この章には2つのことが書かれています。一つは、神慈秀明会には明主様御神筆のご神体がいち早く復活したこと。もう一つは、明主様信仰=観音信仰であり、世紀の祭典(昭和45年12月22日 秀明会本部に「大光明」がご奉斎された祭典)で、お文字のご神体がなぜか観音様の絵に見えた人がたくさん居たのは、明主様(=観音様)復活の証である。という論調です。 御真筆のご神体復活「新生再建運動と現在の世界救世教」で書きましたが、世界救世教では、昭和46年10月5日の箱根の光明神殿落慶のおりに、明主様御神筆の大光明のご神体が復活し、この時に善言讃詞も久しぶりに奏上されています。これは昭和42年の時点で理事会で決定していたので、会主様は当然ご存じであったということも、当時の先生から証言を聞いています。 また、神慈秀明会では、離脱後において、救世教幹部の犯罪の露見の報告や雑誌に掲載された悪口は本部の祭典で逐一報告されてきたわけですが、箱根に明主様ご神筆の大光明の復活という、信仰的には本当に喜ぶべきことが、祭典等でいっさい報告されなかったことは、まことに残念なことでありました。 なぜ、会主様は、昭和46年に大光明のご神体が復活することを離脱前からご存じだったのに、そのことを隠して、世界救世教がご神体を隠蔽したという誤った主張をおこなったのでしょうか?離脱の神意の教義から、その理由を読み取ることは出来ません。 いずれにしても、世界救世教の大光明復活が予定通り行われたという喜ぶべき事実が隠され、世界救世教の悪口だけが本部で発表され続けてきた事は、そこに、だれかによる、なんらかの意図があったと言わざるを得ないでしょう。 明主様と観音様昭和45年12月22日、大光明のご神体復活の祭典である「世紀の祭典」で、「不思議なことに観音様のお姿を拝した」という人がたくさん現れました。 しかし、その「観音様の姿を拝した」人の中には、なぜ観音様なのか?明主様といったい何の関係があるのか?という事が分からなかったという人が多かったといいます。 それは、世界救世教では明主様ご帰天後、み教えの95%が封印され、当時の秀明教会の信者達も明主様の御神格や明主様と観音様のご関係といったみ教えも見ることが出来なかったという理由からです。秀明教会は、明主様の御帰天後、二代様の時代から大発展し始めた教会ですので、ほとんどの信者は御帰天後の信者であるため、御在世当時のみ教えを知らない人が大部分だったのです。 その後、離脱の神意や、聖教書などから、神慈秀明会では、「明主様=観音様」なのだ。だから世紀の祭典で、観音様を拝する人がたくさん現れたのだ。ということが教義として定着しました。 ところで、世界救世教の歴史において、神様の経綸が大きく変わった年が昭和25年です。この年は日本観音教団と日本五六七教会が合併し、世界救世教(せかいメシヤきょう)が発足。そして静岡事件または法難事件と呼ばれる明主様の投獄事件(これは贈賄疑惑ですが、後の裁判で間接的に無罪となっています。)。投獄中の神秘による神人合一の成就と現界の夜昼転換。等々、世界救世教の歴史において非常に重要な年となっていますが、神慈秀明会ではこの年のことは何一つ聞かされていません。 さて、この年、世界救世教が発足するにあたり、次のようなお言葉が発表されています。 開教の辞 世界救世教の誕生について 昭和二十二年八月三十日、宗教法人として、創立された日本観音教団並びに同二十三年十月三十日同じく創立された日本五六七教会は、今回自発的に解散し、右両会を打って一丸としたる新しき構想のもとに、本年二月四日立春の日を期して、表題のごとき宗教法人世界救世教の創立出現となったのである。 これは、非常に重大な意義があり、もちろん神の深き御旨(みむね)によるのであって、人間の意図ではないことはいまさら言うまでもない。いつも吾らが唱えるところの、霊界における夜昼転換の時期にいよいよ入ったからである。これも吾らが常に言うところの仏教の救いは夜の期間中であるから夜の消滅とともに観世音菩薩の御救いの転移進展となるので、一言にしていえば仏滅を意味するのである。したがって、観世音菩薩のお働きも救世主のそれとなるのは勿論である。すなわち化身仏であらせられた観世音菩薩はここに仮面を脱いで、ご本体である神のお働きとなり給うのである。 (中略) 最後に言わなければならないことは、これまでは観世音菩薩のお働きであったから、いわば東洋的であった。しかるに時期切迫のためどうしても一大飛躍によって全人類を救わなければならない、とすれば世界的に拡充する必要がある、世界救世教の名による所以である。いま一つは観世音菩薩は、善悪無差別的の救済であったが、いよいよ地上天国が目前に迫り来った、今日ここに善悪を立て分け、善を育て悪を滅しなければならないことになった。いわゆる悪のトドメである。したがって救いの力も決定的でなくてはならない、その力こそメシヤの揮わせらるる大神力である。鳴呼、慶賀すべき時とはなったのである。 (救世四十八号 昭和二十五年二月四日) つまり、昭和二十五年を以て観世音菩薩の経綸は終了となり、その姿を捨てられ、ご本体の神様である伊都能売大神(いづのめのおおかみ)に戻った、という重要な教学があるのです。当然、当時の秀明教会の人々は、観音様との関係も知らされていないのだから、このような教義を知るよしもありません。また、次のような御垂示もあります。 仏は全部神の化身で、夜の世界の間は仏の世であるから神々は全部仏に化身された。天照皇大神が大日如来、月読尊が阿彌陀如来、稚姫君尊が釈迦如来というようにである。したがって、仏滅という事は仏が皆元の神格に還り給う事である。善言讃詞に「観世音菩薩此土に天降らせ給ひ、光明如来と現じ応身弥勒と化し」とあるが、観音は伊都能売の神であり、ミロク神の化身である。したがって、何れは観音という御名も無くなる時が来る。霊界では既に殆どなくなっている。 妙智の光 昭和24年5月25日 観音という名前だと、まだ化身だから本当の力は出ないんです。神様が経綸するんだからね。 『御垂示録』九号、昭和27年5月15日 観音様は東洋的のものであり、世界的のものではない。 昭和25年2月 中島氏帰幽に関するお言葉 すでに霊界では観音の御名はほとんど無くなっているということです。ですから、世紀の祭典において、明主様御復活の印として、観音様のお姿を拝したとか、明主様信仰は観音様信仰であるとか、いまでも浄霊中に観音様のお姿を拝するとかいうのは本当はどこかおかしく、まるで夜の世界に逆戻りしてしまったようなことなのです。 なお、世紀の祭典直前の昭和45年12月号の秀明(第9号)に掲載された「私の告白」は、次の赤い字の部分が削除されています。聖教書が出来る何年も前のことです。 ついには観音様の御本体は伊都能売(いづのめ)という神様であることを知り、いずれ時期が来れば、観世音菩薩はある期間救いのために化身されたのであるから、最後には元の神位に復帰さるるということなども分かったのである。 すでにこの年の時点で、伊都能売大神の御名は出さないようにしようとする意図がかいま見えます。その後、離脱30年以上が経った現在でも、教学に伊都能売大神という御神名が出てきたことはありません。 (聖教書のどこがどのように書き変わっているかについては、こちらをご覧ください。) 「私の告白」は、昭和24年10月5日に書かれたものであり、観音様からの啓示はそれより前にあったわけでしょうから、この「いずれ来る時期」とは昭和25年のことを指していたはずなのです。このような大事な教学が明かされることなく、なぜか神慈秀明会は、明主様信仰を観音信仰として説くようになりました。 (なぜ神慈秀明会が「伊都能売」の御神名を隠したのか。なぜ神慈秀明会は、「伊都能売之大神」様に「観世音菩薩」の姿のまま居続けて欲しかったのか?いまとなってはその人間的な理由は分かりませんが、霊的な理由を想像することは出来ます。その理由の根拠となるみ教えをここにまとめましたので、より深く研究をなさりたい方はお読み下さい。「大自在天と乙姫と観音様」) ご神体復活の考察さて、東方之光のところで書きましたが、御在世当時のご神体ご奉斎は、二位一体(二身一体)といい、ご神体と明主様の御尊影とを二つ並べ、その二つを合わせてご神体としていました。これは本当は御尊影のみを礼拝対象とするのがもっとも正しいのですが、それではナチスのようでイメージが悪いという現実問題があり、そのような方法をとっていたとのことでした。 当然、御在世当時の秀明教会も、二位一体のご奉斎をしていました。今回、当時の秀明教会のご神前の写真が入手できましたので紹介します。 御在世当時の秀明教会のご神前の写真 これをごらん頂くと、次のようなことが分かると思います。
