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明主様と信者のご一体化が顕現し、超奇跡が頻発していること。

神慈秀明会離脱の正当性の本当の証明

神慈秀明会の離脱が正しい理由として、「法の華」のお詠や玉手山支部のこと。ご神体復活のことなどがあり、それが正しいと言えないとする解説を記述してきましたが、本当の離脱正当性の証明は、離脱後に頻発した超奇跡にあります。世界救世教に所属していた間は起こらなかったような奇跡が頻発し、同じ事をしているのにもかかわらず、離脱したとたん病気が癒されたなど。あまりにすごい奇跡の連続であったということで、超奇跡という言葉が離脱直後から秀明会では使われていました。

離脱後、神慈秀明会の信者が自己放棄で家庭を崩壊させようと学業を断念しようと借金まみれになろうと、それでも秀明会を正しいと思っていた理由は、この超奇跡の存在です。この章では、なんと、この超奇跡の是非について言及してみようと思います。

超奇跡とは

思い出してみてください。明主様は「奇跡の解剖」の中で、「以上によってみても、奇跡なるものは、けっして偶然やまぐれ当たりではなく、立派に理由があるのである。それが分かったなら、奇跡は不思議でも何でもないことになる。」と書いておられます。霊衣の厚さにより事故を免れたり、先祖のお知らせで危機を脱したり、浄霊で薬毒が溶けるから病気が治る、というのが、世人からみたら驚異的なことですから、このことを奇跡と言います。それに対し、こういった奇跡が起こる理論体系をさらに超越した奇跡を神慈秀明会では超奇跡と呼びます。

前述の通り神慈秀明会では離脱後、この超奇跡が頻発しました。そのときの合い言葉は「たった一回のご浄霊で」です。たった一回の御浄霊(しかも額と脳天に5分だけ)で脳腫瘍が消え去った。たった一回の御浄霊で腰の曲がったおばあさんの腰が伸びた。などです。たった一回の浄霊で、薬毒が消えるものでもありませんので、これは浄霊本来の治療理論の体系を逸脱しているわけです。こういった体験を、特に夏期布教という布教期間で実に多くの信者が体験しました。

そして神慈秀明会の奇跡はさらにエスカレートし、手と口をゆすぐ「みたらし」の水が奇跡を起こし、それをつけただけで長年の手のいぼが総て消えた。ものすごいやけどがみるみる消滅していったなどの現象が続々起き始めました。また、金粉銀粉(金箔、金糸、金塊)も大量に噴出し、やがてはダイヤモンドまで現れるようになりました。金粉銀粉ダイヤモンドはかなり多くの信者がいまでも所持しているはずです。

超奇跡というのは、結局の所、「離脱が正しかった」ということの証明として存在していた物でした。しかし、この超奇跡のために、神慈秀明会が失った物が実にたくさんあるのです。

この章では、「超奇跡と引き替えに神慈秀明会が失った物」を解説していきたいと思います。

超奇跡と引き替えに霊科学体系を失う

神慈秀明会は、離脱時に、この離脱が正しいかどうかは浄霊をしてもらうと分かるという会主様のお言葉に従い、浄霊をしたところ、「たった一回のご浄霊で」という超奇跡が頻発しました。神慈秀明会の信者は、この超奇跡のために離脱が正しいことを確信しました。

その確信がかたまっても、超奇跡はとぎれる事なく、いつまでもいつまでも起こり続けました。神慈秀明会の信者は、離脱の時の影響からか、つぎつぎに新しい超奇跡が起こることを求め続けました。信者はひたすら超奇跡をもとめ、それはどこかの信者が体験する。この繰り返し。

この繰り返しの末、やがて、浄霊が薬毒を溶解する、明主様がお説きになった本来の奇跡体系、浄化が起こるから健康になるという基本的理念、霊科学に基づく浄霊の原理などは神慈秀明会から忘れ去られていくことになりました。

