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明主様から伝わる唯一の正しい浄霊の神力を頂いていること。

どうも神慈秀明会は「唯一」とか「最高」という言葉が好きなようです。私たちはいつのまにか、「浄霊に唯一最高のただ一つの方法が存在する」と思っていますが、そもそもその前提条件は正しいのでしょうか?神慈秀明会の浄霊は、額と脳天に合計3分から5分の浄霊です。身体にはいっさい浄霊をしません。神慈秀明会では、この浄霊法が明主様からお知らせ頂いた唯一正しい浄霊法であると主張していますが、果たしてどうなのでしょう。

「信じるのです」

この「額と脳天」というのは、明主様の説かれた浄霊医術において、脳性小児麻痺の急所です。ある秀明信者が神慈秀明会の浄霊を他教団の、浄霊医術の先生に紹介すると、「あなたがたは毎日、脳性小児麻痺の急所に浄霊をしているにすぎない。」と言われたそうです。

岡田三栄子先生の脳性小児麻痺のお子さん「裕子ちゃん」を明主様にご浄霊頂き、会主様と三栄子先生が「裕子ちゃん」を助ける方法としてご指導を頂いたときのお言葉として、「急所はここ(天帝)とここ(頭を下げて脳天)だよ」「後はつけたり。手の利かないところも、足がつっぱることも、身体のけいれんも、すべてもう、ここと、ここで少し離してしなさい」と詳しくご親切にお教え下さいました。と飛天に書いてあります。そして昭和三十七年に、秀明教会では不思議なことに明主様から教えて頂いたのと同じやりかたの、他教団ではいっさい行っていない現在の秀明会が行っている「祈りの浄霊」が始まり、そしてその浄霊を維持したまま、秀明教会は昭和45年に離脱しました。ここまでを振り返り、飛天では次のように書かれています。

私はつい最近まで、裕子を助けるために教えてくださった特別の方法とのみ思っていましたが、「ゆきくれて…」のお歌のように、そういうただならぬことを私に体験させて頂くだけではなく、--真の浄霊はこれだ--ということをお教えになられたと信じるのです

信じるのです。とあります。つまり昭和22年に明主様が真の浄霊法を会主様だけ教えてくださったというのは、例の如く岡田三栄子先生の個人的な信仰解釈だったのです。この個人的解釈がいつのまにか「明主様がこっそり、真の浄霊はこれであると昭和22年の時点で教えてくださったのだ。つまり会主様は特別だったのだ。他にも同様に実に多くの特別な真実を会主様だけに教えてくださっていたはずだ。」という断言的解釈にすり替わってしまいました。直接にお言葉を頂いた岡田三栄子先生が「信じるのです」としか言っていないのに、直接は聞いていない人たちがいつの間にか断言しているのです。これもうわさと思いこみが教義を作る神慈秀明会特有の現象です。

「法の華」の項でも説明したとおり、明主様のお言葉には裏はありません。明主様が岡田三栄子先生のお子様の持病である脳性小児マヒの治癒方法として額と脳天を指定されたのなら、それはそのとおりの意味であり、それ以外の意味はないのです。

神慈秀明会の浄霊の真実

額と脳天だけの浄霊を行っている教団は神慈秀明会以外ありません。なぜ秀明だけがあの浄霊を行っているのか、他教団の人は不思議がっていましたが、当時の事情を知っている方からその真実を伺うことが出来たので紹介します。

明主様ご帰天後、教団は大変な状態になりました。これまで「明主様絶対」だったが故に、残された信者は呆然自失、動揺の極みに立ちました。そうした中で、教団理事の要職を担う木原氏のように、独自の明主様信仰をめざす人や、救世主教の牧“主観”喜之助氏のように、自ら明主様の光の玉を受け継ぐ救世主を名乗る人物が現れるようになり、当時のマスコミからも「世界救世教よ、どこへいく」など冷ややかな取り上げ方をされていました。さらに、浄霊によるトラブルが発生し、それが新聞で叩かれるなど、教団が社会から敵対視される危険性が出てきました。

時の二代教主様は大本教の信者です。大本教と言えば大弾圧による苦難の歴史でありました。そんな体験から弾圧を恐れたのか、二代様は世界救世教の教義の徹底的な封鎖、変更を行い、超宗教であった「世界メシヤ教」を、ただの宗教である「世界救世教」に180度変えて、社会との和合を図ろうとしました。その采配の一つが「医学論文の廃止」「治療としての浄霊の廃止」でした。その代わりに、症状に関係なく一定の浄霊法を行う「祈りの浄霊」というものを考案されたのです。

ですので、現在ではいづのめ教団に伝承されている「祈りの浄霊」は今でも一部の離脱団体や、治病に回帰した東方之光などから批判の的とされています。み教えには祈りの浄霊という言葉は存在していません。み教えの専門家集団「世界メシヤ教会」の調査においても、「祈り」と「浄霊」が同居している御論文すらないと報告されています。

それは当然のことなのです。なぜなら、み教えでは、浄霊とは徹頭徹尾、病気を治す癒しの業であり、医術であり、霊科学であったからです。

さて、 昭和三十年代半ば、二代様が「祈りの浄霊」を打ち出された折り、二代様を中心に藤枝先生や会主様を含む当時の幹部、そして新宗連の大石秀典氏などが集まり、「祈りの浄霊」とは具体的にど のような形になるのかということを話し合われたそうです。み教えや神道の資料をもとに議論に議論を重ね、導き出された結論が今の秀明の浄霊スタイルだったのだそうです。