A については、これがまさに二位一体のご奉斎であり、これこそが明主様のご指導によるご奉斎の方式でありました。本来、秀明教会は離脱をして「教祖に還れ」と唱えたわけですから、ただご神体をご真筆に戻すだけでは教祖に還ったことにはならず、ご奉斎の方式もこのように戻すべきでありました。 Bについて。現在の神慈秀明会の各支部で行われている2のようなご奉斎方式は、大本教方式であり、2代教主様が定められたものです。明主様は大本教方式のご奉斎を、「夜の世界の古い方式である」とし、撤廃されましたが二代様は大本教式に変更なさいました。ご神体へのお日供のあり方も、次のようなお言葉があります。 御光話録 第六号 特別篇 S24.4.23発行 質問 御神体の御祀りについて、 ●床、或いは床なき場合の「八足台」の必要の有無。 御垂示 ●生魚、洗米、塩等の正式の御供えの仕方。 御垂示 他にも、「灯明はいらない」「塩は外にまくもの(供えるものではない)」というお言葉もあります。神慈秀明会のご奉斎は、ご神体は明主様の書かれたものが復活しましたが、ご神体の祭事法は二代様による大本教式のご指導のままで、ご神体の復活さえ行えばそれが教祖に還った証であるとはちょっと承諾しがたいものがあります。 さらに、現在の神慈秀明会本部教祖殿の御尊像に礼拝するありかたについてですが、そこだけを見たら立派な明主様信仰と言えます(世界救世教のある先生も、この方式は感心しておられます。)が、実際にはその奥に別棟の神殿があり、ご神体がお奉りされています。よく考えてみるとこれでは、ご神体が主、明主様の御尊像が従となってしまいます。 明主様は、ご神体が明主様から生み出されることを例に示され、明主様(御尊影等)が主でご神体が従であることをお示しになられました。 (『御教え集』昭和26年〜29年) 重要な事とそうでない事との差別をよく知らなければならないのです。今の私の写真というのは、一番重要なのです。『光明如来様』と御掛軸を書きますが、あれは私が書くのですから、光明如来様より私が上なのです。ところが人によると光明如来様の方を上にして、写真の方を下にするのがありますが、これは大変な間違いです。ですからそういうように理屈を考えると直ぐ分かるのです。ところが昔からのいろいろな宗教はそれがなかったからなのです。 そして、「御尊影とご神体では御尊影が主」というお言葉が、Cの「御尊影が左側にあるのは逆ではないか」という件につながってきます。 いま、神慈秀明会でも世界救世教でも、御神床の形に不都合のない限りは、御尊影はご神体の右側(神様からみて左側。こちらが上位になる)にご安置します。しかしこの写真では、なぜか御尊影は左側で、ご神体のほうが御尊影より上位になっています。これはみ教えからいくと間違いなのですが、だがこれはどうやら明主様ご承知の上でのことらしいのです。というのは、明主様が秀明教会に訪れたときの記録に「ご神体をじっと見つめられた」というくだりはありますが、「これは逆である。直ちに直せ」というご指導があったというようなくだりがないからです。 私は、「秀明教会での逆のご奉斎を明主様はご存じであったが黙認されていた」ということであったならば、それは明主様が秀明教会のあり方に対し一つの神秘を暗示しておられたのだと思います。 なお、明主様が御帰天され、二代教主様の采配により、明主様の御尊影は御神床の外に出されることになりました。これは昭和30年5月3日のご神前の写真と、当時の秀明教会の幹部の方々の集合写真です。 参考写真:明主様の御尊影が御神床の外にある当時の秀明教会のご神前 以上のように、ご神体復活とは言いつつも、明主様のご指導がすべて復活したわけではなく、むしろ反したことをいまだに続けているという一面があります。他の離脱団体には、離脱後、ご神体のご奉斎のあり方を完全に御在世当時に戻した黎明教会や青光教会(世界メシヤ教会)のような教団もあるわけですから、神慈秀明会だけが明主様の霊統を継ぐ唯一正しい教会であるという主張は、こういった面でも見直さなくてはいけないと思います。 |
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