会主様の救世教への思い

まずは、平成五年、ご生誕祭がご降誕祭に変わったときのお言葉からです。

平成五年、神慈秀明会「ご降誕祭」での会主様御講話

長い年月「ご生誕祭」と申しておりました十二月二十三日のみ祭りを迎えるに際し、この度の祭典は「ご降誕祭」との名称に変更と承りました。そのときかつて明主様は昭和二十九年六月十五日、「救世主(メシヤ)降誕仮祝典」を挙行なされたことが頭にひらめきました。それで当時の秀明紙を急いで探し、明主様が救世主として世界全人類がお慕い申し上げ、崇めお迎えする日のご降誕の型をお示しになられた−−と存じます。その日を「救世主(メシヤ)降誕仮祝典」と申し、御自らのご神格を明らかになされると共に、救世主としてご降誕なさる様を型としてお示しになられた、まさに全人類にとって世紀の祭典となるわけです。

いつも御讃歌は御明集を順次あげさせて頂いておりますが、みなさん方は教祖殿に入られるときに小さな紙片を頂かれたでしょう。そして先ほどお詠を奉唱されましたが、これは何を意味するかわかられますでしょうか。

観音の 衣をかなぐり捨て給ひ
  救主(メシヤ)と生るる大いなる時

栄光の 雲より下る大救主(メシヤ)を
  歓喜の声に迎ふ嬉しさ

待望の 救主(メシヤ)生れなむ警鐘を
  ひた打鳴らし世人醒さむ

明主様はいまや救世主(メシヤ)様であらせられるのです。

さて、承ります、とありますが、いったいどなたから承ったのでしょう。

それから、明主様はいまやメシヤであらせられると言われていますが、神慈秀明会では昔から明主様はメシヤであると認識していたはずで、なぜいまさら改めて「いまやメシヤである」と言われたのでしょう。

実は、平成5年のご生誕祭というのは、世界救世教の四代教主様が平成4年に就任されて、明主様のみ教えやご経綸を研究され、明主様がメシヤであると確信をもたれて、この平成五年からいよいよ明主様は現界のお救い、メシヤとしての働きをされる、と断言され、世界救世教でもご生誕祭をご降誕祭に変更した、重要な転機でした。以下をご参照下さい。

(平成5年10月月次祭の世界救世教四代教主の御講話) (会主様の上記御講話の2ヶ月前)

「本年より御生誕祭を『御降誕祭』とさせていただくこととしました。明主様は、救世主としてこの世につかわされた事実を明らかにするために、昭和二十九年六月十五日、『メシヤ降誕仮祝典』をもって、御自らを『メシヤ』と称されました。また、善言讃詞にも『此土に天降らせ給ひ』とありますように、明主様はまさに現身を持たれ救世主としてこの世にご降誕されたお方であり、そうした点に鑑みて『御降誕祭』といたしたのであります」

会主様は、平成五年10月の4代教主様のお言葉を承って、四代教主様のご意向通りに神慈秀明会でも平成5年よりご生誕祭をご降誕祭に改め、4代教主様のお言葉を頂き明主様がメシヤであることを改めて仰ったことは間違いありません。

(注:現在、12月23日を「御降誕祭」としているのは、四代様の方針をすぐに採用する東方之光であり、過去の祭祀を抱えているためすぐに変更が出来ないいづのめ教団はいまも「御生誕祭」です。これは今後の統合により「御降誕祭」に統一されていくと思われます。)

そして、会主様は、主に関西地方の支部の「信徒大会」などのお祭りで、4代教主様の業績を絶賛され、救世教が立ち直っていく様を御講話されました。「世界救世教ではこんな奇跡が起こりました」などとうれしそうに話されていたということを、当時、その御講話を直接聞いていた信者さんから教えてもらいました。

平成6年の記念大祭や男子大祭など、いままで発表されたことのないみ教えが多数発表されましたが、これは世界救世教で発刊されて間もない書物を会主様が頂かれ、それを読んでくださったものです。(平成二年発行「神言葉 忘れな草」)これはその大祭に出た方が「このみ教えは熱海から頂きました。」というお言葉を直接聞かれています。会主様は、世界救世教から発行された「み教えの新刊本」を、世界救世教から入手され、平成六年の記念大祭で朗読されたのです。

神慈秀明会は未来永劫世界救世教を憎むべきもの、または恐れるべきもの、という考えは、どうやらだれかによって作られた言説であるようです。すくなくとも会主様の仰ったことではありません。会主様は、世界救世教四代教主の言動に敬意を表しておられ、世界救世教が良くなっていく様を喜ばれ、世界救世教の書物を邪悪視するどころか、全信徒の前でみ教えとして朗読されたのですから。

最後に、会主様と3代教主様のお心のつながりについて。このような話を伺っていますので紹介します。

離脱後のエピソードとして、会主様と三代様が京都のどこかのお寺で、出会いそうになったとき、会主様はお隠れになったそうです。側近が「ご挨拶されますか」とお伺いしたら、「泣いてしまいますから。止めておきます」と、出会われなかったそうです。

 また、三代様がお忍びでMIHO美術館に来られたとき、その展示の素晴らしさ、奉仕者の態度等、会主様の事を教主様の側近が呆れてしまうほど褒め称えたそうです。その後、「秀明との件は私の曇りです(だから私の代でなんとかしたい)」というような事を言われたそうです。

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