明主様は「浄霊の原理」(聖教書の「浄霊の原理」から削除された部分。と言いますか、聖教書の掲載箇所が「浄霊の原理」のみ教えの、ほんの一部分なのです。)で、次のように仰っています。

ひるがえって今日各宗教の開祖の事蹟を文献や言い伝えによって眺むるとき、必ずといいたいほど奇蹟を行っている。大宗教ほどしかりである。ところがその時代の文化程度ではただ奇蹟を表し利益を与えるだけで大衆は納得した。その内容や理論は別に求めようとはしなかった。

(中略)

私は神示によって、今日まで世界の謎とされていたあらゆる事象を感得しこれによって正邪を明らかにし、善悪の根本を究明し、一切の過誤を是正し、今日まで唯物文化のみ進展しつつあった偏向的現実に対し、断然唯心文化をして躍進せしめ両々相ともに進歩発展せしめ、地上天国の理想世界を出現せんとするのである。それについて本教信者が驚くべき奇蹟によって、大いなる効果を挙げつつあるその原理の一端を解説しようとするのである。さきに述べたごとく、未開時代の人や文化の低劣時代と違い、現代人は具体的に表れた奇蹟だけでは、全面的信頼は湧かない。どうしても理論の裏づけがなくては納得しないのである。既成宗教萎靡(いび)の原因もその宗教が唯物文化を否定するだけで、現当利益を与え得ないからでもある。

(昭和二十四年五月三十日)

「浄霊の原理」全文

明主様は、単に、浄霊で奇跡を起こして人々をびっくりさせ、それで信者を増やそうとしておられたのではありません。

浄霊にはそれが効果を発揮する理由を示す、霊科学に基づく理論体系があります。明主様は、その理論体系が浄霊によって実際に証明されていく過程をみせ、そのことから「薬害ということ」「医学革命」「霊主体従と霊体一致の思想」「唯物論から唯心論への想念転換」などを広く世界に伝えていこうというご意志があったということです。

それに対し、超奇跡が起こってそれを喜んでいるだけの神慈秀明会式の浄霊は、文化未発達時代の既成宗教と同じであり、明主様が説かれた思想を何一つ裏付けるものではありません。

「他人に超奇跡が起こったことをみた」から、「目の前に金粉やダイヤモンド、ゴールドの彫刻が現れた」から、だから信じるというのは、そういう素直な人の存在は実に結構ですが、かような人はほんの一部であり、そんな方法(奇跡を見せるだけという方法)では現代人の多くを納得させ、ましては人類を文化の誤謬に目覚めさせるなどは出来ないと、「浄霊の原理」のみ教えで明主様ご自身が仰っているのです。

起こるか起こらないかわからない超奇跡だけでは
人類救済は出来ない

み教え:「景仰」 『世界に知らせよ。薬禍薬害』 より

『全世界の人に、薬禍、薬害ということを知らせれば、世界は救われるのですよ。人類を救うということは、ただこの一点にあるのですよ。』

このみ教えは、再三再四、御論文に、お言葉頂いていたのでありますが、この時のお言葉は私の心の奥底に焼き付くように強く印象されました。

文化の重大な誤謬の一つは薬毒であります。超奇跡は、奇跡をみせてびっくりさせ、その宗教団体の信者を増やす、という目的には良いですが、有識者に薬毒を知らしめる力はありません。

いまや、神慈秀明会の「超奇跡が起きるのを祈って待つ」式の浄霊は、明主様が説かれた「薬毒を世に知らしめる」という目的とは、まったく無関係な存在です。宗教儀式である秀明の浄霊のあり方には再現性がありません。すなわち、秀明式浄霊は再現性を示す情報を科学者に提供できないため、科学者による研究対象になり得ないのです。

神慈秀明会は「離脱が正しいことを実証」するための超奇跡を得た代わりに、医学革命の根元となるみ教えやそれを裏付ける、霊科学の証明としての奇跡と、理論体系を見失いました。神慈秀明会には超奇跡しかなく、それも近年、ほとんど無くなってきました。