しかしいくら議論したところで、効果がなければそれは『浄霊』ではなくなってしまいます。新しい浄霊スタイルをどこかで実験できないかと二代様がおっしゃったとき、会主様が私のところ(秀明教会)でその実験を引き受けましょうと受けて立たれたそうです。それ以降、秀明教会の浄霊は今のスタイルに統一され、浄霊の成果を教会を挙げて収集。明主様時代からの急所の浄霊と効果を比較したところ遜色がなかったので、その実験結果を受けて二代様は秀明方式の浄霊法を新しい浄霊法にしようとされました。

しかし、新しいスタイルには他教会が反発しました。当然ですね。明主様は「急所を外れた浄霊は効果がないか治癒までに非常に長い時間がかかる」とみ教えをくださり、その薫陶を受けてきた教会長ばかりなのですから。急所にまったく手をかざさない秀明の浄霊は受け入れられるはずがありません。

その結果、祈りの浄霊は、二代様提唱のスタイルと明主様時代のスタイルを折衷し、主にいづのめ教団において採用されている、身体に手をかざし、急所を大体カバーする祈りの浄霊の姿になったそうです。しかし秀明教会は、折衷スタイルを採用せず、そのまま二代様提唱の祈りの浄霊を継続維持したようです。

私たちは、「祈りの浄霊という方針が出たときに、信仰が厚かった秀明だけはすぐに方針を変更したが、他教会は信仰が無かったので変更できなかった。だから他教団はいまだに按摩かマッサージのような古い浄霊を続けている。」と、離脱の神意の講義で説明を受けていますが、秀明教会全体が「額と脳天の祈りの浄霊」にすぐに切り替えられたのは上のような事情があったから当然の事であり、明主様のみ教えの薫陶を受けてこられた他教会の教会長が反発したのも当然で、それをもって「信仰がない」というのはおかしいわけです。

結局は、「秀明教会は信仰があった。他教会は信仰がなかった」と言いたかっただけなのでしょう。

しかし、もし、神慈秀明会が離脱の神意で信者に教えてきたように、「教団の方針に、すぐに合わせるか合わせないかで信仰のあるなしがきまる」のだというなら、教団の方針として最終的に決まった、「身体全体をカバーする祈りの浄霊法」に合わせなかった秀明教会側こそ、もっとも信仰がない教会である、という、語るに落ちた結論になります。

祈りの浄霊と「離脱の神意」

神慈秀明会が「真の祈りの浄霊」と呼ぶ、額と脳天に5分間だけ行う浄霊は二代様の責任下による会議によって、人間の頭脳で創造されたものであり、しかも当時の世情に合わせた一時的なものでした。

しかし、秀明の信者はそのことをまったく知らされておらず、「明主様が会主様だけにこっそり教えてくれた秘儀である」と、離脱の神意の物語から曲解しているのが現状です。

(前述したとおり、飛天で岡田三栄子先生ご自身が「信じるのです」としか書かれていないことからわかるように、「こっそり教えてくれた」ということそのものが、飛天から生まれ、根拠なくふくらんでいった、噂と想像の産物です。)

ところで、祈りの浄霊というものを採用した二代様の采配を承伏することが良いか悪いかという議論は、現代においても常にあちこちで行われています。

私は、霊的にも体的にも明主様が選ばれた二代教主様の行った改革を、一つの経綸ととらえるのは信仰的に当然のことであると思います。また、祈りの浄霊には祈りの浄霊の良いところがあり、治病を目指す浄霊にも同様に良いところがあります。

二代様の采配を経綸としてどのようにとらえ、み教え本来の「霊科学」「癒し」の浄霊とどのように共存し、新しい時代の浄霊をどう形作っていくかは、世界救世教や、他の離脱教団としても、今後真剣に考えていかなくてはいけないことでしょう。

しかし、そのことと、秀明の教義「離脱の神意」とは関係がありません。

秀明会の離脱の神意とは、これらの重要な大前提を意図的に知らせず、少ない基本情報と一部の人の思いこみによる勝手な解釈があたかも絶対的な真理であるかのように説明していた物です。

神慈秀明会が、どのような「思いこみ」を教義として採用しようとも、法律的には自由です。しかし、この離脱の神意という、「うわさと思いこみの産物」をもって、この重要な議論に参加してくるべきではありません。

浄霊とは幸福を生む方法

結局、形がどうであれ、幸福を生み出さなくては浄霊ではないのです。いままでの神慈秀明会は、本当にこの秀明方式の祈りの浄霊が最高の治病力を発揮するかどうかを、他の浄霊と比較実験することも出来ない閉ざされた環境でありました。

しかしこれからは、それぞれの信者一人一人の立場で、自由に比較実験していってよい時代だと思います。

現在の神慈秀明会の浄霊が健康と幸せを本当に生み出しているか、結果を出しているか。一方、世界救世教や、他の離脱教団の浄霊はどうなのか。私たちは初心に還って現状を問いかけ、歴史をもう一度調べ直し、現状を判断し、今後どうしていくかを考え直すべき時ではないでしょうか。

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