各家庭にお屏風観音様のご奉斎と善言讃詞の復活による霊界先祖の供養と救済。

紫に金の観音様

神慈秀明会のお屏風観音様は、背景が紫色で、絵が金色の線です。落款もありません。これは神慈秀明会だけのオリジナルです。明主様時代のお屏風観音様はすべて白地に黒線です。現在の世界救世教も、世界救世教から離脱した他団体のお屏風観音様も、こちらで知っている限りすべて白地に黒線です。

紫に金はユダヤの象徴的な色なので、神慈秀明会の観音様を「ユダヤ観音」と自虐的に言う秀明信者もいます。

観音様が廃止された事実はない

実はお屏風観音様が廃止されたという事実はなかったそうです。

そもそも「観音様廃止」と、神慈秀明会が言っている話は、「仏壇にご奉斎した観音様を撤去しろ」というような事ではありませんでした。信者の家から、ご奉斎されている観音様が、教団からの指示で撤去を強制されたことなどないのです。

実は、一時的に教団本部から各教会への、観音様御下付が停止した事があり、秀明会で言う観音様廃止とはそのことを指します。

では、教団本部から教会への御下付が止まったということは、末端信者に対して新規の拝受が止まったのか?ということですが、実は、全ての教会において観音様の「在庫」が多数あったようで、各教会での信者への拝受が滞った事はないということらしいです。

秀明教会でも離脱まで観音様の御下付は途切れた事はなかったと当時の秀明教会の先生だった方が証言しておられます。そして教団本部からの御下付も、秀明会の離脱後すぐに復活したため、結果として「新規拝受が出来なかった」末端信者はいなかったそうです。

ですから世界救世教の歴史の中で、秀明会が離脱の神意で説く「観音様廃止」という事件は、事実上存在していません。新規の拝受が停止したことも、すでにご奉斎されている観音様を撤去しろと命令されたこともありません。教団本部からの御下付停止の件も、教団上層部の人しか知らないことであり、離脱だなんだといって大騒ぎするような内容ではありませんでした。

現在の世界救世教の祭祀のありかた

世界救世教の祭祀は、当時は祖霊舎による改式合祀と言いましたが、現在は祖霊舎とは言いません。東方之光教団では四代教主様が決められた、箱根「紫微宮」による神道色を廃した新しい祭祀方法です。また、いづのめ教団は二代様から続く大本教方式の「みたまや」方式です。祖霊舎にあたるものは、熱海救世会館の舞台の上にあります。おそらく近いうちに祭祀は統一(東方之光方式に?)されるのではないかと思います。もちろんここで祀られても、宗旨替えにはなりません。

二代様の采配と秀明

そもそも明主様は、「ご神体」の章で説明したとおり、昭和25年の経綸の大変化からやがて仏界の経綸が終わり、神界の経綸に変わると仰ってました。仏界は無くなり、観音様は伊都能売大神のお姿に戻ったのです。

霊界の先祖も夜昼転換が進むにつれ、最後にはみんな神界に(子孫が信者なら救世教に)入る、とし、その時のために明主様は、やがて世界救世教式の先祖祭祀の方法を作る、と仰っておられました。それが出来たらどんどんその祭祀を勧める方針であったと思われます。

ところが実際には、明主様は御在世当時に祭祀形式をお作りになることはありませんでした。そして二代教主様が明主様のご意志を継ぎ、大本教式を参考に、祭祀の方法を定められたのでした。これは独自の祭祀形式を作るまでの仮のものとして、大本から輸入したものという位置づけだそうです。

つまり、離脱の神意で説く、代様によって明主様の先祖祀りの方法が変えられた」というのは正しくなく、御在世当時はもともと、正式な先祖祀りの方法が存在していなかったのです。

また、現在の秀明会は、二代様が定められた大本教方式のご神体祭祀を忠実に守っています。そして、二代様の定められた大本教式の先祖祭祀には、離脱の神意の教義で批判をしています。

これはおかしいですよね。二代様の決められた祭祀方法をみ教えに反するとして批判するなら、二代様の決められた大本式をもとにしたご神体のご奉斎方法も同様に再考すべきであったし、二代様のお考えにご神意ありとして大本式の神体のご奉斎方法を賛成したというのなら、同じく二代様の提案の大本式の先祖祭祀も賛成すべきだったわけです。

二代様のお決めになったこと 秀明会の姿勢
ご神体祭祀を大本式に
賛成した(離脱後、変更していない)
先祖祭祀を大本式に
反対した(離脱後、即廃止した)

なぜか二代様の采配に対しては、反対の仕方が中途半端でした。この矛盾した反対姿勢の原因は、会主様と二代教主様の特別な関係に原因があると思われます。これについては「会主様と二代様」に詳しく記述いたしましたのでご参照下さい。

救世教方式の先祖祭祀も明主様のご意志

明主様は、「宗旨替えは絶対にいけない」と仰ったのではなく、「人間の都合だけで簡単に祭祀の方法を変えるものではない。先祖や親族で反対する者もいるだろう。」とし、「そういう者たちの気持ちを察して常識的にしないと、たとえ強引に変更しても先祖は喜ばず、かえって怒りをかうだろう」と仰ったのだと思うのです。もし祭祀の方法を変えることは絶対にダメだということならば、明主様は世界救世教独自の祭祀を作るなどとは仰らないはずです。