理屈の分からない超奇跡が起きるということで明主様や離脱をありがたがるだけの時代はすでに終わりです。神慈秀明会の離脱に意義があったという証拠としての超奇跡は、もう十分に頂きました。

神慈秀明会の浄霊による超奇跡は、ある人には起こり、ある人には起こらない。その2者の違いはよく分からない、という代物です。まあ、入信対象者や入信したばかりの人によく起こり、信仰の長い人には起こらない傾向があります。

現在、神慈秀明会の浄霊では、ほとんど病気が治っていません。そのため秀明会の某拠点の助教師会で、「浄霊で病気が治らない」ということが議題にあがったりするようなことが起ったり、病気の治らない信者に他教団の浄霊をすすめる神慈秀明会の先生がいたりするのです。

そんな神慈秀明会の浄霊は「神慈秀明会において超奇跡が起こるきっかけの儀式」であるとは言えますが、もはや「信者一人一人が有している、病気を治すための特別な力」とは言えないのではないでしょうか。

今の時代に求められているのは、超奇跡がもしかしたら起こるかもしれない浄霊、ではありません。「医学の変わりになりうるほどの確実な治病力を果たせる浄霊」「いかなる人でもいかなる人の病気をも治すことが出来る浄霊」です。そういう浄霊でないと「医学革命」「薬毒を世に知らしめる」ことは出来ません。

すでに現代は、浄霊による奇跡の理論体系である医学体系や霊科学(つまり真文明世界において生活の基本となる基礎的科学知識)を学び、研究し、実態をつかみ、活用し、応用することが浄霊実践と併せて必要な時代ではないかと私は思います。

超奇跡がもたらした恐怖信仰

必ず起こるとは限らないが、けっこうあちこちで起こっており、起こったらすごい超奇跡とは、別の言い方をすると、だれに起こるか分からない、なぜ起こるか分からない奇跡であるとも言えます。本来明主様信仰の奇跡とは、起こることが当然であり起こらないと不思議だと考えるものです。なぜなら浄霊には理論体系があり、一つの科学(霊科学)であるからです。そのため浄霊の熟練者なら結果を、ある程度予測することが出来るのです。

しかし、神慈秀明会の超奇跡とは、明主様の説かれた奇跡の性質とは異なり、「起こったらすごいが基本的には起こらないもの」です。この、基本的には起こらないというところに、明主様が排除しようとされた恐怖信仰が介入する余地があるのです。つまり、奇跡が起こらないことを神に裁かれたと思ってしまうからです。また、このような浄霊では「浄化はありがたい.。だから恐れず安心して浄化につきあっていく」とする浄化観が育ちません。

神慈秀明会では明主様の仰る奇跡が忘れ去られ、超奇跡ばかりが頻発していました。このため、信者は浄化者に浄霊を取り次いでも、その相手が超奇跡を頂き、癒されるかどうかさっぱり分からないのです。また、いざ自分が浄化者の立場に立ったとき、浄霊で浄化を越えられるかどうか自分でもさっぱり分からないことが恐怖に結びついてしまいます。超奇跡は起こるかも知れないし起こらないかも知れない。私は明主様からみたら十分にご用してこなかったかも知れないからこのまま裁かれて死んでしまうのかも。私の周りにも死んでしまった人がいっぱいいる。怖い。と。

だいたい、入信して間もない人や長年活動をしてこなかった人が超奇跡で救われ、世話人助教師などは亡くなる人が多い事実から、神慈秀明会では、地位の高い人ほど恐怖信仰があります。

ある支部の現支部長先生も、浄化で腕が上がらなくなったとき、「私はこのまま腕が一生上がらなくなってしまうのかもしれない。怖い!怖い!」と恐怖におののいていたそうです。浄化は結構なはずなのにね。旧体制時代末期のことです。この先生は恐怖信仰の余りノイローゼ状態になっていたのです。でも、今は治っているのですから、とんだ「取り越し苦労」でした。

