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飛天「神慈秀明会の誇り」の再研究

(2001/10/19)

世界救世教と神慈秀明会のことを考える上で避けて通ることが出来ない書物が「飛天」です。このページでは、この「飛天」になぞらえて離脱の神意というものを再研究していきたいと思います。

飛天とは

飛天とは、会主様の右腕であられた、岡田三栄子先生が昭和46年年末に急逝されたため刊行された「思い出集」なのですが、同年に三栄子先生が世話人会でお話しされていた内容が「神慈秀明会の誇り」という題名で掲載されています。

この「神慈秀明会の誇り」が、神慈秀明会における離脱、世界救世教批判の事実上の教典となっています。

支部によっては入信時に、まだ聖教書(み教え)も渡されていないうちから入信セットとしてこの飛天を渡し、離脱を勉強せよとしていました。そして、「飛天」を勉強し、世界救世教に腹のそこからの怒りがわき起これば、あなたの信仰は一人前である、と、多くの人が当時の先生に指導されました。

さて、昭和46年と言えば、いまだに世界救世教からの攻撃、妨害が厳しい(とされていた)時期で、神慈秀明会としてははやく離脱の正当性をわかりやすくまとめ、信者に伝えて地盤を固めていかなければいけない時期でした。

「神慈秀明会の誇り」の話は、当時のそんな特殊な状況下で、世話人という一部の信仰レベルの人たちだけに伝えられた、いわば「ここだけの話」だったはずなのですが、岡田三栄子先生が亡くなられ、思い出集として、「世話人会の講話」が掲載された飛天が刊行されたために、世話人会の「ここだけの話」が活字化され、クローズアップされてしまい、いまや教義のようになってしまったのです。

そのため、「神慈秀明会の誇り」には、「ここだけの話」特有の「おおげさな表現」「認識不足」「三栄子先生の個人的な解釈」などが多数あり、実際には永年の絶対的な教義とするにはふさわしくない偏った内容が多々含まれていることがわかりました。

会主様も、もしかしたら、離脱当時はこの話で組織を固めても、やがては間違っている部分を修正していこうと思っておられたのかもしれませんが、現在では、この「誇り」が固く教義化されてしまったため、その修正に着手することが出来ず、今に至ってしまったのだろうと思います。[霊界で困っておられる岡田三栄子先生]

神慈秀明会の信者は、この「飛天」にのっとり、世界救世教を恐怖し、憎んでいます。神慈秀明会信者のもつ世界救世教への怒りと憎しみは、この飛天に書かれていることから来ています。

このため、神慈秀明会は、「インターフェイス」という宗教間和合の活動に参加していながら、もっとも和合しなければいけない隣人である世界救世教と手を取り合うことが出来ません。この状況に、きっと三栄子先生も、霊界で困っておられると拝察します。(写真は故 岡田三栄子先生)

「神慈秀明会の誇り」研究

それでは、飛天の章立てになぞらえて、神慈秀明会、離脱の神意について、もう一度考えていきましょう。

  1. 教祖明主様は神界から、至誠の人であり最高の信仰者であるみ弟子会主様を選びたもうた。

  2. 明主様ご神筆のご神体を最高の信仰の的としてご本部にご奉斎、各家庭末端までにも明主様のご神体をご奉斎していること。

  3. 本部大黒堂に「みろく大黒天」のご奉斎によって全信者に福のご守護が頂けること。

  4. 各家庭にお屏風観音様のご奉斎と善言讃詞の復活による霊界先祖の供養と救済。

  5. 明主様が設計図をご覧くださり、いろいろお指図をたまわり、おん自ら足を運ばれた今や唯一のご神殿を玉手山支部に移築、現在使用させて頂いていること

  6. 明主様から伝わる唯一の正しい浄霊の神力を頂いていること。

  7. 会主様より明主様直結の正しい神観、信仰をうえつけて頂いていること。

  8. 明主様と信者のご一体化が顕現し、超奇跡が頻発していること。

離脱を越える。
真の明主様信仰の視点で離脱を再判断する。

まだ離脱について全てを解説したわけではありませんが、ここまでの研究だけでもおわかり頂いたように、離脱の根本となっている様々な事象は、あるものは大げさな表現であったり、あるものは救世教の行いにみ教えに基づく根拠があるのにもかかわらずそれを説かずに攻撃をしたものであり、あるものは飛天で言っていたことと異なる解釈が横行しているだけであったりと、決して離脱の神意で教えていたように、秀明だけが全面的に正しく救世教が全面的に悪いというものではないことがおわかり頂けたと思います。

結局、当時はそもそもみ教えが少なく、お互いにみ教え通りにしようとしてもままならず戦いだけが先行していたわけであり、離脱という物はみ教えからみたら非常に低レベルな争いであったということです。み教えが出そろった今、再検証すると、良い部分も無くはないですが、あまりほめられたものではない部分が実に多数あります。

会主様は、離脱をした理由を「信仰的衝動であった」とおっしゃいました。離脱の神意の教義は、「信仰的衝動」で行動した会主様のご意志を信者に説明し納得させるために、それを裏付ける教義を側近があわてて作り上げた結果生まれたものであり、そのためひずみがあり、未来永劫保つものではなかったという一面もあるのだと思います。

しかし、最後には離脱の神意という教義は、会主様のご意志を離れて暴走していたように思われます。(旧体制だと思いますが、「楽苑」の編集会議で、離脱の特集をしようと提案したところ、会主様は『これ以上私に恥をかかせないでください』と言って叱られ、叱られた編纂の方々は意味が判らなかったというエピソードがあります。)

離脱をしたかったのも会主様の信仰的衝動であるならば、救世教が復活したら和解して協力していきたかったというご意志も信仰的願望であり、どちらも明確に論理的な根拠を示せるものではありません。

あくまでも離脱が正しい。救世教は未来永劫邪悪であるというならばそれは離脱信仰です。

会主様がおっしゃったのだから救世教はもう大丈夫なのだろう。触れてみようというならばそれは、会主様信仰です。

公開されたみ教えを元に離脱を検証し直し、浄霊の効果とみ教えを元に離脱を理性的に再判断できるならば、それこそが明主様信仰です。

ご自分が何信仰なのかをご自分の心に問いかけてみてください。そして、ぜひとも「明主様信仰」の立場で、離脱というものを再解釈してみてください。

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