞ霊界からご守護をお願い申し上げます。」 この誓いにもあるように、教祖は昇天の数日前、よ志に対して、「神界のご都合上、昇天するようなことあらば、霊界より守護するゆえに、あなたは現界において、人類救済、地上天国建設の聖業につとむるように。」と話したのである。それは夫としてではなく、神の経綸を伝える教祖の立場から述べた厳命であった。 教祖はさらに言葉を継いで、「随分君には無理を言ったなあ。」と感慨深げにしみじみとした調子で言ったので、よ志はその時初めて、それまで教祖が自分に対してとってきた厳しい態度が、このための修行であったことを覚ったのであった。 なお、二代教主様の推戴式は、明主様の50日祭の前日である昭和30年3月30日だそうです。
「飛天、神慈秀明会の誇り再研究」の「明主様から伝わる唯一の正しい浄霊の神力を頂いていること。」にも書きましたが、現在、秀明会で行っている2カ所だけの浄霊は、救世教を社会からの批判から守るために、浄霊から医療、病気直しの要素を排除し、宗教的な「祈り」の姿に変えようと二代様が発案され、そのときに会主様を含む多くの関係者と思案の結果考え出されたものです。その祈りの浄霊の姿は、たまたま脳性小児麻痺の急所の位置と同じであったのです。 み教え研究の第一人者、故、中村市郎先生は、「み教えの中には、祈りの浄霊という言葉は存在していない。祈りと浄霊という言葉が同居している御論文すらない」と証言しておられます。明主様は、執筆活動が可能な時期ぎりぎりまで、浄霊医術のご論文をしたためておられました。 それにもかかわらず、もし明主様が将来浄霊は祈りになるのだ(治病ではなくなるのだ)、ということを「こっそり」どなたかに伝承されたとしたら、祈りの浄霊を提唱されたのが二代様であるという歴史的事情から、関西在住で明主様とは滅多にお会いしない会主様ではなく、奥様なので四六時中ご一緒の二代様に伝承していたという事になるのは明白です。 しかし祈りの浄霊が明主様のご意志であったということを信じ、それが二代様にこっそり伝承されていたというならば、同様に「将来ご神体は大光明真神に変わる」「祖霊舎方式の祭祀に変わる」ということも二代様にこっそり伝承されていた、ということになるはずです。 ここに神慈秀明会の離脱の神意における教義の矛盾点がひとつあるわけです。「浄霊が治療から祈りの浄霊に変わった」ということと、「ご神体が大光明真神に変わった」「先祖祭祀が祖霊舎に変わった」ということは、どれも二代様の発案であるのだから、実は同列にとらえるべき事だったのです。離脱の神意の教義において、祈りの浄霊は受け入れるが真神や祖霊舎を受け入れない私たちは、二代様を信じたらいいのか、信じてはいけないのかを判断することが出来ません。 この矛盾は、神慈秀明会というところが、「とにかく会主様が選んだものを信じ、会主様が選ばなかったものは信じない」「とにかく離脱のつじつまを合わせるためにみ教えや世界救世教の歴史はみないようにする」という会主様信仰、離脱信仰の姿勢なのだと気づくことによってのみ、矛盾無く理解することが出来るのです。
二代様は、明主様ご帰天により衰退しつつある教団を維持し、社会からの攻撃を避けるため医学論文や神人合一の教義を隠し、み教えの95%を封印し、社会に和合できるよう超宗教を普通の宗教に変革しました。このため多くの離脱者を出し、教義も変わってしまいましたが、信者数を増やし、勢いを再燃させた功績は多大なものがあります。 なお、二代様の改革は、ご神体観音様のみならず非常に多岐に渡っております。それらを簡単に表にまとめてみました。秀明が、二代様の影響をいかに残しているのかがわかります。
なぜ、二代様はご神体を大光明真神に変えられたのでしょうか。それはこのようないきさつがあったからです。 まず昭和31年、理事会で、ご神体の変更が協議されたことがあったそうです。当時、本部の箱根、熱海のご神体は「日之出観音様」「十一面千手観音様」でありましたが、教会や家庭のご神体は「大光明如来」「光明如来」のお文字で、統一されておらず、家庭用のご神体も「観音様」の絵姿に統一した方が良いのではないか、と検討されたとのことでした。 ところが、昭和32年の元日、二代様は夢をご覧になりました。それは明主様が、「ご神体を大光明如来から大光明真神に変えなさい」と仰った夢でした。しかし二代様としてはそれが神示であるのか、何かの雑夢であるのか判断をすることが出来ず、そのまま胸のうちに収めておられました。 しかし同年五月、箱根、熱海にご奉斎されていた日之出観音様、千手観音様のご神体が暴漢によって引き裂かれ、または焼かれてしまったという一大不祥事が起こりました。二代様はこのことにより、元旦の夢が神示であったことを思い知らされ、また、これはまさに仏滅の型であったと理解され、意を決して大光明真神をしたためられた、ということでした。 このようないきさつがありますので、大光明真神にご神体を変えたことが単純に悪いことである、明主様のみ教えに反したことである、とする秀明の主張は早計であると思います。