もし、日頃から浄霊による薬毒溶解の浄化作用とその結果としての癒しを繰り返し体験していたら、そしてみ教えの霊科学に基づく理論体系をしっかり学んでいたら、大きな浄化を頂いても、それを安心して受け止められるだけの知恵の修得と心の修行がそれまで出来ており恐怖はさほど生まれてこないのではないかと思うのです。これが明主様の仰る「無病結構、病気結構」の安心立命であります。

世界救世教ではこういった浄化作用の積極的理解と安心立命への考え方がある程度確立しています。もちろん命に関わる浄化も多いわけで、それを全く怖がらないほど達観した人ばかり居るわけではありませんし、いつも必ず結果が理想通りだというわけでもありませんが、教団が持つ確立された考え方とそれまでの本人の浄霊体験とみ教えと他の方の体験談は本人にも家族にも浄化時に大きな希望につながると思います。

神慈秀明会は、超奇跡と引き替えに、正しい浄化観と、霊科学に基づく治病大系を見失い、浄化作用とは名ばかりで病気や不幸は悪化作用と理解され、その結果明主様がお説きになった安心立命を奪われ、信者一人一人が知らぬ間に恐怖に支配されてしまったと言えると思うのです。

超奇跡がもたらした神観と使命感と悲劇

ただ、超奇跡はなにも恐怖ばかりをもたらしたのではありません。超奇跡を体験することで、神慈秀明会の信者は神の存在を確認し、明主様のみ力を確信し、自分たちが与えられている使命の大きさを強く理解できたという意義が非常に強かったと思います。この点は昔の世界救世教の信者さんよりも恵まれた点であり、偉大で尊い部分でありました。

しかし非常に残念なことは、神慈秀明会ではその強い使命感が無理な献金や自己放棄につながってしまったことであります。超奇跡は、非常に多数の人に起こりましたがそれでも全体からみたら一部です。その一部の人の超奇跡をみて使命感に燃え上がらせ、その裏で超奇跡が生み出した浄化への恐怖が活動を煽った結果、さらに多くの人が借金を作り、仕事を失い、家庭を崩壊させた事実を考えると、超奇跡とはいったい何だったんだろうと考えざるを得ません。

浄霊が「病気を治す一人一人の力」ではなくなった

明主様は、「信者一人一人に、病気を治す力を与えた」と仰いました。

だがこのお言葉は神慈秀明会の浄霊を説明する物として不適切です。

前述の通り、神慈秀明会の浄霊では病気が治らない、ということは、末端の信者まで体験的に理解しています。いま、神慈秀明会で病気を治す力は、浄霊ではなく、超奇跡だけです。

神慈秀明会の浄霊は、単に、「これを受けると超奇跡が起こるかもしれないよ」という合図の意味でしかなくなってしまっているのです。

ところがこの超奇跡というものは、神慈秀明会が離脱の功績で明主様からいただいているものです。だから信者は、神慈秀明会に所属しているからこそ、超奇跡が起こり、病気から救われると考えます。神慈秀明会に逆らうと、超奇跡はいただけないのです。

この状態は、「一人一人が明主様から病気を治す力をいただいている」状態では、決してありません。神慈秀明会の信者は、超奇跡と引き換えに、明主様がおあたえになった「一人一人が有することができるはずの、病気を治す力」を失ってしまっているのです。

超奇跡のために明主様がわからなくなった

いままで説明してきたとおり、神慈秀明会の「超奇跡」は、明主様のみ教え「霊科学」「霊主体従と霊体一致」「薬毒論」などとはまったく関係がありません。

よく他教団の人に「なぜ、神慈秀明会の信者は、それまで神慈秀明会が教えてきたことと、明主様のみ教えが全然違うことを知っても、そんなことはどうでもよいという態度で、今まで通りの、み教えとは逆の秀明会流の信仰を改めない人が多いのか」と質問をされるのですが、その理由の一つとして、この「超奇跡」と「み教え」は関係がないというところに原因があるのだと思います。