しかし霊界がそうであっても現界には仏壇がたくさんあり、現界の親戚なども宗旨替えは反対するでしょうし、霊界にも頭の固い頑固な先祖が居ることでしょう。現在の世界救世教では、そういう人たちのために、また、改宗を反対する親族の意志も尊重し、仏教から祭祀の宗旨替えをする必要のない「お屏風観音様」による祭祀も可能なように用意しています。

私の知人のいづのめ教団専従者さんは、世界救世教の信仰三世で、おじいさん、おとうさんの時代は仏壇を拝む風習を捨てることは出来なかったが、自分は仏壇を拝む習慣は付かなかったので、自分の代からは救世教方式の「みたまや」による祭祀一本でやろう。頑固な先祖が居たとしても、三世代にもわたってやっているのだから、いい加減理解してくれるだろう。とのことでした。つまり、仏界から神界への移行を、常識的に無理なく時間をかけて行おうということです。

明主様が「独自の祭祀を作るご意志があった」ことを示すお言葉がありますのでご参照下さい。


 『御垂示録』七号、昭和二七年三月一〇日

質問
宗旨を変えるということはいけない、とお伺いいたしておりましたが。

御垂示
宗旨を変えても良いですよ……メシヤ教になればね。変えるというのは、どういうのと変えるんですか……浄土宗を日蓮宗に変えるのですか。

質問
二代、三代前に、そういうふうに変わりました場合には。

御垂示
だいたいはいけないんですよ。なんとなれば、祖先が承知しないからね。だから、かえって禍がありますよ。ところが、宗旨によっては……お寺がつぶれちゃったとか、お寺が遠くなったという場合に、やむを得ず変わる場合がありますが、原則としては……祖先が霊界が異っちゃうと、そっちに行かなければならないからね。しかし、不可抗力なことがあった場合は良いんです。つまり理屈がつけば良いんですよ。


地上天国18号 昭和25年11月25日

質問
「最近の豪雨のために、主人の亡兄の墓が崩され流され跡形も全くなくなりました。掘っても墓石は出ないし、探しても見当たらず、いったいどうしたらよいのかと思案しています。命日にはお寺からお坊さんをよんで、仏壇にお経を上げていただいていますが、なんだか気になりますので、お伺いいたします。」

御垂示
いずれは本教においても、葬儀や墓所に関しても、独特の形式を作るつもりであるから、それまでの間仮に作っておけばいい。ぜんぜん作らないのはいけない。

注:いずれ作る、本教における独自の形式=二代様による祖霊舎方式の祭祀、となります。


光新聞10号 昭和24年5月23日

質問
「信者が死亡して私共に葬式を頼んで参りました場合、如何致したら宜しいでしょうか」

御垂示
断ればいいんですよ。観音教団は未だ冠婚葬祭の儀式が出来てないですからね。まあ、やがては出来ますが、それまでは御寺に頼めばいいんです。


御御垂示録26号 昭和28年11月1日

質問
「信者で寄留地のお寺で葬式をし戒名をつけてもらいましたが、本籍地の方に行ったところが本葬をして戒名をつけかえなければいけないとの事で、更につけかえましたが、どちらが本当でしょうか。」

御垂示
もう仏界は無くなったようなものだから、どっちでもよいです。

質問
「ひとつにしても宜しいでしょうか」

御垂示
ひとつにしてもよいし、二つあってもよいです。なにしろ仏界というものがもう無いのだから。けれども無いといっても代わりのものができたかというと代わりのものも出来てないので、霊は宙に浮いているようなものです。従って戒名などはどっちでもよいので、意味はありません。いずれ私は仏界を作る事になってます。

以上の通り、離脱の神意として祖霊舎の祭祀を邪悪なものと主張するならば、昭和25年の経綸論や明主様の先祖祭祀新設のご意志などをきちんとみ教えを引用して解説し、それに対する反論をしなくてはいけなかったと思います。

世界救世教の祭祀変更は、その方法が最善であるかどうかはともかくやはりみ教えを根拠にした動きであったからです。それが誤っているとするならばその反論もみ教えを元に理性的に解説すべきでありました。み教えに基づく検証をせず、信者に世界救世教時代の出版物を全て焼かせ、世界救世教の信者の主張を一切聞くなとした離脱は、暴力的に過ぎたと言わざるを得ません。

ご神体の件だけではなく観音様復活の件についても、なぜか昭和25年の神界への経綸の変化に一切触れず、藤本先生の霊憑りやその後の救世教からの移籍信者の霊的体験といった、み教えとは無関係なものを根拠に、単に祖霊舎を宗旨替えであると攻撃して終わらせています。ひどいのになると「宗旨替えをすると先祖は地獄へ堕ちる」などと、み教えにない、独自的な拡大解釈が一人歩きしていた例も多数見かけました。

前へ|次へ

[戻る]