それに対し、狼を意味すると言われている「真神」は「まかみ」と読みますから、言霊的には別物であり、同列に並べられるものではありません。なお、本当に真神(まかみ)が狼の古語であったのかという根本的な疑問もあります。それについてはこちら をご参照下さい。 上の画像は、明主様御真筆の「真神」。落款は「自観」。クリックすると大きな画像が表示されます。 参考み教え 昭和28年6月15日 箱根地上天国完成記念祭御講話 「言霊から言うと「シン」の言霊返しは「ス」になりますから「神力」は「主の力」とも言えます。」 『観音講座 第一講座 主神の御目的と天地経綸の真相』 昭和10年7月15日 「真は霊返しで読むとスとなり実である。華である。いよいよ実を結ぶのである。又は統べる、皇(すめらぎ)、○に丶、統一する、一人となる。」 大光明真神のご神体が邪悪であるという前に、それが作られた背景をよく学ぶ必要があります。 なお、神慈秀明会のある先生は次のように仰ったそうです。 「離脱のとき、昭和45年3月1日から12月22日までは秀明教会でも大光明真神のご神体が祭られていた。だがそれでもご神体から奇跡はたくさん起こった。つまり神光はご神体そのものからではなく、明主様の光の玉からご神体を通じて出るのだ」 明主様がどのご神体から働かれるか。たった一種類のご神体にだけ働かれるか、あるいはあらゆるご神体から働かれるのか。御真筆のみに働かれるのか、それは明主様ご自身がお決めになることであり、そのご意志は事実を持ってのみ理解できることであります。大光明真神につきましては、昔も、今も、とぎれることなく明主様のお働きがあり、それは近年ほど強くなっていると私は思います。
二代様のなされたことは賛否両論であり、み教えからみた問題も多かったのですが、世界救世教いづのめ教団では、ご神体の件を含めいまでも二代様の影響が色濃く残っております。これは四代様により少しづつ改められていくと思いますが、いづのめ教団が改革を性急に行わないのは、常識を重んじるみ教えの存在とともに、いづのめ教団には二代様を敬慕する心が根強くあるからなのでしょう。上記「明主様と二代様」を読むと、その心の部分が見えてくるのではないでしょうか。
神慈秀明会で教えられたこと。「治療の浄霊の時代は終わり、浄霊は祈りになる。」「大本教式のご神前と祭事、二位一体の廃止」「夜の宗教方式の宗教モデル」「み教えの隠蔽」「伊都能売大神の存在の隠蔽」など、数え上げれば限りのないほど、会主様は二代教主様の采配を固く維持してきました。だがこれは昭和30年代の、教団を守るための一時的信仰方針に端を発するものであり、み教えとは正反対な内容でありました。もはや時代は変わり、すべてのみ教えは公開され、み教えどおりの霊科学としての浄霊、医学革命などの紹介が可能な時代になり、小乗信仰が世間的に求められなくなった21世紀の現在、神慈秀明会のあり方は時代遅れで急所はずれとなっています。 当時の信仰姿勢を頑固に、そもそもそれが二代様の考案のものであることも知らず、み教えに反しているということも知らず、その時代背景も歴史も知らず、ただただ「会主様のご意志だから」二代様のご指導を維持しつづける事こそ明主様信仰と信じて疑わない。それが神慈秀明会です。 二代様のなされたことの奥にどのような霊的意義があろうと、二代様が教団維持のために大変な苦労をしてくださったことは事実です。二代様がおられなければ当時の世界救世教の危機が乗り越えられたかどうかわかりません。二代様のなされたことを非難される方も多いのですが、私はそれを経綸、明主様のご意志だと思っております。おそらく四代様の代で、二代様のなされたことは少しずつみ教え通りに修正されていくでしょう。それも経綸です。経綸とは時代の変遷に伴い変わるものです。 明主様信仰はかたくなに維持する性質のものではなく、時代(経綸)に合わせ千変万化する自由無碍(自由奔放脱線状態とは違う)の信仰です。明主様の経綸を正しく理解し、その時代においてお役に立つ自分となるためには、私たちも時代の変遷に伴い変わっていかなくてはいけません。そのためにはみ教えの研鑽、世界救世教の歴史の学びは必須であると思います。 |
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昭和三十一年十月二十九日 大本三代教主出口直日様のご訪問を受けて水晶殿で。