神慈秀明会の教えが、明主様のみ教えと逆かどうかは知ったことではない。いままで、神慈秀明会の教えで、あちこちに「超奇跡」が起きたのだから、そっちのほうが正しいのだ。というわけです。秀明会式の浄霊や超奇跡は、明主様の説かれたみ教えと関係がないわけですから、神慈秀明会の行いがみ教えと正反対でも、神慈秀明会のオリジナル教義である「超奇跡信仰」は可能なのです。

信仰の目的とは奇跡をみる事ではなく幸福をつくること

明主様は、信仰をする目的は幸福になることであるとおっしゃいました。このお言葉は、昭和10年の大日本観音会発足のお言葉からしたためられています。つまり明主様信仰の立教当初から存在する基本中の基本の考え方なのです。超奇跡を体験することは神の実在やその絶対力を知る上で重要ですが、決してそればかりが信仰の目的ではありません。刺激的な超奇跡が起きても起きなくても、信者が幸福であることが大事なことなのです。超奇跡が起こっても信者が幸せにならないのならだめなのです。

旧体制時代の神慈秀明会では超奇跡が頻発し、命が救われた人も多かったですが、超奇跡を体験したり他人の超奇跡をみて使命感を発揮し、ご用にいそしむうちだんだん過激になり、その結果多くの信者の家庭が経済的破綻や家族不和で不幸になったり、浄化を恐怖でしかとらえることができなくなってしまっていることを考えると、神慈秀明会は「超奇跡が頻発したが人を幸せにしていなかった宗教」であったと言わざるをえません。

ところで私は、離脱の神意の研究のため、世界救世教のことを調べ始めた当初(2000年前後)、世界救世教では、「奇跡」はあっても、秀明会のような「超奇跡」がないのではないか、と、私は思っていました。しかし、その後長く調べ続けたところ、実際にはそうではないことがわかりました。

私がみたのは主に「世界救世教いづのめ教団」ですが、世界救世教いづのめ教団におこる「超奇跡」は最高潮時の秀明会にもぜんぜん負けていません。「奇跡」「超奇跡」ともに、実によく起こっています。ただ世界救世教は神慈秀明会にくらべて情報の伝達が下手なために、あまりひろく伝わっていないだけでした。いづのめ教団を観察すると、神慈秀明会がいかに「情報の扱い方がうまい」団体だったのかというのが再確認出来ました。

世界救世教では、霊科学としての浄霊があり、霊科学の証明としての浄霊の奇跡が日々あります。腹痛のような日常的な疾患など浄霊ですぐに治るわけですが、こういった日々の奇跡体験の積み重ねに裏付けられた信仰生活には安心立命があり、信者は楽しんで生活をしながら、浄霊を通じて無意識に霊科学というものを体得しています。これが、明主様が望まれた信仰のありかただったのだろうな、と私は思います。

そして、そればかりではなく、世界救世教では、霊化学の理論体系をも越えた超奇跡も「ついでに?」たくさん起こっているのです。

神慈秀明会が超奇跡と引き替えに失った物

最後に、昭和10年の大日本観音会発足時に作成された小冊子に掲載された、明主様の戯文「目下罪障消滅中」を紹介します。これは声を出して読むと面白いように書かれていますので音読をおすすめします。

これは、まるで旧体制時代の神慈秀明会のことを明主様が予言しておられたかのような文章です。神慈秀明会が超奇跡と引き替えに、明主様が立教当初の一番最初に否定されたような宗教、信者の幸福を主眼にしていない宗教にすっかり変わってしまったということが、この一文からおわかり頂けると思います。

リンク:み教え目下罪障消滅中

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